第2節 ― 倒したはずの怪人たち
廃劇場は、昼間に見ると、夜よりもずっと死んでいた。
夜の闇の中では、まだそこに物語が残っているように見えた。破れた赤い幕も、古びた客席も、天井からぶら下がるシャンデリアも、どこか異界の舞踏会の名残のようで、嫌ではあるけれど、怖さには一種の形があった。
けれど、冬の薄い日差しに晒された廃劇場は、ただ古く、汚く、湿っていた。
入口のガラス戸はひび割れ、隙間から枯葉が吹き込んでいる。床には埃が厚く積もり、誰かの足跡が黒く残っていた。壁には、何十年も前の演劇ポスターが半分剥がれたまま貼りついている。女優の顔は雨染みで滲み、演目名はもう読めない。
ミユは、懐中電灯を片手に客席通路を歩きながら、思わず顔をしかめた。
「うわ……昼の方が嫌だ」
隣でメグが、スマホを構えながら頷いた。
「夜は演出効果がありますからね」
「演出効果で怖さが上がることはあるけど、昼になって汚さが上がるタイプもあるんだね」
「廃墟としては、とても正しい状態です」
「正しさが全然うれしくない」
ミユの後ろを歩いていたワトソンが、埃を踏まないように妙に優雅な足取りでついてくる。
今日のワトソンは、人間アバターだった。
猫ではない。黒髪の少年の姿。白いシャツに細身の黒い上着。見た目だけなら、少し背伸びした中学生くらいに見える。ただし、表情が妙に落ち着いているせいで、年齢の印象がずれる。
そのワトソンが、劇場内部を見回しながら静かに言った。
「ミユさん、足元にご注意ください。床材の腐食が進んでいます」
「言われなくても、さっきからめちゃくちゃ注意してる」
「二列先の客席通路、床板の下に空洞があります」
「そういうのはもっと早く言って!」
「今、検出しました」
「なら許す!」
叫びかけて、ミユは慌てて口を押さえた。
廃劇場の中は、音が響く。
自分の声が、天井の隅から返ってくる。
その反響が、あの夜のオルゴールの音を連れてきそうで、ミユは少しだけ肩をすくめた。
メグがそれに気づいたのか、ちらりとミユを見る。
「先輩、大丈夫ですか」
「大丈夫。ちょっと、ここ、思い出しただけ」
蝙蝠伯爵。
黒い燕尾服。
優雅な礼。
古い舞踏会のような廃劇場。
メグが舞台中央の椅子に座らされ、眼鏡を外されていた光景。
そして、変身を見られるかもしれない恐怖。
ミユは唇を結んだ。
勝った。
あの時も、ちゃんと勝った。
メグを助けて、眠りを奪われた人たちを解放して、蝙蝠伯爵を倒した。
終わったはずだった。
そう思っていた。
「……でも、終わってなかったんだよね」
呟くと、メグが小さく頷いた。
「少なくとも、誰かが終わらせてくれていません」
その言い方に、ミユは胸の奥が少し重くなった。
誰かが終わらせてくれていない。
それは、昨日までの事件のどれにも当てはまる気がした。
蜘蛛男の糸。
蝙蝠伯爵の音。
レイディスコーピオンの毒。
サラセニア・ルージュの甘い香り。
マンティスシザーの切り抜き。
カメ・レオンの偽装。
ミラクルハニーの蜜。
倒したはずのものが、黒い羽根に拾われている。
劇場の奥、舞台の方から、かすかに金属が軋む音がした。
三人は足を止めた。
客席の列の向こうに、舞台が見える。
破れた赤い幕の一部が、まだ吊られている。照明器具のいくつかは落ち、床板には黒い焦げ跡や削れた跡が残っていた。ミユが吹き飛ばされ、屋上へ弾き出された夜の跡だ。
そして、その舞台の中央に。
一本の黒い羽根が、まっすぐ突き刺さっていた。
羽根というには硬すぎた。
鳥の羽根なら、もっと柔らかく、風に揺れるはずだ。だがそれは、舞台の板にナイフのように食い込み、根元から赤紫色の細い光を脈打たせている。
ミユは嫌そうに眉を寄せた。
「出た。黒い羽根」
メグはすぐにスマホを構え、距離を測るように周囲を確認した。
「写真で見たものと同じです。ただ、反応が強いです」
「反応って何の?」
「まだ不明です。ワトソンさん」
「確認します」
ワトソンは舞台に上がった。
その動きは静かだった。埃が舞うことも、床板を鳴らすこともほとんどない。少年の姿をしているのに、まるで軽い機械が歩いているようでもある。
彼は黒い羽根の前に膝をつき、指先をかざした。
指先から、薄い青白い光が広がる。
黒い羽根の周囲に、細かな文字列のようなものが浮かび、すぐに消えた。
「解析開始。構成成分、通常鳥類の羽毛ではありません。怪人細胞を加工し、微細な神経様導管と記録媒体層を組み合わせたデータ吸着媒体です」
ミユは無言でワトソンを見た。
ワトソンも、ミユを見返す。
「……日本語で」
「羽根ではありません」
「そこはわかった」
「怪人の残りかすを吸っている道具です」
「最初からそう言って」
メグが、ノートに素早く書き込む。
「怪人細胞加工型のデータ吸着媒体……黒羽根タグ、と仮称しておきます」
「メグちゃん、普通にその長い説明を採用するの?」
「ログには正確性が必要です」
「私の精神には簡略化が必要」
そう言いながらも、ミユは舞台に上がった。
近づくほど、嫌な感じが強くなる。
黒い羽根そのものが怖いというより、その周りの空気がざらついていた。音が、ほんの少し歪んで聞こえる。遠くの車の音。風が割れた窓を抜ける音。メグがスマホを操作する小さな音。
それらの後ろに、別の音が混じっている気がした。
ちりん。
小さなオルゴールの音。
ミユの背筋が冷えた。
「……今、鳴った?」
メグが顔を上げる。
「聞こえました。非常に微弱ですが、音波反応があります」
「やっぱり?」
「はい。周波数パターンが、蝙蝠伯爵の催眠音に似ています」
ミユは口元を引きつらせた。
「やだな。倒したはずなのに、まだ音が残ってる感じ」
言った瞬間だった。
ちりん。
今度は、はっきり鳴った。
劇場の奥。
舞台袖の闇から、古いオルゴールの音が流れ出す。
ミユは即座に身構えた。
メグは一歩後ろへ下がり、スマホを構える。ワトソンは羽根の分析を中断し、腕をわずかに上げた。
舞台の照明は落ちたままのはずだった。
なのに、赤い幕の奥が、ぼうっと暗く光った。
黒い影が浮かび上がる。
燕尾服。
杖。
長いマント。
蝙蝠の翼。
姿だけなら、確かにあの怪人だった。
蝙蝠伯爵。
けれど、違う。
輪郭がぼやけている。顔の造形も、胸元の装飾も、何かを無理に思い出して作ったように曖昧だった。美しく礼をするわけでもない。台詞を飾るわけでもない。
ただ、首を傾け、壊れかけた音で呟いた。
「眠りを……」
ミユは、息を呑んだ。
「蝙蝠伯爵……?」
通信が割り込む。
《違う、バイト君!》
アインの声だった。
いつものような余裕が少ない。
《それは本人じゃない。残骸影だ》
「残骸影?」
《過去怪人の能力反応をつないだ劣化コピーだ。記憶も人格もない。中身は空だ》
中身は空。
その言葉と同時に、影の蝙蝠伯爵が動いた。
動きに優雅さはなかった。
ただ、獲物を見つけた影のように、ぐにゃりと腕を伸ばす。マントが裂けるように広がり、そこから黒い音波が波紋のように広がった。
「メグちゃん、下がって!」
「はい!」
メグが客席側へ走る。
その瞬間、影の顔がメグの方へ向いた。
ミユの身体が先に動いた。
変身。
ここで。
舞台上。
メグの目の前。
ほんの一瞬だけ、ためらいが走る。
けれど、影の蝙蝠伯爵はもうメグへ向かっていた。長い影の腕が床を這い、彼女の足元へ伸びる。
ミユは歯を食いしばった。
「もー、ほんっとに毎回選択肢がない!」
左手のμブレスレットが、白く光った。
「サイエンスパワー・メイクアップ!」
廃劇場の舞台に、白とピンクの光が弾ける。
埃が舞い、破れた幕がふわりと揺れる。古びた客席の列に、変身光が一瞬だけ反射した。
ミユの制服がほどけるように光へ変わり、科学少女プリティミューのスーツが身体を包み込む。
ピンクと白の装甲。
胸元のμマーク。
手には、ミュー・ハンマー。
プリティミューは舞台板を蹴り、メグの前へ飛び込んだ。
「メグちゃんに伸びるな!」
ハンマーが影の腕を叩く。
ピコッ、という間抜けな電子音。
その直後、影の腕が黒い煙のように弾けた。
だが、消えない。
ほどけた影はまた集まり、歪んだ蝙蝠の形を作る。
舞台袖から、壊れたオルゴールの音が何重にも響いた。
「眠りを……眠りを……」
「本人より語彙が少ない!」
《中身がないと言っただろう》
アインの声が通信に入る。
「わかってるけど、そういうのが余計に気持ち悪い!」
プリティミューは、ハンマーを構え直した。
影の蝙蝠伯爵が、音波を放つ。
本物の蝙蝠伯爵の攻撃は、嫌味なくらい整っていた。音の波が美しく重なり、意識の隙間に入り込んでくる感じがした。
だが、この影の攻撃は違う。
ただ、耳の奥をかきむしるように濁っている。
音程も、リズムも、全部壊れている。
美学もない。
言葉もない。
ただ能力だけが、抜き出されている。
「っ……!」
プリティミューは膝をつきかけた。
視界が揺れる。
廃劇場の客席が、夜の舞踏会に見えた。メグが椅子に座らされている光景が、ほんの一瞬重なる。
けれど、その幻はすぐに崩れた。
あの時の蝙蝠伯爵は、気取っていた。
腹が立つほど優雅で、気持ち悪いほど丁寧で、だけど、確かに何かを考えていた。
今のこれは違う。
壊れた音を垂れ流しているだけ。
プリティミューは、奥歯を噛みしめた。
「……やっぱり嫌だ」
ミュー・ハンマーを握る手に力が入る。
「こいつ、蝙蝠伯爵じゃない」
メグが舞台下から叫ぶ。
「先輩!」
「わかってる!」
プリティミューは、影の音波が広がる直前に踏み込んだ。
足元の床板が軋む。
ハンマーを振りかぶる。
影の蝙蝠伯爵は、杖のようなものを持ち上げた。そこから黒い波紋が広がる。
プリティミューは、その中心へ真っ直ぐ飛び込んだ。
「本物より雑なら、こっちも雑に叩く!」
ハンマーが、影の胸を打った。
ピコッ。
軽い音。
でも、衝撃は重かった。
影の胸元に白い亀裂が走る。
燕尾服の輪郭が崩れ、翼がほどけ、壊れたオルゴールの音がばらばらに散った。
「眠……り……」
最後の声も、声ではなかった。
ただ、記録された音の断片。
影の蝙蝠伯爵は、黒い塵になって舞台へ崩れ落ちた。
プリティミューは、ハンマーを下ろした。
勝った、という感じはしなかった。
ただ、嫌なものを片づけた。
それだけだった。
「……嫌な感じ」
メグが舞台へ上がってくる。
その顔も、いつもの事件後の興奮ではなく、どこか青ざめていた。
「本物の怪人ではありません。でも、記録だけが使われています」
「うん」
プリティミューは、舞台に散った黒い塵を見下ろした。
「記録って、こういう使い方するもんじゃないでしょ」
メグは、少しだけ唇を結んだ。
「少なくとも、私のログは、こういうもののためには残していません」
その言葉に、プリティミューは頷きかけた。
その時。
天井の暗がりで、何かが羽ばたいた。
風が落ちてくる。
黒い羽根が一枚、プリティミューの足元に舞い落ちた。
ワトソンが即座に身構える。
「上方、熱源反応」
メグが顔を上げる。
破れた天井幕の向こうから、黒い翼が広がった。
それは、夜の闇をそのまま羽にしたような怪人だった。
黒と灰銀の装甲。
喪服の裾のように広がる大きな翼。
顔は、コンドルの嘴と、墓守の仮面を合わせたような形をしている。胸元には、古い墓標めいた装甲板。腰には、小さな黒い棺がいくつも吊り下がっていた。
怪人は、舞台の上へ静かに降り立った。
音もなく。
埃だけが、彼の足元から広がる。
そして、葬儀屋のように丁寧に頭を下げた。
「お見事です、プリティミュー」
プリティミューは、ハンマーを構え直した。
「出たな、黒い鳥!」
「正確には、墓場の鳥でございます」
「訂正が不気味!」
黒い翼の怪人は、ゆっくりと顔を上げた。
「私はグレイヴコンドル。敗北した者の跡を拾う者」
「拾うって、さっきの黒い羽根のこと?」
「はい。死骸は、無駄にしてはなりません」
その言葉に、プリティミューの眉が跳ねた。
「死骸って言い方やめて」
「では、残骸と」
「もっと嫌!」
グレイヴコンドルは、怒りをまったく気にしない様子で、腰の小さな棺の一つを開いた。
黒い塵になった蝙蝠伯爵の残骸影が、舞台の上から吸い上げられていく。
赤紫色の光が、棺の中へ流れ込んだ。
「戦闘反応、追加採取。プリティミュー再接触データ、良好」
プリティミューは一歩踏み出した。
「それ、何に使う気?」
「敗北した者たちを、無駄にしないためです」
「無駄にしないって言い方が一番嫌!」
ハンマーを振る。
けれど、グレイヴコンドルは黒い翼を広げ、滑るように後ろへ下がった。舞台上を飛んだというより、影の上を流れたような動きだった。
プリティミューのハンマーは空を切り、床板を叩いた。
ピコッ。
舞台の埃が大きく跳ねる。
「避け方が葬式っぽい!」
「葬儀とは、静かであるべきですので」
「戦闘中にマナー講座しないで!」
グレイヴコンドルは、翼の内側をわずかに見せた。
そこに並んでいるのは、小さな黒い棺。
そのひとつひとつに、記号が刻まれていた。
《J-01》
《J-02》
《J-03》
ミユは、それを見て息を呑んだ。
J-01。
蜘蛛男。
J-02。
蝙蝠伯爵。
J-03。
レイディスコーピオン。
たぶん、そういう意味だ。
倒した怪人たちが、番号になっている。
棺に入れられている。
その事実が、思った以上に気持ち悪かった。
「……あんた、それ全部、集めてるの」
「ええ。敗北にも、鮮度がございます」
「最低の言い方更新してくるじゃん」
プリティミューは、もう一度踏み込もうとした。
その肩に、ワトソンの声が飛ぶ。
「ミユさん、注意してください。彼の腰部カプセルから、複数の怪人反応が検出されています」
「つまり?」
「過去の怪人能力を一部再利用する可能性があります」
「つまり全部盛り?」
「はい」
「最悪!」
グレイヴコンドルは、静かに笑ったようだった。
嘴と仮面のせいで、表情はわからない。
けれど、声にはわずかな愉悦が混じっていた。
「今宵は回収が目的。戦闘はまた後ほど」
「勝手に来て勝手に帰るな!」
プリティミューがハンマーを振り上げる。
だが、その瞬間、グレイヴコンドルの翼から大量の黒い羽根が舞った。
視界が黒く染まる。
羽根が、舞台、客席、壁、天井へ突き刺さる。
一本一本が赤紫色に光り、周囲の音を吸い込むように脈打った。
「メグちゃん、目を閉じて!」
「はい!」
メグをかばうように、プリティミューは前に出た。
黒い羽根の渦が収まった時、グレイヴコンドルの姿はもうなかった。
ただ、舞台の中央に、一本だけ太い黒羽根が残っていた。
その根元から、赤紫色の文字が浮かび上がる。
《敗北した怪人は、まだ終わっていない》
廃劇場に、沈黙が落ちた。
さっきまで聞こえていたオルゴールの残響すら、もうない。
プリティミューは、拳を握った。
ハンマーの柄が、装甲越しにきしむ。
「……終わらせろよ」
声は、小さかった。
でも、舞台の上ではっきり響いた。
「ちゃんと」
メグは、その言葉を聞いて、スマホを下ろした。
記録する手を、ほんの少し止めた。
ワトソンは、黒羽根の文字を静かに解析していた。
通信の向こうで、アインが低く呟く。
《……これは、想定より悪趣味だね》
プリティミューは、舞台の上に残った黒い羽根を見つめ続けた。
倒したはずの怪人たち。
終わったはずの戦い。
それを、誰かが掘り返している。
勝った場所に落ちた黒い羽根は、まるで墓標のように、舞台の真ん中で赤紫色に脈打っていた。




