第1節 ― 黒い羽根は、勝った場所に落ちる
朝倉ミユは、味噌汁の湯気を見つめていた。
湯気は、白く細く立ちのぼって、台所の換気扇へ吸い込まれていく。いつもなら、その匂いだけで少しは安心する。朝ごはん。家。学校へ行く前の、ぎりぎり日常と呼べる時間。
けれど今朝のミユは、箸を持ったまま、しばらく動けずにいた。
腕が重い。
肩が痛い。
太ももも、背中も、妙に張っている。
昨夜、蜂の巣みたいな地下施設で走り回って、蜜に足を取られて、ハンマーを振り回して、母親を救出して、大人たちを避難させて、帰って、風呂に入って、気絶するように寝た。
そこまでは覚えている。
そして起きたら、身体中が「昨日は大変でした」と全力で主張していた。
「ミユ」
向かい側から、かなえの声がした。
ミユは、味噌汁から目を上げる。
「なに?」
「お箸、持ったまま寝ないで」
「寝てない」
「目が半分死んでる」
「生きてる。ギリ」
「ギリって言った時点でだいぶ危ないわよ」
かなえは、平然と焼き鮭をほぐしていた。
その手つきは、いつも通りだった。包丁を持つ手も、茶碗を置く手も、味噌汁のお椀を少しずらす仕草も、ぜんぶいつもの母親だった。
昨日、小学生くらいの姿になっていた人と同一人物だとは思えない。
いや、同一人物なのだけれど。
ミユは、それを思い出しかけて、慌てて視線を落とした。
かなえは何も言わない。
昨日、プリティミューを見た。
見たはずだ。
完全に正体まで見たのか、それとも見なかったことにしているのか、ミユにはわからない。
ただ、かなえは今朝も、いつも通り朝食を作った。
いつも通り、ミユの顔色を見た。
いつも通り、現実的なことを言った。
「今日は学校、休む?」
「休まない」
「顔が休みたいって言ってるけど」
「顔に聞かないで」
「じゃあ身体に聞く?」
「身体はもっと正直だからだめ」
「だめなのね」
かなえは苦笑して、味噌汁を一口飲んだ。
その表情も、少し疲れて見えた。
ミユは、そこで初めて気づく。
自分だけが疲れているわけではない。
昨日、かなえも巻き込まれた。子どもに戻されて、訳もわからないまま眠らされて、起きたら知らない地下施設で、プリティミューがいて、娘がいて、街が混乱していた。
それなのに、朝ごはんを作っている。
母親は強い。
そう思いかけて、ミユは少しだけ胸が痛くなった。
違う。
強いからやっているわけじゃない。
やらなきゃいけないと思っているから、やっているだけかもしれない。
「……ママ」
「なに?」
「疲れてない?」
かなえの手が、一瞬だけ止まった。
ほんの少し。
でも、ミユにはわかった。
かなえは、すぐにいつもの顔に戻った。
「疲れてるわよ」
「あ、認めるんだ」
「認めるわよ。昨日あれだけのことがあったんだから」
「そっか」
「でも、朝ごはんは必要」
「現実的」
「現実は待ってくれないの」
「それ、名言っぽいけど、洗い物の話でしょ」
「洗い物も現実よ」
ミユは、少しだけ笑った。
笑ったら、身体の奥に溜まっていた硬さが、ほんの少しだけ解けた気がした。
かなえは、そんなミユを見て、静かに言った。
「勝ったあとも、あんた、しんどそうな顔してる時あるよね」
箸の先が、ぴたりと止まった。
ミユは顔を上げる。
「勝つとか負けるとか、何の話?」
「さあ」
かなえは、焼き鮭を口に運ぶ。
「ママの勘」
「勘が鋭すぎるんだよなあ……」
「母親だから」
「便利だね、その肩書き」
「便利だけど、責任も重いのよ」
かなえは、それ以上聞かなかった。
けれど、今の言葉はミユの中に残った。
勝ったあとも、しんどそうな顔。
勝てば終わると思っていた。
怪人を倒せば、事件は終わる。
被害者は助かる。
街は元に戻る。
自分は家に帰って、ごはんを食べて、寝て、翌朝また学校へ行く。
そういうものだと思おうとしていた。
けれど、かなえには、そう見えていなかったのかもしれない。
勝ったあとも、まだ何かを背負っているように見えていたのかもしれない。
ミユは、味噌汁を一口飲んだ。
少し冷めていた。
学校へ行くと、案の定、昨日の事件の噂で教室はざわついていた。
宝珠南高校の二年生の教室は、冬の朝の冷たさと、人の声の熱で妙な温度になっていた。窓際には結露が残り、机の上にはスマホが何台も出ている。みんな、授業前の短い時間に、SNSの動画やまとめ投稿を回し見していた。
「駅裏のやつ見た?」
「見た見た。大人が子どもになったってやつでしょ」
「いや、さすがにフェイクじゃない?」
「でも救急車めっちゃ来てたって」
「蜂の怪人が出たらしいよ」
「またプリティミュー?」
「最近出すぎじゃない?」
「ていうか、ホウジュ区だけ怪人イベント多すぎない?」
ミユは、自分の席に鞄を置きながら、何も聞いていない顔をした。
聞いていない顔。
それはもう、かなり上達してきた気がする。
ただし、上達していること自体が嫌だった。
「ねえ朝倉」
「はいっ」
いきなり声をかけられて、ミユは必要以上に大きな返事をしてしまった。
前の席の女子が、少し驚いた顔で振り返る。
「そんなびっくりする?」
「いや、朝の反射神経が過剰だった」
「何それ」
「睡眠不足の一種」
「大丈夫?」
「大丈夫って言いたい」
「言いたいだけなんだ」
女子はスマホを見せてきた。
「これ、昨日のやつ。駅裏で撮られたっぽい。プリティミュー、小さい子抱えて走ってない?」
画面には、雨の降る路地を走るピンクと白の影が映っていた。
画質は悪い。
ブレている。
けれど、わかる。
プリティミューだ。
そして、その腕に抱えられている小さな子どもは、昨日のかなえだった。
ミユの心臓が、嫌な音を立てた。
「さ、さあ。暗いし、よくわかんないんじゃない?」
「でもさ、プリティミューって子ども助けてたんだよね。なんかちょっと見直したかも」
その言葉に、ミユは返事に詰まった。
嬉しいような。
苦しいような。
それは母です、と言えるわけもない。
「……まあ、助けたなら、よかったんじゃない」
「朝倉、プリティミューにちょっと甘くない?」
「甘くないよ。むしろ現実的に評価してるだけ」
「現実的?」
「怪人出た時に助けてくれる人は、いてくれた方がいい」
「それはそう」
そこで会話は途切れた。
ミユは、ほっと息を吐く。
けれど、すぐ別の机から別の声が飛んできた。
「でもさ、プリティミューが出るところって、怪人も出るよね」
「それ逆じゃない? 怪人が出るからプリティミューが来るんでしょ」
「でも、どっちが先かわかんないじゃん」
その言葉が、胸の奥にひっかかった。
自分がいるから、怪人が来る。
第7話のカメ・レオンが、体育館で生徒たちに植えつけた疑い。
偽物が言った言葉。
あの言葉は、もう消えたはずなのに。
完全には消えていない。
噂の形で、まだ残っている。
ミユは、机の下で手を握った。
そこへ、小柄な影が教室の入口に現れた。
「ミユ先輩」
メグだった。
眼鏡の奥の目は、いつもより真剣だった。手にはノート、反対の手にはスマホ。いつもの怪人事件ログ用の装備だ。
ミユは、教室の空気から逃げるように立ち上がった。
「メグちゃん。今、ちょうど教室の湿度が精神に悪かった」
「湿度ではなく情報環境だと思います」
「訂正が冷静」
「廊下で話せますか」
その声に、ミユは少しだけ表情を引き締めた。
メグが「話せますか」と言う時は、だいたい普通の話ではない。
二人は、人気の少ない階段の踊り場へ移動した。
窓からは冬の薄い日差しが差し込んでいる。外では、体育の授業に向かう生徒たちの声が遠くに聞こえていた。
日常だ。
でも、メグのスマホ画面に映っているものは、その日常から少しずつ外れていた。
「先輩、これを見てください」
画面に表示されていたのは、一枚の写真だった。
黒い羽根。
コンクリートの床に、まっすぐ突き刺さっている。
ただの羽根には見えなかった。
細長く、硬質で、表面に金属のような鈍い光がある。羽軸の根元には、小さな赤紫色の筋が走っていた。
「何これ。カラスの羽根?」
「違うと思います」
「じゃあ、でかいカラスの羽根?」
「怪人事件現場だけを巡回するでかいカラスがいるなら、その可能性もあります」
「言い方が怖い」
メグは、画面を横にスワイプした。
次の写真。
また黒い羽根。
今度は、古い劇場の屋上に刺さっている。
ミユの背中に、冷たいものが走った。
「ここ……」
「廃劇場です。蝙蝠伯爵の事件現場」
さらに次。
駅前広場の排水溝の脇。
赤いタイルの隙間に、黒い羽根。
「レイディスコーピオンの時の駅前?」
「はい」
次。
ルージュ・ピッチャー跡地。
焦げたネオン看板の下に、黒い羽根。
次。
配信スタジオ《CUT ROOM》跡地。
切れたケーブルの間に、黒い羽根。
次。
宝珠南高校の体育館裏。
壊れたフェンスの下に、黒い羽根。
ミユは思わず顔を上げた。
「学校にもあったの?」
「今朝、部活の生徒が見つけました。写真を送ってくれた人がいます」
「え、危なくない?」
「今のところ、触れても何も起きていません。ただ、気分が悪くなった人が一人」
「十分危ないじゃん!」
最後の写真。
蜜蜂の館跡地。
封鎖テープの向こう、濡れた地面に突き刺さる黒い羽根。
ミユは、しばらく黙った。
昨日の夜の湿った空気。
蜂蜜の匂い。
小さくなった母の手。
まだ覚えている。
そこにも、もう羽根が落ちている。
「……早くない?」
「早いです」
メグは頷いた。
「事件が終わってから、半日も経っていません。なのに、すでに現場に何かが来ています」
「何かって、怪人?」
「可能性は高いです」
「また?」
「はい」
「こっちの有給、どうなってるの?」
「先輩、まず雇用契約の確認からした方がいいと思います」
「本当にね!」
叫んだあと、ミユは深く息を吐いた。
冗談を言わないと、嫌な予感に飲み込まれそうだった。
黒い羽根。
過去に戦った場所すべて。
勝った場所に落ちている。
それは、ただの目印ではない気がした。
ミユはスマホを取り出し、アインに通話を繋いだ。
数コールもしないうちに、通信が開く。
《朝から何だい、バイト君》
「朝から嫌な写真見たから共有する」
《キミの嫌な予感は、だいたい当たるようになってきたね》
「嬉しくない成長!」
ミユは、メグから送られた写真を転送した。
数秒の沈黙。
そのあと、アインの声が少し低くなった。
《これは鳥の羽根じゃない》
「じゃあ何?」
《回収タグだ》
「回収?」
メグが身を乗り出す。
「何を回収しているんですか」
《写真だけでは断定できない。ただ、羽根の根元に怪人細胞由来の吸着器官がある。現場に残った微弱反応を吸い上げる道具だろう》
「日本語で」
《怪人の残りかすを吸っている道具だ》
「最初からそう言って!」
ミユの声が階段に響いた。
通りかかった一年生がびくっとして、足早に去っていく。
メグが小声で言った。
「先輩、声量」
「ごめん」
ミユはスマホを握り直した。
「怪人の残りかすって、何。装甲の破片とか?」
《それも含む。だが、おそらく物理的な残骸だけじゃない。戦闘時のエネルギー反応、能力の残留波形、プリティミューの攻撃を受けた瞬間の変化も対象だ》
「つまり、私が倒した時のデータも拾ってるってこと?」
《その可能性が高い》
胃のあたりが、嫌なふうに重くなった。
ミユは、階段の手すりに手を置く。
「……何それ。気持ち悪い」
自分が勝った場所。
誰かを助けられたと思った場所。
怖かったけど立てた場所。
そこに、知らない誰かが後から来て、欠片を拾っている。
勝利の跡を、漁っている。
そう考えた瞬間、背筋が冷たくなった。
アインは、いつもより淡々としていた。
《バイト君、今は羽根に触るな。メグ君も同じだ》
「はい」
メグが即答する。
《ワトソンを向かわせる。現物分析が必要だ》
「私たちは?」
《通常通り学校にいろ、と言いたいところだけど》
「絶対その後に嫌なこと言うでしょ」
《放課後、現場の一つを確認する。廃劇場がいい。蝙蝠伯爵の残留反応は音波系だ。観測しやすい》
「観測しやすいからって、行きたくなる場所じゃないんだけど」
《仕事だよ》
「バイト代、危険手当込みで見直して」
《検討する》
「検討って言う人、だいたい検討しない!」
通信が切れた。
ミユは、スマホを下ろした。
メグは、まだ黒い羽根の写真を見ていた。
その横顔は、いつもの好奇心だけではない。少しだけ、悔しそうだった。
「メグちゃん?」
「私、記録していたつもりでした」
「うん」
「怪人事件を忘れないように。プリティミューさんが何をしたのか、変に切り取られないように。現場で何があったのか、残すために」
「うん」
「でも、誰かは同じ現場から、別のものを拾っていました」
ミユは、何も言えなかった。
メグの怪人事件ログ。
それは、事件を見た人の声を集めて、忘れないように残すものだった。
けれど、この黒い羽根は違う。
忘れないためではない。
利用するために拾っている。
同じ「記録」でも、まったく違う。
メグは、スマホを胸の前で握った。
「先輩。これ、放っておいたらたぶん、よくないことになります」
「だよね」
「はい」
「じゃあ、放課後、行こう」
「はい」
ミユは、階段の窓から外を見た。
グラウンドでは、生徒たちが何も知らずに走っている。
チャイムが鳴る。
学校の日常が、また始まる。
けれどミユの頭の中には、黒い羽根が残っていた。
勝った場所に落ちる羽根。
終わったはずの場所に刺さる、終わっていない証拠。
その夜。
ホウジュ区の外れにある旧水質管理センター跡地は、人気がなかった。
フェンスには立入禁止の札がかかり、錆びた鎖が風に揺れている。建物の壁にはひびが入り、割れた窓ガラスの奥に、古い配管が影のように伸びていた。
ここで、ミユは最初に怪人と戦った。
まだプリティミューとして何もわからないまま、蜘蛛男に追い詰められ、泣きそうになりながらハンマーを振った。
その戦いの跡は、今はほとんど残っていない。
壊れた床も、焦げた壁も、表向きは補修されかけている。
けれど、コンクリートの割れ目には、まだ白い糸のようなものがわずかにこびりついていた。
その前に、黒い翼の怪人が膝をついていた。
大きな翼は、喪服の裾のように床へ広がっている。
顔は、コンドルの嘴と墓守の仮面を混ぜたような形をしていた。胸には墓標を思わせる灰銀の装甲。腰には、黒い小型の棺がいくつも吊られている。
怪人は、白い糸の欠片をピンセットのような爪でつまみ上げた。
動きは丁寧だった。
まるで、遺品を扱う葬儀屋のように。
「蜘蛛男」
低い声が、廃墟に落ちる。
「拘束糸反応、微量残存」
怪人は、黒い小型棺の蓋を開けた。
中には、赤紫色の光が静かに揺れている。
糸の欠片が収められると、棺の内側で小さな記号が点滅した。
「敗北時反応、採取完了」
怪人は立ち上がった。
翼の内側には、同じような小型棺がいくつも並んでいた。
それぞれに、ラベルが刻まれている。
《J-01》
《J-02》
《J-03》
《J-04》
まだ空の棺もある。
だが、いずれ埋まる。
怪人は、夜空を見上げた。
雲の切れ間から、細い月がのぞいている。
「次は、眠りを喰らった伯爵の残響を」
翼が広がった。
その時、彼の足元に通信光が走る。
黒い画面の中に、白衣の男の影が浮かんだ。
《グレイヴコンドル》
「はい、ドクター」
《採取状況は》
「順調です。蜘蛛男の残留反応を回収しました。鮮度は低下していますが、敗北データとしては利用可能です」
《よろしい。過去の敗北は、未来の実験材料です》
グレイヴコンドルは、静かに頭を下げた。
「死骸は、無駄にしてはなりません」
《ええ。特に、プリティミューに敗北した死骸は》
通信の向こうで、男が微笑んだ気配がした。
《価値があります》
通信が途切れる。
グレイヴコンドルは、フェンスの上に飛び乗った。
その翼から、黒い羽根が一枚、夜風に落ちる。
羽根は、地面に触れる直前で向きを変え、コンクリートへ深く突き刺さった。
赤紫の光が、根元からじわりと滲む。
そして、文字のようなものが床に浮かび上がった。
《敗北データ、採取済》
グレイヴコンドルは、夜の中へ飛び立った。
黒い翼が、ホウジュ区の街明かりを一瞬だけ遮る。
次の目的地へ。
廃劇場へ。
眠りを奪った伯爵が倒れた場所へ。
勝った場所に、黒い羽根が落ちる。
終わったはずの戦いの跡で、誰かがまだ、死骸を拾っている。




