第7節 ― 子どもだった母と、子どもでいられない私
ロイヤル・ナーサリーの甘い匂いが、少しずつ薄れていった。
それまで蜂蜜色に満ちていた地下空間に、冷たい空調の風が流れ込む。六角形のポッドが、ひとつ、またひとつと音を立てて開いた。密閉されていた空気が抜け、白い蒸気が床を這う。
壁一面に並んでいた蜂の巣の穴から、人々が目を覚ましていく。
最初に聞こえたのは、泣き声ではなかった。
「……ここ、どこ?」
ぼんやりした、大人の声。
続いて、別のポッドから、スーツ姿の男性がよろめきながら出てきた。肩にかかっていたジャケットは、先ほどまで子どもの身体には大きすぎたはずなのに、今は元の持ち主に合うサイズへ戻っている。
男は自分の手を見た。
指を開いて、閉じる。
それから、膝から崩れ落ちるように床へ座り込んだ。
「戻った……のか……?」
その隣では、若い女性がポッドの縁に手をつき、震えながら髪を触っている。
「夢……見てた気がする」
「どんな?」
「わかんない。ただ、すごく安心してた」
別の中年男性が、ぼんやりと笑った。
「俺も。なんか、会社もローンも何もなくてさ。昼寝していいよって言われたみたいな……」
「怖いこと言うなよ」
「でも、もう少し休みたかったかも」
その言葉に、周囲の何人かが黙った。
誰も笑わなかった。
笑えなかった。
プリティミューは、その声を聞きながら、中央ポッドの前に膝をついていた。
目の前には、小さなかなえがいる。
幼い身体のまま、透明なポッドの中から差し出された手を、プリティミューは両手で包んでいた。
その手は小さい。
指も細い。
でも、温度は知っている。
ミユが熱を出した時に額へ触れてくれた手。朝、寝坊しそうなミユの布団を容赦なく剥がした手。夕飯の皿を並べる手。スーパーの袋を持つ手。ミユの髪を雑に直す手。
同じ手だった。
「ママ」
小さなかなえは、うっすら目を開けた。
しばらく、プリティミューの顔を見ていた。
その瞳はまだ幼い。けれど、奥にあるものは、だんだんと戻ってきていた。
「ミユ……?」
プリティミューの肩が跳ねた。
「えっ」
かなえは、ぼんやりしたまま、首を傾げる。
「プリティ……ミュー……?」
「え、えっと、違うというか、その、私は、その」
言葉がぐちゃぐちゃになる。
変身したまま、母に手を握られている。
ここまできて、何を誤魔化せるのか。
でも、どうやって説明すればいいのかもわからない。
プリティミューが完全に固まっていると、かなえは小さく笑った。
「……変な夢」
「夢! そう! たぶん夢!」
反射で飛びついた。
ワトソンが背後で小さく咳払いをする。
《ミユさん、その説明は後々の整合性に問題が》
「今は黙ってて、子猫型!」
《子猫型ではありません。一時的に小型化した人間アバターです》
「その訂正、今いらない!」
メグが制御端末から顔を上げた。
「先輩、かなえさんの年齢反応、戻り始めています」
「ほんと?」
「はい。ポッドの生体時間干渉が解除された影響です。ただ、完全復元まで少し時間がかかるかもしれません」
かなえの身体を包む蜂蜜色の光が、静かに薄れていく。
小さな指が、少しずつ大人の指へ戻る。
ケープの中で身体の輪郭が変わり、床に広がっていたタオル地がきつそうにずれる。
プリティミューは慌てて後ろを向いた。
「わっ、待って待って! これ、服どうなるの!?」
《サロン備品の伸縮ケープです。一定サイズまでは対応可能です》
「そこだけ妙に親切!」
かなえは、ポッドの中で目を閉じた。
光が収束する。
次に目を開けた時、そこにいたのは、いつもの朝倉かなえだった。
顔色は悪い。
髪も乱れている。
ケープ姿で、かなり疲れた顔をしている。
それでも、ミユの知っている母だった。
かなえは、自分の手を見て、それから目の前のプリティミューを見た。
しばらく、何も言わなかった。
その沈黙が、ミユにはミラクルハニーの蜜より怖かった。
「えっと……」
プリティミューは目を泳がせる。
「大丈夫、ですか」
なぜか他人行儀になった。
かなえは、ゆっくりと眉を上げた。
「プリティミューさん」
「はいっ」
声が裏返った。
「娘を見ませんでした?」
「えっ」
「朝倉ミユっていうんですけど」
かなえの目は、まっすぐだった。
でも、責める目ではない。
知っている。
気づいている。
それでも、今はそこに踏み込まない。
そういう目だった。
プリティミューの喉がつまる。
「……見ました」
「そう」
「元気、だと思います」
「ごはんは食べてる?」
「たぶん」
「ちゃんと寝てる?」
「それは、あんまり」
「だめじゃない」
「すみません」
なぜか謝ってしまう。
かなえは、小さく息を吐いた。
「伝えておいてください」
「何を、ですか」
「危ないことをしているなら、せめてちゃんと帰ってきなさいって」
プリティミューは、何も言えなかった。
言えば、泣いてしまいそうだった。
代わりに、深く頷いた。
「はい」
かなえは、そこで少しだけ笑った。
「あと、ごはんは食べなさい」
「……はい」
「それと、寝なさい」
「はい」
「それから、洗濯物はちゃんと洗濯カゴに入れなさい」
「急に現実が近い!」
思わず言ってしまった。
かなえの目が細くなる。
プリティミューは、ハンマーを持ったまま固まった。
「……すみません」
「いいえ。今の言い方、ちょっとミユに似てたから」
「そ、そうですか」
「ええ」
かなえは、それ以上追及しなかった。
だから、余計に胸が痛かった。
ミユは、変身を解くタイミングを探した。
だが、周囲にはまだ被害者たちがいる。メグもいる。ワトソンも、小型アバターのまま制御端末に張りついている。
少なくとも今ここで変身解除するわけにはいかない。
プリティミューは立ち上がった。
「みなさん、慌てないでください! 出口まで誘導します!」
声を張る。
自分でも驚くほど、しっかり声が出た。
さっきまで、身体が小さくなる感覚に震えていたのに。
今は、立っている。
まだ怖い。
まだ泣きたい。
でも、立っている。
メグが隣に来て、タブレット代わりにスマホを掲げた。
「先輩、出口は三か所あります。正面搬入口はハニーワーカーの残骸で一部塞がっています。非常階段側から順番に避難させましょう」
「了解。大人の人たちを避難させるのに高校生が指示出してるの、すごい変だけど」
「今は一番状況を把握している人が指示を出すべきです」
「メグちゃん、たまにめちゃくちゃ大人っぽいよね」
「怖い時ほど、段取りを考えることにしています」
「それはそれで心配になるやつ」
メグは少しだけ笑った。
「先輩ほどではありません」
「それ、どういう意味?」
「褒めています」
「最近、その言い方で何でも許されると思ってない?」
そんなやり取りをしながら、二人は被害者たちを誘導した。
子ども化から戻った大人たちは、まだ足元がおぼつかない者も多かった。記憶が曖昧で、状況を飲み込めず、泣き出す人もいた。
「私、子どもになってたんですか?」
「若返りというより、年齢認識干渉です」
メグが淡々と説明する。
「ごめん、一般の人にその説明は難しい」
「では、怪人のせいです」
「急にわかりやすい!」
別の女性が、かなえに支えられながら歩いていた。
「でも、夢の中では、ほんとに楽だったの」
その声は、罪悪感に沈んでいた。
「私、起きたくないって思ってたかも」
かなえは、少し考えてから言った。
「そういう日くらい、あるんじゃないですか」
女性が驚いて、かなえを見る。
かなえは疲れた顔で笑った。
「私も、ちょっと思いました。何もしなくていいなら楽だなって」
「……」
「でも、帰らないといけない場所もあるので」
ミユは、その会話を聞いていた。
かなえも思ったのだ。
何もしなくていいなら楽だ、と。
母も、そう思う。
当たり前のことなのに、ミユは今までちゃんと考えたことがなかった。
母は母である前に、人間だ。
子どもだった頃があり、疲れる日があり、逃げたい夜がある。
そんなことを、怪人に教えられるなんて、本当に最悪だと思う。
でも、知らないままでいるよりは、たぶんよかった。
避難誘導が一段落したころ、アインから通信が入った。
《バイト君、聞こえるか》
「聞こえる。こっちはだいたい終わり」
《ミラクルハニーの主反応は消失。だが、施設内に微弱なジョーカー通信波が残っている。残骸回収班が近い》
「回収班?」
《前回までと同じだ。怪人の残骸を回収している何者かがいる》
ミユは周囲を見回した。
砕けた蜜タンクの破片。
床に残った黄金色の結晶。
折れた尾針の先。
さっきまでミラクルハニーだったものの欠片。
嫌な予感がした。
「全部持って帰れない?」
《できれば回収したいが、今は被害者の安全を優先しろ》
「わかってる」
そう答えながらも、ミユは唇を噛んだ。
今までもそうだった。
怪人は倒した。
でも、その欠片は誰かに拾われている。
蜘蛛男。
蝙蝠伯爵。
レイディスコーピオン。
サラセニア・ルージュ。
マンティスシザー。
カメ・レオン。
そして、ミラクルハニー。
倒して終わりではない。
何かが積み重なっている。
その何かを、自分たちはまだ知らない。
ワトソンが小さな姿のまま、端末から振り返った。
《ミユさん、撤収を推奨します。かなえさんの負担が大きいです》
ミユは、かなえを見る。
かなえは避難者を支えながら歩いていたが、顔色は明らかに悪かった。
プリティミューは、ハンマーを握りしめる。
「……了解」
今ここで残骸を追うこともできる。
でも、かなえを連れて帰ることも、今の自分が選ばなければならないことだ。
ミユは変身を解かないまま、避難者たちを地上へ導いた。
外に出ると、雨は上がっていた。
ホウジュ区駅裏の空気は冷たく、濡れたアスファルトにネオンが映っている。救急車のサイレンが遠くで鳴り、パトカーの赤色灯がビルの壁を染めていた。
子ども化していた大人たちは、少しずつ元の姿に戻り、毛布をかけられて運ばれていく。
それでも、街のあちこちで戸惑った声が上がっていた。
「僕、お父さんを抱っこしてた気がする」
「お母さんが急に小さくなって、それで……」
「もう大丈夫。大丈夫だから」
誰かが誰かを抱きしめていた。
大人が子どもを。
子どもが大人を。
どちらが守る側なのか、今は少し曖昧だった。
プリティミューは、ビルの陰へ回った。
そこでようやく変身を解く。
白とピンクの光がほどけ、制服姿の朝倉ミユに戻る。
膝から力が抜けそうになり、慌てて壁に手をついた。
「うわ……疲れた……」
身体が重い。
眠い。
お腹も空いた。
さっきまで「まだ子どもでも選べる」と叫んでいたくせに、今はもう全部放り出して寝たい。
それが自分らしくて、少しだけ笑った。
メグが、少し離れた場所で待っていた。
「先輩、大丈夫ですか」
「大丈夫じゃないけど、大丈夫って言う場面な気がする」
「では、半分大丈夫ですね」
「メグちゃんの判定、優しいんだか厳しいんだかわからない」
その時、かなえが歩いてきた。
毛布を肩にかけ、髪はまだ少し湿っている。
ミユは反射的に背筋を伸ばした。
「ママ……」
「ミユ」
かなえは、静かに娘を見た。
ミユは身構える。
怒られる。
問い詰められる。
プリティミューのことを聞かれる。
何から答えればいいのかわからず、手の指がぎゅっと制服の裾を握った。
「怒る?」
先に聞いてしまった。
かなえは、少しだけ目を細めた。
「怒ることはいっぱいある気がする」
「またそれだ」
「実際あるもの」
「あるんだ……」
「でも、今日は先に言うことがある」
かなえは、少し言いづらそうに目をそらした。
母親がそんな顔をするのを、ミユはあまり見たことがなかった。
「ママだって、たまには子どもに戻りたい時くらいあるのよ」
ミユは、すぐに返事ができなかった。
「……あるんだ」
「あるわよ」
かなえは苦笑した。
「大人だからって、毎日ちゃんとしてるわけじゃない」
「でも、ママはいつもちゃんとしてるじゃん」
「そう見せてるだけ」
あまりにもあっさり言われて、ミユは言葉に詰まった。
そう見せているだけ。
その言葉は、今日のどんな怪人の攻撃より深く胸に残った。
かなえは、毛布の端を握り直した。
「買い物して、ごはん作って、洗濯して、仕事のこと考えて、学校のこと気にして、あなたの顔色を見て」
「……」
「全部ちゃんとできてるように見えてたなら、まあ、頑張った甲斐はあるけど」
「ママ……」
「でも、できてない日もある。疲れてる日もある。何もしたくない日もある。誰かに全部やってほしい日もある」
かなえは、そこで少し笑った。
「今日みたいに、本当に子どもに戻りたいわけじゃないけどね」
「そりゃそうでしょ」
「でも、そう思うくらい疲れてたのは本当」
ミユの胸が痛んだ。
自分は気づかなかった。
母が疲れていることに。
ミユが危ないことを隠している間、かなえもずっと不安だったのかもしれない。
「私、全然見てなかった」
小さく言うと、かなえは首を振った。
「子どもが親の全部を見なくていいの」
「でも」
「でも、見ようとしてくれたなら、それは嬉しい」
かなえの手が伸びた。
乱れたミユの前髪を、指で少しだけ整える。
その手は、いつもの大人の手だった。
ミユが子どもの頃から知っている手。
「だから、ミユが全部大人になろうとしなくていい」
「でも、私がやらないと」
「そう思う日もある」
かなえは、まっすぐミユを見る。
「でも、全部は無理」
優しいのに、はっきりした声だった。
「ちゃんと帰ってきて、ちゃんと食べて、ちゃんと寝る。それも大事な仕事」
ミユは、思わず笑った。
「やっぱり現実的」
「母親だから」
「大人って、現実的すぎない?」
「現実を見ないと、夕飯は出てこないのよ」
「それはそう」
少しだけ、いつもの会話に戻った。
そのことに、ミユは救われた。
全部を話せたわけではない。
秘密はまだ残っている。
かなえも、それを知っている。
それでも、親子の間にあった何かが、少しだけ変わった気がした。
かなえは、ミユの額を軽く小突いた。
「で、今日は帰ったら食べて寝る」
「はい」
「お風呂も入る」
「はい」
「洗濯物は洗濯カゴ」
「そこまで言う?」
「言う」
「はい……」
メグが、その横で小さく笑っていた。
ミユは赤くなる。
「メグちゃん、笑わないで」
「すみません。親子だなと思って」
「それ、どういう感想?」
「少し羨ましいです」
さらっと言われて、ミユは黙った。
かなえはメグを見て、穏やかに言う。
「メグちゃんも、今日はありがとう」
「い、いえ。私は、その、少ししか」
「ミユのそばにいてくれたでしょう」
メグの目が揺れた。
「……はい」
「それは、少しじゃないわ」
メグは、眼鏡の位置を直した。
「ありがとうございます」
ミユは何となく照れくさくなって、空を見た。
雨上がりの夜空は、雲の切れ間から少しだけ月が見えていた。
その後、メグは怪人事件ログを更新した。
投稿は、いつもより少し遅い時間になった。
《今回の事件では、若返りを装った年齢干渉が確認されました》
《大人が子どもに戻ることも、子どもが大人の役割を背負わされることも、どちらも危険です》
《休みたいと思うことは悪くありません》
《でも、自分の時間を誰かに預けすぎてはいけません》
《今の自分が未完成でも、選べることはあります》
ミユは、帰り道でその投稿を読んだ。
スマホの画面を見ながら、しばらく黙る。
隣で歩いていたメグが、少し不安そうに聞いた。
「先輩、刺さりましたか」
「刺さったっていうか」
「はい」
「じわっと来た」
「刺さらないようにしたつもりです」
「じわっと来るのも刺さるからね?」
「では、次回の課題にします」
「メグちゃん、文章で攻撃力調整するのやめて」
そんなことを言っているうちに、三人はコブラカレーの前に着いていた。
店の灯りは、まだついている。
雨上がりの道路に、スパイスの匂いが混ざっていた。
ミユの腹が、正直に鳴った。
かなえがミユを見る。
「ごはん、まだだったわね」
「うん」
「食べていきましょうか」
「え、いいの?」
「今日は作る気力がないもの」
「ママがそれ言うの、ちょっと新鮮」
「母親にもそういう日はあります」
コブラは、三人が店に入っても驚かなかった。
いつものようにカウンターの奥で鍋をかき混ぜている。
ただ、かなえを見た時だけ、ほんの少し目を細めた。
「いらっしゃい」
「こんばんは」
かなえは店内を見回し、首を傾げた。
「このお店、前にも来たことあったかしら」
ミユは全力で首を振った。
「ママ、そこは思い出さなくていい」
「そう?」
「そう!」
コブラは、何も聞かずに三人分のカレーを出した。
湯気が立つ。
スパイスの香りが、鼻の奥に残っていた甘い匂いを押し流していく。
ミユはスプーンを持った。
「……おいしい」
「知ってる」
「そこは謙遜してよ」
「うまいもんはうまい」
コブラは、カウンター越しにミユを見る。
「甘えたい日くらい、誰にでもある」
ミユの手が止まった。
コブラは、鍋の火を少し弱める。
「甘いもんは悪くねえ。疲れてる時に甘いもんが欲しくなるのも、まあ普通だ」
「……」
「だが、甘さで人の歳月を盗むやつは、ろくでもねえ」
ミユは、じっとコブラを見た。
「おじさん、やっぱり何か知ってるでしょ」
コブラは、にやりとも笑わなかった。
ただ、淡々と福神漬けの容器を補充する。
「カレー屋はな、客の歳の取り方を見る商売なんだよ」
「初めて聞いたよ、その理屈」
「今日覚えたな」
「覚えたくなかったなあ」
コブラは、それ以上言わなかった。
かなえはカレーを一口食べて、少し驚いた顔をする。
「おいしい」
「だろ」
「悔しいけど、ほんとにおいしい」
「親子で同じこと言うな」
ミユはむせかけた。
「ママ!」
「何?」
「いや、何でもない」
食卓に、少しだけ笑いが戻る。
ミユはカレーを食べながら、思った。
まだ何も終わっていない。
母には言えていないことがある。
ジョーカーは次の作戦を進める。
倒した怪人たちの欠片も、誰かが集めている。
でも、今は。
今だけは、カレーを食べる。
帰って、風呂に入って、寝る。
それも大事な仕事なのだと、今日だけは少し信じてもいい気がした。
一方、ジョーカー帝都支部。
ゲル大佐は、報告端末を前にして、額を押さえていた。
机の上には胃薬の瓶が三本並んでいる。
その横で、戦闘員42号が直立していた。
「報告します。ミラクルハニー、活動停止。蜜蜂の館、地下施設破壊。幼若化被害者は復元傾向です」
「またか……」
ゲル大佐の声は、もはや怒鳴る気力も失っていた。
「ですが、蜜腺組織と幼若化データの一部は回収できました」
「それだけでも首領Xに報告しろ。私の胃のために」
「大佐の胃、毎回重要ですね」
「重要だ。私が倒れたら誰が報告書を書く」
「自分ですか?」
「お前に任せると三行で終わるだろうが!」
「簡潔でいいかと」
「良くない!」
通信画面が暗くなった。
ゲル大佐と42号が同時に姿勢を正す。
画面の中央に、首領Xの仮面アイコンが浮かんだ。
「ゲル大佐」
「はっ」
「良いデータだった」
ゲル大佐は、予想していた言葉なのに、やはり胃を押さえた。
「また敗北しましたが」
「彼女は、子どもであることを否定しなかった」
「……」
「だが、大人の役割からも逃げなかった」
「それが、今回の観測結果ですか」
「そうだ」
首領Xの声は、いつも通り感情が読めなかった。
だが、ゲル大佐には、そこにかすかな熱があるように聞こえた。
興味。
あるいは、期待。
それが何に向けられているのかは、まだわからない。
「ゲル大佐」
「はっ」
「プリティミューは、年齢を固定しない」
「年齢を、固定しない?」
「子どもであり、大人であり、被保護者であり、保護者である。その揺らぎが、μシステムの適応幅を広げている」
ゲル大佐は黙った。
首領Xが怪人の敗北を惜しまない理由。
それがまた少しだけ、形を持った気がした。
プリティミューを倒すことではない。
彼女がどこまで揺らぎ、どこまで耐え、どこまで変化するのか。
それを見ている。
では、その先に何があるのか。
ゲル大佐は、低い声で問う。
「次は、どうされるおつもりですか」
首領Xは答えた。
「敗北した怪人たちの価値を、次の段階へ進める」
ゲル大佐の表情がわずかに変わった。
「残骸回収ですか」
「すでに始まっている」
通信が途切れる。
画面が黒く戻った後も、ゲル大佐はしばらく動かなかった。
42号が、おそるおそる口を開く。
「あの、大佐」
「何だ」
「敗北した怪人たちの価値って、何でしょう」
「知るか」
「ですよね」
「だが、ろくなものではない」
ゲル大佐は、机の上の胃薬を一本手に取った。
「そして、ろくでもないことほど、報告書が厚くなる」
「大佐、今回は自分も手伝います」
「まず誤字を減らせ」
「はい!」
その頃。
ホウジュ区の地下とは別の、どこか暗い研究室。
白い照明は必要最低限しか点いていない。
壁際には、低温保存ケースが並んでいる。
ケースには、これまでのラベルが整然と貼られていた。
《J-02 ノクターンバット/超音波器官片》
《J-03 ヴェノムスコーピア/毒針片》
《J-04 サラセニア・ルージュ/蜜腺組織・捕虫根片》
《J-05 マンティスシザー/裁断刃片・編集コア破片》
《J-07 カメ・レオン/偽装皮膜・声紋複写器官》
黒い手袋をした人物が、新しいケースを棚に置いた。
中には、黄金色に結晶化した蜜腺組織と、細い尾針の欠片が収められている。
ラベルが貼られる。
《J-08 ミラクルハニー/蜜腺組織・幼若化毒針・敗北データ回収予定》
ケースの中で、蜜腺組織がかすかに脈打った。
黒い手袋の人物は、無言でモニターを操作する。
画面に、新しい怪人データが表示された。
《J-09 グレイヴコンドル/残骸回収適性・敗北データ収集調整中》
その横に、黒い翼を持つ影が映る。
嘴のようなマスク。
墓標を思わせる装甲。
長い鉤爪。
その影は、暗い空を舞いながら、これまで倒された怪人たちの破片を拾い集めていた。
黒い翼が一度、大きく広がる。
モニターの中で、墓場のように並んだデータケースが、冷たい光を返した。




