第5節 ― ロイヤル・ナーサリーの甘い檻
蜜蜂の館は、雨の中でも明るかった。
ホウジュ区駅裏の再開発エリア。その一角に建つガラス張りの施設は、夜の街に浮かぶ砂糖菓子みたいに光っている。
入口のネオンは、蜂蜜色と白でやわらかく発光していた。
《蜜蜂の館 ハニーフルネス・ラウンジ》
《大人のための休息》
《もう一度、何者でもなかった頃へ》
さっきまでは、その言葉がただ怪しいだけに見えていた。
今は違う。
甘い。
優しい。
腹が立つくらいに、疲れた人間の弱いところへぴったり寄り添ってくる。
ミユは濡れた前髪を手の甲で払った。
指先が冷たい。
制服は雨で重い。
靴の中までぐしゃぐしゃで、一歩踏み出すたびに気持ち悪い音がした。
それでも、足は止めなかった。
止めたら、思い出してしまう。
小さなかなえが、ハニーワーカーに抱えられて連れ去られた時の声。
伸ばされた手。
届かなかった自分の手。
「ママ……」
口の中で呟くと、胸の奥がぎゅっと縮んだ。
隣を走っていたメグが、肩で息をしながら言う。
「先輩、正面入口は危険です。ハニーワーカーが複数います」
「じゃあ裏口?」
「前に先輩が見つけた搬入口がまだ使えます。ただ、防犯センサーが増えています」
「さっきより厳重になってるってこと?」
「たぶん、先輩が逃げたからです」
「私のせいでセキュリティ強化されたの、すごい嫌なんだけど!」
怒鳴りながら、ミユは館の側面へ回った。
明るい正面とは違い、裏手は暗かった。美容サロンの搬入口らしく、白い配送用コンテナがいくつか並んでいる。段ボールには、蜂蜜美容液やロイヤルゼリー飲料のロゴが印刷されていた。
そのロゴを見るだけで、ミユは歯を食いしばった。
「人を小さくする商品、普通に配送するな……!」
ワトソンの小さな少年アバターが、コンテナの影から顔を出した。
猫耳のようなノイズが、ぴこ、と揺れる。
《搬入口のロックを確認しました。物理鍵ではなく、館内ネットワーク連動型です》
「開く?」
《三十秒ください》
「優秀!」
《ただし、現在のアバター出力は不安定です。耳のノイズについては見ないでください》
「見てない!」
「見ていますね」
「ちょっとだけ!」
ワトソンは無言で端末に手をかざした。
小さな手のひらから、青白い光のラインが伸びる。扉の横の電子パネルが一瞬点滅し、蜂の巣模様の認証画面が乱れた。
メグがその隣で、自分のスマホを開く。
「こちらも補助します。館内の来客用アプリにバックドアが残っています。広告配信用のデータ経路を使えば、少しだけ中のマップが取れます」
「メグちゃん、もう普通にスパイだよね」
「怪人事件ログの延長です」
「その延長、だいぶ遠くまで来たよ」
電子音が鳴った。
搬入口のロックが外れる。
ワトソンが振り返った。
《開きました。ただし、内部には複数の生体反応があります。ハニーワーカーの可能性が高いです》
「わかった」
ミユは息を吸った。
甘い匂いが肺に入る。
反射的に顔をしかめた。
「うわ、外より濃い……」
メグがマスクを取り出し、ミユに一枚渡す。
「完全には防げませんが、少しは違います」
「ありがとう」
ミユはマスクをつける。
その上からでも、蜂蜜の匂いは届いた。
甘い。
甘すぎる。
優しいふりをして、頭の奥にまとわりついてくる。
搬入口の先は、白い廊下だった。
床も壁も天井も、清潔すぎるほど白い。ところどころに金色のラインが走り、壁面には蜂の巣を模した装飾が埋め込まれている。
スピーカーからは、やわらかなオルゴール調の音楽が流れていた。
《今日も一日、がんばったあなたへ》
《ここでは、何者でなくてもかまいません》
《力を抜いて、甘い眠りへ》
ミユは足を止めた。
「うるさい」
小さく言ったつもりだった。
でも、声は思ったより強く出た。
メグが横目で見る。
「先輩?」
「大丈夫。腹立ってるだけ」
「それは大丈夫の範囲ですか」
「今は大丈夫ってことにする」
通路の奥で、ハニーワーカーの足音が聞こえた。
白と金の制服を着たスタッフが二人、滑るように歩いてくる。笑顔は完璧だった。目の焦点が合っていないほど、完璧だった。
「お客様、こちらは関係者以外立ち入り禁止でございます」
「お戻りください。休息プログラムのご案内は、一階受付にて承ります」
ミユは身構えた。
変身するか。
いや、まだ早い。
ここで派手にやれば、かなえの場所がわかる前に騒ぎになる。
メグが素早く壁際へ寄った。
「先輩、左の清掃用カート」
「了解!」
ミユは清掃用カートを押し出した。
黄色いバケツとモップ、タオル、詰め替え用ボトルが積まれたカートが、白い床を勢いよく滑る。
ハニーワーカーたちは同時に横へ避けた。
動きがそろいすぎている。
人間ではなく、訓練されたドローンのようだった。
だが、その一瞬の隙に、ミユとメグは廊下の横扉へ飛び込んだ。
ワトソンも、短い足で必死に追いかける。
《待ってください。現在のアバター脚長では速度が不足しています》
「かわいいこと言ってる場合じゃない!」
《かわいいではありません。不具合です》
横扉の先には、非常階段があった。
階段は下へ続いている。
下から、低い機械音と水滴の音が響いていた。
メグがスマホを見る。
「この下です。館内マップでは表示されていません。でも、電力使用量と空調経路から見て、大型施設があります」
「地下の怪しい施設って、もう完全に悪の組織じゃん……」
「今さらです」
「今さらだけど!」
ミユは階段を降り始めた。
一段、二段。
降りるごとに、甘い匂いが濃くなる。
蜂蜜だけではない。
ミルク。
花。
焼き菓子。
やわらかな毛布。
雨の日の家。
記憶のどこかにある、安心できる匂いを、無理やり混ぜて作ったような匂いだった。
階段の途中で、ミユの足が少し鈍る。
胸の奥に、ふっと古い感覚が浮かんだ。
小さい頃、熱を出した時。
かなえが冷えたタオルを額にのせてくれた。
学校を休んでいいと言われた朝。
布団の中で聞いた雨音。
台所からする味噌汁の匂い。
何もしなくてよかった。
誰かが全部やってくれた。
自分はただ、布団の中で丸くなっていればよかった。
「……」
「先輩」
メグの声で、ミユは我に返った。
「大丈夫ですか」
「今、ちょっと危なかった」
「香気濃度が上がっています。先輩、無理に吸わないでください」
「無理に吸わなくても入ってくるんだけど……」
ミユはマスクの上から鼻を押さえた。
それでも、甘さは入ってくる。
階段の一番下に、六角形の大きな扉があった。
蜂の巣の一部をそのまま切り出したような形をしている。中央には、金色の紋章。
蜜蜂の館。
ロイヤル・ナーサリー。
ワトソンが扉の前に立つ。
《内部に多数の生体反応。成人反応、幼若化反応、ハニーワーカー反応が混在しています。かなえさんの反応もあります》
ミユの心臓が跳ねた。
「いるの?」
《はい。中央区画です》
「開けて」
《開けます。ただし――》
「ただし?」
《内部の香気濃度が非常に高いです。長時間滞在は危険です》
「長居する気はない」
ミユは扉を睨んだ。
「ママ連れて帰る。それだけ」
ワトソンがロックを解除した。
六角形の扉が、静かに左右へ開く。
その先に広がっていたものを見て、ミユは言葉を失った。
地下なのに、そこは巨大な巣だった。
天井は高く、奥行きは学校の体育館より広い。壁一面に、六角形のポッドが並んでいる。蜂の巣の穴の一つ一つが、人ひとりを収められる透明な容器になっていた。
ポッドの中には、人が眠っていた。
いや、人だったもの。
大人の服を着た子ども。
ぶかぶかのスーツに包まれた少年。
大きすぎるワンピースを着た少女。
制服のような事務服を引きずる小さな女の子。
白衣の袖に埋もれる男の子。
みんな、静かに眠っている。
苦しそうではない。
痛がってもいない。
むしろ、安心しきった顔だった。
丸くなって、笑っている者もいる。
誰かに抱きしめられている夢でも見ているみたいに。
その光景が、ミユにはたまらなく怖かった。
「……苦しそうじゃないのが、一番怖いんだけど」
声が震えた。
メグも、息を呑んでいる。
「これ、全員……」
《幼若化した成人です》
ワトソンの声も、少しだけ硬かった。
《ポッド内で生命維持と香気投与が行われています。身体反応は安定。ただし、自発覚醒反応が抑制されています》
「つまり、起きたくなくされてるってこと?」
《近いです。起きる必要がない、と身体に誤認させています》
「ほんと最悪……」
ミユは一歩踏み出した。
足元の床は、六角形のパネルで構成されている。パネルの隙間を、金色の液体が細く流れていた。蜜なのか、薬品なのか、考えたくなかった。
中央には、大きな柱が立っていた。
蜂の巣の女王室。
そんな言葉が頭に浮かぶ。
柱の周囲には、さらに大きな透明ポッドが並び、その一つが蜂蜜色の光に包まれていた。
その中に、小さなかなえがいた。
「ママ!」
ミユは駆け出した。
メグが止める間もなかった。
透明ポッドの前に立ち、両手で表面を叩く。
硬い。
びくともしない。
中のかなえは、サロンのケープをまとったまま、膝を抱えて眠っている。顔は幼い。目元に、泣いた跡が残っている。
それを見た瞬間、ミユの胸の奥で何かが折れそうになった。
「ママ、起きて。ねえ、起きてよ」
返事はない。
かなえの小さな手は、胸元でぎゅっと握られている。
まるで、誰かを探しているみたいに。
ミユは歯を食いしばった。
「ワトソン君、開けられる?」
《物理ロックと生体認証、加えて蜜成分による粘着封鎖です。時間が必要です》
「時間ない!」
《理解しています》
その時、上から甘い声が降ってきた。
「来てくれたんだ、ミユたん」
ミユは振り返った。
中央柱の上、蜂の巣状の足場に、ミラクルハニーが座っていた。
金と黒の装甲。
半透明の翅。
ハート型の蜜杖。
足をぶらぶら揺らしながら、まるで遊園地のショーを見に来た子どもみたいに笑っている。
ミユの拳が震えた。
「その呼び方やめて」
「えー。かわいいのに」
「やめてって言った」
自分の声が低くなっているのがわかった。
ミラクルハニーは、きょとんと首を傾げる。
「怖い顔。ミユたん、怒ってる?」
「怒ってるよ」
「でも、怒ってる顔も子どもっぽいね」
「……」
「だって、ミユたんもまだ子どもでしょ?」
ミユは言い返そうとした。
でも、声が出なかった。
子ども。
その言葉だけが、胸に引っかかった。
自分は子どもだ。
高校生だ。
母にごはんを作ってもらっている。家賃も税金も、保険も、将来のことだって、何もちゃんとはわかっていない。
なのに、怪人と戦っている。
母を守ろうとしている。
街を背負ったような顔をしている。
それは、何なのだろう。
大人ぶっているだけなのか。
ミラクルハニーは、ミユの沈黙を楽しむように、にっこり笑った。
「ほら。自分でもわかってるんだ」
「黙って」
「まだママに守ってもらいたいのに、ママを守らなきゃって思ってる」
「黙って!」
「それ、すごく苦しいよね」
ミラクルハニーが蜜杖を振った。
金色の粒子が空中に散る。
その瞬間、ロイヤル・ナーサリーの景色が揺らいだ。
蜂の巣の壁が溶ける。
透明ポッドの光が遠ざかる。
代わりに、雨の日の帰り道が見えた。
幼いミユがいる。
小さな長靴を履いて、黄色い傘を持っている。
隣には、若いかなえ。
今より少し髪が長く、今より少し疲れていない顔で、ミユの手を引いている。
『水たまり、入っちゃだめよ』
『ちょっとだけ!』
『ちょっとだけって言う子は、だいたい全部入るの』
『ママ、見て!』
幼いミユが水たまりを踏む。
泥水が跳ねる。
かなえが困った顔をして、それでも笑う。
胸が痛くなった。
その頃の自分は、母が困っていることなんて考えなかった。
母が寒いかどうかも、疲れているかどうかも、知らなかった。
母は母で、ずっと母なのだと思っていた。
守ってくれる人。
叱ってくれる人。
帰る場所。
それだけでよかった。
次の幻が重なる。
熱を出して布団にいるミユ。
かなえが枕元に座っている。
『学校、休んでいい?』
『休んでいいよ。今日は何もしなくていい』
『ほんと?』
『ほんと』
何もしなくていい。
その言葉に、今のミユの胸が締めつけられる。
何もしなくていい日がほしかった。
怪人のことも、ジョーカーのことも、プリティミューのことも、バイト代のことも、秘密のことも、全部忘れていい日。
朝起きたら、母がいて。
ごはんがあって。
学校に行って、文句を言って、普通に帰ってくる。
それだけでよかった頃へ。
「戻りたいでしょ?」
ミラクルハニーの声が、耳元で甘く響く。
「何もしなくていい」
「誰かに守ってもらっていい」
「大人にならなくていい」
「ヒーローにならなくていい」
「バイトもしなくていい」
「怖い怪人のところへ行かなくていい」
ミユの足が止まった。
ロイヤル・ナーサリーの床に立っているはずなのに、感覚は雨の日の道路に引き戻されている。
小さなミユが、かなえの手を握っている。
その手はあたたかい。
離したくない。
ミユは、唇を震わせた。
「……戻りたいよ」
言った瞬間、胸の奥から何かがあふれそうになった。
認めてはいけないと思っていた。
プリティミューになったから。
メグを助けたから。
母に危ないことをしていると気づかれたから。
街の人が困っているから。
自分は、もう「戻りたい」なんて言ってはいけないのだと思っていた。
でも、違う。
戻りたい。
何もしなくていい頃に。
怖い時に怖いと言えば、誰かが抱きしめてくれた頃に。
ミラクルハニーの笑顔が深くなる。
「でしょ?」
その瞬間、ポッドの中のかなえが小さく動いた。
眠っているはずなのに、かすかな声が漏れる。
「ミユ……」
幻の雨音が止まった。
ミユは顔を上げた。
ロイヤル・ナーサリーの蜂蜜色の光が戻る。
透明ポッドの中で、小さなかなえがうっすら目を開けていた。
焦点は合っていない。
けれど、ミユを探している。
「ミユ……どこ……?」
その声は、母の声ではなかった。
幼い子どもの声だった。
助けを求める声だった。
ミユは、胸の奥を強く押さえた。
戻りたい。
それは本当だ。
でも。
今、目の前で母が泣いている。
あの人が、自分を守ってくれた人が、今は小さな手で自分を探している。
なら。
「……戻りたいよ」
ミユはもう一度言った。
今度は、はっきりと。
ミラクルハニーが嬉しそうに笑う。
「じゃあ――」
「でも、今ママが泣いてるなら、私が行くしかないじゃん」
ミラクルハニーの笑顔が、一瞬止まった。
ミユは涙を袖で乱暴に拭った。
雨と汗と涙で、もう何が何だかわからない。
でも、視界はさっきよりはっきりしていた。
「子どもだから無理とか、大人じゃないからできないとか、そういうの、今は言ってられない」
「それがもう、大人ぶってるってことなんだよ」
ミラクルハニーは笑った。
でも、その笑い声には、ほんの少しだけ棘が混じっていた。
「大人はね、そうやって自分に言い聞かせるの。仕方ないって。自分がやるしかないって。泣きたいのに泣かないで、休みたいのに休まないで、助けてって言えなくなって、最後には自分が何を欲しかったかも忘れちゃうんだよ」
「……」
「ミユたんも、そうなるよ」
ミラクルハニーは、足場からふわりと浮いた。
翅が震える。
金色の蜜粒子が、周囲に舞った。
「だから、今のうちに戻してあげる」
壁際のポッドの隙間から、ハニーワーカーたちが現れた。
白と金の制服。
完璧な笑顔。
手には蜜杖と捕獲用のリボン。
数が多い。
ミユはメグを背にかばう。
「メグちゃん、下がって」
「先輩、でも」
「今回は、先にママを開ける方法探して。戦うのは私がやる」
「変身するんですね」
「うん」
ミユはμブレスレットを見た。
ピンク色の光が弱く脈打っている。
甘い香気のせいか、表示が少し乱れていた。数字がぶれ、ノイズが走る。
それでも、手首にある。
今の自分と、プリティミューをつなぐもの。
メグが頷いた。
「わかりました。ポッドの制御系を探します」
《私も補助します》
ワトソンが小さな身体で端末に駆け寄る。
《ただし、現在の姿だと高所端末に届きません》
「そこは椅子使って!」
《了解しました。不本意ですが椅子を使います》
ミユは、少しだけ笑った。
その笑いで、身体の震えが止まる。
ハニーワーカーたちが一斉に迫る。
ミラクルハニーが空中で蜜杖を掲げる。
「さあ、ミユたん。甘い夢に戻ろ?」
ミユはμブレスレットを掲げた。
「戻りたい時は、自分で寝る!」
白とピンクの光が、地下の蜂の巣に広がった。
「サイエンスパワー・メイクアップ!」
雨に濡れた制服が光に包まれる。
μシステムのラインが全身を走る。
ピンクと白の装甲が形成され、スカート状のアーマーパーツが展開し、ブーツが床を蹴る。
ミュー・ハンマーが、電子音とともに手の中へ現れる。
いつもの間抜けな「ピコッ」という音が、ロイヤル・ナーサリーに響いた。
ハニーワーカーたちが一瞬止まる。
ミラクルハニーが笑う。
「かわいい音」
「うるさい!」
科学少女プリティミューが、蜂の巣の中心に立った。
けれど、その直後だった。
ミラクルハニーの姿が、視界から消えた。
「え――」
羽音が背後で鳴る。
速い。
ミユが振り返るより先に、金色の尾針が装甲の肩をかすめた。
鋭い痛みではなかった。
むしろ、あたたかい。
甘い熱が、装甲の隙間から身体へ流れ込んでくる。
「っ……!」
ミユは膝をついた。
ミュー・ハンマーが急に重くなる。
いや、重いのではない。
自分の腕が小さくなったような感覚。
床が遠い。
天井が高すぎる。
視界の高さが、一瞬ぶれた。
装甲のサイズが、ぴし、と音を立てて乱れる。
手甲が緩む。
ブーツの内部で足が泳ぐような感覚が走る。
同時に、幼い頃の記憶が洪水のように流れ込んできた。
かなえの手。
味噌汁の匂い。
熱を出した布団。
暗い夜に目が覚めて、母を呼んだ声。
『ママ』
自分の声が、幼く聞こえる。
プリティミューの呼吸が乱れた。
「何、これ……」
通信がノイズ混じりに入る。
《バイト君、聞こえるか》
「アイン……?」
《μシステムが年齢認識干渉を受けている。変身出力が不安定だ》
「わかりやすく……!」
《ミラクルハニーの蜜が、キミの身体に“幼い自分”を誤認させている》
「つまり?」
《このままだと、キミ自身も子どもに戻る》
ミユは、ハンマーを握りしめた。
手が震えている。
ミラクルハニーは、目の前でふわふわと浮いていた。
その笑顔は、甘くて、かわいくて、残酷だった。
「ね? 無理しなくていいんだよ、ミユたん」
プリティミューは、歯を食いしばる。
「本当に……最悪!」
声が少しだけ高く聞こえた。
それがさらに、ミユを焦らせた。
蜂の巣の奥で、小さなかなえがもう一度呟く。
「ミユ……」
プリティミューは顔を上げた。
まだ倒れない。
まだ戻らない。
戻りたいと思ったことは、嘘じゃない。
でも、今ここで戻るわけにはいかない。
ロイヤル・ナーサリーの甘い檻の中で、蜂蜜色の光が強くなっていく。
ミラクルハニーの尾針が、もう一度きらりと光った。




