表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
54/56

第5節 ― ロイヤル・ナーサリーの甘い檻

 蜜蜂の館は、雨の中でも明るかった。


 ホウジュ区駅裏の再開発エリア。その一角に建つガラス張りの施設は、夜の街に浮かぶ砂糖菓子みたいに光っている。


 入口のネオンは、蜂蜜色と白でやわらかく発光していた。


《蜜蜂の館 ハニーフルネス・ラウンジ》

《大人のための休息》

《もう一度、何者でもなかった頃へ》


 さっきまでは、その言葉がただ怪しいだけに見えていた。


 今は違う。


 甘い。


 優しい。


 腹が立つくらいに、疲れた人間の弱いところへぴったり寄り添ってくる。


 ミユは濡れた前髪を手の甲で払った。


 指先が冷たい。


 制服は雨で重い。


 靴の中までぐしゃぐしゃで、一歩踏み出すたびに気持ち悪い音がした。


 それでも、足は止めなかった。


 止めたら、思い出してしまう。


 小さなかなえが、ハニーワーカーに抱えられて連れ去られた時の声。


 伸ばされた手。


 届かなかった自分の手。


「ママ……」


 口の中で呟くと、胸の奥がぎゅっと縮んだ。


 隣を走っていたメグが、肩で息をしながら言う。


「先輩、正面入口は危険です。ハニーワーカーが複数います」


「じゃあ裏口?」


「前に先輩が見つけた搬入口がまだ使えます。ただ、防犯センサーが増えています」


「さっきより厳重になってるってこと?」


「たぶん、先輩が逃げたからです」


「私のせいでセキュリティ強化されたの、すごい嫌なんだけど!」


 怒鳴りながら、ミユは館の側面へ回った。


 明るい正面とは違い、裏手は暗かった。美容サロンの搬入口らしく、白い配送用コンテナがいくつか並んでいる。段ボールには、蜂蜜美容液やロイヤルゼリー飲料のロゴが印刷されていた。


 そのロゴを見るだけで、ミユは歯を食いしばった。


「人を小さくする商品、普通に配送するな……!」


 ワトソンの小さな少年アバターが、コンテナの影から顔を出した。


 猫耳のようなノイズが、ぴこ、と揺れる。


《搬入口のロックを確認しました。物理鍵ではなく、館内ネットワーク連動型です》


「開く?」


《三十秒ください》


「優秀!」


《ただし、現在のアバター出力は不安定です。耳のノイズについては見ないでください》


「見てない!」


「見ていますね」


「ちょっとだけ!」


 ワトソンは無言で端末に手をかざした。


 小さな手のひらから、青白い光のラインが伸びる。扉の横の電子パネルが一瞬点滅し、蜂の巣模様の認証画面が乱れた。


 メグがその隣で、自分のスマホを開く。


「こちらも補助します。館内の来客用アプリにバックドアが残っています。広告配信用のデータ経路を使えば、少しだけ中のマップが取れます」


「メグちゃん、もう普通にスパイだよね」


「怪人事件ログの延長です」


「その延長、だいぶ遠くまで来たよ」


 電子音が鳴った。


 搬入口のロックが外れる。


 ワトソンが振り返った。


《開きました。ただし、内部には複数の生体反応があります。ハニーワーカーの可能性が高いです》


「わかった」


 ミユは息を吸った。


 甘い匂いが肺に入る。


 反射的に顔をしかめた。


「うわ、外より濃い……」


 メグがマスクを取り出し、ミユに一枚渡す。


「完全には防げませんが、少しは違います」


「ありがとう」


 ミユはマスクをつける。


 その上からでも、蜂蜜の匂いは届いた。


 甘い。


 甘すぎる。


 優しいふりをして、頭の奥にまとわりついてくる。


 搬入口の先は、白い廊下だった。


 床も壁も天井も、清潔すぎるほど白い。ところどころに金色のラインが走り、壁面には蜂の巣を模した装飾が埋め込まれている。


 スピーカーからは、やわらかなオルゴール調の音楽が流れていた。


《今日も一日、がんばったあなたへ》

《ここでは、何者でなくてもかまいません》

《力を抜いて、甘い眠りへ》


 ミユは足を止めた。


「うるさい」


 小さく言ったつもりだった。


 でも、声は思ったより強く出た。


 メグが横目で見る。


「先輩?」


「大丈夫。腹立ってるだけ」


「それは大丈夫の範囲ですか」


「今は大丈夫ってことにする」


 通路の奥で、ハニーワーカーの足音が聞こえた。


 白と金の制服を着たスタッフが二人、滑るように歩いてくる。笑顔は完璧だった。目の焦点が合っていないほど、完璧だった。


「お客様、こちらは関係者以外立ち入り禁止でございます」


「お戻りください。休息プログラムのご案内は、一階受付にて承ります」


 ミユは身構えた。


 変身するか。


 いや、まだ早い。


 ここで派手にやれば、かなえの場所がわかる前に騒ぎになる。


 メグが素早く壁際へ寄った。


「先輩、左の清掃用カート」


「了解!」


 ミユは清掃用カートを押し出した。


 黄色いバケツとモップ、タオル、詰め替え用ボトルが積まれたカートが、白い床を勢いよく滑る。


 ハニーワーカーたちは同時に横へ避けた。


 動きがそろいすぎている。


 人間ではなく、訓練されたドローンのようだった。


 だが、その一瞬の隙に、ミユとメグは廊下の横扉へ飛び込んだ。


 ワトソンも、短い足で必死に追いかける。


《待ってください。現在のアバター脚長では速度が不足しています》


「かわいいこと言ってる場合じゃない!」


《かわいいではありません。不具合です》


 横扉の先には、非常階段があった。


 階段は下へ続いている。


 下から、低い機械音と水滴の音が響いていた。


 メグがスマホを見る。


「この下です。館内マップでは表示されていません。でも、電力使用量と空調経路から見て、大型施設があります」


「地下の怪しい施設って、もう完全に悪の組織じゃん……」


「今さらです」


「今さらだけど!」


 ミユは階段を降り始めた。


 一段、二段。


 降りるごとに、甘い匂いが濃くなる。


 蜂蜜だけではない。


 ミルク。


 花。


 焼き菓子。


 やわらかな毛布。


 雨の日の家。


 記憶のどこかにある、安心できる匂いを、無理やり混ぜて作ったような匂いだった。


 階段の途中で、ミユの足が少し鈍る。


 胸の奥に、ふっと古い感覚が浮かんだ。


 小さい頃、熱を出した時。


 かなえが冷えたタオルを額にのせてくれた。


 学校を休んでいいと言われた朝。


 布団の中で聞いた雨音。


 台所からする味噌汁の匂い。


 何もしなくてよかった。


 誰かが全部やってくれた。


 自分はただ、布団の中で丸くなっていればよかった。


「……」


「先輩」


 メグの声で、ミユは我に返った。


「大丈夫ですか」


「今、ちょっと危なかった」


「香気濃度が上がっています。先輩、無理に吸わないでください」


「無理に吸わなくても入ってくるんだけど……」


 ミユはマスクの上から鼻を押さえた。


 それでも、甘さは入ってくる。


 階段の一番下に、六角形の大きな扉があった。


 蜂の巣の一部をそのまま切り出したような形をしている。中央には、金色の紋章。


 蜜蜂の館。


 ロイヤル・ナーサリー。


 ワトソンが扉の前に立つ。


《内部に多数の生体反応。成人反応、幼若化反応、ハニーワーカー反応が混在しています。かなえさんの反応もあります》


 ミユの心臓が跳ねた。


「いるの?」


《はい。中央区画です》


「開けて」


《開けます。ただし――》


「ただし?」


《内部の香気濃度が非常に高いです。長時間滞在は危険です》


「長居する気はない」


 ミユは扉を睨んだ。


「ママ連れて帰る。それだけ」


 ワトソンがロックを解除した。


 六角形の扉が、静かに左右へ開く。


 その先に広がっていたものを見て、ミユは言葉を失った。


 地下なのに、そこは巨大な巣だった。


 天井は高く、奥行きは学校の体育館より広い。壁一面に、六角形のポッドが並んでいる。蜂の巣の穴の一つ一つが、人ひとりを収められる透明な容器になっていた。


 ポッドの中には、人が眠っていた。


 いや、人だったもの。


 大人の服を着た子ども。


 ぶかぶかのスーツに包まれた少年。

 大きすぎるワンピースを着た少女。

 制服のような事務服を引きずる小さな女の子。

 白衣の袖に埋もれる男の子。


 みんな、静かに眠っている。


 苦しそうではない。


 痛がってもいない。


 むしろ、安心しきった顔だった。


 丸くなって、笑っている者もいる。


 誰かに抱きしめられている夢でも見ているみたいに。


 その光景が、ミユにはたまらなく怖かった。


「……苦しそうじゃないのが、一番怖いんだけど」


 声が震えた。


 メグも、息を呑んでいる。


「これ、全員……」


《幼若化した成人です》


 ワトソンの声も、少しだけ硬かった。


《ポッド内で生命維持と香気投与が行われています。身体反応は安定。ただし、自発覚醒反応が抑制されています》


「つまり、起きたくなくされてるってこと?」


《近いです。起きる必要がない、と身体に誤認させています》


「ほんと最悪……」


 ミユは一歩踏み出した。


 足元の床は、六角形のパネルで構成されている。パネルの隙間を、金色の液体が細く流れていた。蜜なのか、薬品なのか、考えたくなかった。


 中央には、大きな柱が立っていた。


 蜂の巣の女王室。


 そんな言葉が頭に浮かぶ。


 柱の周囲には、さらに大きな透明ポッドが並び、その一つが蜂蜜色の光に包まれていた。


 その中に、小さなかなえがいた。


「ママ!」


 ミユは駆け出した。


 メグが止める間もなかった。


 透明ポッドの前に立ち、両手で表面を叩く。


 硬い。


 びくともしない。


 中のかなえは、サロンのケープをまとったまま、膝を抱えて眠っている。顔は幼い。目元に、泣いた跡が残っている。


 それを見た瞬間、ミユの胸の奥で何かが折れそうになった。


「ママ、起きて。ねえ、起きてよ」


 返事はない。


 かなえの小さな手は、胸元でぎゅっと握られている。


 まるで、誰かを探しているみたいに。


 ミユは歯を食いしばった。


「ワトソン君、開けられる?」


《物理ロックと生体認証、加えて蜜成分による粘着封鎖です。時間が必要です》


「時間ない!」


《理解しています》


 その時、上から甘い声が降ってきた。


「来てくれたんだ、ミユたん」


 ミユは振り返った。


 中央柱の上、蜂の巣状の足場に、ミラクルハニーが座っていた。


 金と黒の装甲。


 半透明の翅。


 ハート型の蜜杖。


 足をぶらぶら揺らしながら、まるで遊園地のショーを見に来た子どもみたいに笑っている。


 ミユの拳が震えた。


「その呼び方やめて」


「えー。かわいいのに」


「やめてって言った」


 自分の声が低くなっているのがわかった。


 ミラクルハニーは、きょとんと首を傾げる。


「怖い顔。ミユたん、怒ってる?」


「怒ってるよ」


「でも、怒ってる顔も子どもっぽいね」


「……」


「だって、ミユたんもまだ子どもでしょ?」


 ミユは言い返そうとした。


 でも、声が出なかった。


 子ども。


 その言葉だけが、胸に引っかかった。


 自分は子どもだ。


 高校生だ。


 母にごはんを作ってもらっている。家賃も税金も、保険も、将来のことだって、何もちゃんとはわかっていない。


 なのに、怪人と戦っている。


 母を守ろうとしている。


 街を背負ったような顔をしている。


 それは、何なのだろう。


 大人ぶっているだけなのか。


 ミラクルハニーは、ミユの沈黙を楽しむように、にっこり笑った。


「ほら。自分でもわかってるんだ」


「黙って」


「まだママに守ってもらいたいのに、ママを守らなきゃって思ってる」


「黙って!」


「それ、すごく苦しいよね」


 ミラクルハニーが蜜杖を振った。


 金色の粒子が空中に散る。


 その瞬間、ロイヤル・ナーサリーの景色が揺らいだ。


 蜂の巣の壁が溶ける。


 透明ポッドの光が遠ざかる。


 代わりに、雨の日の帰り道が見えた。


 幼いミユがいる。


 小さな長靴を履いて、黄色い傘を持っている。


 隣には、若いかなえ。


 今より少し髪が長く、今より少し疲れていない顔で、ミユの手を引いている。


『水たまり、入っちゃだめよ』


『ちょっとだけ!』


『ちょっとだけって言う子は、だいたい全部入るの』


『ママ、見て!』


 幼いミユが水たまりを踏む。


 泥水が跳ねる。


 かなえが困った顔をして、それでも笑う。


 胸が痛くなった。


 その頃の自分は、母が困っていることなんて考えなかった。


 母が寒いかどうかも、疲れているかどうかも、知らなかった。


 母は母で、ずっと母なのだと思っていた。


 守ってくれる人。


 叱ってくれる人。


 帰る場所。


 それだけでよかった。


 次の幻が重なる。


 熱を出して布団にいるミユ。


 かなえが枕元に座っている。


『学校、休んでいい?』


『休んでいいよ。今日は何もしなくていい』


『ほんと?』


『ほんと』


 何もしなくていい。


 その言葉に、今のミユの胸が締めつけられる。


 何もしなくていい日がほしかった。


 怪人のことも、ジョーカーのことも、プリティミューのことも、バイト代のことも、秘密のことも、全部忘れていい日。


 朝起きたら、母がいて。


 ごはんがあって。


 学校に行って、文句を言って、普通に帰ってくる。


 それだけでよかった頃へ。


「戻りたいでしょ?」


 ミラクルハニーの声が、耳元で甘く響く。


「何もしなくていい」

「誰かに守ってもらっていい」

「大人にならなくていい」

「ヒーローにならなくていい」

「バイトもしなくていい」

「怖い怪人のところへ行かなくていい」


 ミユの足が止まった。


 ロイヤル・ナーサリーの床に立っているはずなのに、感覚は雨の日の道路に引き戻されている。


 小さなミユが、かなえの手を握っている。


 その手はあたたかい。


 離したくない。


 ミユは、唇を震わせた。


「……戻りたいよ」


 言った瞬間、胸の奥から何かがあふれそうになった。


 認めてはいけないと思っていた。


 プリティミューになったから。


 メグを助けたから。


 母に危ないことをしていると気づかれたから。


 街の人が困っているから。


 自分は、もう「戻りたい」なんて言ってはいけないのだと思っていた。


 でも、違う。


 戻りたい。


 何もしなくていい頃に。


 怖い時に怖いと言えば、誰かが抱きしめてくれた頃に。


 ミラクルハニーの笑顔が深くなる。


「でしょ?」


 その瞬間、ポッドの中のかなえが小さく動いた。


 眠っているはずなのに、かすかな声が漏れる。


「ミユ……」


 幻の雨音が止まった。


 ミユは顔を上げた。


 ロイヤル・ナーサリーの蜂蜜色の光が戻る。


 透明ポッドの中で、小さなかなえがうっすら目を開けていた。


 焦点は合っていない。


 けれど、ミユを探している。


「ミユ……どこ……?」


 その声は、母の声ではなかった。


 幼い子どもの声だった。


 助けを求める声だった。


 ミユは、胸の奥を強く押さえた。


 戻りたい。


 それは本当だ。


 でも。


 今、目の前で母が泣いている。


 あの人が、自分を守ってくれた人が、今は小さな手で自分を探している。


 なら。


「……戻りたいよ」


 ミユはもう一度言った。


 今度は、はっきりと。


 ミラクルハニーが嬉しそうに笑う。


「じゃあ――」


「でも、今ママが泣いてるなら、私が行くしかないじゃん」


 ミラクルハニーの笑顔が、一瞬止まった。


 ミユは涙を袖で乱暴に拭った。


 雨と汗と涙で、もう何が何だかわからない。


 でも、視界はさっきよりはっきりしていた。


「子どもだから無理とか、大人じゃないからできないとか、そういうの、今は言ってられない」


「それがもう、大人ぶってるってことなんだよ」


 ミラクルハニーは笑った。


 でも、その笑い声には、ほんの少しだけ棘が混じっていた。


「大人はね、そうやって自分に言い聞かせるの。仕方ないって。自分がやるしかないって。泣きたいのに泣かないで、休みたいのに休まないで、助けてって言えなくなって、最後には自分が何を欲しかったかも忘れちゃうんだよ」


「……」


「ミユたんも、そうなるよ」


 ミラクルハニーは、足場からふわりと浮いた。


 翅が震える。


 金色の蜜粒子が、周囲に舞った。


「だから、今のうちに戻してあげる」


 壁際のポッドの隙間から、ハニーワーカーたちが現れた。


 白と金の制服。


 完璧な笑顔。


 手には蜜杖と捕獲用のリボン。


 数が多い。


 ミユはメグを背にかばう。


「メグちゃん、下がって」


「先輩、でも」


「今回は、先にママを開ける方法探して。戦うのは私がやる」


「変身するんですね」


「うん」


 ミユはμブレスレットを見た。


 ピンク色の光が弱く脈打っている。


 甘い香気のせいか、表示が少し乱れていた。数字がぶれ、ノイズが走る。


 それでも、手首にある。


 今の自分と、プリティミューをつなぐもの。


 メグが頷いた。


「わかりました。ポッドの制御系を探します」


《私も補助します》


 ワトソンが小さな身体で端末に駆け寄る。


《ただし、現在の姿だと高所端末に届きません》


「そこは椅子使って!」


《了解しました。不本意ですが椅子を使います》


 ミユは、少しだけ笑った。


 その笑いで、身体の震えが止まる。


 ハニーワーカーたちが一斉に迫る。


 ミラクルハニーが空中で蜜杖を掲げる。


「さあ、ミユたん。甘い夢に戻ろ?」


 ミユはμブレスレットを掲げた。


「戻りたい時は、自分で寝る!」


 白とピンクの光が、地下の蜂の巣に広がった。


「サイエンスパワー・メイクアップ!」


 雨に濡れた制服が光に包まれる。


 μシステムのラインが全身を走る。


 ピンクと白の装甲が形成され、スカート状のアーマーパーツが展開し、ブーツが床を蹴る。


 ミュー・ハンマーが、電子音とともに手の中へ現れる。


 いつもの間抜けな「ピコッ」という音が、ロイヤル・ナーサリーに響いた。


 ハニーワーカーたちが一瞬止まる。


 ミラクルハニーが笑う。


「かわいい音」


「うるさい!」


 科学少女プリティミューが、蜂の巣の中心に立った。


 けれど、その直後だった。


 ミラクルハニーの姿が、視界から消えた。


「え――」


 羽音が背後で鳴る。


 速い。


 ミユが振り返るより先に、金色の尾針が装甲の肩をかすめた。


 鋭い痛みではなかった。


 むしろ、あたたかい。


 甘い熱が、装甲の隙間から身体へ流れ込んでくる。


「っ……!」


 ミユは膝をついた。


 ミュー・ハンマーが急に重くなる。


 いや、重いのではない。


 自分の腕が小さくなったような感覚。


 床が遠い。


 天井が高すぎる。


 視界の高さが、一瞬ぶれた。


 装甲のサイズが、ぴし、と音を立てて乱れる。


 手甲が緩む。


 ブーツの内部で足が泳ぐような感覚が走る。


 同時に、幼い頃の記憶が洪水のように流れ込んできた。


 かなえの手。


 味噌汁の匂い。


 熱を出した布団。


 暗い夜に目が覚めて、母を呼んだ声。


『ママ』


 自分の声が、幼く聞こえる。


 プリティミューの呼吸が乱れた。


「何、これ……」


 通信がノイズ混じりに入る。


《バイト君、聞こえるか》


「アイン……?」


《μシステムが年齢認識干渉を受けている。変身出力が不安定だ》


「わかりやすく……!」


《ミラクルハニーの蜜が、キミの身体に“幼い自分”を誤認させている》


「つまり?」


《このままだと、キミ自身も子どもに戻る》


 ミユは、ハンマーを握りしめた。


 手が震えている。


 ミラクルハニーは、目の前でふわふわと浮いていた。


 その笑顔は、甘くて、かわいくて、残酷だった。


「ね? 無理しなくていいんだよ、ミユたん」


 プリティミューは、歯を食いしばる。


「本当に……最悪!」


 声が少しだけ高く聞こえた。


 それがさらに、ミユを焦らせた。


 蜂の巣の奥で、小さなかなえがもう一度呟く。


「ミユ……」


 プリティミューは顔を上げた。


 まだ倒れない。


 まだ戻らない。


 戻りたいと思ったことは、嘘じゃない。


 でも、今ここで戻るわけにはいかない。


 ロイヤル・ナーサリーの甘い檻の中で、蜂蜜色の光が強くなっていく。


 ミラクルハニーの尾針が、もう一度きらりと光った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ