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第4節 ― 子どもになった大人たち、大人になれない私

 コブラカレーの扉を開けると、雨の匂いと、甘い匂いが一緒に流れ込んできた。


 雨はさっきより強くなっている。


 駅裏の白い舗装は街灯を反射して、濡れたガラスみたいに光っていた。けれど、そのきれいな反射の上を、金色の薄い膜のようなものが漂っている。


 蜂蜜の匂い。


 蜜蜂の館から流れ出した甘さが、雨に薄められながらも、街全体へ広がっている。


 ミユは店の奥を振り返った。


 小さくなったかなえは、コブラの出してくれたスープを飲んだあと、ブレザーにくるまって眠っている。


 その寝顔を見ただけで、足が重くなった。


 置いていきたくない。


 でも、置いていくしかない。


 コブラはカウンターの向こうで鍋をかき混ぜながら、低く言った。


「行くなら、早く行け」


「……うん」


「迷ってる時間も、甘い匂いの中じゃ吸われるぞ」


「おじさん、やっぱり何か知ってるでしょ」


「カレー屋はな、甘口と辛口の匂いには敏感なんだよ」


「その理屈、だいぶ限界あるからね」


 それでも、ミユは少しだけ笑えた。


 笑えたことに、自分で少し驚いた。


 こんな状況で笑うなんておかしい。

 でも、笑えないままだと、たぶん動けない。


 メグは店先でスマホを確認していた。雨に濡れないよう、傘の代わりに鞄を少し掲げている。眼鏡の奥の目は、いつもより真剣だった。


「先輩、駅裏全域で被害報告が増えています。蜜蜂の館を中心に、半径一・五キロほど。特に再開発エリア、バスターミナル、商業ビル前に集中しています」


「警察は?」


「通報は入っています。でも、通報者の一部も混乱していて、状況整理が追いついていません。救急も同じです」


「大人が子どもになってるって、説明しても信じてもらえないよね……」


「はい。通報内容だけ見ると、迷子、集団パニック、薬物中毒、イベント事故が混ざっているように見えます」


「最悪のごちゃ混ぜ」


 ミユは雨の中へ出た。


 濡れた制服が肌に張りつく。ブレザーはかなえにかけてきたから、白いシャツ一枚では寒い。けれど、寒さよりも、胸の奥のざわつきの方がずっと大きかった。


 ワトソンの小さな少年アバターが、ミユの足元に並んだ。


 子猫耳のようなノイズは、雨に濡れているわけでもないのに、時々ぴくぴくと乱れる。


「ミユさん。通信阻害は、外部では軽減されています。ただし、蜜蜂ドローンが中継ノードとして機能しており、完全な通信回復には至りません」


「つまり?」


「アインさんとの通信は断続的です。短い会話なら可能です」


「じゃあ、必要な時だけ呼ぶ。ワトソン君は、ママの位置情報も見てて」


「了解しました。かなえさんの生体反応は、コブラカレー店内で安定しています」


 その言葉を聞いて、ミユは少しだけ息を吐いた。


 安定。


 とりあえず今は、生きている。眠っている。寒がっていない。


 それだけを、心の中で何度も確認する。


 駅裏の通りへ出ると、混乱はすぐに見えた。


 最初に目に入ったのは、ぶかぶかのスーツを着た男の子だった。


 いや、男の子の姿をした会社員だった。


 濡れた歩道に座り込み、袖が指先まで隠れたワイシャツを握りしめて泣いている。ネクタイは首からずり落ち、革靴は片方だけ脱げていた。


「ぼく、会議に行かなきゃ……」


 その声は、小学校低学年くらいの子どものものだった。


 けれど、足元には大人用のビジネスバッグが倒れていて、中から書類が雨に濡れながらはみ出している。


 隣で、本物の中学生くらいの少年が、おろおろとスマホを握っていた。


「お父さん、違う、座ってないで。ねえ、立って。帰ろう。お母さんに電話するから。ちょっと待って、救急? 警察? どっち? え、どうすれば……」


 少年の声が震えている。


 大人になってしまったみたいな顔で、でも目だけは完全に子どもだった。


 ミユは足を止めかけた。


 メグが隣で言う。


「先輩、あちらは意識があります。雨を避けられる場所へ誘導して、位置情報を残します」


「うん」


 ミユは駆け寄った。


「大丈夫? お父さん、こっち。そこの庇の下に入ろう」


 スーツ姿の男の子は、涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げた。


「だれ……?」


「通りすがりの、ええと、親切な高校生」


 自分で言って、情けなくなる。


 けれど、相手はそれを疑う余裕もない。


 ミユは肩を貸そうとして、相手が小さくなっていることに戸惑い、結局手を引いた。袖越しの手は冷たかった。


 中学生の少年が、泣きそうな顔でミユを見た。


「あの、これ、何なんですか。お父さん、急に小さくなって。僕、どうしたら」


「落ち着いて。まず濡れないところへ。メグちゃん、場所送れる?」


「送ります。怪人事件ログの緊急共有に登録します。救護可能地点として、コブラカレーと駅前交番前の庇、あとバスターミナル待合室を表示します」


「コブラカレー、避難場所にされてる」


「すでにそうなっています」


「おじさん、ごめん……」


 ミユは心の中で謝りながら、親子を庇の下へ誘導した。


 歩き出すと、次の声が聞こえた。


「ママ、こっちだよ! 信号、赤だから!」


 横断歩道の前で、小学生くらいの女の子が、幼児のように笑っている女性の手を必死に握っていた。女性のワンピースはぶかぶかになり、化粧は雨で少しにじんでいる。


 女の子は泣いていない。


 泣かないように、唇を噛んでいる。


「ママ、走っちゃだめ。車来るから。ねえ、お願いだから、ちゃんとして」


 ちゃんとして。


 その言葉が、ミユの胸に刺さった。


 大人に向けるには、あまりにも悲しい言葉だった。


 大人が子どもになった。


 だから、子どもが大人の言葉を使っている。


 メグが小さく言う。


「ロイヤルゼリー・シンドロームは、単純な肉体変化だけではありません」


「うん」


「周囲の子どもや若者に、保護者役を強制しています」


「うん」


「先輩」


「わかってる」


 ミユは少し強く言ってしまった。


 メグは黙る。


 ミユはすぐに後悔した。


「……ごめん。メグちゃんに怒ったんじゃない」


「わかっています」


「わかってるって言われるのも、なんか申し訳ない」


「でも、わかっています」


 メグは淡々としている。


 でも、その指先は少し震えていた。


 彼女だって怖いはずだ。


 なのに、状況を整理している。


 ミユの代わりに、助ける順番を考えている。


 ミユは、濡れた前髪を乱暴にかき上げた。


「全部助けるとか、無理だよね」


「はい」


 メグは即答した。


 冷たい答えだった。


 でも、嘘ではなかった。


「先輩、全部は助けられません」


「わかってる」


「でも、先に助ける順番は決められます」


「それ、大人っぽいこと言わないで」


「今は必要です」


 ミユは、唇を噛んだ。


 必要。


 その言葉が重い。


 母をコブラカレーに預けた。

 街の人を助ける。

 怪人を探す。

 蜜蜂の館を止める。

 秘密を守る。

 プリティミューとして戦う。

 朝倉ミユとして帰る。


 やることが多すぎる。


 背負うものが多すぎる。


 自分は高校生なのに。


 まだ、朝に起きるだけで精一杯の日もある。

 体育の持久走で文句を言う。

 数学の小テストで青ざめる。

 母に寝不足を怒られる。

 放課後にカレーを食べて、メグとくだらない話をする。


 そのくらいの人間なのに。


 どうして今、母を守って、街を守って、大人たちの代わりまで考えなければならないのか。


「大人って、こんなの毎日やってんの?」


 ミユは、思わず言った。


 雨音に紛れそうな声だった。


 メグが少し考える。


「たぶん違います」


「違うの?」


「怪人退治は普通の大人もやっていません」


 ミユは、少しだけ笑った。


「そこ、真面目に返すんだ」


「重要な区別です」


「たしかに」


 笑いはすぐに消えた。


 けれど、完全に崩れそうだった心が、ほんの少しだけ踏みとどまる。


 その時、駅前広場の街頭ビジョンが一斉に明るくなった。


 普段は地域広告や電車の遅延情報を流している画面が、蜂蜜色に染まる。


 雨の中、立ち尽くしていた人々が顔を上げた。


 画面の中央に、金と黒の縞模様の小柄な怪人が映る。


 半透明の翅。


 ハート型の蜜杖。


 大きな瞳。


 甘すぎる笑顔。


 ミラクルハニー。


《ホウジュ区のみなさーん、こんばんはぁ》


 スピーカーから響いた声は、明るく、甘く、場違いなほど楽しそうだった。


《大人のみなさん、もう頑張らなくていいんだよ》


 画面の中のミラクルハニーは、両手を広げた。


《毎日お仕事して、家事して、心配して、我慢して、ちゃんとして。えらいね。すごいね。でも、疲れちゃったよね?》


 広場のあちこちで、小さくなった大人たちが画面を見る。


 泣いていた会社員の男の子が、ぼんやりと顔を上げた。


《だから、ミラクルハニーが休ませてあげる。もう一度、何もしなくてよかった頃へ。守られるだけでよかった頃へ》


 ミユの拳が震えた。


 優しい言葉の形をしている。


 でも、その中身は、相手の弱さをつかんで離さない罠だ。


 ミラクルハニーの笑顔が、今度は少しだけ角度を変える。


《それから、子どものみんな》


 ミユの背筋が冷えた。


《早く立派にならなきゃって思ってる?》

《泣いてるお父さんを守らなきゃ?》

《小さくなったお母さんを連れて帰らなきゃ?》

《救急車も警察も来ないなら、自分が何とかしなきゃ?》


 街のあちこちで、子どもたちが硬直する。


 それは、みんなが今まさに思っていたことだった。


 言われたくなかったことだった。


《えらいね。すごいね。でも、つらいよね》


 ミラクルハニーは、蜜杖をくるりと回した。


《なら、ミラクルハニーが助けてあげる》


 その瞬間、空に羽音が広がった。


 雨の中を、無数の小さな蜂型ドローンが飛んでくる。


 羽は濡れて動きが鈍いはずなのに、今度のドローンは違った。半透明の翅の周囲に、薄い金色の膜が張っている。雨粒を弾くためのコーティングだ。


 蜂型ドローンたちは街頭ビジョンの光を受けて、金色の点になりながら、ホウジュ区駅裏へ散っていく。


 ワトソンの声が、ミユの耳元で弾ける。


《ミユさん、ドローンからロイヤルゼリー・シンドロームの散布を確認》


「撒いてるの!?」


《はい。霧状の蜜粒子です。大人の幼若化反応、若年層の責任焦燥反応を同時に増幅しています》


「最悪!」


 ミユは空を見上げた。


 蜂型ドローンの一群が、駅前広場から商業ビルへ向かう。別の一群はバスターミナルへ。さらに別の一群は、雨の中を低く飛び、細い裏通りへ進んでいく。


 その方向に、赤と黄色の看板が見えた。


 コブラカレー。


 ミユの心臓が跳ねた。


「ママ!」


 ミユは走り出した。


「先輩!」


 メグの声が後ろから追ってくる。


「コブラさんがいます!」


「それでも!」


 わかっている。


 コブラはただのカレー屋ではない。たぶん、絶対に何かある。


 でも、かなえは今、小さい。


 怖がっている。


 ミユが帰ってくると信じて、眠っている。


 その場所に、あの甘いドローンが向かっている。


 考えるより先に、足が動いていた。


 雨で滑る歩道を蹴り、ミユは角を曲がる。


 コブラカレーの店先が見えた。


 扉が開いている。


 看板の灯りが雨ににじんでいる。


 店の前には、数体のハニーワーカーが立っていた。


 白と金の制服。完璧な笑顔。濡れた翅。


 そのうち一体が、腕に小さなかなえを抱えている。


 ミユの視界が、真っ赤になる。


「ママ!」


 かなえは、ハニーワーカーの腕の中でミユを見つけた。


 眠っていたはずの目が、涙で濡れている。


「ミユ……!」


 小さな手が伸びる。


 ミユも手を伸ばした。


 あと少し。


 その間に、蜂型ドローンが割り込んだ。


 金色の蜜霧が、ミユの目の前で弾ける。


「っ!」


 甘い匂いが鼻を刺した。


 身体が一瞬だけ重くなる。


 頭の奥で、幼い記憶のようなものがちらついた。


 転んで泣いた時の膝の痛み。

 かなえの手の温度。

 「大丈夫」と言ってくれた声。


 戻りたい。


 ほんの一瞬、そう思ってしまった。


 その一瞬が、致命的だった。


 ハニーワーカーたちが後退する。


 店の奥から、コブラの怒鳴り声がした。


「嬢ちゃん!」


 コブラはカウンターの向こうから出てきていた。手には大きな鍋の蓋。足元には、壊れた蜂型ドローンが二機転がっている。


 だが、店内には他にも避難してきた小さくなった大人たちがいた。泣いている者、震えている者、床に座り込んでいる者。


 コブラは、彼らを背にしていた。


 追えば、店を空けることになる。


 それを理解した瞬間、ミユは何も言えなかった。


 ハニーワーカーは、かなえを抱えたまま、雨の中へ滑るように下がる。


 かなえの手が、必死に空を掴む。


「ミユ、どこ行くの……?」


「行かない! 行かないから!」


 ミユは蜜霧を振り払って走ろうとした。


 しかし、足元に金色の糸が絡みつく。


 転びかけたところを、メグが後ろから支えた。


「先輩!」


「離して、メグちゃん!」


「今突っ込んでも捕まります!」


「でもママが!」


「だから、追うために足を止めてください!」


 その言葉で、ミユは一瞬だけ止まった。


 息が荒い。


 胸が痛い。


 雨なのか涙なのか、自分でもわからないものが頬を伝っている。


 ハニーワーカーたちは角を曲がり、蜜蜂の館の方向へ消えていく。


 かなえの声だけが、雨の中に残った。


「ミユ……!」


 ミユは、叫んだ。


「ママ!」


 返事はなかった。


 代わりに、ミユのスマホが震えた。


 画面が勝手に点灯する。


 送信者名は表示されていない。


 ただ、蜂蜜色の背景に、丸い文字が浮かび上がった。


《ママを返してほしければ、ロイヤル・ナーサリーへ来てね》


 続いて、もう一行。


《大人になりたいミユたんへ》


 ミユはスマホを握りしめた。


 画面にひびが入るのではないかと思うほど、強く。


 雨の音が遠くなる。


 街の混乱も、ドローンの羽音も、メグの呼吸も、一瞬だけ遠ざかる。


 胸の中に残ったのは、怒りだった。


 怖さもある。

 後悔もある。

 自分を責める気持ちもある。


 でも、それらを全部押しのけて、ひとつだけ言葉が出た。


「……誰がミユたんだ」


 低い声だった。


 自分でも少し驚くくらい、冷えた声だった。


 メグが隣で、そっと言う。


「先輩」


「行く」


 ミユは顔を上げた。


 雨の向こうに、蜜蜂の館の光が見える。


 甘く、明るく、優しそうで。


 最悪に腹が立つ光だった。


「ママを取り返す」


 ワトソンの小さな声が返る。


《アインさんとの通信、再接続を試みます》


 メグが頷く。


「私も行きます」


 コブラは店先で、壊れたドローンを踏みつけながら言った。


「行くなら、腹をくくれ。甘い匂いに怒りだけで突っ込むと、足元すくわれるぞ」


「わかってる」


「わかってない顔だな」


「わかってないけど、行くしかない!」


 コブラは、少しだけ口の端を上げた。


「なら、今はそれでいい」


 ミユは走り出した。


 母を守るために。


 街を戻すために。


 そして、まだ大人になりきれない自分が、それでも何を選ぶのかを、決めるために。


 雨の中、蜂蜜色の夜が続いていた。

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