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第3節 ― ジョーカー帝都支部、年齢反応観測作戦

 ジョーカー帝都支部の会議室は、いつもより甘い匂いがした。


 それだけで、ゲル大佐は嫌な予感を覚えていた。


 軍服の襟を正し、重厚な椅子に座り、机の上に置かれた報告書へ視線を落とす。


 報告書の表紙には、黒い文字でこう記されている。


《J-07 カメ・レオン作戦結果報告》

《偽装適性・関係性認識反応・母親観測補足》


 分厚い。


 また分厚い。


 前回も前々回も、その前も厚かった気がする。


 ゲル大佐は、こめかみを押さえた。


「なぜ敗北報告書は、毎回これほど成長するのだ……」


 怪人は倒される。


 施設は壊される。


 作戦は失敗する。


 なのに報告書だけは立派になる。


 これが組織として正しいのか、間違っているのか、ゲル大佐には最近よくわからなくなってきていた。


 彼は机の端に置いてある胃薬の瓶を手に取った。蓋を開け、錠剤を二粒出す。水で流し込む。


 苦い。


 作戦より苦い。


 いや、作戦もたいがい苦い。


 扉が開いた。


 戦闘員42号が、いつもの黒いスーツ姿で入ってくる。両腕には、新しい資料の束を抱えていた。


 その厚みを見た瞬間、ゲル大佐の胃が先に反応した。


「待て」


「はい、大佐」


「それは何だ」


「次回作戦用の観測資料です」


「見ればわかる。なぜ厚い」


「今回の観測対象が複雑でして」


「複雑ではない作戦を、たまには持ってこい」


「はい。努力します」


 42号は真面目にうなずいた。


 真面目なところが、余計に腹立たしい。


 ゲル大佐は椅子にもたれ、片手で額を押さえた。


「それで、次の観測対象は何だ」


 42号は資料の一枚目をめくった。


「はい。今回の観測対象は、年齢反応です」


「年齢反応とは何だ」


「ええと、子どもでいたい、大人になりたい、大人になりたくない、子どもに戻りたい、早く一人前にならなきゃいけない、などの心理反応らしいです」


「説明を聞いても面倒な作戦だな」


「自分もそう思います」


「思うな。お前は作戦員だ」


「はい、大佐」


 42号はぴしりと姿勢を正した。


 しかし、資料を持つ腕は微妙に震えている。紙の端がかすかに揺れた。


 ゲル大佐は、それを見逃さなかった。


「42号」


「はい」


「お前、作戦内容を読んだな」


「読みました」


「どう思った」


「……嫌な感じがします」


 42号は、少しだけ声を落とした。


「カメ・レオン作戦も嫌な感じでしたが、今回は別の方向で嫌です」


 ゲル大佐は、返す言葉を一瞬失った。


 戦闘員の口から、敵への同情めいた感想が出るのは本来望ましくない。


 だが、否定しきれない。


 ゲル大佐自身も、同じような感覚を覚えていた。


 カメ・レオンは、顔と声を奪い、本人らしさを揺さぶった。


 それは確かに有効な作戦だった。プリティミューの正体に近づき、学校を混乱させ、母親にも影を落とした。


 だが、今回の作戦書に書かれている内容は、さらに一段深いところへ刃を入れようとしている。


 親子。


 年齢。


 保護する側と、される側。


 人が、普段は言葉にしないまま抱えている弱さ。


 ゲル大佐は、資料の一部をめくった。


 そこには、《朝倉かなえ》の名前があった。


 観測対象補助。


 母親反応。


 幼若化適性。


 保護者機能反転。


 ゲル大佐は、資料を閉じた。


「……気に入らんな」


 42号は何も言わなかった。


 その時だった。


 会議室の照明が、ほんの少しだけ明るくなった。


 同時に、天井の換気口から、ふわりと甘い匂いが流れ込んでくる。


 蜂蜜。


 花。


 砂糖菓子。


 それから、どこか人工的な、喉に残るような甘さ。


 ゲル大佐は顔をしかめた。


「来たか」


 会議室の扉が、内側からではなく外側からでもなく、軽い電子音とともに開いた。


 入ってきたのは、小柄な少女のような怪人だった。


 金色と黒の縞模様の装甲。

 半透明の蜂翅。

 頭部から伸びる触角型センサー。

 背中には小型の蜜タンク。

 腰からは細い尾針が伸びている。

 手には、ハート型の蜜杖。


 見た目だけなら、アイドル衣装を着たマスコットキャラクターと言えなくもない。


 ただし、その目は違った。


 大きく、きらきらしている。

 甘い。

 幼い。

 無邪気そう。


 そして、その奥に、妙に冷めた光がある。


 ミラクルハニーは、両手を広げて笑った。


「ゲルたん、呼んだ?」


「大佐と呼べ」


「はぁい、ゲルたん大佐」


「混ぜるな!」


 ゲル大佐の声が会議室に響いた。


 42号がびくっとする。


 ミラクルハニーは、まったく悪びれない。蜂翅を軽く震わせ、宙に少し浮かぶ。


「怒ると胃に悪いよ。ゲルたん、最近ずっと胃薬飲んでるでしょ」


「誰のせいだと思っている」


「プリティミュー?」


「半分はそうだ!」


「じゃあ、残り半分は?」


「お前たち怪人の報告書だ!」


「報告書、かわいくデコればいいのに」


「作戦報告にデコレーションを入れるな!」


 ゲル大佐は深く息を吐いた。


 これ以上相手の調子に乗ると、作戦会議ではなく幼稚園の遠足前説明会になる。


「ミラクルハニー。作戦概要を述べろ」


「はぁい」


 ミラクルハニーは蜜杖をくるりと回した。


 すると、会議室中央の空中に、黄金色のホログラムが浮かび上がる。


 ホウジュ区駅裏再開発エリア。


 その中心に、《蜜蜂の館 ハニーフルネス・ラウンジ》の立体図が表示された。


「今回の舞台は、ここ。大人のための休息空間、蜜蜂の館」


 彼女は楽しそうに説明を始める。


「疲れた大人たちに、ミラクルハニーをちょっとだけあげるの。そうするとね、みんな思い出すんだよ」


 蜜杖の先から、金色の粒子が散った。


「守られたかった頃」

「怒られたくなかった頃」

「何もしなくても、ごはんが出てきた頃」

「泣いたら誰かが抱きしめてくれた頃」


 ホログラムの中で、大人のシルエットが小さな子どもの姿へ変わっていく。


「大人って、疲れてるの。ずっとちゃんとしてなきゃいけない。働かなきゃいけない。守らなきゃいけない。怒っちゃだめ。泣いちゃだめ。倒れちゃだめ」


 ミラクルハニーは笑っている。


 だが、声だけは妙に平坦だった。


「だから、戻してあげるの。ちょっとだけ」


 ゲル大佐は腕を組む。


「大人を子ども化させ、街の機能を低下させる。そこまでは理解した」


「うん」


「だが、それだけではプリティミューの観測にはならん」


「なるよ」


 ミラクルハニーは、ホログラムを切り替えた。


 今度は、子どもや中高生のシルエットが浮かび上がる。


 その周りで、子ども化した大人たちが泣き、迷い、座り込んでいる。


「大人が子どもになると、今度は子どもが大人の役をするの」


 ミラクルハニーは、甘く首を傾げた。


「お父さんを連れて帰らなきゃ」

「お母さんを守らなきゃ」

「弟や妹を安心させなきゃ」

「救急車を呼ばなきゃ」

「お金を払わなきゃ」

「早く、大人みたいに動かなきゃ」


 42号が小さく息を呑んだ。


 ゲル大佐は視線だけでそれを制したが、自分の表情も険しくなっていることに気づいていた。


 ミラクルハニーは、にこにこと続ける。


「街じゅうで、役割がひっくり返る。守られる人が守る人になって、守る人が守られる人になる。みんな、自分が何歳なのかわからなくなる」


「それで朝倉ミユを追い詰めるのか」


「うん。ミユたんは今、ちょうどいい場所にいるから」


「ミユたんと呼ぶな。作戦対象だ」


「だって、まだ子どもだもん」


 ミラクルハニーの笑顔が、少し深くなった。


「でも、本人はもう子どもでいられないと思い始めてる。ヒーローだもん。お母さんを守らなきゃいけないもん。友達も助けなきゃいけないもん。街も守らなきゃいけないもん」


 彼女は蜜杖の先で、空中のミユのデータ表示をつついた。


「高校生なのにね」


 その言葉だけは、妙に静かだった。


 会議室の空気が、ほんの少し冷えた気がした。


 ゲル大佐は眉を寄せる。


「貴様は、ずいぶん楽しそうに言うな」


「楽しいよ」


「本当か」


 ミラクルハニーの翅が、一瞬だけ止まった。


 けれど次の瞬間には、またぶん、と軽く震える。


「楽しいに決まってるじゃん。だってミラクルハニーは、みんなを甘くしてあげるかわいい怪人だもん」


「……」


「ゲルたんも、少し子どもに戻ってみる?」


「不要だ」


「胃薬いらなくなるかもよ」


「必要なのは休暇だ」


「それは無理だねえ」


「貴様に言われると腹が立つ」


 42号が資料を見ながら、小さく手を上げた。


「あの、大佐」


「何だ」


「この作戦、一般人への影響範囲がかなり広いです。保護者対応が必要になるのでは」


「怪人作戦で保護者対応とか言いたくないのだが」


「でも、子ども化した大人を保護する子どもが増えた場合、苦情窓口が」


「ジョーカーに苦情窓口はない!」


「一応、帝都支部の外線にたまに間違い電話が」


「切れ!」


「はい」


 ミラクルハニーはくすくす笑った。


「大丈夫。壊したりしないよ。みんな、ちょっとだけ子どもに戻るだけ」


 ゲル大佐は、鋭くミラクルハニーを見た。


「貴様の“ちょっとだけ”は信用できん」


「ひどぉい」


「過度な被害は出すな。首領Xの目的は観測だ。街の恒久的機能停止ではない」


「わかってるよ。戻せる範囲にしてあるもん」


「戻せる範囲?」


「多分」


「多分で作戦を組むな!」


 ゲル大佐が怒鳴った瞬間、会議室の照明がすっと落ちた。


 モニターが黒く染まる。


 空調の音が止まる。


 甘い匂いさえ、一瞬だけ薄くなったように感じられた。


 巨大スクリーンの中央に、仮面のアイコンが浮かび上がる。


 首領X。


 ゲル大佐は即座に立ち上がり、敬礼した。


「はっ、首領X」


 42号も慌てて敬礼する。


 ミラクルハニーは宙に浮いたまま、片手をひらひら振った。


「首領ちゃん、こんばんは」


「首領Xと呼べ」


 ゲル大佐が横から低く言った。


 ミラクルハニーは舌を出す。


「はぁい」


 スクリーンの中の仮面は、表情を変えない。


 しかし、その沈黙だけで、会議室の温度が一段下がる。


「ゲル大佐」


「はっ」


「プリティミューは、顔でも声でもなく、関係性で本物を見分けた」


「はい」


「カメ・レオンの偽装は破られた。だが、観測結果は有用だった」


 ゲル大佐は、わずかに奥歯を噛んだ。


 まただ。


 敗北を惜しまない。


 怪人の損失も、作戦施設の破壊も、表向きの成果も、首領Xにとっては本質ではない。


 彼が見ているのは、プリティミューの反応だけだ。


「次は、その関係性の中にある年齢を観測する」


「年齢、ですか」


「母が子となり、子が母の役割を背負う。その時、彼女は何を選ぶ」


 ゲル大佐は、すぐに返事ができなかった。


 首領Xの声は、いつも通り静かだった。


 だからこそ、余計に冷たい。


 人の親子関係を、実験装置の中の歯車のように語る。


 それが秘密結社の首領として当然なのかもしれない。


 だが、ゲル大佐は現場指揮官だった。


 彼は、怪人の失敗報告を受ける。


 戦闘員の負傷記録を見る。


 撤退経路を考える。


 市街地作戦後の後始末に頭を抱える。


 だから、数字や観測値の向こうにいる人間の重さを、完全には無視できない。


「朝倉かなえを、直接巻き込むのですか」


 42号が、横でかすかに息を止めた。


 ゲル大佐自身も、自分がその問いを口にしたことに少し驚いていた。


 首領Xは、間を置かなかった。


「彼女はすでに観測対象だ」


「……」


「プリティミューの戦闘出力は、友人救出時に上昇した。母親介入時の精神反応も、カメ・レオン作戦で一部取得済みだ」


「しかし」


「ゲル大佐」


 首領Xの声が、少しだけ硬くなる。


「観測を進めよ」


 逆らう余地はなかった。


 ゲル大佐は、背筋を伸ばす。


「はっ。作戦を継続します」


「よい」


 ミラクルハニーは、蜜杖を抱えてくるりと回った。


「ミラクルハニーに任せて。みんな甘く、かわいく、やわらかくしてあげるから」


「甘さは過剰にするな」


 ゲル大佐が釘を刺す。


「はぁい」


「本当にわかっているのか」


「わかってるよ。壊さない。戻せる範囲。観測優先。プリティミューは生け捕りじゃなくて反応を見る。朝倉かなえは重要対象。街の子どもたちは圧力対象。大人は退行対象」


 ミラクルハニーは指折り数えた。


 その内容は正確だった。


 正確だからこそ、不気味だった。


 42号がぼそっと言う。


「自分も、子どもの頃に戻りたい時あります」


 ゲル大佐は横目で見た。


「仕事中に童心へ帰るな」


「はい、大佐」


「そもそも、お前が子どもに戻ったら誰が資料を運ぶ」


「それは困りますね」


「私が困るのだ」


「大佐、やはり自分は必要な戦闘員ですか」


「資料運搬要員としてはな」


「戦闘は?」


「聞くな」


「はい」


 ミラクルハニーがころころ笑う。


「42号ちゃんも、蜜ちょっと舐める?」


「えっ」


「やめろ」


 ゲル大佐が即座に止めた。


「戦闘員に勝手な実験をするな」


「ちょっとだけだよ」


「そのちょっとだけが信用ならんと言っている!」


 42号は少し残念そうにした。


 ゲル大佐はそれを見て、さらに胃が痛くなった。


「残念そうにするな!」


「はい、大佐」


 その時、モニターの一つが切り替わった。


 ホウジュ区駅裏の映像。


 雨に濡れた通り。


 コブラカレーの看板。


 店先の防犯カメラらしき映像が、ノイズ混じりに映し出される。


 映像の中で、朝倉ミユが走り込んでくる。


 制服は濡れている。髪も乱れている。顔には焦りと恐怖が浮かんでいる。


 その腕の中に、小さな少女が抱かれていた。


 朝倉かなえ。


 幼若化した、母親。


 ミユは店内へ飛び込み、何か叫んでいる。音声は入っていない。だが、表情だけで必死さは伝わる。


 その後ろから、眼鏡の少女――メグと、小さな少年姿に縮退したワトソンが続く。


 ゲル大佐は目を細めた。


「もうコブラカレーに逃げ込んだか」


 42号が首を傾げる。


「大佐、やはりあのカレー屋に手を出さない方がいいのですか」


「出すな」


「なぜですか」


「面倒な老人がいる」


「老人というほどの年齢には見えませんが」


「見た目で判断するな。前回、それで何を学んだ」


「関係性です」


「なぜそうなる」


 ミラクルハニーは、モニターを覗き込みながら言った。


「あのカレー屋さん、辛そう」


「カレー屋だからな」


「甘い蜜と相性悪そう」


「だから近づくなと言っている」


「はぁい」


 首領Xの仮面アイコンが、映像の上に重なる。


 その声は、どこか満足げだった。


「良い反応だ」


 ゲル大佐は黙る。


「彼女はもう、自分を子どもだとは思えなくなっている」


 モニターの中で、ミユが小さなかなえを奥へ運んでいく。


 その姿は、娘というより、母を守ろうとする保護者のようだった。


 無理をしている。


 怖がっている。


 それでも動いている。


 ゲル大佐は、その映像から目を離せなかった。


「首領X」


「何だ」


「……プリティミューは、まだ高校生です」


 また、言ってしまった。


 42号が二度目の息を止める。


 ミラクルハニーの翅が、微かに震える。


 首領Xは、しばらく沈黙した。


 その沈黙は、叱責ではなかった。


 興味。


 観測。


 ゲル大佐の反応まで、何かのデータとして見ているような沈黙だった。


「だから観測に値する」


 首領Xは言った。


「大人でもなく、子どもでもない。役割だけが先に肥大していく。その時、彼女の中に何が残るか」


「……」


「進めよ、ゲル大佐」


「はっ」


 通信が切れた。


 会議室に照明が戻る。


 甘い匂いも戻る。


 それなのに、ゲル大佐の口の中には、胃薬よりも苦いものが残っていた。


 ミラクルハニーが、くるりと宙で一回転する。


「じゃあ、ミラクルハニー、そろそろ行ってくるね」


「待て」


 ゲル大佐は彼女を止めた。


「朝倉かなえを回収する場合、過度な負荷をかけるな」


「うん」


「メグという少女にも注意しろ。あれはただの追っかけではない」


「記録する子でしょ。知ってる」


「ワトソンのアバターも確認されている。見た目に惑わされるな」


「子猫ちゃんみたいでかわいかったね」


「かわいさで判断するな」


「それ、ミラクルハニーに言う?」


「貴様だから言っている」


 ミラクルハニーは頬を膨らませた。


「ゲルたん、ひどい」


「大佐と呼べ」


「ゲルたん大佐」


「混ぜるなと何度言えばわかる!」


 ミラクルハニーは笑いながら、扉の方へ向かった。


 その背中を見ながら、42号が小さく呟く。


「大佐」


「何だ」


「今回、プリティミューさんは怒りますかね」


「怒るだろうな」


「ですよね」


「あれは、友人と母親に関わると出力が上がる」


「それも観測済みですか」


「観測済みだ」


 ゲル大佐は、机の上の報告書に目を落とした。


 そこには、過去の戦闘データが並んでいる。


 蜘蛛男。

 蝙蝠伯爵。

 レイディスコーピオン。

 サラセニア・ルージュ。

 マンティスシザー。

 カメ・レオン。


 敗北した怪人たち。


 だが、首領Xはそれを敗北として扱っていない。


 すべてが、次の何かへ向けた観測値になっている。


 ゲル大佐は、机の引き出しを開けた。


 胃薬の予備瓶を確認する。


 一本。


 二本。


 三本。


「……足りるか?」


「大佐?」


「いや、何でもない」


 ミラクルハニーが扉の前で振り返った。


 蜂蜜みたいな笑顔で、彼女は言う。


「大丈夫だよ、ゲルたん」


「何がだ」


「子どもに戻った人は、みんな笑うから」


 ゲル大佐は何も答えなかった。


 ミラクルハニーは続ける。


「笑ってるなら、幸せでしょ?」


 その問いは、ひどく甘かった。


 甘すぎて、喉を焼くほどだった。


 扉が閉まる。


 会議室に、蜂蜜の匂いだけが残った。


 42号がぽつりと言った。


「大佐」


「何だ」


「笑っているから幸せ、とは限りませんよね」


 ゲル大佐は、しばらく黙っていた。


 やがて、低く答える。


「……任務中に哲学を始めるな」


「はい、大佐」


「だが」


 ゲル大佐は、モニターに映るコブラカレーの雨の映像を見た。


 そこにはもう、ミユたちの姿はない。


 ただ、濡れた看板と、店内から漏れる暖かな光だけが映っていた。


「その認識は、忘れるな」


 42号は一瞬だけ驚き、それから姿勢を正した。


「はい、大佐」


 ジョーカー帝都支部の奥で、次の作戦準備が進んでいく。


 蜜蜂の館から送られてくる年齢反応データ。

 街に散布されるロイヤルゼリー・シンドローム。

 小型蜜蜂ドローンの飛行経路。

 そして、朝倉ミユの生体反応予測。


 首領Xは、すべてを見ている。


 母が子となり、子が母の役割を背負う。


 その時、プリティミューは何を選ぶのか。


 甘い夜は、まだ終わらない。

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