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第2節 ― 小さくなった母さんと、甘すぎる夜

 小さくなったかなえは、ミユの制服の裾をぎゅっと握っていた。


 その手は、ミユが知っている母の手ではなかった。


 買い物袋を持って、包丁を握って、洗濯物を畳んで、寝坊したミユの布団を容赦なく剥がす、あの手ではない。


 小さい。


 指が細くて、爪も小さくて、力の入れ方も頼りない。


 それなのに、確かにかなえだった。


 ミユは、その事実だけで頭がいっぱいになっていた。


「ミユ」


 小さなかなえが、不安そうに名前を呼ぶ。


「ここ、どこ?」


「ママ、それ私が聞きたい」


 口から出た声が、思ったより震えていた。


 かなえはサロンのタオル地のケープに包まれていた。蜂蜜色のロゴが入ったそのケープは、小さくなった身体にはあまりにも大きく、肩からずり落ちかけている。裸足ではないが、履いている白いスリッパもぶかぶかで、歩けばすぐ脱げそうだった。


 頬は赤い。目は潤んでいる。髪は、母がいつも自分でまとめている時とは違い、ふわふわと肩に落ちていた。


 写真で見た、子どもの頃の母。


 それが、目の前でミユを見上げている。


「寒い」


 かなえが小さく言った。


 その一言で、ミユの中の何かが切り替わった。


 怖いとか、わけがわからないとか、どうしてとか、そういう言葉が一瞬だけ遠くなる。


 今、目の前の母が寒がっている。


 なら、まずは温める。


 ミユは自分のブレザーを脱ぎ、かなえの肩にかけた。


「今すぐ帰る!」


「帰る……?」


「うん。帰る。とりあえずここから出る。ママ、歩ける?」


 かなえは少し考え、それから自信なさそうに頷いた。


「たぶん」


「たぶんは怖いな……」


 ミユはしゃがみ込み、かなえの顔を覗き込んだ。


「抱っこする?」


 言った瞬間、自分で自分の言葉に固まる。


 母に、抱っこするかと聞いている。


 状況が異常すぎて、脳が追いつかない。


 かなえは、少し迷ったあと、こくんと頷いた。


「……する」


 ミユは一度、目を閉じた。


「オッケー。うん。オッケー。娘、がんばります」


「むすめ?」


「そう。私、娘」


「ミユは、ミユでしょ」


「それはそうなんだけど、今そういう話をすると私の心がもたない」


 ミユはかなえをそっと抱き上げた。


 軽かった。


 ぞっとするくらい、軽かった。


 普段のかなえは、別に大柄な人ではない。けれど、母という存在は、ミユにとってずっと自分より大きかった。背丈がどうとか、体重がどうとか、そういう話ではない。


 家に帰ればそこにいて、ごはんを作って、文句を言って、寝不足を見抜いて、危ないことをしているかもしれない娘を問い詰めずに待ってくれる。


 その大きさが、今、腕の中に収まっている。


 ミユは奥歯を噛んだ。


「メグちゃん、出口」


「はい。裏口まで戻ります。ただ、通路にスタッフが増えています」


 メグはスマホを握り、画面を見ようとして、顔をしかめた。


「通信がまだ安定しません。内部マップも取れません」


「じゃあ勘?」


「先輩の勘は危険です」


「そこは励まして!」


「でも、今は先輩の勘に頼ります」


「急に責任が重い!」


 その時だった。


 個室ブースの奥で、小さな音がした。


 ガラスが震えるような、電子音の乱れ。


 続いて、何かが床に落ちる音。


「ミユさん」


 聞き慣れた声がした。


 ただし、いつもの落ち着いた声より、少し高い。


 ミユは振り返った。


 個室の影から、小さな少年が出てきた。


 黒髪。整った顔立ち。白いシャツに黒いジャケット。そこまでは、さっき入口で見た青年アバターのワトソンと同じだった。


 違うのは、身長だった。


 ミユの腰くらいまでしかない。


 しかも、頭にはぴんと立った猫耳のような黒い突起があり、背後には細い尻尾のようなノイズが、映像の乱れみたいに揺れていた。


 少年は、非常に真面目な顔で言った。


「状況を説明します」


 ミユは叫んだ。


「その姿で冷静に説明されても困る!」


 ワトソンは一瞬だけ沈黙した。


 それから、自分の両手を見下ろし、耳のような突起に触れた。


「人間アバターの出力が、外部干渉により縮退しています」


「縮退」


「簡単に言うと、バグりました」


「最初からそう言って!」


 かなえが、ミユの腕の中からワトソンを見た。


「ねこ?」


「いいえ。猫型AIです」


「ねこだ」


「分類上は、かなり近いです」


「ワトソン君、今そこ張り合うところじゃない!」


 ワトソンは小さく咳払いをした。


 いや、咳払いのような音を鳴らした。


「ミユさん。まず、私がかなえさんと同行していた理由ですが」


「うん。そこ。すごく気になってる」


「第七話の事件以降、かなえさんがジョーカーの観測対象となる可能性が上昇しました。そのため、アインさんの指示で、私の人間アバターを用いた周辺警戒を実施していました」


「護衛してたってこと?」


「はい」


「だったら言ってよ!」


「ミユさんに知らせると、かなえさんへの態度が不自然になる可能性がありました」


「もうなってるよ! だいぶ前から!」


「それは否定しません」


「否定して!」


 言い合いながらも、ミユは胸の奥で少しだけ安堵していた。


 ワトソンが母と一緒にいた理由は、怪しいものではなかった。


 けれど、その安堵はすぐに別の重さに変わる。


 護衛が必要だった。


 母は、本当に狙われていた。


 かなえはミユの腕の中で、ワトソンとミユを交互に見ていた。


「ミユ、この子だれ?」


「ええと……友達」


 言ってから、ミユは自分で少し驚いた。


 ワトソンはAIだ。猫型サポートAIだ。時々少年アバターになったり、今は謎の子猫耳少年になったりしているが、少なくとも普通の友達ではない。


 けれど、他に説明のしようがなかった。


 ワトソンは静かに目を伏せた。


「友達認定、記録しました」


「今記録しないで」


「重要です」


「照れるからやめて!」


 メグが低い声で言った。


「先輩、移動しましょう。足音が近づいています」


 廊下の向こうから、揃った靴音が聞こえてきた。


 カツ、カツ、カツ。


 一定すぎるリズム。


 人間が歩いているというより、何かの機械が、笑顔を貼りつけて進んでくるような音。


 ワトソンが壁際に移動し、小さな指で空中に画面を表示した。映像は乱れていたが、廊下の熱源らしきものがいくつも近づいているのが見える。


「ハニーワーカー、五体接近」


「やっぱり正式名称それなんだ」


「施設内通信で確認しました」


「敵がちゃんと名乗ってるの助かるけど腹立つ!」


 かなえがミユの袖を掴んだ。


「こわい」


 その言葉は、ミユの胸にまっすぐ刺さった。


 母が、怖いと言っている。


 普段なら、ミユが怖いと言えば、かなえは「大丈夫」と言う側だった。怖い夢を見た夜も、熱を出した朝も、学校に行きたくない日も、いつだって母は大人の顔をしていた。


 でも今、かなえは小さな子どもの顔で、ミユにしがみついている。


 ミユは、自分の声が震えないように息を吸った。


「大丈夫。私がいる」


 言ってから、また胸が痛くなる。


 それは、かなえがいつもミユにくれていた言葉だった。


 自分がそれを返す日が来るとは、思っていなかった。


 廊下の角から、ハニーワーカーたちが姿を現した。


 白と金の制服。完璧な笑顔。頭の触角型カチューシャ。背中の半透明の羽。


 だが、近くで見ると、その笑顔は明らかに人間のものではなかった。口角が上がりすぎている。まばたきが少ない。肌の下で、うっすらと黒と金の縞模様が蠢いている。


「お客様」


 先頭のハニーワーカーが、柔らかい声で言った。


「施術はまだ完了しておりません」


「完了しなくていい!」


「お連れ様を、リカバリールームへお戻しください」


「戻すわけないでしょ!」


「大人を休ませることは、悪いことではありません」


 ハニーワーカーたちが一歩ずつ近づいてくる。


 その声は優しい。


 優しいから、気持ち悪い。


「かなえ様は、お疲れでした」

「守る役目から解放されたいと、深層反応が示しています」

「もう少し、お休みいただくだけです」


 ミユの足が止まりそうになった。


 お疲れでした。


 守る役目から解放されたい。


 その言葉が、妙に現実味を持って聞こえてしまったからだ。


 かなえはいつも元気そうに見えていた。


 でも、それは「そう見せていた」だけかもしれない。


 ミユは、そのことを考えたくなかった。


 考えたら、自分が今までどれだけ母に甘えていたのか、見えてしまう気がした。


「疲れてたら」


 ミユは言った。


「家で寝ればいいでしょ」


 声が震えた。


 けれど、言葉は出た。


「変な蜜で小さくされて、知らない部屋に戻されるのは休むって言わない!」


 ハニーワーカーの笑顔が、ほんの少しだけ固まった。


 メグが横から低く言う。


「先輩、右の非常扉。電子ロックはありますが、旧式です」


「開けられる?」


「十秒ください」


「三秒で!」


「無茶です」


「じゃあ五秒!」


「努力します」


 メグが端末を取り出す。


 その瞬間、ハニーワーカーの一体が腕を伸ばした。白い手袋の指先から、蜜のような金色の糸が噴き出す。


 ミユはかなえを抱えたまま横へ飛んだ。


 金色の糸が壁に張りつき、じゅっと甘い匂いを立てる。


「うわ、粘る!」


「拘束用の蜜糸です」


 ワトソンが言う。


「粘着性、揮発性、軽度の神経弛緩作用を確認」


「説明はありがたいけど、今それ聞いても避けるしかない!」


 ミユは走った。


 かなえを抱えたまま、狭い通路を駆け抜ける。


 普段なら、変身してハンマーを振り回せばいい。ピンクと白の装甲をまとい、科学少女プリティミューとして戦えばいい。


 でも、今はできない。


 かなえが腕の中にいる。

 メグがすぐ後ろにいる。

 ワトソンも小型アバターで出力が不安定。


 しかも、この施設内には普通の客もいる。


 ここで変身すれば、母の前で正体を晒す可能性がある。

 それ以前に、変身の光でかなえを落としてしまうかもしれない。


 だから、走るしかない。


 ただの朝倉ミユとして。


「ミユ、痛い」


 かなえが小さく言った。


 ミユは腕の力を少し緩めた。


「ごめん。ちょっとだけ我慢して」


「どこ行くの?」


「安全なところ」


「おうち?」


「うん。最終的にはおうち」


「ミユも帰る?」


 その問いに、ミユは一瞬詰まった。


 帰る。


 帰りたい。


 でも、自分だけ帰れば終わりじゃない。


 この店の中には、まだ他にもおかしくなっている人がいる。駅裏にも、これから被害が広がるかもしれない。ジョーカーが母を狙ったなら、これで終わるはずがない。


 ミユは、かなえの顔を見られなかった。


「帰るよ」


 嘘ではない。


 ただ、すぐには帰れないかもしれないだけだ。


 非常扉の前で、メグが端末を操作していた。


「開きます!」


 電子音が鳴り、扉のロックが外れる。


 ミユは扉を肩で押し開けた。


 冷たい空気が流れ込んでくる。


 外だった。


 裏口の搬入スペース。


 空はすっかり暗くなっている。ついさっきまで夕暮れだったはずなのに、駅裏のビルの隙間には黒い夜が落ちていた。


 そして、雨が降っていた。


 細かい雨だった。


 けれど、街灯の光の中では銀色の線のように見え、地面の白い舗装を静かに濡らしている。


 ミユは雨の中へ飛び出した。


「冷たっ!」


 かなえが首をすくめる。


「寒い」


「ごめん、すぐどこか入る!」


 背後で羽音がした。


 ハニーワーカーたちが追ってくる。背中の半透明の羽が震え、床から少し浮かび上がる。


 しかし、雨粒が羽に当たった瞬間、その動きが鈍った。


 羽の表面に水滴が張りつき、震えが乱れる。


 一体がバランスを崩し、搬入口の段差に足を取られた。


「雨、効いてる!」


 ミユは叫んだ。


 ワトソンが、雨に濡れながらも平然と答える。


「蜂型飛行ユニットは水分付着により揚力が低下しています」


「つまり?」


「雨で飛びにくいです」


「最初からそう言って!」


 さらに、空中から小さな蜂型ドローンが数機飛び出してきた。金色の胴体、黒い縞、赤い小さなレンズ。


 だが、それらも雨に当たると羽音が乱れた。ふらふらと軌道が揺れ、街灯にぶつかりそうになる。


 メグが走りながら言う。


「先輩、駅前方面は人が多いです。裏通りを抜けましょう!」


「どこに?」


「一番近くて、事情を聞かずに入れてくれそうな場所です!」


「そんな都合のいい場所ある!?」


「あります!」


 メグが指差した先に、赤と黄色の看板が見えた。


 コブラカレー。


 ミユは思わず言った。


「あった!」


 ホウジュ区駅裏の角地にある小さなカレー屋は、夜の雨の中でも妙に存在感があった。店先の庇から雨粒が落ち、スパイスの匂いが湿った空気に混じっている。


 ガラス戸の向こうでは、店主のコブラが鍋をかき混ぜていた。


 ミユは戸を開ける勢いのまま店内に飛び込んだ。


「おじさん!」


 コブラは驚きもしなかった。


 鍋をかき混ぜる手を止めず、ちらりとミユを見る。


 次に、ミユの腕の中の小さなかなえを見る。


 さらに、濡れたメグ、小さなワトソン、外で羽音を乱しているハニーワーカーの影を見る。


 それから、静かに言った。


「ずいぶん小さい客だな」


「ママです」


 コブラは一拍置いた。


「……最近の家庭は複雑だな」


「そういう話じゃない!」


「だろうな」


 コブラはカウンター奥の暖簾を顎で示した。


「奥、使え」


「いいの?」


「いいから入れ。店先で蜂を増やすな」


「蜂ってわかってるじゃん!」


「カレー屋はな、虫の侵入に敏感なんだよ」


「その言い訳、今回は無理あるよ!」


 それでも、ミユは奥へ入った。


 店の奥には小さな休憩スペースがあった。座布団と古いローテーブル、棚にはスパイスの缶や段ボールが積まれている。決して広くはないが、外の雨と甘い匂いから逃れられるだけで、ミユには安全地帯のように感じられた。


 かなえを座布団に下ろすと、彼女はミユのブレザーにくるまったまま、きょろきょろと周囲を見回した。


「ここ、どこ?」


「カレー屋さん」


「カレー……」


「お腹すいた?」


 かなえは、少し考えてから、小さく頷いた。


 その仕草が、あまりにも子どもで。


 ミユは泣きそうになった。


 母がお腹を空かせている。


 当たり前のことなのに、今の状況では、胸が締めつけられるほど重い。


 コブラが暖簾をくぐって入ってきた。


 手には小さな器がある。


「辛くないスープだ。飲ませろ」


「ありがとう」


「礼は後でいい。嬢ちゃんたちは、まず息を整えろ」


 コブラはかなえの前に器を置いた。


 湯気が立っている。カレーの匂いというより、野菜と鶏のだしに、ほんの少しだけスパイスを落としたような優しい香りだった。


 かなえは両手で器を持とうとして、熱さに少しびくっとした。


 ミユが慌てて支える。


「熱いからゆっくり」


「うん」


 かなえは、ふうふうと息を吹きかけてから、少しだけスープを飲んだ。


 その顔が、ほっと緩む。


「おいしい」


「そうか」


 コブラは短く答えた。


 だが、その目はいつもの軽いものではなかった。


 小さなかなえを見る目に、何か知っている者の影がある。


 ミユはそれに気づいた。


「おじさん」


「何だ」


「これ、何かわかるの?」


「蜂蜜だろ」


「それは私でもわかる」


「なら充分だ」


「絶対何か知ってるでしょ」


 コブラは答えず、ミユの濡れた髪を見た。


「タオル取ってくる。風邪ひくぞ」


「話そらした!」


「風邪はそらせねえ」


「そういう言い方ずるい!」


 コブラは奥の棚からタオルを取り、ミユとメグに投げた。ワトソンにも投げようとして、少し迷う。


 ワトソンは小さな少年姿のまま、丁寧に頭を下げた。


「私は外部出力体なので、物理的な保温は不要です」


「そうか」


 コブラは平然と返した。


 ミユは目を細める。


「おじさん、今の説明に驚かないの?」


「最近は、いろんな客が来る」


「便利すぎる、その理屈」


 かなえはスープを半分ほど飲むと、急に眠そうに目をこすった。


「眠い」


「うん。寝ていいよ」


「ミユは?」


「ここにいる」


「どっか行かない?」


 ミユは言葉に詰まった。


 かなえの目が不安そうに揺れている。


 さっきの問いと同じだ。


 ミユも帰る?


 どこか行かない?


 危ないことしない?


 それは幼くなったかなえの言葉でありながら、いつもの母の言葉でもあった。


 ミユは、かなえの髪をそっと撫でた。


 普段なら絶対にやらない。


 やったら母に笑われる。

 「何、急に」と言われる。

 でも今は、小さなかなえが目を細めて、それを受け入れた。


「ちょっとだけ、ここにいる」


「ちょっとだけ?」


「うん」


「すぐ帰ってくる?」


 ミユは息を吸った。


「帰ってくる」


 今度は、できるだけはっきり言った。


「絶対、帰ってくる」


 かなえは安心したように目を閉じた。


 スープの温かさと、走り回った疲れと、身体が幼くなった不安定さが一気に出たのだろう。ミユのブレザーにくるまったまま、かなえはゆっくり眠りに落ちていった。


 寝息は小さい。


 ミユは、その寝顔を見つめた。


 母にも、こんな顔をして眠る時代があったのだ。


 守られる側だった頃があったのだ。


 自分は、それを知らなかった。


 知ろうともしていなかった。


「疲れてたのかな」


 ミユは小さく言った。


 誰に向けた言葉でもなかった。


 けれど、ワトソンが答えた。


「その可能性は高いです」


 ミユは振り返る。


 ワトソンは、まだ小さな少年姿のまま、淡々と立っていた。猫耳のような出力ノイズが、時々ぴくりと揺れる。


「かなえさんは、蜜蜂の館の招待券を自分の意思で使用しました。強制誘導の痕跡は、現時点では確認できません」


「自分で……」


「はい」


「ママが、休みたかったってこと?」


「疲れていたのだと思われます」


 ミユは、視線を落とした。


 胸の奥に、じわりと苦いものが広がる。


 母は、いつも自分を心配してくれていた。


 ごはんを食べろ。

 寝ろ。

 帰ってこい。

 危ないことをするな。


 その言葉を、ミユは少しうるさいと思っていた。


 でも、かなえがそれを言う側であり続けることに、どれだけ体力を使っていたのか。どれだけ不安を飲み込んでいたのか。どれだけ、ひとりで大人の顔をしていたのか。


 ミユは考えていなかった。


「私、全然見てなかった」


「ミユさん」


「ママのこと。見られてるって思ってたけど、私、ママのこと見てなかった」


 メグが、何か言いかけて、やめた。


 その沈黙がありがたかった。


 慰められたら、たぶん泣いていた。


 泣いている場合ではないのに。


 店の外で、羽音が遠ざかっていく。


 ハニーワーカーたちは、雨とコブラカレーの店先に入りづらい何かのせいで、直接追ってはこなかったらしい。


 しかし、安心はできなかった。


 ミユのスマホが震えた。


 画面には、メグからの着信表示。


 目の前にいるメグが、同時に自分の端末を見た。


「私から?」


「え、怖」


 メグはすぐに首を振った。


「違います。怪人事件ログ用の自動転送です。外部協力者からの投稿が、私の端末経由で先輩にも飛んでいます」


「ややこしい!」


 メグは自分の端末を操作し、顔を険しくした。


「先輩」


「何?」


「駅裏一帯で、同じような被害が広がっています」


 ミユはスマホを覗き込んだ。


 そこには、短い投稿がいくつも並んでいた。


《父が突然子どもみたいになった》

《会社員の人たちが迷子になってる》

《駅前で小さい子が大人のスーツ着て泣いてる》

《お母さんが私のことわからないって言う》

《弟が、お母さんを連れて帰らなきゃって泣いてる》

《警察も救急も混乱してる》

《蜂みたいなドローンを見た》


 胸が冷たくなる。


 かなえだけではなかった。


 この街のあちこちで、大人が子ども化している。


 そして、その横で、本物の子どもたちが立ち尽くしている。


 ミユよりもっと小さい子。

 中学生。

 高校生。

 自分の親を抱えて、どうしていいかわからない子。


 メグが、静かに言った。


「先輩、これ、ただの若返り事件じゃありません」


 ミユは画面から目を離せなかった。


 メグの声は、いつもより硬い。


「子どもが、大人の代わりをさせられています」


 ミユは、眠っている小さなかなえを見た。


 自分のブレザーに包まれ、安心したように眠る母。


 守られる側になった母。


 守る側に立たされた自分。


 そして、街のどこかで、同じように立たされている子どもたち。


 ミユは拳を握った。


 怖い。


 正直、怖い。


 母を置いて行きたくない。


 でも、母だけを抱えて隠れていれば、それでいいのか。


 ミユは唇を噛み、低くつぶやいた。


「……最悪じゃん」


 コブラが、暖簾の向こうから言った。


「最悪な日は、腹に何か入れてから動け」


「今そういう場合じゃ」


「そういう場合ほどだ」


 ミユは反論しようとして、やめた。


 たぶん、この大人は何か知っている。


 でも、今すぐ全部を話す気はない。


 ミユは小さく息を吐いた。


「メグちゃん」


「はい」


「外の状況、整理して。ワトソン君、アインに連絡取れる?」


「通信阻害の外に出れば可能です」


「じゃあ、ここを拠点にする。ママは……」


 ミユは言葉を切った。


 眠るかなえを見る。


 置いていくと言いたくなかった。


 けれど、連れていくわけにはいかない。


 コブラが、鍋をかき混ぜながら言った。


「奥で寝かせとけ。見といてやる」


 ミユはコブラを見る。


「いいの?」


「小さい客を雨の中に出す趣味はねえ」


「おじさん」


「ただし、カレー屋は託児所じゃねえ。早く片づけてこい」


 ミユは少しだけ笑った。


「言い方が雑だけど、ありがとう」


「礼はカレー食ってから言え」


「商売上手!」


 ミユはもう一度、かなえの髪に触れた。


 小さな寝息。


 小さな手。


 ミユのブレザーを握ったまま眠る母。


「すぐ戻る」


 今度は、かなえに聞こえなくてもいい。


 自分に言い聞かせるために、言った。


「絶対、戻るから」


 外ではまだ、甘すぎる夜の雨が降っていた。

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