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第1節 ― 金曜の夜、ママとワトソンと蜜蜂の館

【今週の怪人紹介コーナー】

挿絵(By みてみん)

 朝倉ミユは、最近、母の視線が痛い。


 怒られているわけではない。


 問い詰められているわけでもない。


 むしろ、かなえはあの体育館の一件以来、以前よりも少しだけ静かになった。静かになったと言っても、食卓での小言が消えたわけではないし、朝にカーテンを勢いよく開ける習慣がなくなったわけでもない。


 ただ、見ている。


 ミユの顔色を。


 制服の袖口を。


 帰宅した時の靴の汚れを。


 食事中、箸を持つ右手が少し震えた時の、その指先を。


「ミユ」


 金曜の朝も、味噌汁の湯気の向こうから、かなえの声がした。


「最近、ちゃんと寝てる?」


 ミユは、焼き魚の身をほぐしながら、できるだけ普通の顔を作った。


「寝てるよ」


「何時間?」


「……体感では七時間」


「実時間で言いなさい」


「四時間半」


「寝てないじゃない」


「現代高校生としては寝てる部類!」


「その現代高校生、基準がおかしいわよ」


 かなえは眉を寄せる。


 いつもの会話だ。


 いつもの朝のはずだ。


 けれど、ミユにはその奥に別の問いが隠れているように聞こえてしまう。


 あなた、何をしているの。


 どこで、何に巻き込まれているの。


 あの日、体育館で見たものは、何だったの。


 プリティミューは、あなたなの。


 かなえは、それを聞かない。


 聞かないでくれている。


 だからこそ、ミユは苦しかった。


「ごはんは?」


「食べてる」


「昨日の夜、半分残した」


「あれは、筋肉痛で箸を動かすのもしんどかっただけで」


「普通の高校生は、筋肉痛で夕飯を残すほど戦わないわよ」


 ミユの箸が止まった。


 かなえは、湯飲みを持ったまま、何でもないような顔をしている。


 言葉だけ聞けば、いつもの冗談だ。


 でも、そこには確かに何かがある。


 ミユは慌てて魚の身を口に入れた。


「部活してないのに筋肉痛になるタイプの人間もいるんだよ。省エネ体質っていうか、運動不足っていうか」


「自慢にならないわよ」


「してない!」


 かなえは、小さく息を吐いた。


 それから、いつもの調子より少し柔らかい声で言う。


「学校で何かあった?」


 ミユは、飲み込みかけた魚を喉に詰まらせそうになった。


「が、学校?」


「そう」


「学校は……まあ、普通」


「普通?」


「普通に、怪人が出たり、出なかったり」


「ミユ」


「出てない! 今のは言葉のあや!」


 かなえはじっとミユを見た。


 朝の食卓に、沈黙が落ちる。


 冷蔵庫の低い音と、時計の針の音だけが聞こえる。


 ミユは、箸を置きたくなった。


 置いたら、何かを白状する流れになりそうで、置けなかった。


 かなえは、しばらくしてから言った。


「……ちゃんと帰ってきなさいね」


 それは、前にも言われた言葉だった。


 体育館の事件のあと。


 母は、見ていたけれど聞かないでおく、と言った。


 危ないことをしているなら、せめてちゃんと帰ってきなさい、と。


 ミユは、味噌汁の椀を両手で包んだ。


「うん」


「返事が軽い」


「ちゃんと努力します」


「努力じゃ足りない時もあるのよ」


「現実が厳しい」


「現実だから」


 かなえはそう言って、立ち上がった。


「今日、帰り少し遅くなるかもしれないから」


「え?」


 ミユは顔を上げた。


「なんで?」


「駅裏に新しくできたラウンジの招待券をもらったの。疲労チェックとリフレッシュ体験ができるんだって」


 ミユの眉が、自然と寄った。


「ラウンジ?」


「そう。ほら、最近よく広告が出てるでしょ。蜂蜜美容の」


「蜂蜜美容……?」


 すでに怪しい。


 名前の時点で、ミユの中の怪人警報が小さく鳴った。


「ママ、そういうの興味あったっけ?」


「興味っていうか、無料券だから」


「無料が一番怖いんだけど」


「ミユに言われたくないわね。あなたも高額バイトに引っかかったんでしょ」


「うっ」


 言い返せない。


 高額バイトに釣られて、アイン科学研究所へ行き、科学少女プリティミューになったのは事実だ。


 かなえは、少しだけ笑った。


「大丈夫よ。変なところだったらすぐ帰るから」


「その変なところ判定、ママだと人助けで突破されるから信用できない」


「何それ」


「前科あるでしょ。マンティスさんとか」


「あれは……」


 かなえは少し気まずそうに目を逸らした。


 ミユも、口を閉じる。


 あの時も、母は困っているように見えた怪人を家に入れた。


 優しさだった。


 でも、その優しさを利用された。


 ミユは、胸の奥が小さくざらつくのを感じた。


「……気をつけてよ」


「うん。ミユもね」


 どちらがどちらを心配しているのか、わからない会話だった。


 放課後。


 宝珠南高校の校門を出る頃には、空はもう薄く金色に染まり始めていた。


 冬に近づく夕方は早い。校舎の影がグラウンドへ長く伸び、部活動の声もどこか遠く聞こえる。


 ミユは肩に鞄をかけ、隣を歩くメグに今日の朝のことを話していた。


「で、ママが蜂蜜美容のラウンジに行くって言うんだよ」


「蜂蜜美容ですか」


 メグは即座にスマホを取り出した。


「ちょっと待ってください。今、怪人事件ログ側でも検索します」


「怪人事件ログって、もう検索エンジンなの?」


「先輩が毎回巻き込まれるので、検索性は大事です」


「私のせいみたいに言わないで」


「だいたい先輩の周囲で起きています」


「否定できないのが腹立つ!」


 メグは画面を操作しながら、眉を寄せた。


「ありますね。《蜜蜂の館 ハニーフルネス・ラウンジ》」


「名前がもう百点満点で怪しい」


「ホウジュ区駅裏の再開発エリアに今週オープンしたばかりです。蜂蜜美容、ロイヤルゼリー体験、若見え肌診断、親子リフレッシュコース、大人のための休息プログラム……」


「単語が全部だめ!」


「口コミは妙に好評です」


「妙に?」


「はい。文章が似ています」


 メグは画面をミユに見せる。


《入った瞬間、疲れが消えました》

《もう頑張らなくていい気がしました》

《子どもの頃に戻ったみたい》

《大人のためのご褒美空間》

《また行きたい。ずっといたい》


 ミユは顔をしかめた。


「ずっといたいは、もう帰ってこない人の前振りじゃん」


「まだ失踪報告は出ていません。ただ、駅裏周辺で“帰宅が遅れている大人が多い”という投稿はあります」


「それ、だいぶ失踪の手前じゃない?」


「手前です」


 メグは真顔でうなずく。


「先輩、お母さまに連絡を」


「する」


 ミユはすぐにスマホを取り出し、かなえへメッセージを打った。


《ママ、今日行くラウンジって本当に大丈夫?》

《変なところだったらすぐ帰ってね》

《できれば場所送って》


 送信。


 すぐ既読はつかない。


 胸のあたりが、嫌な感じにざわついた。


 メグが言う。


「私も駅裏まで一緒に行きます」


「いや、メグちゃんは今日は帰っていいよ。最近巻き込みすぎてるし」


「それを言うなら、先輩も帰った方がいいです」


「私は娘だから」


「では、私は情報支援担当なので」


「その役職、いつ正式採用されたの?」


「自薦です」


「強い」


 いつものやりとりなのに、ミユは少しだけ救われた気がした。


 ただ心配するだけだと、足がすくむ。


 でも、メグが隣で情報を並べてくれると、少なくとも何を怖がればいいのかがわかる。


 怖さに名前がつく。


 それは、案外大事なことだった。


 駅裏の再開発エリアは、ミユが子どもの頃に知っていた駅裏とはずいぶん変わっていた。


 古い雑居ビルが取り壊され、ガラス張りの低層施設や、白い舗装の歩道、植栽のある広場が整備されている。まだ工事中の区画も多く、仮囲いの白い壁には、未来の街を描いたイメージパースが貼られていた。


 その中で、一つだけ妙に明るい建物がある。


 夕暮れの街に、蜂蜜色の光を放つ店。


 丸みのあるガラス扉。

 金色と白を基調にした看板。

 蜂の羽を思わせる半透明の装飾。

 入口には、花と蜂蜜瓶を模したネオンが輝いている。


 看板には、やわらかな書体でこう書かれていた。


《蜜蜂の館 ハニーフルネス・ラウンジ》


 そして、その下。


《もう一度、何者でもなかった頃へ》


 ミユは立ち止まった。


「……やばい」


「やばいですね」


「怪しさを隠す気がない」


「むしろ、安心感のある怪しさです」


「それ私の言い回し取らないで」


 ガラス扉の横には、いくつもの広告パネルが並んでいる。


《大人のための休息プログラム》

《若見え肌診断》

《親子リセット体験》

《頑張りすぎたあなたへ、奇跡のロイヤルゼリー》

《もう一度、守られる時間を》


 ミユは最後の一文を見て、少しだけ胸が痛んだ。


 もう一度、守られる時間。


 それは、かなえが欲しがりそうな言葉ではないと思っていた。


 母はいつも守る側だった。


 ごはんを作る側。

 起こす側。

 心配する側。

 ミユが変な言い訳をした時に見抜く側。


 でも。


 朝、かなえは言っていた。


 無料券だから、と。


 本当にそれだけだったのか。


 ミユは、自分が母の疲れにどれくらい気づいていたのか、急にわからなくなった。


「先輩」


 メグが、小声で呼ぶ。


「お母さまです」


 ミユは顔を上げた。


 蜜蜂の館の入口に、かなえがいた。


 普段より少しきれいめのコートを着て、鞄を肩にかけている。仕事帰りなのか、髪はきちんとまとめられていたが、表情には少し疲れがある。


 そして、その隣に。


 黒髪の青年が立っていた。


 すらりとした体格。

 落ち着いた表情。

 白いシャツに、シンプルな黒いジャケット。

 人間離れした整った顔立ち。


 ミユは、二秒ほど思考が止まった。


 それから、三秒目に叫びかけた。


「なんでママとワトソン君が一緒にいるの!?」


 メグが即座にミユの口を塞ぐ。


「先輩、声が大きいです」


「だって! え、待って、ワトソン君だよね? 猫型AIだよね? でも今は見た目だけなら普通に若い男だし、ママと二人でラウンジに入ろうとしてるんだけど!?」


「説明できる状況ではあります」


「説明されても嫌な状況!」


 青年――人間アバター姿のワトソンは、かなえに何かを説明しているようだった。距離は近すぎない。態度も丁寧だ。怪しい雰囲気はない。


 ないのだが、ミユの感情としては非常に落ち着かない。


「ワトソン、何してるの……?」


 通信で呼ぼうとして、ミユは気づいた。


 普段なら、耳元の小型通信からすぐワトソンの声が返ってくる。だが今は、反応がない。


 アバター運用中だからか。

 それとも、施設の近くで通信が阻害されているのか。


 かなえが、ワトソンと一緒に店内へ入っていく。


 黄金色の自動扉が、静かに閉じた。


 ミユはメグを見た。


 メグもミユを見た。


「行くよ」


「行きましょう」


 意見は一致した。


 正面から入るのは危険だ。


 ミユとメグは、建物の周囲を回り込んだ。再開発エリアの建物らしく、裏側には搬入口がある。スタッフ用の通用口、換気設備、荷物搬入用のシャッター。


 甘い匂いがした。


 蜂蜜の匂い。


 ただし、普通の蜂蜜よりも濃い。花の香りと、砂糖を焦がしたような匂いと、どこか薬品めいた冷たさが混じっている。


 ミユは鼻を押さえた。


「甘っ……」


「マスクを」


 メグは鞄から予備のマスクを取り出し、ミユに渡した。


「準備いいね」


「第4話のサラセニア・ルージュ以降、香気系怪人対策は常備しています」


「ありがたいけど、女子高生の備えじゃない」


「先輩も持ってください」


「はい……」


 搬入口の扉は、完全には閉まっていなかった。


 隙間から、金色の照明が漏れている。


 ミユはそっと扉に手をかけた。


「開いてる」


「罠かもしれません」


「だよね」


「でも、お母さまが中にいます」


「そうなんだよね」


 ミユは小さく息を吐いた。


「ほんと、毎回こういう扉を開けることになる」


「開けますか?」


「開ける」


 扉が、音もなく開いた。


 中は、予想よりずっと明るかった。


 裏口から入ったにもかかわらず、通路は清潔で、白と蜂蜜色の照明に照らされている。壁には小さな蜂のアイコンが並び、床には六角形のタイル模様が続いていた。


 奥から、やわらかな音楽が流れてくる。


 オルゴールほど不気味ではない。

 サロンで流れているヒーリング音楽のような、耳障りのいい音。


 だが、ミユはそれが逆に怖かった。


 怖いものが怖い顔をしている方が、まだ安心できる。


 こういう、優しい顔をした罠が一番厄介だ。


 通路の先には、ガラス越しに店内の様子が見えた。


 個室ブースでは、大人たちが蜂蜜美容の施術を受けている。頬に金色のクリームを塗られ、温かいタオルをかけられ、椅子に深く沈み込んでいる。


 みんな、幸せそうに笑っていた。


 けれど。


 その笑顔が、どこか幼い。


 会社帰りらしい女性が、ぬいぐるみを抱くようにクッションを抱えている。

 スーツ姿の男性が、スタッフに頭を撫でられて、安心したように目を細めている。

 年配の女性が、「もう少しここにいたい」と子どものような声で言っている。


 ミユは、背筋が寒くなった。


「メグちゃん」


「はい」


「これ、普通のリラックスじゃないよね」


「はい。表情筋の緩み方と発話内容が、年齢退行に近いです」


「言葉が怖い」


「まだ確定ではありません。でも、危険です」


 その時、白と金の制服を着たスタッフが通路の奥を横切った。


 顔には完璧な笑顔。

 頭には小さな蜂の触角を模したカチューシャ。

 背中には飾りのような半透明の羽。


 一見すれば、イベントスタッフかコンセプトカフェの店員。


 しかし、動きが揃いすぎている。


 人間らしい無駄がない。


 ミユは小声で言った。


「ハニーワーカーって感じ」


「名前をつけるのが早いです」


「怪人側がつけてそうな名前じゃない?」


「否定できません」


 スタッフたちは、台車で小瓶を運んでいた。


 黄金色の液体が入った瓶。


 ラベルには、英字でこう書かれている。


《Miracle Honey》


 その下には、小さく日本語。


《大人を少し休ませる、奇跡のロイヤルゼリー》


 ミユは思わずつぶやいた。


「この商品名で怪人じゃなかったら逆にびっくりだよ……」


 メグがスマホで撮影しようとした瞬間、画面が乱れた。


「あれ?」


「どうしたの?」


「カメラが起動しません。通信も不安定です」


「ワトソンと連絡取れないのもそれか」


「施設全体に通信阻害があります。内部記録を残しにくくしている可能性があります」


「本当に嫌な店!」


 奥の方で、エレベーターの音がした。


 スタッフたちが瓶の台車を押して、地下へ降りていく。


 ミユはその背中を追いかけようとした。


 その瞬間。


 通路のさらに奥、個室エリアの方から、小さな声が聞こえた。


「ミユ……?」


 ミユの足が止まった。


 その声は、かなえの声だった。


 けれど、違った。


 少し高い。

 少し頼りない。

 泣くのを我慢している子どものような声。


 ミユは振り返る。


 個室ブースのカーテンが、少しだけ開いていた。


 その隙間から、小さな手が見えた。


 ミユは、ゆっくり近づいた。


 喉が乾く。


 嫌な予感が、もう予感ではなくなっていく。


 カーテンを開ける。


 そこにいたのは、小さな女の子だった。


 小学校低学年くらいの背丈。

 肩にかかる柔らかな髪。

 大きな目。

 サロンのタオル地のケープを、ぶかぶかに着せられている。


 でも、その顔立ちに、ミユは見覚えがあった。


 アルバムで見たことがある。


 押し入れの古い箱に入っていた、母の子どもの頃の写真。


 その中で、少し不安そうに笑っていた女の子。


 その顔が、目の前にいた。


 ミユの声が、かすれた。


「……ママ?」


 女の子は、不安そうにミユを見上げた。


 それから、こくりとうなずいた。


「うん」


 ミユの頭の中で、何かが真っ白になった。


 メグが隣で息を呑む。


 小さくなったかなえは、ケープの端を握りしめながら、もう一度言った。


「ミユ……ここ、どこ?」


 ミユは、口を開いた。


 でも、最初に出てきた言葉は、あまりにも情けなかった。


「……それ、私が聞きたい」


 蜜蜂の館の奥で、ヒーリング音楽が甘く流れ続けていた。

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