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第7節 ― 見ていたけれど、聞かないでおく

 カメ・レオンの笑い声が、体育館の床に落ちた偽装皮膜の破片と一緒に消えていった。


 ほんの数秒前まで、そこには怪人がいた。


 人の顔を奪い、人の声を真似て、人の居場所を揺さぶった怪人。

 自分より上手に朝倉ミユを演じる偽物を作り、自分より綺麗にプリティミューを演じる偽物を立たせた怪人。


 その身体は、もう半分以上崩れている。


 灰緑色の粒子がステージの床を這い、割れた偽装皮膜が、薄いフィルムのようにひらひらと舞った。レオン先生の顔だったもの、偽ミユの顔だったもの、かなえの顔を真似ていたもの。そのすべてが、乾いた紙細工のようにほどけていく。


 だが、ミユは動けなかった。


 プリティミューの姿のまま、ステージ奥を見ていた。


 そこに、朝倉かなえがいる。


 本物の母が、こちらを見ている。


 拘束具を外されかけた状態で、髪は少し乱れ、頬には疲労の色が浮かんでいた。口元を塞いでいた布は、近くにいた教師が震える手で外している。


 かなえは、何も言わなかった。


 ただ、じっとプリティミューを見ていた。


 ミユの胸の奥で、警報みたいに心臓が鳴る。


 見られた。


 どこまで見られたのかはわからない。


 変身の瞬間を、はっきり見られたわけではないかもしれない。体育館倉庫の影に飛び込んだ。光は漏れた。でも、姿が完全に変わるところまでは、もしかしたら見えていなかったかもしれない。


 けれど。


 母は、たぶん気づいている。


 全部ではなくても、何かを。


 言い訳を考えなければならない。


 いや、その前に変身を解かなければならない。


 このまま母の前に立っていたら、何を聞かれるかわからない。何を答えても、声でばれるかもしれない。焦って変なことを言うに決まっている。自分はそういう人間だ。


 ミユは一歩、後ずさった。


 ブーツの底が、体育館の床を鳴らす。


 その音に、かなえの視線が少しだけ動いた。


「……」


 母が口を開きかける。


 ミユは反射的に叫んだ。


「えっと、その、私は、その、通りすがりの科学少女で!」


 言った瞬間、体育館の空気が微妙に止まった。


 メグが、ステージ脇で腕を押さえながら小さくつぶやく。


「先輩……」


 ワトソンの声が通信に入る。


《ミユさん、その説明は通りません》


「わかってる!」


《いえ、今の発言は周囲にも聞こえています》


「最悪!」


 我に返った生徒たちの間から、ざわめきが広がっていく。


「プリティミュー……本物?」

「偽物、消えたよね?」

「さっきの怪人、先生に化けてたってこと?」

「え、じゃあ俺、偽物の先生に誘導されてたの?」

「朝倉さんはどこ行ったの?」

「いや、朝倉さんも二人いなかった?」


 疑問と恐怖が、体育館中を駆け巡る。


 さっきまで偽物に騙されていた者。

 偽の避難誘導に従っていた者。

 本物のミユを疑った者。

 偽ミユの言葉を信じかけた者。


 誰もが気まずそうに、床や周囲の顔を見ている。


 プリティミューを疑ったことを恥じている生徒もいる。

 まだ何が本当かわからず、怯えている生徒もいる。

 教師たちは、拘束を解かれた者から順に、生徒の無事を確認し始めていた。


 混乱は収まっていない。


 でも、少なくとももう偽装フィールドはない。


 誰かが誰かの顔を借りて、嘘を本当に見せかける空気は消えていた。


 ミユは、ハンマーを握る手に力を込めた。


 今すぐ、かなえのところへ行きたい。


 でも、この姿では行けない。


 この姿で「ママ」と呼んだら、全部終わる。


 いや、さっきもう叫んだ気がする。


 ミユは自分の発言記録を思い出して、頭を抱えそうになった。


《バイト君》


 アインの通信が入る。


《現場の偽装反応はほぼ消失した。ジョーカー戦闘員の残存反応も低い。今のうちに離脱した方がいい》


「今のうちって、言い方」


《キミが母親の前で余計な発言をする前に、という意味だ》


「言い方!」


 だが、正しい。


 ミユは一度だけ、かなえを見た。


 母はまだこちらを見ている。


 責めているようには見えない。

 怒っているようにも見えない。


 ただ、何かを確かめるような目だった。


 その目が、いちばん怖かった。


 ミユは、メグへ視線を送る。


 メグはすぐに察したように、わずかにうなずいた。


「プリティミューさん。こちらは私が説明します」


「メグちゃん……!」


「ただし、あとで話は聞きます」


「助け舟と請求書が同時に来た!」


「いつものことです」


 その一言に、ミユは少しだけ笑いそうになった。


 でも、笑っている場合ではない。


 プリティミューは、ステージから跳び降りた。生徒たちの視線が一斉に追ってくる。体育館裏の非常口へ向かいながら、振り返らないようにした。


 振り返ったら、かなえの顔を見てしまう。


 そうしたら、きっと足が止まる。


 ミユは非常口を押し開け、体育館裏へ出た。


 冷たい外気が、変身スーツの隙間を撫でる。


 裏庭には、夕方の光が残っていた。学校の校舎の影が長く伸び、植え込みの向こうで、誰かが通報したのか遠くからサイレンの音が近づいてくる。


 ミユは建物の影に身を滑り込ませ、μブレスレットに触れた。


「変身解除」


 白とピンクの光がほどける。


 科学少女の装甲が消え、制服姿の朝倉ミユが戻ってくる。


 膝が少し笑った。


 戦闘が終わったからではない。


 これから、母と話さなければならないからだ。


 怪人より怖い。


 いや、怪人とは別の怖さだ。


「……帰りたい」


 つぶやいてから、ミユは自分で首を振った。


「いや、帰る場所の話をこれからするんじゃん……」


 髪を手で整える。


 でも、ぐしゃぐしゃだった。体育館で走り回り、転びかけ、偽物と殴り合ったあとだ。制服も少し乱れている。


 偽ミユは、あんなにちゃんとしていた。


 髪も、表情も、立ち方も。


 自分は、変身を解いたあとですら、ぐちゃぐちゃだ。


 ミユは少しだけ唇を噛んだ。


 その時、体育館裏の扉が開いた。


 ミユの肩が跳ねる。


 出てきたのは、かなえだった。


 教師に付き添われることもなく、一人で。


 母は、夕方の薄い光の中で、静かにミユを見つけた。


「ミユ」


「……ママ」


 声が、思ったより小さく出た。


 かなえは近づいてくる。


 歩き方はいつもの母だった。少し疲れていて、少し怒っていて、それでも急ぎすぎない歩幅。


 ミユは、なぜかそれだけで泣きそうになった。


 偽装ではない。


 本物だ。


 料理の味がどうとか、笑うタイミングがどうとか、そんな分析ではなく、ただわかる。


 この人は、自分の母だ。


 かなえは、ミユの前で足を止めた。


 しばらく、何も言わなかった。


 沈黙が重い。


 ミユは耐えきれず、口を開く。


「あの、えっと、ママ。さっきのは、その、私は体育館の裏にいて、プリティミューさんが助けてくれて、だから私は別に――」


「ミユ」


「はい」


 かなえの声は、静かだった。


 怒鳴られる方が、まだ楽だったかもしれない。


「無事でよかった」


 その一言で、ミユの言い訳は全部止まった。


「……怒らないの?」


「怒ることはいっぱいある気がする」


「あるんだ」


「あるわよ」


 かなえは、少しだけ眉を下げた。


「でも、今聞いたら、あなたはきっと嘘をつくでしょう」


 ミユは息を呑んだ。


 何も言えない。


 違う、とも言えなかった。


 たぶん、その通りだったから。


 今聞かれたら、自分は嘘をつく。


 母を守るためだとか、正体を隠すためだとか、いろいろ理由をつけて。


 でも、嘘は嘘だ。


 かなえは、そんなミユを責めなかった。


「だから、今日は聞かない」


「ママ……」


「見ていたものが何だったのか、私にもまだわからない。あなたが何を隠しているのかも、全部はわからない」


 かなえは、少しだけ息を吐いた。


「でも、あなたが怖がっていたことはわかった」


 ミユの胸が詰まる。


「怖がって……」


「うん」


「そんなに?」


「うん」


「ヒーローっぽくなかった?」


「全然」


「即答……」


 ミユは、思わずうつむいた。


 かなえは、そこで少しだけ笑った。


「でも、逃げなかった」


 風が、体育館裏の植え込みを揺らした。


 夕方の空気は少し冷たい。


 なのに、ミユの目の奥は熱かった。


 かなえは続ける。


「だから、今日は聞かない。でも、これだけは言わせて」


「……うん」


「危ないことをしているなら、せめてちゃんと帰ってきなさい」


 ミユは、泣きそうな顔のまま笑った。


「それ、約束できるやつ?」


「努力しなさい」


「現実的……」


「現実は大事よ」


 かなえはそう言って、ミユの髪に手を伸ばした。


 ミユは、少しだけ身構える。


 叩かれるわけではない。

 怒られるわけでもない。


 それでも、母の手が近づくと、胸がざわついた。


 かなえの指先が、ミユの乱れた髪をそっと直した。


 汗で額に張りついた前髪を払い、跳ねた髪を軽く撫でる。偽物のように完璧に整えるわけではない。美容師のように美しく直すわけでもない。


 ただ、母親の手で、いつものミユに戻していく。


「さっき、あなたにそっくりな子がいたわ」


「……うん」


「すごくちゃんとしてた」


「うん」


「髪も整っていて、姿勢もよくて、言葉遣いも落ち着いていた」


「……うん」


 ミユは少しだけ唇を尖らせた。


「そっちの方が、ママ的にはよかった?」


 かなえは、ミユの髪を直す手を止めた。


 そして、少し呆れたように笑った。


「ミユは、少しくらいぐちゃぐちゃな方がミユらしいわ」


「褒めてる?」


「褒めてる」


「ほんと?」


「ほんと」


「ぐちゃぐちゃが?」


「ぐちゃぐちゃでも、ちゃんと帰ってくるところが」


 ミユは、今度こそ何も言えなくなった。


 母の手が、最後に軽くミユの頭を撫でる。


「帰ったら、ごはん食べるわよ」


「……今日、普通にごはんの話できるのすごいね」


「食べないと明日動けないでしょ」


「ママ、現実が強い」


「母親だから」


 かなえは、そう言って体育館の方を見た。


「先生たちにも説明しないといけないし、警察も来るでしょうし、今日は遅くなるかもね」


「ママ、大丈夫?」


「大丈夫じゃないけど、大丈夫にするの」


 その言い方が、あまりにかなえらしくて、ミユは小さく笑ってしまった。


「……私のママだ」


「当たり前でしょ」


 かなえは不思議そうに言った。


 その当たり前が、今日はとても重かった。


 とても、ありがたかった。


 メグは体育館の中で、教師たちに状況を説明していた。


 もちろん、すべてを説明するわけにはいかない。ジョーカーという組織の詳細も、ミユの正体も、アイン科学研究所の関与も伏せなければならない。


 それでも、メグはできる限り冷静に、偽装フィールドの影響、映像と音声の改ざん、偽装された誘導の危険性を整理していた。


 その後、彼女は壊れたスマホを抱えながら、怪人事件ログを更新した。


《今回の事件では、映像・声・外見の偽装が確認されました》


《本物かどうかを、顔だけで判断するのは危険です》


《でも、疑うことだけが対策ではありません》


《その人が何を大切にしてきたか。誰の名前を、どんな声で呼ぶか》


《それも、本人確認の一つです》


 夜。


 自宅に戻ったミユは、自室のベッドに座り、その投稿を見ていた。


 画面には、コメントが少しずつついている。


《今日の騒ぎ、これだったのか》

《怖すぎる》

《顔と声が同じでも偽物ってどうすればいいんだ》

《プリティミュー助けてくれてありがとう》

《朝倉さん大丈夫かな》


 最後のコメントを見て、ミユはスマホを少し伏せた。


「……大丈夫じゃないんだけど」


 つぶやく声は、誰にも聞こえないくらい小さかった。


 その時、メグからメッセージが届く。


《先輩、怪我はありませんか?》


 ミユは少し考えてから返す。


《筋肉とメンタルが全体的に負傷》


 すぐに返信が来た。


《メンタルは後日、事件ログでフォローします》


《やめて。メグちゃんの文章、またじんわり刺さる》


《今回は刺さらないように書いたつもりです》


《じんわり来るやつもあるからね?》


《では成功です》


 ミユは、ベッドの上で膝を抱えた。


「メグちゃん、また文章で殴ってくる……」


 でも、嫌ではなかった。


 少し痛い。


 けれど、それは怪人の毒や刃や偽装とは違う痛みだった。


 自分をちゃんと見てくれている人の言葉は、痛くても、壊すためのものではない。


 翌日。


 アイン科学研究所の地下フロアでは、いつものように白い照明が淡々と光っていた。


 ミユは検査台の上に座り、アインから渡されたスポーツドリンクを飲んでいた。体中がまだ重い。偽プリティミューとの戦闘で、普段使わないところまで筋肉痛になっている。


「今回の結果は興味深い」


 アインは、巨大モニターに戦闘ログを表示しながら言った。


 画面には、二人のプリティミューの動きが線で重ねられている。偽物の方は滑らかで、ミユの方はところどころ軌道が乱れていた。


 見たくない。


 ミユは顔をしかめる。


「私の動き、こうして見るとだいぶひどいね」


「安心したまえ。実戦で生き残っている以上、ひどいなりに機能している」


「褒め方!」


「褒めているよ」


「信じられない」


 アインは気にせず続ける。


「キミは偽物の自分に対し、競争ではなく救助行動を優先した。これは非常に興味深い」


「偽物の私、ちょっと出来よかったの腹立つ」


「見た目と動きはね」


「そこ強調しないで」


「でも、彼女はキミではない。理由は単純だ」


 ミユは、スポーツドリンクのストローをくわえたまま、アインを見た。


「何?」


「キミほど無茶をしない」


「それ褒めてる?」


「もちろん」


「アインの褒め方、ほんと腹立つ!」


 足元で、ワトソンがしっぽを揺らした。


 今日は猫型端末の姿だ。丸い目を静かに瞬かせ、ミユを見上げる。


「ミユさん。今回は、自分を見失いませんでした」


 ミユは、少しだけ黙った。


 それから、ワトソンの頭を軽く撫でる。


「猫型AIの方がちゃんと褒めてくれる」


「ありがとうございます」


「アインとの差はそこだよ」


「心外だね」


 アインは本当に心外そうな顔をした。


 ミユは、少し笑った。


 笑えるくらいには、戻ってきたのだと思った。


 その日の夕方。


 ミユとメグは、コブラカレーに寄った。


 駅裏の路地にあるその店は、相変わらず外観だけ見ると少し入りづらい。赤茶けた看板。古いガラス戸。中から漂うスパイスの香り。


 だが、今日はその匂いが、妙に安心できた。


「いらっしゃい」


 カウンターの奥で、コブラが鍋をかき混ぜていた。


 白髪混じりの髪、鋭い目、くたびれたエプロン。


 ただのカレー屋にしては、やはり目つきが強すぎる。


「嬢ちゃんたち、顔色が悪いな」


「昨日、学校で怪人に会ったからね」


「最近の高校は物騒だな」


「物騒で片づける?」


 ミユがカウンターに座ると、コブラは何も聞かずに皿を二つ出した。


 濃い色のカレー。

 白い湯気。

 焼き目のついた野菜。


 メグが小さく頭を下げる。


「ありがとうございます」


「食え。考えるのはそれからだ」


 ミユはスプーンを持ちながら、コブラを見た。


「おじさん、また何か知ってる言い方してる」


 コブラは、ふっと鼻で笑う。


「人の顔を真似るやつは、昔からろくなもんじゃねえ」


「ほら、知ってる言い方!」


「カレー屋はな、客の顔色を見る商売なんだよ」


「その言い訳、万能すぎない?」


 コブラは、鍋をかき混ぜる手を止めた。


 そして、少しだけ真顔になる。


「顔色を見るってのはな、顔を見ることじゃねえ」


 ミユは、スプーンを止めた。


「どんな腹で飯を食ってるかを見ることだ」


「……」


「嬢ちゃん、偽物に腹は減らねえ。腹が減ってるうちは、本物だ」


 カウンターに、少しだけ沈黙が落ちた。


 その言葉は、乱暴で、理屈としてはたぶん雑だった。


 でも、ミユには不思議としみた。


 怖くても、お腹は空く。

 傷ついても、ごはんは食べる。

 偽物じゃないから、疲れる。

 本物だから、ぐちゃぐちゃになる。


 ミユは、カレーを一口食べた。


 辛い。


 でも、うまい。


「……それ、ちょっと名言っぽいけど、結局カレー食わせたいだけでしょ」


「食え。冷める」


「食べるけど!」


 メグも静かにスプーンを取った。


「先輩」


「なに?」


「今日の先輩は、本物っぽいです」


「本物だからね!」


「はい。文句を言いながら食べているので」


「本人確認の基準が雑!」


 コブラが、低く笑った。


 その笑い方に、ほんの少しだけ別の影が混じった気がした。


 けれど、ミユが見上げた時には、彼はもういつものカレー屋の顔に戻っていた。


 同じ頃。


 ジョーカー帝都支部では、空気が重かった。


 重いだけではない。


 胃薬の匂いがしていた。


 ゲル大佐は、執務室のデスクに置かれた報告書を見下ろしていた。表紙には、冷たい文字で作戦結果が記されている。


《J-07 カメ・レオン作戦報告》

《学校偽装作戦:失敗》

《対象:科学少女プリティミュー》

《観測データ:一部回収成功》


 ゲル大佐は、ゆっくりと目を閉じた。


「またか……」


 横に立っていた戦闘員42号が、気まずそうに資料を差し出す。


「大佐、カメ・レオンの偽装皮膜、大半が破損しました。学校内に設置した偽装中継器も、プリティミューさんの衝撃波でほぼ全損です」


「聞きたくない報告から始めるな」


「ただ、偽装データの一部は回収できました」


「それだけでも持ち帰れ。首領Xへの報告材料がなければ、私の胃が死ぬ」


「了解です。胃は大事です!」


「お前に励まされると不安になる」


 その時、執務室の照明が一段暗くなった。


 正面の巨大モニターに、首領Xの仮面アイコンが浮かび上がる。


 ゲル大佐は姿勢を正した。


「はっ、首領X」


 画面の向こうから、低い声が響く。


「ゲル大佐」


「カメ・レオン作戦は失敗しました。偽装皮膜の大半を喪失、学校作戦も維持不能となり、対象の拘束には至りませんでした」


「良いデータだった」


 ゲル大佐は、わずかに眉を動かした。


 まただ。


 蜘蛛男。

 蝙蝠伯爵。

 レイディスコーピオン。

 サラセニア・ルージュ。

 マンティスシザー。

 そして、カメ・レオン。


 怪人は倒された。作戦は破られた。現場は壊された。


 それでも首領Xは、いつも同じように言う。


 良いデータだった、と。


「……また敗北しましたが」


 ゲル大佐は、あえて言った。


 首領Xは沈黙しない。


「彼女は、顔でも声でもなく、関係性で本物を見分けた」


「……」


「自分自身の偽物に対しても、競争ではなく救助を選んだ」


 ゲル大佐は拳を握る。


「そして、母親は見た」


 その言葉だけ、少し温度が違った。


 冷たい。


 観測対象を一つ追加しただけの声。


 ゲル大佐は、思わず問い返していた。


「やはり、朝倉かなえを利用するおつもりですか」


 画面の仮面は動かない。


「利用ではない」


 首領Xは言った。


「観測対象が増えただけだ」


 ゲル大佐の胃が、きり、と痛んだ。


 怪人を投入する。

 作戦を組む。

 敵を追い詰める。


 それはジョーカーの幹部として当然の仕事だ。


 だが、首領Xの視線は、敵を倒す視線ではない。


 対象を切り開き、中身を調べる視線だ。


 科学少女プリティミューだけではない。

 彼女の友人。

 母親。

 日常。

 恐怖。

 欲望。

 言葉。

 関係性。


 そのすべてが、首領Xにとっては観測対象なのだ。


「次は、彼女の年齢反応を見る」


「年齢反応?」


「子どもでいたい心。大人にならなければならない焦り。そこに針を入れろ」


 ゲル大佐は、しばらく黙った。


「次の怪人は」


「ミラクルハニー」


 モニターの端に、新たなデータが浮かび上がる。


 幼い手。

 蜂の翅。

 甘い蜜。

 縮んでいく影。


《J-08 ミラクルハニー/幼若化反応・成熟拒否適性調整中》


 ゲル大佐は、深く息を吐いた。


「……承知しました」


 通信が切れる。


 執務室に、沈黙が落ちた。


 戦闘員42号が、おそるおそる言う。


「大佐」


「何だ」


「今回は、いつもより胃薬を多めに用意しますか」


「……そうしろ」


「了解です」


 42号は敬礼したあと、ふと首を傾げた。


「ところで大佐」


「まだ何かあるのか」


「自分が偽物だったらどうします?」


 ゲル大佐は、ゆっくりと42号を見た。


「本物ならそんな質問をするな」


「なるほど!」


「納得するな!」


 その頃、別働の戦闘員たちは、学校から離れた路地裏でカメ・レオンの残骸を回収していた。


 変色した偽装皮膜。

 割れたカメレオン眼。

 声紋複写器官。

 長い舌の先端部。


 専用ケースに一つずつ収められていく。


「大佐、回収完了です」


《急げ。偽装皮膜は劣化が早い》


「了解です。これ、触ってると自分の手が自分の手じゃない気がしてきます」


《余計な感想を言うな》


「でも、ちょっと怖いです」


《怖いなら早く持ち帰れ》


「はい!」


 戦闘員たちは、足音を揃えて闇の中へ消えていく。


 最後に。


 どこかの暗い研究室。


 天井の低い、無機質な部屋だった。


 壁一面に並ぶ冷却ケース。

 淡い青白い照明。

 低く唸る機械音。


 黒い手袋をした人物が、無言でケースを開ける。


 そこへ、カメ・レオンの偽装皮膜片が収められた。


 皮膜はまだ、ゆっくりと色を変えている。ミユの肌色に近づき、メグの髪色に揺れ、かなえの目元を真似ようとして、すぐに崩れる。


 黒い手袋の人物は、淡々とラベルを貼った。


《J-07 カメ・レオン/偽装皮膜・声紋複写器官・敗北データ回収予定》


 ケースが閉じられる。


 隣のモニターが点灯した。


 次の怪人データが浮かぶ。


《J-08 ミラクルハニー/幼若化反応・成熟拒否適性調整中》


 画面の中で、小さな子どもの手が、プリティミューのハンマーに触れる。


 その手は、泣きそうに震えていた。


 そして、ハンマーの電子音が、どこか遠くで小さく鳴った。


 ピコッ、と。

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