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第6節 ― 本物は、怖がっても逃げない

 体育館の床に、二つのピンク色の影が落ちていた。


 片方は、ステージ側に立っている。


 背筋はまっすぐ。膝の角度も、ハンマーの構えも、画面映えするほど綺麗だった。ふわりと揺れる髪、きらめく装甲、余裕のある笑み。まるで、子ども向け番組のオープニングからそのまま抜け出してきたような、完璧な科学少女プリティミュー。


 もう片方は、体育館倉庫の影から飛び出してきたばかりで、着地の勢いを殺しきれず、片足を少し滑らせていた。


「うわっ、床ワックスきいてる!」


 ミュー・ハンマーを抱え込むようにして、どうにか転倒だけは避ける。膝を曲げ、肩で息をし、顔を上げたその姿は、どう見ても完璧とはほど遠かった。


 だが、それが朝倉ミユだった。


 科学少女プリティミューの、本物だった。


 体育館に集められた生徒たちは、誰も声を出せなかった。


 さっきまで、避難誘導だと思っていた。

 教師の指示に従っていると思っていた。

 レオン先生の言葉を信じていた。


 けれど、いま目の前にいるのは、同じ姿をした二人のプリティミュー。


 どちらが本物なのか。


 そもそも、本物とは何なのか。


 恐怖と困惑が、体育館の空気を重たくしていた。


 ステージ上で、カメ・レオンがゆっくりと両腕を広げる。レオン先生だった顔は、すでに半分ほど崩れていた。皮膚の上を緑と灰色の鱗がざわざわと這い、片目だけがぎょろりと丸く膨らんでいる。


「さあ、皆さん。本人確認の時間です」


 舌の先が、マイクスタンドに絡みついた。


 スピーカーから、不自然に滑らかな声が響く。


「ここにいる二人の科学少女プリティミュー。どちらが、皆さんを守る本物でしょうか」


「なにその悪趣味なクイズ番組!」


 本物のプリティミュー――ミユが叫ぶ。


 偽プリティミューは、そんなミユを見て、にこりと笑った。


「落ち着いて、みんな。怖がらなくていいよ」


 その声は、ミユの声に似ていた。

 けれど、ミユよりずっと聞き取りやすい。語尾が乱れない。息が上がっていない。焦りも、照れも、怒りもない。


「私は、みんなを守るためにここにいる。だから、危ないことはしないで。体育館の壁際に寄って、頭を低くして」


 ざわついていた生徒たちの何人かが、思わずその声に従いかけた。


 ミユの胸の奥が、きゅっと縮む。


 上手い。


 自分より、ずっと上手い。


 ヒーローっぽい。

 正しい。

 安心できる。


 自分なら、こんなふうに言えない。


 たぶん、最初に「みんな下がって!」と言って、それから「いや下がるってどっち方向!? 危ない方には行かないで!」と混乱して、メグに説明を足されて、アインに通信で怒られて、やっと避難誘導になる。


 そういう自分が、急に恥ずかしくなった。


「……なに、あれ」


 ミユは小さくつぶやいた。


「私より、私っぽくないのに、プリティミューっぽいじゃん」


 偽プリティミューは、ミユの迷いを見透かしたように一歩前へ出た。


「あなた、ヒーローに向いてないよ」


 柔らかな声だった。

 だからこそ、刃物みたいに鋭かった。


 ミユは歯を食いしばる。


「知ってる!」


「怖がるし、怒るし、文句ばかり言うし、すぐ照れるし、戦い方も雑。そんな人が、誰かを守れると思う?」


「思ってない!」


 言ってから、自分で少し傷ついた。


 だが、止まれない。


「思ってないけど、やるしかない時があるんだよ!」


 偽プリティミューは、優雅にミュー・ハンマーを構えた。


 見た目は同じ武器。

 けれど、構えが違う。


 本物のミユのハンマーは、いつも少し重そうに見える。振り回されているのか、振り回しているのかわからない。だが、偽物のハンマーは、まるで最初からその手に馴染んでいるようだった。


「なら、私に代わればいい」


 偽プリティミューが、静かに言った。


「私なら上手くやれる。怖がらない。失敗しない。誰にも心配をかけない。あなたの学校も、家族も、友達も、もっと上手に守れる」


 ミユの喉が、ひゅっと鳴った。


 それは、カメ・レオンの言葉だとわかっていた。

 偽物の言葉だとわかっていた。


 それでも、胸の奥に入り込んでくる。


 もし、自分より上手にやれる誰かがいるなら。


 もし、自分が戦わない方が、みんなが安全になるなら。


 もし、自分がプリティミューでなければ、母も、メグも、学校も、こんな目に遭わなかったのなら。


 ほんの一瞬、ミユは考えてしまった。


 代われるなら、代わりたい。


 普通の朝倉ミユに戻りたい。


 怖いことも、痛いことも、正体を隠すことも、嘘をつくことも、全部やめたい。


 だが、その時だった。


「先輩!」


 ステージの上から、メグの声が飛んだ。


 彼女はカメ・レオンの長い舌に腕を絡め取られ、ステージ袖の柱に半ば縛りつけられていた。眼鏡は少しずれている。顔色も悪い。それでも、メグは必死にこちらを見ていた。


「代わっちゃだめです!」


「メグちゃん……!」


「その人、たぶん先輩よりちゃんとしてます!」


「いきなり刺してくるじゃん!」


「でも!」


 メグは息を吸い込んだ。


「ちゃんとしてるから、偽物です!」


 体育館の空気が、一瞬だけ止まった。


 ミユも止まった。


「……それ、褒めてる?」


「褒めています!」


「本当に!?」


「本当に!」


 メグは、震える手で眼鏡を押し上げた。


「本物のミユ先輩は、自分がちゃんとしてるなんて絶対に言いません。あと、たぶん今みたいな場面で、まず文句を言います」


「本人確認に使うな!」


「ほら!」


 そのやりとりに、体育館のどこかで小さな笑いが漏れた。


 張りつめた空気に、ほんのわずかな亀裂が入る。


 偽プリティミューの笑顔が、一瞬だけ固まった。


「……くだらない」


 カメ・レオンの声が低くなる。


「そんなものが、本人確認になると?」


 体育館の壁際で、数人の生徒が顔を見合わせた。


「でも……朝倉って、たしかにああいう言い方するよな」

「偽物の方、なんか優等生すぎるっていうか」

「本物かどうかは知らないけど、さっきのツッコミは朝倉っぽい……」


 ざわめきが広がる。


 カメ・レオンの顔から、余裕が消えた。


「顔を見ろ! 声を聞け!」


 体育館の照明が、不気味に明滅する。


 偽装フィールドが強まった。

 空気が歪む。

 生徒たちの視線がまた揺れる。


 偽プリティミューの輪郭が、より本物に近づいていく。

 目の輝き。

 立ち姿。

 声の震え方。

 ミユ自身が、自分を鏡で見ているような錯覚に陥るほどだった。


「どちらが本物かなど、見た目でわかるはずだ!」


「見た目だけでわからないから!」


 ミユは、ハンマーを握り直した。


「ちゃんと見てきたんでしょ!」


 その声は、体育館の隅まで響いた。


 誰に向けた言葉だったのか、ミユ自身にもわからなかった。


 メグに。

 クラスメイトに。

 母に。

 自分に。


 あるいは、目の前の偽物に。


「顔が同じでも、声が同じでも、違うものは違うんだよ!」


 偽プリティミューが床を蹴った。


 速い。


 ミユが反応するより先に、ハンマーが振り下ろされる。


「っ!」


 とっさに受け止めたミュー・ハンマーが、甲高い電子音を鳴らした。


 ピコッ、という間抜けな音。


 だが、衝撃はまったく間抜けではなかった。腕が痺れ、膝が沈む。体育館の床板が、二人の足元で軋んだ。


「重っ……!」


「力の入れ方が非効率」


 偽プリティミューは、冷静に言った。


「肩に余計な力が入っている。足運びも雑。視線も泳いでいる。あなたは、戦闘中に考えすぎ」


「分析してくんな!」


 ミユはハンマーを押し返そうとした。

 しかし、偽物の動きは無駄がない。軽く力を逃がされ、逆に横から打ち込まれる。


 ミユは慌てて身を引いたが、片足が床のラインに引っかかった。


「わっ!」


 転びかける。


 偽プリティミューは、その隙を逃さない。


 ハンマーの柄が、ミユの脇腹に叩き込まれた。


「ぐっ……!」


 息が詰まる。


 体育館の床を転がり、ミユは壁際のマットに肩からぶつかった。


 観客席のように集められていた生徒たちが、悲鳴を上げる。


「プリティミュー!」

「どっちの!?」

「わかんないけど、転んだ方!」


「転んだ方で認識するな!」


 ミユは痛みに顔をしかめながらも、反射的に突っ込んでしまった。


 その瞬間、偽プリティミューの足が止まる。


 ほんの一瞬。


 だが、ミユにはわかった。


 今の反応を、偽物は予測していなかった。


《バイト君》


 耳元の通信に、アインの声が割り込んだ。


《偽プリティミューは、キミの戦闘データを模倣している》


「じゃあ私の癖もバレてるってこと!?」


《そうだね。あと、キミより少し動きがいい》


「余計な情報!」


《だが、模倣できないものがある》


 ミユは床に手をつきながら起き上がる。


「何?」


《予測不能な無茶》


「それ褒めてる?」


《かなり》


 続いて、ワトソンの落ち着いた声が入る。


《偽装体は合理的な行動を優先します。ミユさんのように、勝率を下げてでも誰かをかばう動きは再現しにくいはずです》


「猫型AIに無茶扱いされた!」


《褒めています》


「この研究所、褒め方が全体的におかしい!」


 偽プリティミューが再び踏み込む。


 ミユはハンマーを構えた。


 正面から受ければ、押し負ける。

 避ければ、後ろにいる生徒たちに衝撃が飛ぶ。


 考えるより先に、体が動いた。


 ミユは横へ跳ぶのではなく、前へ出た。


「危なっかしいな、もう!」


 偽プリティミューのハンマーを、真正面から受け止める。

 衝撃で腕が痺れる。

 歯が鳴る。

 しかし、後ろの生徒たちには届かない。


 そのかわり、ミユの足元が滑った。


「うわっ、やば、止まらな――!」


 そのまま偽プリティミューともつれ合い、二人まとめて体育館の床を転がる。


 美しさも、華麗さもない。

 技でもない。

 ただの体当たりだった。


 偽プリティミューが、初めて苛立った顔を見せる。


「あなた、本当に無駄が多い」


「こっちは人生もだいたい無駄多めでやってるんだよ!」


「だから、向いてない」


「知ってるって言ってるでしょ!」


 偽プリティミューの背後で、空気が揺れた。


 カメ・レオンが消えている。


 いや、完全に消えたわけではない。体育館の壁、暗幕、ステージ袖。背景の色に溶け込みながら、透明化して移動している。


 ミユの背筋に冷たいものが走った。


 どこから来る。


 右か。

 左か。

 上か。


 その答えは、音より先に来た。


 ぬるり、とした気配。


 長い舌が、天井近くの梁から伸び、ミユの右腕に絡みついた。


「しまっ――!」


 引かれる。


 腕を持っていかれ、体勢が崩れる。


 偽プリティミューのハンマーが、真正面から迫った。


「先輩!」


 メグが叫ぶ。


 ミユは腕を引かれたまま、ぎりぎりで身をひねった。ハンマーの先端が肩装甲をかすめ、火花が散る。


 痛い。

 怖い。

 逃げたい。


 けれど、ステージの上でメグが捕まっている。

 奥には、本物か偽物かわからない母の姿がある。

 体育館には、何も知らない生徒たちがいる。


 ここで逃げたら、きっと楽になる。


 でも、あとで絶対に眠れない。


「ほんと……!」


 ミユは奥歯を噛みしめた。


「なんで毎回、逃げる方が難しいの!」


 ミュー・ハンマーを左手に持ち替え、絡みついた舌を叩く。


 ピコッ。


 軽い音とともに衝撃波が走る。


 だが、カメ・レオンの舌は硬い。わずかに緩んだだけで、完全には外れない。


「無駄ですよ」


 どこからともなく、カメ・レオンの声が響く。


「あなたの動きは観察済みです。癖も、反応も、恐怖も。守ろうとする対象が増えるほど、あなたは遅くなる」


「うるさい!」


「ほら、その怒りも予測済みです」


 偽プリティミューが踏み込む。


 今度は速いだけではない。

 本物のミユがよく使う、相手の足元を狙う泥臭い動きまで混ぜてきた。


「私の雑さまでコピーすんな!」


 ミユはハンマーで受ける。

 受ける。

 受ける。


 腕が痺れる。

 足が重い。

 呼吸が乱れる。


 偽物は疲れない。

 偽物は迷わない。

 偽物は、苦しそうな顔をしない。


 自分よりずっとヒーローらしい相手に、自分の姿で追い詰められている。


 それは、怪人に殴られるより嫌だった。


 自分の弱さを、真正面から見せつけられているようだった。


「先輩!」


 また、メグの声。


 今度は少し違った。

 叫びというより、何かを伝えようとする声だった。


「いつものやつです!」


「いつものって何!?」


「説明しないと伝わらないやつです!」


「伝わってないじゃん!」


 体育館の床を滑りながら、ミユは思わず叫ぶ。


 その瞬間、偽プリティミューの動きがほんのわずかに遅れた。


 偽物は、今のやりとりに意味を見出せなかったのだ。


 メグの目が光る。


「やっぱりです!」


「何が!?」


「カメ・レオンは、見た目と声と戦闘データは真似できます。でも、わたしたちの会話のズレ方までは真似できません!」


「会話のズレ方って何!?」


「本物の先輩は、わたしが説明不足のことを言うと、まず文句を言います!」


「それ本人確認に使うなって!」


「そして、文句を言いながら、ちゃんと聞いてくれます!」


 ミユの胸の奥で、何かが鳴った。


 言葉の意味は、少し恥ずかしかった。

 でも、たしかに届いた。


 メグは、自分を完璧だから信じているわけではない。


 強いからでもない。

 美しいからでもない。

 ヒーローらしいからでもない。


 文句を言うところ。

 説明不足に突っ込むところ。

 怖がるところ。

 それでも、聞いてしまうところ。


 そういう、どうしようもなく自分らしい部分を見て、本物だと言ってくれている。


 だったら。


 完璧な偽物に、自分が負ける理由はない。


「……メグちゃん」


 ミユは小さく笑った。


「後でその本人確認方法、もうちょっと盛ってくれない?」


「検討します!」


「即答で肯定して!」


 偽プリティミューが、苛立ったようにハンマーを振り上げた。


「無意味な会話です」


「意味あるよ」


 ミユは、右腕に絡んだ舌を見た。


 舌の先は、カメ・レオン本体につながっている。

 透明化していても、引っ張る力の方向はごまかせない。


 そして、もう一本の舌が、メグを捕らえている。


 勝つなら、偽プリティミューを倒すべきだ。

 合理的には、まず目の前の敵を無力化するべきだ。


 だが、ミユは笑った。


「合理的じゃない方でいく」


《バイト君》


 アインの声が、少しだけ楽しそうに聞こえた。


《偽装フィールドの周波数を割り出した。ミュー・ハンマーに認識補正波を乗せる》


「つまり?」


《偽物の皮を剥がす》


「わかりやすい!」


《技名は、ミュー・トゥルーサイトブレイク》


「ちょっと長いけど今回は許す!」


《光栄だね》


 ミユは深く息を吸った。


 体育館の床を蹴る。


 偽プリティミューも、同時に動いた。

 完璧なタイミング。完璧な角度。完璧な迎撃。


 二つのミュー・ハンマーが、真正面からぶつかる。


 ピコッ、という音が二重に重なり、体育館の窓が震えた。


 偽物は、そのまま押し勝つつもりだった。

 力も角度も、計算されている。


 だが、本物のミユは、途中で軌道を変えた。


 偽プリティミューを狙わない。


 カメ・レオンの舌を狙う。


「勝つより先に!」


 ミユは、体ごとハンマーを振り抜いた。


「助ける!」


 偽プリティミューの目が、初めて見開かれた。


 その動きは、合理的ではなかった。


 勝機を捨てている。

 隙をさらしている。

 自分が攻撃を受ける危険を増やしている。


 けれど、ミユならやる。


 朝倉ミユなら、やってしまう。


 ハンマーが、メグを捕らえていた舌に叩き込まれた。


「ミュー・トゥルーサイトブレイク!」


 白とピンクの光が、体育館全体に広がった。


 衝撃波というより、光の波だった。

 空気に貼りついていた薄い膜が、一枚ずつ剥がれていく。


 偽プリティミューの輪郭が揺らぐ。


 ステージ上の偽かなえの顔が崩れ、無表情なダミー人形が露わになる。


 教師の姿をしていた者たちの皮膚がめくれ、黒い戦闘員スーツが現れる。


 生徒の中に紛れていた偽物も、次々と姿を失い、ジョーカーの簡易変装装置をつけた戦闘員たちへ戻っていく。


「うわっ、バレた!」

「偽装フィールド解除!」

「撤退ルートどこですか!」

「体育館の裏口!」

「それ本物の先生が塞いでます!」


 戦闘員たちが慌て始める。


 同時に、ステージ奥の暗幕がばさりと落ちた。


 そこにいた。


 本物の教師たち。

 本物の生徒たち。

 そして、両手を拘束された朝倉かなえ。


 母は、口元を布で塞がれていた。

 けれど、意識はある。


 そして、こちらを見ていた。


「ママ!」


 ミユの声が、変身後のフィルターを通して響く。


 かなえの目が、わずかに見開かれた。


 その一瞬を、カメ・レオンは見逃さなかった。


 透明化が剥がれ、ステージの上に本体が現れる。

 緑と灰色の鱗に覆われた身体。ぎょろりと動く両目。長い舌。レオン先生だった名残を、悪趣味な仮面のように顔に貼りつけた怪人。


「まさか、偽装が……!」


 カメ・レオンは後退する。


 偽プリティミューは、すでに崩れかけていた。

 完璧な装甲の下から、のっぺりとしたダミー素体が見えている。


 それでも、偽物は最後の力でミユに向かってきた。


「あなたは、ヒーローに向いてない」


「うん」


 ミユはうなずいた。


「たぶん向いてない」


 ハンマーを握る手に、もう迷いはなかった。


「でも、向いてないから逃げていいって話でもないでしょ!」


 ミユは床を蹴った。


 偽物のハンマーが振られる。

 ミユは避けない。

 受け流すこともしない。


 肩で受けた。


「っ……!」


 痛みで視界が白くなる。


 それでも、前に出る。


 カメ・レオンの方へ。


「本物かどうかは、顔じゃない!」


 ハンマーが光る。


 ピンク色のμ粒子が、体育館の空気を押しのけるように集まっていく。


「声でも、記録でも、完璧さでもない!」


 カメ・レオンが舌を伸ばす。

 だが、ミユはそれをハンマーの柄で巻き取り、逆に引いた。


「なっ――!」


「ちゃんと見て、ちゃんと間違えて、ちゃんと怒って、ちゃんと怖がって!」


 ミユは、カメ・レオンの懐へ飛び込む。


「それでも逃げない方が!」


 ハンマーを振り上げる。


「本物なんだよ!」


 光が弾けた。


「プリティ・アイデンティティ・インパクト!」


 ミュー・ハンマーの一撃が、カメ・レオンの胸部に叩き込まれた。


 間抜けな電子音。


 その直後、凄まじい衝撃。


 カメ・レオンの偽装皮膜が、ガラスのように砕け散った。レオン先生の顔。偽ミユの顔。偽かなえの顔。いくつもの借り物の表情が、光の破片となって空中へ散っていく。


 怪人の身体がステージへ叩きつけられ、床板が大きくへこんだ。


 体育館の照明が、一度大きく明滅する。


 そして、偽装フィールドは完全に消えた。


 静寂。


 荒い呼吸だけが、ミユのヘルメットの内側で響いていた。


 偽プリティミューだったものは、床の上で黒いダミー人形に戻り、ひび割れながら動かなくなった。


 メグは解放された腕を押さえながら、ステージに座り込んでいる。


「メグちゃん!」


 ミユが駆け寄ろうとした、その時。


 倒れたカメ・レオンが、くつくつと笑った。


「顔も……声も……記録も奪える」


 崩れかけた喉から、湿った声が漏れる。


「だが……なるほど。関係性までは、少し時間が足りませんでしたか」


「負け惜しみまで回りくどい……!」


 ミユはハンマーを構えたまま、息を整える。


 カメ・レオンの身体は、灰緑色の粒子となって崩れ始めていた。偽装に使われていた皮膜が、乾いた絵の具のように剥がれ落ちる。


 けれど、その両目だけが、まだ動いた。


 ミユではなく。


 ステージ奥の、かなえの方へ。


「科学少女」


 カメ・レオンは笑った。


「母親は、見ていましたよ」


 ミユの心臓が、一瞬止まったような気がした。


 振り返る。


 暗幕の奥。

 拘束を解かれかけたかなえが、じっとこちらを見ていた。


 母の目に、恐怖はあった。

 驚きもあった。

 困惑もあった。


 けれど、それだけではない。


 何かを探すような目だった。


 何かを、確かめようとする目だった。


 ミユは、プリティミューの姿のまま動けなくなった。


 ヘルメットの内側で、喉が乾く。


 言い訳を考えなければ。

 隠さなければ。

 逃げなければ。


 そう思うのに、足が動かなかった。


 かなえの視線が、ミユの胸に刺さる。


 カメ・レオンの笑い声が、灰のように崩れて消えていった。

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