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第4節 ― 偽ミユは、ちゃんとしている

 スマホの画面には、母の名前が表示されていた。


《ミユ、今日は早く帰ってきてね。大事な話があります》


 短い文章だった。


 いつものかなえなら、もう少し余計な言葉を添える。


《ごはん作って待ってるから》とか。

《寄り道しないでね》とか。

《また変なバイトしてないでしょうね》とか。


 心配している時ほど、かなえのメッセージは少しだけ長くなる。怒っている時は短いが、その場合は文末に妙な圧がある。


 でも、この文章には、そのどちらもなかった。


 母の名前で届いているのに、母の匂いがしない。


 ミユはスマホを握りしめたまま、喉の奥が冷えていくのを感じた。


「学校内って……ママが、ここにいるってこと?」


 声がかすれた。


 メグは自分の端末を操作しながら、校舎の方へ視線を走らせる。


「送信元の位置情報は、校内ネットワーク経由です。正確な場所までは偽装されていますが、自宅からの送信ではありません」


「じゃあ、ママのスマホを誰かが持ってるとか」


「可能性はあります」


「ママ本人が連れてこられてる可能性は?」


 メグは、答えるまでに一瞬だけ間を置いた。


 その間が、ミユには怖かった。


「あります」


「最悪」


 ミユは吐き捨てるように言った。


 頭の中に、朝の食卓がよみがえる。


 薄い味噌汁。

 甘すぎる卵焼き。

 笑うタイミングが少しだけ遅い母。


 あれは本当に母だったのか。


 いや、母だった。そう思いたい。

 けれど、カメ・レオンは言った。


 あなたの生活、少し観察させていただきました。


 母の朝を。

 家の中を。

 台所の匂いを。


 そこまで覗かれていたのだとしたら。


「……あいつ、絶対ゆるさない」


 ミユは低く呟いた。


 怒りはある。


 だが、それ以上に怖かった。


 怪人に殴られるより、空から落ちるより、言葉を切り抜かれるより、ずっと怖い。


 自分の家に、母の顔をした誰かがいたかもしれない。


 その可能性が、胃の底をぎゅっと掴んでくる。


 メグは端末から目を離さず、冷静に言った。


「先輩。今は、まず学校内の状況確認です。お母さまが本当に校内にいるなら、体育館か放送室、または職員用の控室に誘導されている可能性があります」


「なんで?」


「人質として利用するなら、人が集まる場所か、校内放送に干渉できる場所が効率的です」


「効率的とか言わないで。心が削れる」


「すみません。でも、言葉を柔らかくしても状況は変わりません」


「わかってるけど!」


 ミユは強く目を閉じ、息を吸った。


 冷たい空気が、粉っぽい喉に刺さる。さっき浴びた消火器の粉が、まだ髪や制服に残っていた。


 制服の袖で口元を拭う。


 白い粉が、黒いブレザーに広がる。


「……今の私、すごい怪しいよね」


「はい」


「そこは気を遣って」


「ですが、本物です」


 メグは即答した。


 その声が、ほんの少しだけミユを支えた。


「先輩は、粉まみれで、顔色が悪くて、文句を言いながら、それでもお母さまのことを心配しています。かなり本物です」


「かなり本物って何」


「本人確認としては高精度です」


「嬉しいような嬉しくないような」


 ミユは苦笑しかけた。


 だが、その笑いはすぐに消えた。


 校舎の中から、複数の声が重なって聞こえてきたからだ。


「体育館に避難してください!」


「いや、教室で待機だって!」


「レオン先生がこっちって言ってた!」


「田中先生は職員室に来いって!」


「どっち!?」


 学校が混乱している。


 窓の向こう、廊下を走る生徒たちの影が見えた。ある者は階段へ向かい、ある者は反対方向へ戻ろうとしている。教師らしき大人が手を振っているが、その向こうから同じような声で別の指示が飛ぶ。


 指示が食い違っている。


 生徒たちは、どちらを信じればいいのかわからず、その場で立ち止まる。


 そして、立ち止まったところへ、また別の声が差し込まれる。


《全校生徒へ。落ち着いて体育館へ移動してください》


 校内放送。


 しかし、数秒後。


《訂正します。生徒は各教室で待機してください》


 同じ放送なのに、声色がわずかに違った。


 さらに、ざざ、とノイズが混じり、今度は女教師の声が流れる。


《校舎裏に不審者がいます。近づかないように》


 ミユは顔を上げた。


「校舎裏って、私たちじゃん!」


「誘導です」


「いやがらせの精度が高い!」


 メグは、端末を片手で操作しながら、もう一台の小型カメラを取り出した。


「校内カメラの一部にアクセスします」


「できるの?」


「前回の配信事件以降、怪人事件ログのために、学校周辺の公開カメラと校内端末の接続経路を調べていました」


「メグちゃん、それ普通に怒られるやつじゃない?」


「今は非常時です」


「便利だな、非常時!」


 画面に、校舎内の映像がいくつか表示された。


 廊下。

 階段。

 昇降口。

 体育館前。


 映像はところどころ乱れている。顔がぼやけたり、音声だけが遅れたり、同じ人物が二重に見えたりする。


 メグは眉を寄せた。


「偽装フィールドがカメラにも干渉しています。ですが、完全ではありません」


「何かわかる?」


「先輩、ジョーカーは全員を入れ替えたわけじゃありません」


「じゃあ何?」


「本物の中に、偽物を少数混ぜています」


 ミユは、心底嫌そうな顔をした。


「最悪のやつじゃん。全部偽物より疑心暗鬼になるやつ!」


「はい。全員が偽物なら、全員を疑えばいい。でも本物が混じっている以上、疑いすぎると本物の避難も妨げます」


「疑わないと危ないのに、疑いすぎてもダメってこと?」


「そうです」


「ほんと最悪!」


 ミユは髪をかきむしりかけて、粉だらけなのを思い出して手を止めた。


 今は怒っている場合ではない。


 まずは、生徒たちを安全な場所へ。

 それから母を探す。

 そして、カメ・レオンを止める。


 やることは多い。


 でも、動かないと何も進まない。


「体育館、行こう」


 ミユが言うと、メグが頷いた。


「はい。避難誘導された生徒たちの確認が必要です。お母さまがいる可能性もあります」


「あと、偽者がどれだけいるかも」


「そうです」


 二人は校舎裏から中庭側へ回り、人気の少ない通用口から校内へ入った。


 靴箱の並ぶ昇降口には、いつもなら放課後のざわめきがある。今日は違った。声はある。足音もある。けれど、そのどれもが落ち着かず、壁に跳ね返って、どこから来るのかわからなくなっている。


 ミユは、廊下に出た瞬間、足を止めた。


 廊下の向こうに、同じ男子生徒が二人いた。


 一人は壁際でスマホを握りしめ、怯えた顔をしている。

 もう一人は、その数メートル先で、落ち着いた声で「体育館へ行こう」と周囲を促している。


 顔は同じ。


 制服の着方も同じ。


 髪型も同じ。


 だが、片方は汗をかいていて、片方は妙に涼しい顔をしていた。


「……見分けるの、無理じゃない?」


「完全には無理です」


 メグは小声で答えた。


「でも、不自然に落ち着いている方は偽装の可能性があります」


「落ち着いてる方が怪しいって、学校としてどうなの」


「今日はそういう日です」


「そんな日いやすぎる」


 二人は廊下の壁沿いに進んだ。


 途中、女子生徒が泣きそうな顔で立ち尽くしていた。目の前には、同じ顔の友人が二人いる。


「どっちが本物なの……?」


 問いかけられた二人の友人は、同時に言った。


「私だよ」


「私だよ」


 声も同じ。


 泣きそうな生徒の顔が、さらに歪む。


 ミユは足を止めた。


 助けたい。


 だが、今ここで不用意に口を出せば、さらに混乱するかもしれない。しかも自分自身も「危険人物」として放送されたばかりだ。


 メグが素早く動いた。


「質問してください」


 泣きそうな生徒が、びくっと振り返る。


「え?」


「昨日の昼休み、あなたたちは何を話しましたか。二人だけが知っていることを聞いてください。顔ではなく、記憶を確認してください」


 女子生徒は、涙をこらえながら二人を見た。


「き、昨日……購買で買ったパン、半分こしたよね。何パンだった?」


 一人が即答した。


「チョココロネ」


 もう一人が、一瞬だけ眉をひそめてから言った。


「違う。焼きそばパン。チョココロネは、一昨日」


 泣きそうだった女子生徒の顔が、はっと変わる。


「そう……そうだよ、焼きそばパンだった」


 チョココロネと答えた方の表情が、すっと抜けた。


 次の瞬間、顔の表面がざわりと波打ち、黒い戦闘員の仮面が覗く。


「判別されました!」


「されたら自己申告するな!」


 ミユは思わず突っ込んだ。


 戦闘員は慌てて逃げようとしたが、メグが近くの掃除用モップを足元に滑らせる。戦闘員は見事に転び、廊下にひっくり返った。


「メグちゃん、だんだん戦い方が実戦的になってる」


「生徒を守るためです」


「頼もしすぎる後輩!」


 ミユは本物の友人二人に向かって叫んだ。


「体育館じゃなくて、近くの先生と一緒に昇降口側へ! 同じ顔の人がいたら、二人だけの話を確認して!」


「朝倉さん……?」


 女子生徒が、ミユを見る。


 その目には、少しだけ不安があった。


 校内放送では、朝倉ミユを名乗る人物を警戒しろと言われていた。

 今、目の前にいるミユを信じていいのか、彼女にもわからないのだ。


 ミユは、その視線に胸を刺された。


 でも、前回のように言葉が止まることはなかった。


「信じなくていいから、確認して!」


 ミユは言った。


「私のことも、先生のことも、友達のことも、顔だけで信じないで。ちゃんと、知ってることを聞いて!」


 女子生徒は、一瞬だけ目を見開いた。


 それから、小さく頷いた。


「……わかった」


 彼女たちは、転んだ戦闘員を避けながら走っていった。


 ミユは息を吐く。


「今の、ちょっとヒーローっぽくなかった?」


「はい」


 メグが即答する。


「珍しく」


「余計な二文字!」


 だが、少しだけ足が軽くなった。


 全部を説明できなくてもいい。

 信じろ、と言えなくてもいい。


 確認して、と言うことはできる。


 信じることと、疑わないことは違う。


 その感覚が、少しだけわかりかけていた。


 しかし、その軽さは、次の角を曲がった瞬間、吹き飛んだ。


 廊下の先。


 夕陽が差し込む窓際。


 そこに、朝倉ミユがいた。


 ミユは、立ち止まった。


 息が止まる。


 それは、鏡ではなかった。


 自分が窓に映っているのでもない。


 廊下の向こうに、制服姿の朝倉ミユが立っていた。


 髪はきちんと整っている。

 ブレザーに粉はついていない。

 背筋はまっすぐ。

 表情は明るく、目元には疲れがない。


 彼女は、クラスメイトたちに向かって、落ち着いた声で話していた。


「大丈夫。みんな落ち着いて。レオン先生の言う通りにすれば安全だから」


 その声は、ミユの声だった。


 けれど、少しだけ違う。


 ミユ本人の声より、なめらかで、聞き取りやすくて、余計な引っかかりがない。


 クラスメイトたちは、不安そうにしながらも、その偽ミユの言葉に耳を傾けていた。


「朝倉が言うなら……」


「さっき放送で危険人物って言ってたの、別の人のこと?」


「レオン先生もあっちって言ってたし」


 偽ミユは、優しく笑った。


「うん。怖いけど、今は先生の指示を聞こう。変に動くと危ないから」


 ミユは、廊下の角に身を隠したまま、動けなくなった。


 その姿を見て、最初に出た感想は、怒りではなかった。


「……私、あんなちゃんと喋れない」


 思わず、声が漏れた。


 メグが横から見る。


「そこですか?」


「いや、そこ大事でしょ!」


 ミユは小声で叫んだ。


「あんな落ち着いて、みんなを安心させる感じで、背筋ぴんとして、髪も崩れてなくて、声も震えてなくて……無理。私じゃない。私だけど、私よりちゃんとしてる」


「それは、偽物です」


「わかってるけど! わかってるけど、ちょっと思っちゃうじゃん!」


 ミユは唇を噛んだ。


 思ってしまった。


 あっちの方が、朝倉ミユとしては正しいんじゃないか。


 母に心配をかけず、学校でも怪しまれず、クラスメイトに安心してもらえて、メグにも余計な危険を背負わせない。


 あんなミユなら、普通に暮らせるのかもしれない。


 遅刻しない。

 変なバイトもしない。

 怪人に巻き込まれない。

 母の前で嘘をつかない。

 友達に心配をかけない。


 ちゃんとした朝倉ミユ。


 その言葉が、胸の奥で嫌な音を立てた。


 偽ミユが、こちらに気づいた。


 目が合う。


 同じ目。


 でも、向こうの目には迷いがない。


 偽ミユは、ゆっくりと笑った。


「遅かったね、ミユ」


 その声を聞いた瞬間、ミユの中で何かが跳ねた。


「私の顔で私に話しかけるな!」


 廊下に声が響く。


 クラスメイトたちが一斉に振り返った。


 偽ミユは、少しも慌てない。


 むしろ、困ったような顔をして、周囲に向かって半歩下がった。


「みんな、下がって」


 その仕草が、また上手かった。


 自分が怖がっているのではなく、周囲を守ろうとしているように見える。


 偽ミユは、ミユを見て言った。


「でも、みんなは私の方を信じるよ」


「は?」


「だって私は、ちゃんとした朝倉ミユだから」


 廊下の空気が、少しだけ変わった。


 クラスメイトたちの視線が、本物のミユに集まる。


 粉まみれの制服。

 乱れた髪。

 肩で息をする姿。

 焦った顔。

 隣には端末を持ったメグ。


 どう見ても、落ち着いた偽ミユより怪しい。


 ミユは、それを自分でも理解してしまった。


 だから、言葉が詰まった。


 偽ミユは、その沈黙を逃さなかった。


「その子、プリティミューに関わってる危ない人かもしれない。近づかないで」


 クラスメイトの一人が息を呑んだ。


「プリティミュー……?」


「やっぱり、朝倉って……」


「でも、どっちが朝倉?」


「え、どういうこと?」


 ざわめきが広がる。


 ミユは反論しようとした。


「違う、私は――」


 そこで止まる。


 私は本物。


 そう言いたい。


 でも、それだけでは足りない。


 前回、マンティスシザーに切り抜かれた時もそうだった。

 自分が言った言葉なのに、違う意味にされる。

 説明すればするほど、素材にされる。


 今は、相手が自分の顔をしている。


 自分で自分を説明するほど、怪しくなる。


 喉の奥が詰まる。


 ミユは右手の袖口を握った。


 その仕草を、偽ミユが真似た。


 同じように袖口を握り、少し困ったように笑う。


「ほら。真似もできるよ」


 その言葉に、ミユの身体が冷たくなった。


 偽ミユは、さらに一歩進む。


「ねえ、ミユ。あなた、ほんとはほっとしてるんじゃない?」


「……何を」


「私が代わってあげたら、普通に戻れるかもって」


 ミユの胸を、まっすぐ突かれた。


 クラスメイトたちには聞こえないくらいの声。


 でも、ミユには届く。


「私は遅刻しない。お母さんに心配かけない。友達にも怖い思いをさせない。怪人が来ても、ちゃんと落ち着いて動ける。みんなを安心させられる」


「黙れ」


「あなたより、朝倉ミユに向いている」


「黙れって言ってるでしょ!」


 ミユが叫んだ瞬間、周囲の生徒たちがびくりとした。


 偽ミユは、怯えたふりをして後ずさる。


「見た? すぐ怒るの」


 クラスメイトの視線が揺れる。


 ミユは、しまったと思った。


 まただ。


 言葉が先に出る。

 怒りが声になる。

 それが、自分を不利にする。


 偽ミユは、優しく、悲しそうに言った。


「みんな、危ないから近づかないで」


 その瞬間、メグが前に出た。


「違います」


 小柄な身体だった。


 偽ミユとクラスメイトたちの間に立つには、あまりにも頼りない。


 でも、メグの声は震えていなかった。


「その人が、本物のミユ先輩です」


 偽ミユは、メグを見た。


 同じミユの顔で、首を傾げる。


「どうしてそう言えるの?」


 甘い声だった。


 ミユなら、そんなふうに聞かない。


 少なくとも、メグに対して、そんなふうに上から余裕を持って尋ねたりしない。


 メグは、眼鏡を押し上げた。


「先輩は、自分がちゃんとしているなんて絶対に言いません」


「それ褒めてる!?」


 ミユは反射的に叫んだ。


「褒めています」


 メグは即答する。


「本物のミユ先輩は、自分のことをちゃんとしているとは思っていません。すぐ文句を言います。照れ隠しをします。失敗すると顔に出ます。嘘をつく時、右手の袖口を握ります。でも、人を助ける時は、自分がどう見られるかを後回しにします」


「メグちゃん、今すごい恥ずかしい分析されてる!」


「必要な本人確認です」


「やっぱりそれストーカー技術じゃない!?」


「紙一重です」


「認めるなって何回言えば!」


 そのやり取りに、クラスメイトの何人かがぽかんとした。


 そして、一人が小さく言った。


「……朝倉っぽい」


 別の生徒も、ためらいながら頷いた。


「うん。なんか、そっちの方が朝倉っぽい」


「失礼だけど、わかる」


「失礼だけどってつければ許されると思うなよ!」


 ミユが叫ぶと、さらに数人が「あ、やっぱり」と呟いた。


 偽ミユの笑顔が、一瞬だけ歪んだ。


 ほんの一瞬。


 目元が硬くなり、口角が不自然に止まる。


 それは、朝倉ミユの表情ではなかった。


 メグはそれを見逃さなかった。


「今の表情、記録しました」


「記録する子は厄介だって言われてたよね、メグちゃん!」


「褒め言葉です」


 偽ミユは、ゆっくりとメグを見た。


「あなた、本当に邪魔」


「よく言われます」


「言われるの!?」


「先輩に」


「私!?」


 ミユが思わず自分を指差した、その時だった。


 校内放送が鳴った。


 ざざ、とノイズが入り、次にカメ・レオンの声が響く。


《全校生徒へ》


 廊下にいた全員が、スピーカーを見上げた。


《危険人物が校内に侵入しています》


 穏やかな声。


 だが、その奥に笑いが混じっている。


《朝倉ミユを名乗る人物を見つけたら、職員へ知らせてください》


 ミユは、天井に向かって叫んだ。


「私が朝倉ミユなんだけど!」


 廊下の空気が、また揺れた。


 今の放送は、どちらの朝倉ミユを指しているのか。

 いや、そもそも本当に学校側の指示なのか。


 誰にもわからない。


 その混乱に合わせるように、廊下の向こうから足音が聞こえてきた。


 複数。


 規則正しい。


 ミユは身構える。


 現れたのは、教師だった。


 数学の先生。

 体育の先生。

 知らない事務員。

 そして、生徒が数人。


 だが、その中の何人かは、歩き方が硬すぎた。

 目の焦点が合っていない。

 表情が少しだけ遅れて変わる。


 偽装した戦闘員だ。


 ミユは歯を食いしばる。


「教師コスの戦闘員って、なんか罪悪感すごい!」


 数学教師の姿をした戦闘員が、真面目な声で言った。


「朝倉ミユを確保します」


「先生の声で確保とか言わないで!」


 体育教師の姿をした戦闘員が、一歩前に出る。


「生徒の安全のためです」


「偽物に言われると腹立つ!」


 ミユはμブレスレットに手を伸ばしかけた。


 しかし、すぐ近くには本物の生徒たちがいる。


 クラスメイト。

 泣きそうな女子生徒。

 さっき本人確認をした友人たち。


 偽物もいる。

 本物もいる。


 誰が見ているかわからない。


 ここで変身すれば。


 また、その恐怖が喉を締めた。


 偽ミユが、優しく言う。


「変われないよね」


 ミユはそちらを睨んだ。


「だって、見られたら困るもんね」


「……」


「あなたが守りたい日常って、そうやって隠してるものの上にあるんだ」


 言い返せなかった。


 隠している。


 それは事実だ。


 母にも、クラスメイトにも、学校にも、自分がプリティミューであることを隠している。


 正体を守るために。


 でも、そのせいで誰かを疑わせている。


 誰かを巻き込んでいる。


 メグが、ミユの前に出た。


「先輩」


 その声は小さかったが、はっきりしていた。


「ここは私が生徒を誘導します」


「また危ないことする気でしょ」


「今回は、先輩が変身できる場所を作るためです」


 ミユは一瞬、何も言えなくなった。


 メグは、ミユを見上げる。


 怖くないはずがない。


 さっきから、彼女の手は少し震えている。端末を握る指先も白い。


 それでも、目は逸らさない。


「私、支援役ですから」


「支援役って、前に出ない人のことじゃないの?」


「違います」


 メグは短く言った。


「必要な場所に立つ人のことです」


 その言葉が、ミユの胸に落ちた。


 前に出ることだけが戦いじゃない。

 殴ることだけが戦いじゃない。

 変身することだけが、誰かを守る方法じゃない。


 メグは、自分の場所を見つけようとしている。


 なら、自分も迷っている場合ではない。


 ミユは息を吸った。


「……無茶したら怒るからね」


「先輩にだけは言われたくありません」


「ほんとそれ!」


 メグは生徒たちに向き直った。


「皆さん、今から本人確認をしながら昇降口側へ移動します。顔だけで判断しないでください。二人だけが知っていること、昨日話したこと、今朝の会話、そういうものを確認してください」


 偽装教師が動こうとする。


 ミユは、その前に立ちはだかった。


 変身はまだできない。


 でも、時間は稼げる。


「はいはい、先生方。補習の時間じゃないんで、生徒の列に割り込まない!」


「どきなさい」


「教師の声で命令されると本能的に嫌だけど、今日は聞きません!」


 数学教師の姿をした戦闘員が腕を伸ばす。


 ミユは身をかわし、近くの掃除用バケツを蹴った。水は入っていなかったが、バケツは戦闘員の足に当たり、金属音を立てる。


「普通の女子高生にしては動きがいいですね」


「体育の成績は普通です!」


「それは関係ありません!」


 メグはその隙に、生徒たちを横の階段へ誘導していく。


「急がず、でも止まらないでください。隣の人と確認しながら進んでください」


 クラスメイトの一人が、ミユを振り返った。


「朝倉!」


「何!」


「……そっち、本物なんだよね?」


 ミユは、一瞬だけ迷った。


 そして、笑った。


 上手な笑顔ではない。

 偽ミユのような、安心させる笑顔でもない。


 でも、今の自分にできる笑顔だった。


「確認して。あとで、購買の焼きそばパン奢ってくれたら本物ってことにしていいよ」


「なんでこっちが奢るの!?」


「本物の朝倉って、そういうとこある」


「どういうとこ!?」


 クラスメイトは、少しだけ笑って走っていった。


 偽ミユの顔が、また歪む。


「不完全なのに」


 その声は、もうミユに似せる気が薄れていた。


「どうして信じるの」


 ミユは、振り返った。


「知らないよ」


 息が上がっている。

 制服は粉まみれ。

 髪は乱れている。

 足も震えている。


 それでも、言った。


「でも、ちゃんとしてる方が本物とは限らないでしょ」


 偽ミユは、笑わなかった。


 その瞬間だった。


 廊下の奥から、別の声がした。


「ミユ」


 ミユの身体が、凍りついた。


 母の声だった。


 かなえの声。


 柔らかくて、少し低くて、怒る前に名前を呼ぶ時の声。


 ミユは、ゆっくり振り返った。


 廊下の奥。


 夕陽の届かない影の中に、朝倉かなえが立っていた。


 エプロン姿ではない。

 外出用のカーディガンを羽織り、手にはスマホを持っている。


 顔色は悪い。

 でも、目はミユを見ている。


 その姿を見た瞬間、ミユの胸が締めつけられた。


「ママ……?」


 かなえは、一歩前に出た。


 だが、その隣で、偽ミユがくすりと笑った。


 そして、次の瞬間、偽ミユの声が、かなえの声に変わった。


「ミユ」


 同じ声。


 同じ呼び方。


「ママは、どっちを信じればいいの?」


 廊下の奥に立つかなえが、本物なのか。

 偽ミユが真似た声なのか。

 そもそも、目の前のかなえ自体が本物なのか。


 ミユには、わからなかった。


 右手の袖口を握る。


 μブレスレットの感触が、布の下で熱を持つ。


 でも、動けない。


 母の顔をした人が、そこにいる。


 そして、自分の顔をした偽物が、すぐ近くで笑っている。


 ミユは、かすれた声で呟いた。


「……ほんと、趣味悪すぎ」


 偽ミユは、ミユの顔で、優しく微笑んだ。

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