第1節 ― となりの誰かは、ほんとうに誰?
朝倉ミユは、味噌汁の匂いで目を覚ました。
目覚まし時計は、すでに三回鳴ったあとだった。
スマホの画面には、無慈悲な時刻が表示されている。
七時十八分。
起床予定時刻は、六時五十分。
「……うそでしょ」
ミユは布団の中で、しばらく動かなかった。
身体が重い。
昨日は怪人と戦っていない。少なくとも、ミュー・ハンマーを振り回して校舎を壊したり、駅前広場を水浸しにしたり、廃劇場の屋上から落ちたりはしていない。
それなのに、疲れが抜けていない。
理由はわかっていた。
前回の配信騒動だ。
切り抜き動画。
マンティスシザー。
《CUT ROOM》。
モニターに映った自分の言葉。
母・かなえの目。
言えなかった秘密。
戦闘は終わった。
でも、あの夜の気まずさは、まだミユの体の奥に残っていた。
布団をかぶり直したい。
今日一日、学校を休んで、何も見ないで、何も聞かないで、誰にも「プリティミューってさ」と言われずに過ごしたい。
そう思った瞬間、階下から母の声が飛んできた。
「ミユー! 起きてるー?」
ミユは目を閉じた。
起きていないことにしたかった。
「起きてなかったら返事してー!」
「その確認方法おかしくない!?」
反射的にツッコんでしまった。
負けた気がした。
かなえの声が、少し笑ったように響く。
「起きてるじゃない。朝ごはん冷めるわよ」
「今起きたー!」
ミユは布団を蹴飛ばし、半分転がるようにベッドから降りた。
床に足をつけた瞬間、ふくらはぎがびりっと痛む。
「うっ……なんでまだ筋肉痛……」
戦闘後の疲労は、だいたい一日では抜けない。
だが、母には「変身して怪人と戦った後遺症」とは言えない。体育で頑張ったとか、階段でつまずいたとか、バイトで変な姿勢を続けたとか、毎回その場しのぎの言い訳をしている。
そのうち自分の人生が言い訳でできたミルフィーユになるんじゃないか。
ミユはそんなことを考えながら、制服に袖を通した。
鏡の前に立つ。
髪が跳ねている。
目の下に、少しだけクマがある。
顔色も、あまりよくない。
「……偽物が出るなら、もっと顔色いいバージョンで出てほしい」
自分で言って、自分で嫌になった。
偽物。
そういう話題が、最近やたら現実味を帯びている。
切り抜かれた言葉は、自分の言葉なのに自分ではなかった。
画面の中のプリティミューは、自分なのに、自分の全部ではなかった。
だったら、もし顔や声まで真似されたら。
そんなことを考えてしまって、ミユは首を振った。
「朝から不吉なこと考えるのやめよ」
髪を手ぐしでどうにか押さえ、鞄をつかんで階段を降りる。
台所には、いつものように朝食が並んでいた。
白いごはん。
味噌汁。
卵焼き。
小松菜のおひたし。
昨日の残りらしい鶏そぼろ。
かなえは、エプロン姿で台所に立っていた。
「おはよう」
「おはよ……」
ミユは食卓につきながら、母の顔を見た。
いつもの母だ。
少し疲れているけれど、普通の朝の顔。
前回の事件以来、母とはぎこちない時間が続いている。
かなえは必要以上に問い詰めてこない。
ミユも、言えないことには触れない。
だからこそ、会話の間に小さな空白ができる。
その空白を埋めるように、かなえは味噌汁の椀をミユの前に置いた。
「熱いから気をつけて」
「うん」
ミユは箸を取り、味噌汁をひと口飲んだ。
そこで、少しだけ眉が動いた。
薄い。
まずいわけではない。
でも、いつもの味より、少しだけ薄い。出汁の感じも、どこか違う。かなえの味噌汁は、もう少しだけ味噌の角が丸くて、最後に昆布の風味が残る。
今日の味噌汁は、ちゃんと作ってあるのに、どこか「かなえの味」に届いていない。
「……ママ」
「なに?」
「今日、味噌汁ちょっと薄くない?」
かなえは、一瞬だけ動きを止めた。
本当に一瞬だった。
茶碗を置く手が、わずかに遅れた気がした。
それから、いつもの笑顔になる。
「そう? 寝ぼけてるんじゃない?」
「いや、寝ぼけてても味噌汁の濃さはわかるよ。私の朝の生命線だよ?」
「昨日から疲れてるから、舌が変なのかもね」
「舌が変って、けっこう重症みたいな言い方」
ミユは卵焼きを口に運んだ。
今度は、甘い。
いつもより、少し甘い。
かなえの卵焼きは、ほんのり甘いけれど、ここまでではない。
甘すぎるほどではない。
でも、微妙に違う。
ミユは箸を止めた。
「ママ、今日なんか変じゃない?」
「そう?」
かなえは首を傾げた。
その動作も、ほんの少しだけ遅い。
質問を聞いてから、首を傾げるまでに、ワンテンポある。
ミユの背中に、ぞわっとしたものが走った。
「ミユが寝不足なだけじゃない?」
かなえは笑った。
いつもの笑顔。
の、はずだった。
けれど、笑い出すタイミングが、ほんの少しだけ遅かった。
まるで「ここで笑う」と判断してから笑ったみたいに。
ミユは、味噌汁の椀を持ったまま固まった。
「……ママ」
「なに?」
「昨日、夜ごはん何食べたっけ」
かなえは目を瞬かせた。
「急に何?」
「いいから。何食べた?」
「カレー」
「それ、一昨日」
「あら、そうだった?」
かなえは軽く笑った。
「最近、日付感覚が怪しくて」
ミユは、じっと母を見た。
昨日の夜は、焼き魚だった。
配信スタジオから帰ったあと、かなえが温め直した味噌汁と焼き魚を出してくれた。ミユは疲れていたのに、ちゃんと食べた。かなえに「骨、気をつけなさい」と言われて、「子ども扱いしないで」と返した。
覚えている。
だから、かなえが忘れるのは少し変だった。
でも、絶対にありえないほどではない。
かなえも疲れていた。
あの夜、母だって怪人事件に巻き込まれたのだ。多少ぼんやりしていてもおかしくない。
そう思いたい。
思いたいのに、胸の奥がざわざわする。
「ミユ?」
かなえが顔を覗き込んだ。
「本当に顔色悪いわよ。学校、休む?」
「いや、行く」
「無理しなくていいのよ」
「無理してない」
「そう?」
かなえは、また笑った。
少し遅れて。
ミユは椀を置き、無理やりごはんをかき込んだ。
考えすぎだ。
昨日の今日で、神経質になっているだけ。
マンティスシザーのあとだから、言葉や態度のズレに過敏になっているだけ。
そう自分に言い聞かせる。
でも、玄関を出る時、かなえが言った言葉で、また足が止まった。
「いってらっしゃい、ミユ。今日は、早く帰ってきてね」
「……うん」
普通の言葉だった。
母が娘に言う、普通の朝の言葉。
なのに、ミユにはその奥に、知らない誰かの目があるような気がした。
*
通学路の空気は冷たかった。
冬の朝の住宅街は、音がよく響く。自転車のブレーキ音、遠くを走る車、登校中の生徒たちの話し声。どれもいつも通りなのに、ミユの耳には少しだけ遠く聞こえた。
スマホを確認する。
メグから、朝早くにメッセージが届いていた。
《先輩、おはようございます》
《昨日のログ整理をしています》
《今日から、本人確認用メモを作ります》
ミユは歩きながら返信を打った。
《本人確認用メモって何》
《怖いんだけど》
すぐに返事が来る。
《怪人対策です》
《切り抜きの次は、なりすましが来る可能性があります》
ミユは足を止めた。
今朝のかなえの違和感が、頭をよぎる。
「……タイミング悪すぎ」
その時、背後から声がした。
「先輩」
ミユは振り返った。
高梨メグが、少し早足でこちらへ歩いてきていた。いつもの眼鏡。小柄な体。肩から下げた鞄。片手にはスマホ、もう片方には小さなノート。
ミユは、思わずじっと見てしまった。
メグは足を止める。
「……何ですか」
「本人?」
「朝からひどい確認ですね」
「いや、本人確認用メモとか言い出したのメグちゃんだから」
「そうでした」
メグは真面目にうなずいた。
そしてノートを開く。
「では、先輩も確認してください。私は昨日の夜、怪人事件ログの更新後に、端末バックアップを二重化しました。今日の朝食はトーストとヨーグルトです。先輩への最後のメッセージは《なりすましが来る可能性があります》です」
「そこまで言われると逆に怖い!」
「本人確認とは、相手が知っているはずの連続性を確認することです」
「朝の挨拶に求める情報量じゃない」
ミユは呆れながらも、少しだけ安心した。
この理屈っぽさ。
この過剰な準備。
そして、本人確認をしながら本人に引かれているところ。
メグだ。
たぶん。
「で、その本人確認用メモって何?」
ミユが尋ねると、メグはノートを見せた。
そこには、びっしりと文字が並んでいた。
ミユの名前もある。
《朝倉ミユ先輩》
《歩幅:やや大きめ。急ぐと右肩が少し上がる》
《嘘をつく時:視線が右上に逃げる/袖口を触る》
《強がる時:「別に」「普通に」「だいじょうぶ」を多用》
《怪人関係で焦る時:ツッコミの密度が上がる》
《空腹時:判断力と機嫌が低下》
《母親関連:反応が極端に早い》
ミユは無言でノートを閉じた。
「メグちゃん」
「はい」
「それ、怪人対策なの? ストーカー技術なの?」
「紙一重です」
「認めないで!」
「ですが、前回の切り抜き事件でわかりました。映像や音声だけでは不十分です。発言内容も編集されます。なら、本人を確認するには、言葉だけでなく、行動の癖や関係性の連続性を見る必要があります」
「言ってることは正しいのに、私のプライバシーが粉々になってる」
「必要な犠牲です」
「勝手に犠牲にしないで!」
いつものやり取り。
それだけで、ミユの胸のざわつきが少しだけ落ち着いた。
しかし、完全には消えない。
メグはその表情に気づいたらしい。
「先輩、何かありましたか」
「……朝、ママがちょっと変だった」
メグの目がすっと細くなる。
「具体的には」
「味噌汁が薄い」
「はい」
「卵焼きが甘い」
「はい」
「笑うタイミングがちょっと遅い」
「……記録します」
「そこで記録するんだ」
メグはスマホに素早く入力した。
「前回、お母さまはマンティスシザーに接触されています。ジョーカー側が朝倉家を監視対象にしている可能性は高いです」
「やめて。朝から胃が終わる」
「ただし、断定はできません。疲労やストレスによる変化の可能性もあります」
「それであってほしい」
「私もです」
メグは短く言った。
その表情は、いつもより硬かった。
二人は並んで学校へ向かった。
*
宝珠南高校の校門前には、いつもより生徒が多く集まっていた。
何かざわついている。
ミユは嫌な予感を覚えた。
「またプリティミューの話題かな……」
案の定、近くの女子たちがスマホを見ながら話している。
「昨日の元動画見た?」
「長くない?」
「でも切り抜きだけ見るのも危ないって言われてたじゃん」
「いや、でも時給制は本当なんでしょ?」
「そこはちょっと面白い」
「プリティミュー、なんか完璧じゃない感じが逆にリアル」
「でも正体隠してるのは怖くない?」
「怪人に狙われるなら隠すでしょ」
「そうかなあ」
完全に疑いが晴れたわけではない。
でも、前回ほど一方的ではなかった。
ミユは、それを聞いて胸の奥が少しだけ軽くなる。
軽くなった直後、別の男子の声が聞こえた。
「ていうか、プリティミューがこの学校にいたりして」
ミユの背筋が固まった。
別の生徒が笑う。
「ないない。いたらもっと面白いじゃん」
「朝倉とかだったら笑う」
ミユは盛大に咳き込んだ。
「ごほっ、ごほっ!」
メグが横から冷静に背中をさする。
「反応しすぎです」
「無理でしょ今の!」
「本人確認用メモに追加します」
「追加しないで!」
そんなやり取りをしていると、昇降口の方からひときわ大きな声が上がった。
「え、誰あの先生?」
「かっこよくない?」
「臨時の先生?」
「外国の人?」
ミユとメグは顔を見合わせた。
生徒たちの視線の先。
昇降口前に、見慣れない男が立っていた。
長身。
明るい茶金色の髪。
整った顔立ち。
白いシャツに、細身のベストとジャケット。
教師というより、舞台俳優かモデルのようにも見える。
しかし、立ち方は自然だった。
目立っているのに、目立ちすぎない。
笑顔は柔らかく、生徒に向ける視線は親しげで、廊下を通る先生たちにも丁寧に頭を下げている。
完璧に「好印象な臨時教師」だった。
それが、逆にミユには怪しかった。
「メグちゃん」
「はい」
「あの人、百点満点で怪しい」
「百点満点で好印象にも見えます」
「それが怪しいんだって」
「先輩の警戒基準、だいぶ怪人寄りになっていますね」
「経験値のせい!」
その男は、近くの生徒に笑顔で挨拶していた。
「おはようございます。今日から少しの間、宝珠南高校でお世話になります。獅堂レオンです」
声もよく通る。
柔らかく、明るく、聞き取りやすい。
生徒たちがざわつく。
「獅堂レオン?」
「名前つよ」
「ハーフかな」
「臨時担任って言ってたよ」
ミユは目を細めた。
「レオン先生……」
獅堂レオン。
その名前が、妙に耳に残った。
カメ・レオン。
まだその連想には届かない。
けれど、胸の奥に引っかかるものがある。
その時、レオンがこちらを見た。
人混みの向こうから、まっすぐに。
ミユと目が合う。
レオンは、ほんの少しだけ笑みを深くした。
他の生徒に向けた笑顔とは、少し違う。
まるで、ずっと探していたものを見つけたような顔。
ミユの背中に、冷たいものが走った。
「……やだ。今、目ぇ合った」
「先輩、かなり見ていましたから」
「違う。向こうが見つけた感じだった」
レオンはゆっくり近づいてきた。
周囲の生徒たちが自然に道を開ける。
そして、ミユの前で立ち止まった。
「朝倉ミユさん」
名前を呼ばれた。
初対面のはずなのに。
ミユは、反射的に一歩引いた。
「……はい」
「お会いできて光栄です」
「なんで初対面でそんな言い方?」
周囲の生徒たちがくすっと笑った。
レオンも、少し楽しそうに笑う。
「田中先生から、元気な生徒さんだと聞いていました」
「元気っていうか、だいたいトラブル対応で声が大きいだけです」
「それも、元気の一種でしょう」
「雑な分類」
レオンの視線が、ほんの一瞬だけ、ミユの右手首へ落ちた。
μブレスレットは、制服の袖で隠れている。
見えるはずがない。
なのに、見られた気がした。
ミユは無意識に袖口を握った。
レオンは、その動きも見ていた。
「今日からよろしくお願いします、朝倉さん」
「……よろしく、お願いします」
ミユがぎこちなく返すと、レオンは次にメグを見た。
「あなたは、高梨メグさんですね」
メグの表情がわずかに動いた。
「はい。どうして私の名前を?」
「先生ですから。生徒の名前は覚えます」
「私は一年です。朝倉先輩とは学年が違います」
「そうでしたね」
レオンは自然に微笑んだ。
「でも、よく一緒にいると聞いています」
ミユとメグは同時に黙った。
誰から聞いたのか。
田中先生なら、そこまで細かく言うだろうか。
レオンは軽く会釈し、昇降口の奥へ歩いていった。
その背中を見送りながら、ミユは小声で言った。
「メグちゃん」
「はい」
「あの人、絶対何かある」
「同意します」
「珍しく即答」
「私の情報にも、まだありません。獅堂レオンという臨時教師の事前記録が、学校公開情報に出ていません」
「それ、もう黒じゃん」
「ただ、まだ怪人とは限りません」
「そこは慎重なんだ」
「証拠が必要です」
メグはスマホを取り出した。
「調べます」
「授業前に?」
「授業中も」
「それはダメでしょ」
「怪人事件の可能性があります」
「便利だな、その免罪符」
チャイムが鳴った。
二人は、ざわめく生徒たちの中を校舎へ入った。
*
その日の教室は、いつもより少し浮ついていた。
田中先生が急病で休み、代わりに臨時担任が来る。
それだけなら、学校ではよくある出来事だ。
だが、獅堂レオンは少し目立ちすぎた。
教室に入ってきた瞬間、空気が変わる。
「皆さん、おはようございます」
低すぎず、高すぎず、聞き取りやすい声。
「本日から数日間、田中先生の代わりにこのクラスを担当します。獅堂レオンです」
黒板に名前を書く字も、やたら整っている。
生徒たちが小声でざわつく。
「字きれい」
「声いい」
「先生っぽくない」
「ドラマに出てきそう」
レオンは、そのざわめきを嫌な顔ひとつせず受け止めた。
「急なことで不安もあると思いますが、皆さんの学校生活に支障が出ないよう、できる限りサポートします」
完璧だ。
完璧に、いい先生。
ミユは頬杖をつきながら、ますます怪しんだ。
いい先生すぎる。
今まで出会ってきた怪人たちのせいで、ミユの中では「やたら完璧」「やたら優雅」「やたら甘い香りがする」「やたらこちらの事情に詳しい」は、ほぼ危険信号になっていた。
レオンは出席を取り始めた。
名前を呼ぶ声に、ほとんど迷いがない。
「相原さん」
「はい」
「石動さん」
「はい」
「朝倉ミユさん」
「……はい」
ミユが返事をすると、レオンは少しだけ微笑んだ。
ほんの少し。
クラスの誰も気づかない程度に。
でも、ミユにはわかった。
こっちを見ている。
観察している。
心臓が嫌なリズムで鳴り始める。
ホームルームが終わり、授業が始まる。
レオンは授業もうまかった。
説明はわかりやすい。
冗談もほどよい。
眠そうな生徒にはさりげなく声をかける。
黒板の使い方も綺麗。
クラスの評価は、一時間目が終わる頃にはほぼ固まっていた。
「レオン先生、よくない?」
「田中先生には悪いけど、わかりやすい」
「しばらくいてほしい」
ミユだけが、机に突っ伏しそうになっていた。
「……逆に怖い」
隣の席のクラスメイトが笑う。
「朝倉、警戒しすぎじゃない?」
「いや、ああいう百点の大人ほど怪しいんだって」
「何があったらそんな人生観になるの」
「ここ数週間でいろいろ」
言ってから、ミユは口を閉じた。
いろいろありすぎて、自分でも説明しづらい。
*
昼休み。
ミユはいつものように、廊下の端でメグと合流した。
メグは弁当箱を持っていなかった。代わりに、ノートパソコンを抱えている。
「ごはんは?」
「購買でパンを買いました」
「それ、食べながら調査するやつでしょ」
「はい」
「健康に悪い」
「先輩に言われるとは思いませんでした」
「私も自分で思った」
二人は人気の少ない階段踊り場へ移動した。
メグはすぐにノートパソコンを開く。画面には、ログイン履歴らしきものが表示されていた。
「先輩」
「うん」
「朝、私と会いましたよね」
「会ったよ。本人確認されたよ」
「はい。でも、私のアカウントには、その時間に別の場所でログイン記録があります」
ミユの表情が固まった。
「……どういうこと?」
「誰かが、私の端末か、私自身になりすましている可能性があります」
「こわ」
声が素で出た。
メグは画面を指差す。
「ログイン地点は校内です。私が先輩と通学路で合流していた時間に、学校の情報端末室からアクセスがありました」
「メグちゃんのスマホがハッキングされたとか?」
「その可能性もあります。ただ、二段階認証を通過しています」
「強すぎる敵」
「あるいは、私の認証情報そのものが複製されています」
ミユは、朝のかなえのことを思い出した。
味噌汁。
卵焼き。
笑うタイミング。
本人に見える。
でも、少し違う。
そんな違和感。
「なりすまし……本当に来た?」
「可能性は高いです」
メグは、いつもより低い声で言った。
「そして、獅堂レオン先生の赴任記録が不自然です。学校側の内部記録にはありますが、教育委員会側の公開記録には反映されていません」
「内部記録が書き換えられてるってこと?」
「そう考えるのが自然です」
「自然って言葉が自然じゃない」
ミユは階段の手すりに寄りかかった。
スマホを取り出し、アインに連絡しようとする。
その瞬間。
校内放送のチャイムが鳴った。
きん、こん、かん、こん。
昼休みのざわめきが、少し静まる。
スピーカーから、穏やかな声が流れた。
《朝倉ミユさん》
ミユの心臓が跳ねた。
レオンの声だ。
《大事なお話があります。放課後、第一会議室へ来てください》
廊下の向こうで、何人かの生徒がこちらを見る気配がした。
ミユは、スマホを握りしめたまま固まる。
メグも、じっとスピーカーを見上げていた。
「先輩」
「うん」
「罠ですね」
「だよね」
「行きますか」
「行かないと、もっと面倒になるやつだよね」
「はい」
ミユは深く息を吐いた。
放課後、第一会議室。
いかにもすぎる。
だが、行かなければ何もわからない。
それに、もしレオンが本当にジョーカーの怪人なら、放っておけば学校全体が危ない。
ミユはスマホをポケットへ戻した。
「メグちゃんは無理しないで」
「無理の定義によります」
「そういう返事がもう無理する人の返事なんだよ」
「先輩も同じです」
「私はほら、バイトだから」
「危険手当は出ていますか」
「出てるけど、足りない」
メグは少しだけ笑った。
ミユも、笑おうとした。
けれど、その笑いはうまく形にならなかった。
*
放課後。
校舎は、昼間より静かになっていた。
部活へ向かう生徒たちの声が遠くから聞こえる。廊下には夕陽が差し込み、床に長い光の線を作っていた。
ミユは、第一会議室へ向かって歩いていた。
メグは、少し離れた場所で別ルートから様子を見ると言っていた。本人確認用メモと端末を使って、レオンの動きを追うつもりらしい。
一人で歩く廊下は、やけに長く感じた。
窓ガラスに、自分の姿が映っている。
制服姿。
少し乱れた髪。
寝不足気味の顔。
右手の袖口を、無意識に握っている。
ミユは、その手を離した。
「……見られてる気がする」
小声で呟く。
誰もいない廊下なのに、視線を感じる。
教室のドア。
廊下の角。
掲示板のガラス。
窓の外。
どこかに、誰かがいるような気がする。
第一会議室の扉が見えた。
ミユは足を止め、深呼吸した。
「ただの臨時教師。ただの呼び出し。ただの学校」
自分に言い聞かせる。
そして、自分で首を振る。
「いや、絶対ただじゃない」
扉に手をかける。
その直前。
廊下の窓ガラスに映る自分の姿が、ふっと動いた。
ミユは振り返っていない。
動いていない。
なのに、窓の中のミユだけが、こちらを向いた。
同じ顔。
同じ制服。
でも、笑っている。
ミユ本人よりも、ずっと落ち着いた、きれいな笑顔で。
その口元が、ゆっくり動いた。
声は聞こえない。
でも、何を言ったのかはわかった。
――遅かったね、ミユ。
ミユの背筋に、氷を入れられたような感覚が走った。
次の瞬間、窓ガラスには、ただ夕方の廊下と、青ざめた自分の顔だけが映っていた。
ミユは、第一会議室の扉を見つめる。
中から、穏やかな声がした。
「どうぞ、朝倉さん」
レオンの声。
ミユは、乾いた唇をなめた。
そして、扉を開けた。




