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第7節 ― 切られても、残るもの

 配信スタジオ《CUT ROOM》に、静けさが落ちた。


 さっきまで壁一面のモニターを埋め尽くしていた切り抜き動画は、もう流れていない。


 赤い《LIVE》の文字も消えた。

 銀色のハサミのアイコンも消えた。

 悪意ある字幕も、流れ続けていたコメントも、今はただ黒い画面の向こうへ沈んでいる。


 壊れた照明が、天井で小さく揺れていた。


 そのたび、床に散らばった映像フレームの欠片が、かすかに光を返す。


 プリティミューは、ミュー・ハンマーを下ろしたまま、しばらく動けなかった。


 呼吸が荒い。


 腕が痛い。

 肩も痛い。

 足も痛い。

 でも、それ以上に、喉の奥が痛かった。


 叫んだからではない。


 言葉を切られ続けたせいで、まだ自分の声が自分のものではないような気がしていた。


 何を言っても切り取られる。

 何を言っても違う意味にされる。

 何を言っても届かないかもしれない。


 その怖さが、身体の奥に残っている。


「ミユさん」


 通信の向こうで、ワトソンの声がした。


《配信停止を確認しました。ミラーサーバーへの拡散も、現在は沈静化しています》


「……完全に止まった?」


《完全ではありません。すでに保存された断片は残ります》


「だよね」


 プリティミューは小さく息を吐いた。


 わかっていた。


 一度流れたものは、全部消えない。

 全部元通りにはならない。


 それでも、止められたものもある。


 つなぎ直せたものもある。


《ですが、元映像と照合情報も同時に拡散されています》


 ワトソンは静かに続けた。


《少なくとも、切り抜きだけが唯一の記録である状態は解除されました》


「……そっか」


 プリティミューは、少しだけ目を伏せた。


 それは、勝ったというより、取り戻したに近かった。


 全部ではない。


 でも、少しだけ。


「先輩……」


 すぐ近くで、メグの声がした。


 彼女は床に座り込んでいた。タブレットを両腕で抱え、肩で息をしている。眼鏡は少しずれていて、髪も乱れていた。制服の袖には、映像刃がかすめたのか、細い切れ目が入っている。


 プリティミューは慌てて駆け寄った。


「メグちゃん、大丈夫!?」


「私は大丈夫です」


「その大丈夫、だいたい大丈夫じゃない時のやつ!」


「端末は大丈夫ではありません」


「そっち!?」


 メグは割れた画面を見せた。


 タブレットの表示はまだ生きているが、画面の端に斜めのノイズが走っている。ミユにはよくわからないが、きっとかなり危ない状態なのだろう。


「データは?」


「ワトソンさんがバックアップしてくれました。最低限、元映像の照合データは残っています」


《はい。メグさんの端末から転送されたログは保護済みです》


「よかった……」


 プリティミューは本気でほっとした。


 メグ自身が無事だったこと。

 そして、メグが守ろうとしていた記録も無事だったこと。


 その両方に。


 メグは、少しだけ目を細めた。


「先輩」


「うん?」


「届いたと思います」


 その声は、小さかった。


 でも、まっすぐだった。


「全部の人には無理でも、たぶん、届いた人はいます」


 プリティミューは、何か言おうとした。


 けれど、言葉が出る前に、スタジオの奥で小さな音がした。


 かなえが、そこに立っていた。


 黒いモニターの前で、呆然と。


 手にはバッグを持ったまま。

 コートの袖をぎゅっと握っている。

 顔色は悪い。


 でも、その目は、プリティミューから逸れていなかった。


 プリティミューは息を止めた。


 母は、変身そのものをはっきりとは見ていない。


 舞台袖の暗がり。

 まばゆい光。

 その後に現れたプリティミュー。


 すべてをつなげようと思えば、つながってしまう。


 でも、まだ決定的ではない。


 まだ、何も言われていない。


「あなたは……」


 かなえの声が震えた。


 プリティミューは、ハンマーを握る手に力を込めた。


 怖い。


 怪人と戦っている時とは違う怖さだった。


 かなえが一歩、こちらへ近づく。


 プリティミューは反射的に下がりかけた。


 その時、メグがそっと立ち上がった。


「プリティミューさん」


 いつもの呼び方だった。


 けれど、ほんの少しだけ芝居がかっていた。


「こちらは私が確認します。先輩――ではなく、朝倉先輩も近くにいるかもしれないので、探してきます」


 ミユは一瞬、メグを見た。


 メグは、目だけで小さく合図した。


 今のうちに。


 そう言っている。


 プリティミューは、胸の奥で「ありがとう」と呟いた。


 声に出せば、また何かがこぼれそうだったから。


 彼女は、壊れた照明の影に身を滑り込ませた。


 かなえがその動きを追おうとしたが、メグが一歩前に出る。


「あの、危険物がまだ残っているかもしれません。少し下がってください」


「あ、はい……」


 かなえは、反射的にうなずいた。


 その隙に、プリティミューはスタジオの暗がりへ入った。


 変身解除の光は、今度は小さく抑えた。


 白とピンクの光が、壊れた機材の影に溶ける。


 装甲が消える。

 ミュー・ハンマーが光の粒になってブレスレットへ戻る。

 制服の重みが戻ってくる。


 朝倉ミユは、壁にもたれかかって、少しだけ息を整えた。


 膝が笑っている。


 泣きそうでもある。


 でも、行かなければならない。


 今度はプリティミューとしてではなく、ミユとして。


 母の前へ。


     *


 ミユが少し遅れてスタジオ中央へ戻ると、かなえはまだそこにいた。


 メグは、壊れた端末を抱えながら、少し離れたところでワトソンと小声で通信している。明らかに気を遣ってくれていた。


 ミユは、ゆっくり近づいた。


「ママ」


 かなえが振り返る。


「ミユ……」


 その声を聞いた瞬間、ミユの胸が詰まった。


 怒られると思った。


 問い詰められると思った。


 どういうことなの、と強く聞かれると思った。


 でも、かなえはすぐには怒らなかった。


 ただ、疲れた顔をしていた。


 ミユが今まで見たことのないくらい、疲れた顔だった。


「ごめんね」


 かなえが先に言った。


 ミユは目を見開いた。


「え?」


「ママ、何か変だった」


 かなえは、黒くなったモニターを見た。


「マンティスさんの話を、全部信じたわけじゃないの。でも、困っているように見えて。放っておけなくて。それで、あなたの言葉が……なんだか、すごく冷たく聞こえて」


 彼女は、胸の前で手を握った。


「今思うと、あれもおかしかったのかもしれない。あの人が何かしたのかもしれない。でも、その時は、本当にそう聞こえたの」


 ミユは唇を噛んだ。


「ううん。私も、言い方きつかった」


「ミユ」


「ほんとにきつかったと思う。怖くて、焦って、ママにわかってほしくて。でも説明できなくて、強い言い方になった」


 かなえは、静かに聞いていた。


 ミユは視線を落とす。


「ごめん」


 短い言葉だった。


 でも、今はそれしか出なかった。


 かなえは、しばらく黙っていた。


 それから、小さく息を吐く。


「でも、ミユ」


「うん」


「あなた、何か危ないことに関わってる?」


 ミユの心臓が、どくんと鳴った。


 来た。


 避けられない質問だった。


 かなえの目は、まっすぐだった。


 責めているわけではない。

 疑っているというより、心配している。

 母親として、娘が何かを隠していることに気づいてしまった目だった。


 ミユは、口を開いた。


 言えない。


 私はプリティミューだよ。


 言えない。


 怪人と戦ってる。


 言えない。


 アインっていう変な科学者にバイトとして雇われて、ワトソンっていう猫型っぽいAIにサポートされて、メグちゃんにも半分バレてて、ジョーカーが私を観測していて、ママも狙われた。


 言えない。


 でも、ここで全部嘘にするのも違う。


 さっき、自分はノーカットで届けると言った。


 全部の人に届かなくてもいい。

 今、届けたい人に届けばいい。


 だったら、母にも少しは届けなければならない。


 ミユは、震える息を吸った。


「……まだ言えない」


 かなえの表情が、わずかに動いた。


「そう」


「でも」


 ミユは顔を上げた。


「ママを危ない目に遭わせたいわけじゃない」


 かなえは、少しだけ目を伏せた。


「それは、わかる」


「ほんとに?」


「うん」


 かなえは、ゆっくりミユへ近づいた。


 ミユは逃げなかった。


 かなえの手が、ミユの頭に触れる。


 軽く、撫でる。


 子どもの頃から、何度もされた仕草だった。


 でも今日は、その手が少し震えていた。


「言えないことがあるなら、いつか言えるようになりなさい」


「……うん」


「今すぐ全部話せとは言わない。ママも、今日はいろいろ見すぎて、頭が追いついてない」


「それは、そうだと思う」


「でも、ひとりで抱えすぎないで」


 かなえの声が、少しだけ柔らかくなる。


「それと」


「うん」


「ごはんはちゃんと食べなさい」


 ミユは、思わず変な顔をした。


「急に現実的」


「現実は大事よ」


「今、配信怪人と戦った直後なんだけど」


「だからこそよ。何があっても、ごはんと睡眠は大事」


 かなえは真面目な顔で言った。


 その現実感に、ミユは少しだけ笑いそうになった。


 泣きそうにもなった。


「……今日のごはん、まだある?」


「あるわよ。味噌汁、火を止めてきたから温め直しだけど」


「それ、なんかすごく食べたい」


「じゃあ帰ったら食べなさい」


「うん」


 ミユは小さくうなずいた。


 完全に解決したわけではない。


 母は、何かに気づいている。

 ミユは、まだ何も言えていない。

 秘密は残っている。


 それでも、さっき家で切られた何かが、ほんの少しだけつながった気がした。


     *


 《CUT ROOM》の外へ出ると、ネオ・アキバタウンの夜風が冷たかった。


 裏通りの湿った空気に、古い機械の匂いと、どこかから流れてくる揚げ物の匂いが混ざっている。


 かなえは、少し離れたところで警備員らしき人に事情を聞かれていた。もちろん、怪人や変身のことは説明できない。マンティスシザーによる映像配信トラブルと、施設内の機材事故という形で、最低限の説明が行われることになったらしい。


 そのあたりの調整は、いつの間にかアインが裏で手を回していた。


《表向きは、違法配信業者の機材暴走ということにしておく》


 通信越しのアインは、さらっと言った。


「便利だけど、毎回その便利さが怖いんだよね」


《科学は便利なものだよ》


「そういう問題じゃない」


 ミユはため息をつきながら、スタジオ前の低い段差に腰を下ろした。


 隣では、メグが壊れたタブレットを見つめている。


「……修理代、どうしましょう」


「アインに請求しよう」


「いいんですか?」


「いいよ。だってほぼ業務災害でしょ」


《聞こえているよ、バイト君》


「聞こえるように言ってるんだってば」


 ミユが言うと、メグが小さく笑った。


 その笑い方が、少しだけ疲れていた。


「メグちゃんも、今日は帰ったら寝て」


「その前に、怪人事件ログを更新します」


「寝てって言ったよね?」


「今回の件は、早めに記録を出した方がいいです。切り抜き動画に対して、こちらが煽りで返さないためにも」


 ミユは黙った。


 メグはスマホを取り出した。


 壊れたタブレットの代わりに、スマホで文章を打ち始める。指の動きは少し遅い。疲れているのだろう。それでも、彼女は一文字ずつ丁寧に打っていった。


 ミユは横から画面を覗き込んだ。


《切り抜き映像について》


《一部の発言だけでは、出来事の全体はわかりません》


《プリティミューが完璧なヒーローかどうかは、私にもわかりません》


 ミユは、そこで少しだけ眉を上げた。


「そこ、そう書くんだ」


「はい」


「完璧なヒーローって書かないんだ」


「先輩、完璧ですか?」


「即答しないでほしかった」


 メグは真面目な顔で続ける。


「完璧ではないと思います。怖がりますし、文句も言いますし、すぐツッコミますし、時々かなり雑です」


「追加で刺してくるじゃん」


「でも」


 メグは、次の文を打った。


《でも、少なくとも彼女は、怖がりながらも逃げなかった》


 ミユは、画面を見つめたまま黙った。


 胸の奥が、じわっと熱くなる。


 やめてほしい。


 こういう言葉は、本当にやめてほしい。


 戦闘で殴られるより、ある意味効く。


「メグちゃん」


「はい」


「また泣かせに来てる?」


「泣きますか?」


「泣かない」


「では、まだ足りませんでした」


「何を目指してるの!?」


 メグは、ほんの少しだけ笑った。


 そして、投稿ボタンを押した。


 怪人事件ログが更新される。


 画面には、元映像へのリンクと、照合した時間軸の説明が並ぶ。タイトルは煽っていない。誰かを攻撃する文章でもない。


 ただ、切られたところをつなぎ直すための記録だった。


 ミユは、スマホ画面から目を離せなかった。


「メグちゃん、文章うまいんだよなあ」


「先輩のツッコミよりは、文脈を切られにくい文章を心がけています」


「それ、ちょっと刺さった」


「意図せず刺しました」


「意図せずなら許す」


 ミユは空を見上げた。


 ネオ・アキバタウンの空は、看板の光で星が少ない。


 それでも、夜はちゃんとそこにあった。


     *


 数日後。


 宝珠南高校の教室には、まだ噂が残っていた。


「結局、あの切り抜きって怪人の仕業だったの?」


「怪人っていうか、編集してたやつがいたっぽい」


「でも、プリティミューが時給制って言ったのは本当なんでしょ?」


「そこは本当らしいよ」


「正義の味方が時給制って何?」


「逆に親近感あるけど」


「元動画見た?」


「長くて途中まで」


「私は見た。なんか、思ってたより普通に怖がってた」


「怖がってんのに戦ってるの、ちょっとすごくない?」


「でも正体隠してるのは怪しくない?」


「それはまあ、普通に危ないからじゃない?」


 完全には元通りにならない。


 切り抜き動画を信じたままの人もいる。

 元動画を見て考え直す人もいる。

 面白がっている人も、まだいる。

 疑っている人も、まだいる。


 ミユは、自分の席でその会話を聞いていた。


 以前なら、胃がぎゅっと縮んでいたかもしれない。


 今も平気ではない。


 自分のことを言われているのに、知らないふりをしなければならないのは、やっぱりきつい。


 でも、少しだけ違っていた。


 全部の誤解は解けない。


 それはもうわかった。


 でも、全部を諦める必要もない。


 切られたら、つなぎ直せるところを探せばいい。

 届かない人がいても、届く人もいる。

 ひとりで全部説明できなくても、記録してくれる人がいる。


 ミユは、ちらりと廊下側を見た。


 そこにはメグがいた。


 後輩なのに、なぜか自然に教室の入口近くにいる。手にはノートとスマホ。こちらを見つけると、小さく会釈した。


 ミユは苦笑した。


 完全に見張られている。


 でも、悪くなかった。


     *


 放課後、アイン科学研究所。


 ネオ・アキバタウンの雑居ビル地下に移転した新研究所は、前より少し広くなっていた。


 ただし、広くなった分、アインの趣味の物も増えている。


 謎のフィギュア棚。

 古いゲーム機。

 用途不明の計測器。

 なぜか壁に貼られた魔法少女アニメのポスター。


 ミユはそれを見て、毎回言う。


「研究所っていうか、秘密基地にしたい大人の部屋じゃん」


 アインは白衣姿で、端末の前に座っていた。


「秘密基地は男のロマンだよ」


「言い切った」


「今回は君も使ったじゃないか。切り抜き動画対策として、この研究所の計算資源を」


「それは助かったけど、ポスターは関係ないよね?」


「士気が上がる」


「誰の?」


「主に私の」


「仕事して」


 ワトソンは作業台の上に座っていた。


 猫型の姿で、尻尾のようなケーブルをゆっくり揺らしている。


 アインは、戦闘データをモニターに表示した。


「今回の結果は興味深い」


「出た。興味深い」


「キミは言語攻撃に対し、反論ではなく文脈接続を選んだ」


「つまり?」


 アインは、少し考えるように指を顎に当てた。


「少し賢くなった」


「腹立つ褒め方!」


「褒めているよ」


「もっと普通に褒めなさい!」


「では、よくやった」


「急に雑!」


 ミユが叫ぶと、ワトソンが静かに言った。


「ミユさん。今回は、よく言葉を届けました」


 ミユは一瞬、黙った。


 ワトソンの声は、いつもと同じ落ち着いた合成音声だった。


 でも、その言葉はまっすぐ入ってきた。


「猫型AIに言われると、なんか素直に受け取れる」


「ありがとうございます」


「アインとの差はそこだよ」


「心外だね」


 アインは本気で心外そうにした。


 ミユは、少しだけ笑った。


 笑えるようになっている。


 それに気づいて、自分でも少し驚いた。


     *


 その帰り、ミユとメグはコブラカレーに寄った。


 店内には、スパイスの匂いが満ちていた。カウンターの奥で、コブラが鍋をかき混ぜている。相変わらず、ただのカレー屋にしては妙に存在感がありすぎる老人だった。


「いらっしゃい」


「おじさん、今日まだサービス券使える?」


「嬢ちゃん、毎回サービス前提で来るんじゃないよ」


「前回、甘い匂いの怪人倒すのにカレー使ったじゃん」


「うちは怪人対策店じゃねえ」


「でも結果的に対策してたじゃん」


 コブラは鼻で笑い、皿にカレーを盛った。


「今日は普通に食え」


「普通って最高」


 ミユとメグはカウンターに座った。


 目の前に置かれたカレーから、湯気が立つ。辛さの中に、玉ねぎの甘さと肉の匂いが混ざっていた。


 ミユはひと口食べて、思わず黙った。


「……おいしいのが腹立つ」


「褒めてんのか、けなしてんのか、はっきりしな」


「褒めてる」


「ならよし」


 メグも一口食べて、ほっと息を吐いた。


「おいしいです」


「嬢ちゃんは素直でいい」


「私が素直じゃないみたいな言い方!」


「みたいじゃなくて、そう言ってる」


「刺すねえ!」


 コブラは鍋の火を少し弱めた。


 そして、何気ない口調で言った。


「包丁もハサミも、切る道具だ」


 ミユはスプーンを止めた。


「急に何?」


「切ること自体が悪いんじゃねえ。何を切るかだ」


 コブラは、カウンターの上に置いてあった包丁を布で拭いた。


「肉を切れば料理になる。人の縁を切れば争いになる。余計なものを切り落とせば、形が整うこともある。だが、大事なところを切っちまえば、もう元には戻らねえ」


 ミユは、じっとコブラを見た。


「……おじさん、やっぱり何か知ってる?」


 コブラは、片眉だけを上げる。


「カレー屋はな、客の顔色を見る商売なんだよ」


「またそれ!」


「便利な言葉ですね」


 メグが真面目に言った。


「便利に使ってるのはおじさんだからね?」


 コブラはそれ以上、何も言わなかった。


 ただ、ミユの皿に少しだけルーを足した。


「食え。顔色がまだ悪い」


「……それは、ありがとう」


 ミユは素直にスプーンを動かした。


 辛い。


 でも、温かい。


 切られた言葉で冷えた身体に、少しずつ現実が戻ってくる気がした。


     *


 その頃。


 ジョーカー帝都支部の作戦司令室には、またしても重苦しい空気が漂っていた。


 ゲル大佐は、椅子に座っていた。


 机の上には、新しい報告書が置かれている。


《J-05 マンティスシザー作戦結果報告》


 まだ表紙だけなのに、もう厚い。


 ゲル大佐は胃を押さえた。


「……読む前から痛い」


 戦闘員42号が、端末を手に報告する。


「マンティスシザー、活動停止。配信スタジオ破壊。切り抜き拡散網も一部焼失しました」


「またか……」


「ただし、一部の切り抜き動画は外部へ残存しています」


「それを成果として数えるな。作戦全体としては失敗だ」


「はい。ですが、プリティミューさんの言語反応データは大量に取得されています」


 ゲル大佐は眉間を押さえた。


「また首領Xが喜びそうな報告だな」


 その言葉が終わるより早く、メインモニターが暗転した。


 白い仮面のアイコンが浮かぶ。


 首領X。


 ゲル大佐は立ち上がり、姿勢を正した。


「はっ」


「ゲル大佐」


「はっ」


「良いデータだった」


 ゲル大佐は、ほんの一瞬だけ目を閉じた。


 予想通りだった。


「……また敗北しましたが」


「彼女は、言葉を切られても沈黙しなかった」


 首領Xの声は、どこまでも平坦だった。


「恐怖を言葉にし、羞恥を言葉にし、怒りを言葉にし、それでも最後に、自らの意思を言葉として届けようとした」


「……」


「記録した」


 ゲル大佐は、奥歯を噛んだ。


 まただ。


 首領Xは、怪人の敗北を悔やんでいない。


 マンティスシザーという駒を失ったことにも、大きな関心を示していない。


 見ているのは、プリティミューの選択だけ。


 蜘蛛男から始まった観測は、もう明らかに段階を進めている。


 戦闘力。

 日常防衛反応。

 悪意への耐性。

 欲望への応答。

 言葉の切断への反応。


 次は何を測るつもりなのか。


 首領Xは告げた。


「次は、言葉ではなく、本人を揺らせ」


「本人を、ですか」


「隣にいる者が本物とは限らない。その状況で、彼女は誰を信じるか」


 ゲル大佐の目が細くなる。


 理解した。


 次の怪人。


 カメ・レオン。


 擬態、偽装、なりすまし。


 言葉の次は、存在そのものを疑わせる作戦。


「承知しました」


「準備を進めよ」


 通信が切れる。


 司令室に、再び暗い光が戻った。


 ゲル大佐は、深く息を吐いた。


「42号」


「はい、大佐」


「カメ・レオンの調整状況は」


「現在、偽装適性調整中です。顔面模倣、音声模倣、行動パターン模倣の三項目を重点調整しています」


「急がせろ。ただし、暴走は避けろ」


「了解です」


 42号は敬礼した。


 その後、少しだけ小声で呟く。


「ところで、大佐。切り抜き動画って怖いですね」


「任務報告を切り抜くなよ」


「まだ言います!?」


「お前の前科がある限り言う」


「前科というほどでは!」


「『戦略的撤退』と書いてあったが、実際は転んで逃げ遅れただけだったな?」


「文脈です!」


「貴様までその言葉を使うな!」


 ゲル大佐の怒鳴り声が、司令室に響いた。


 だが、その直後、彼はふとモニターを見た。


 プリティミューの戦闘記録が、そこに一瞬だけ表示されていた。


 怖がりながらも前に出る少女。


 言葉を切られても、なお言葉を届けようとした少女。


 首領Xは、あれをどこまで観測するつもりなのか。


 ゲル大佐の胃は、また静かに痛み始めた。


     *


 ネオ・アキバタウンの裏通り。


 閉鎖された《CUT ROOM》の跡地には、警戒テープが貼られていた。


 その隙間を縫うように、数人の戦闘員が素早く動いている。


 戦闘員42号も、その中にいた。


「銀色の刃片、回収」


「編集コア破片、回収」


「映像フレームの欠片、三枚。いや四枚です」


「急げ。長居すると通報されるぞ」


 42号は、床に落ちていた鎌腕の破片を慎重に拾い上げた。


 刃は折れている。


 だが、まだかすかに光っていた。


「大佐、回収完了です」


《急げ。次の作戦準備に入る》


「了解です」


 42号は通信を切りかけて、少しだけ言った。


「ところで、切り抜き動画って怖いですね」


《任務報告を切り抜くなよ》


「だから、まだ言います!?」


 42号の声が裏通りに小さく響いた。


 その後、戦闘員たちは闇へ消えていった。


     *


 暗い研究室。


 どこにあるのか、誰のものなのかもわからない部屋。


 青白い光を放つ保管ケースが、壁際に並んでいる。


 J-01。

 J-02。

 J-03。

 J-04。


 そして、新しいケースがひとつ開かれた。


 黒い手袋をした人物が、銀色の刃片をピンセットでつまみ上げる。


 刃片は、折れてなお薄く光っていた。


 まるで、まだ何かを切りたがっているように。


 それを、透明なケースの中へ収める。


 続けて、ひび割れた編集コアの破片。

 映像フレームの欠片。

 細い銀色の繊維。


 すべてが、丁寧に並べられていく。


 ケースの蓋が閉じられた。


 ラベルが貼られる。


《J-05 マンティスシザー/裁断刃片・編集コア破片・敗北データ回収予定》


 黒い手袋の指が、ラベルの端を軽くなぞった。


 ケースの中で、刃片がかすかに光る。


 その横のモニターが、静かに起動した。


 新しいデータが表示される。


《J-06 カメ・レオン/偽装適性調整中》


 画面の中で、粘土のような顔が形を変える。


 最初は無表情な誰か。

 次に、ミユの顔。

 メグの顔。

 かなえの顔。

 アインの顔。

 ワトソンの猫型アバター。


 顔が次々に変わっていく。


 笑い方も。

 声も。

 仕草も。


 最後に、画面の中の顔は、朝倉ミユとまったく同じ表情で笑った。


 暗い研究室に、機械音だけが響く。


 切られても、残るものがある。


 ならば次は。


 残ったものが、本物かどうかを揺らせばいい。

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