第5節 ― 切り抜き裁判、開廷
ネオ・アキバタウンの夜は、昼よりも輪郭が曖昧になる。
看板の光が強くなり、店の音が混ざり、画面の中の広告と、現実の人の顔が同じ明るさで浮かび上がる。配信スタジオ、撮影スペース、ジャンクショップ、地下アイドルのライブ告知、古いゲームセンター、閉店したままのテナント。
その全部が、狭い路地の中でちらちらと光っていた。
ミユは、少し離れた位置から母の背中を追っていた。
かなえは、マンティスシザーの少し後ろを歩いている。表情は硬い。完全に彼を信じているわけではないのだろう。けれど、放っておけないという気持ちが、彼女の足を前へ進ませている。
その優しさを、ミユはよく知っていた。
熱を出した時、かなえは仕事の予定をずらしてでも看病してくれた。近所で困っている人がいれば、面倒だと言いながら手を貸した。道端で具合の悪そうな人を見かけたら、素通りできない。
それは、ミユが好きな母の姿だった。
でも今は、その優しさが怪人に利用されている。
「……ほんと、最悪」
ミユは小さく呟いた。
ポケットの中のスマホが震える。
画面を見ると、メグからだった。
《先輩、どこですか》
《CUT ROOMの近くまで来ました》
《単独行動は危険です》
ミユは早足で人混みを抜けながら返信する。
《ママが中に入る》
《止められなかった》
《ごめん》
数秒後、返事が来た。
《謝るのは後です》
《合流します》
いつもより短い文章だった。
怒っているわけではない。焦っているのだ。
ミユは顔を上げた。
マンティスシザーとかなえは、裏通りの奥へ曲がった。
そこは、ネオ・アキバタウンの中でも、少し光が届きにくい一角だった。かつて配信スタジオや撮影スペースが集まっていたらしいが、今は空きテナントが多い。シャッターに貼られた古いポスターが、風にめくれている。
その一番奥。
黒いガラス張りの建物があった。
入口の上には、壊れたネオン看板が残っている。
《CUT ROOM》
CとRの文字だけが、時々不規則に光っていた。
かつては動画配信者向けのスタジオだったのだろう。入口横の看板には、色褪せた文字で《撮影ブース》《配信機材レンタル》《切り抜き編集代行》と書かれている。
その文字を見て、ミユは嫌な汗をかいた。
「場所の名前からして、罠じゃん……」
マンティスシザーが入口の前で振り返る。
彼は、かなえに向かって穏やかに言った。
「ここです。今は閉鎖されていますが、まだ配信設備は残っています」
「本当に、ここで話すの?」
かなえの声には、不安が混じっていた。
「ええ。公の場所でなければ、誰も信じてはくれません。ジョーカーに利用された怪人がいること。プリティミューが、必ずしも皆が思うような正義の味方ではないこと」
ミユは歯を食いしばった。
飛び出したい。
でも、ここで不用意に飛び出せば、また母の前で言葉を切られる。
そう考えた一瞬の迷いの間に、かなえは建物の中へ入ってしまった。
「ママ……!」
ミユが追おうとしたその時、背後から小さな足音が駆けてきた。
「先輩!」
振り返ると、メグが息を切らして走ってきた。鞄を斜めがけにし、片手にスマホ、もう片方に小型のタブレットを持っている。眼鏡が少しずれていた。
「メグちゃん!」
「中に?」
「入った。ママも」
メグの表情が引き締まる。
「配信準備が始まっています。SCISSOR CLIPのアカウントが予告を出しました」
メグがスマホを見せる。
画面には、黒い背景に銀のハサミのアイコン。
《まもなく配信開始》
《怪人被害者が語る、プリティミューの真実》
ミユの喉が詰まった。
「怪人被害者って、自分のこと?」
「そう見せるつもりだと思います」
「どこまで性格悪いの」
「かなりです」
メグは短く答え、入口を見た。
「先輩、私が配信元を追います。先輩は、お母さまを」
「うん。でも、メグちゃんも危ないから」
「わかっています」
メグは一度だけミユを見上げた。
「でも今回は、私が見ているだけだと、たぶん間に合いません」
その言葉に、ミユは何も言えなくなった。
第2話で、メグは連れ去られた。
第3話で、言葉の毒を受けた。
第4話で、欲望の罠に引き込まれかけた。
それでも彼女は、もう後ろに下がるだけの子ではなくなっている。
ミユは短く頷いた。
「無茶しないで」
「先輩もです」
「私の無茶は業務内容に含まれてるから」
「含めないでください」
ほんの少しだけ、いつものやり取りが戻った。
それだけで、ミユは足に力が入った。
二人は《CUT ROOM》の中へ入った。
*
スタジオ内は、外から見たよりずっと広かった。
受付だったらしいスペースを抜けると、奥に大きな撮影フロアがある。床には、編集ソフトのタイムラインのような光の線が走っていた。天井からは照明機材が吊られ、壁一面にモニターが並んでいる。
そのすべてに、プリティミューが映っていた。
《時給制の正義》
ピンクの装甲姿のプリティミューが、画面の中で叫ぶ。
《税金じゃない! 時給制!》
《怪人への暴言》
別のモニターで、レイディスコーピオン戦の映像。
《その格好で言う!?》
《市民より正体隠しを優先》
暗い廃劇場。
《見られたら、終わるじゃん……》
《普通の生活が欲しいと発言》
地下温室。
《普通の生活、欲しいよ》
その言葉たちが、モニターごとに切り分けられ、繰り返し流れている。
ミユは足を止めた。
見たくない。
けれど、目を逸らすと、もっと負けた気がした。
かなえはスタジオ中央に立ち尽くしていた。
その背中が、小さく見えた。
「これ……プリティミューさん?」
かなえの声は震えていた。
マンティスシザーは、彼女の少し横に立っている。さきほどまで弱々しかった姿は、もうほとんど残っていない。黒いコートを整え、銀のハサミを手に、まるで司会者のように微笑んでいる。
ミユは駆け寄った。
「ママ!」
かなえが振り返る。
「ミユ、どうして来たの」
「来るに決まってるでしょ!」
ミユはモニターを指さした。
「違う、これは切り抜きで――」
かなえは、困惑したまま言った。
「でも、言ってるのは本当なのよね?」
ミユの言葉が止まった。
その質問は、あまりにもまっすぐだった。
言っているのは本当。
そうだ。
時給制と言った。
怪人にツッコミを入れた。
見られたら終わると怯えた。
普通の生活が欲しいと言った。
それは嘘ではない。
でも、それだけではない。
あの後に、助けに行った。
怖くても飛び込んだ。
欲しいものを認めても、友達を置いていかなかった。
なのに、すぐに言えない。
なぜ知っているのかと聞かれたら、答えられないからだ。
ミユは唇を噛んだ。
「……本当だけど、違う」
「本当だけど、違う?」
かなえが繰り返す。
その声に責める響きはなかった。
ただ、わからないという戸惑いがあった。
それが、ミユにはつらかった。
マンティスシザーが静かに笑う。
「まさに、それが真実の面白いところです」
彼はスタジオ中央へ歩み出た。
床の光が、彼の足元で銀色に変わる。モニターの映像が一斉に切り替わり、黒い背景に銀のハサミのアイコンが表示された。
上部に赤い文字。
《LIVE》
メグがはっとタブレットを操作した。
「配信が始まりました!」
マンティスシザーは、カメラの前に立つように背筋を伸ばした。
どこからともなく、複数の小型カメラドローンが浮かび上がる。虫のような羽音を立てながら、彼とかなえとミユを囲む。
画面にタイトルが表示された。
《怪人被害者が語る、プリティミューの真実》
ミユは叫んだ。
「やめて!」
だが、その声に合わせて、スタジオの照明が落ちた。
暗闇の中、モニターだけが光る。
空中に、薄い映像の断片が浮かび上がった。
四角いフレーム。
短い字幕。
自分の声の切れ端。
ピンクの装甲。
怪人の影。
人々のコメント。
それらは、紙片のように空中を漂い、次第に鋭い刃の形へ変わっていく。
メグが一歩下がった。
「映像片が、実体化してます……!」
ミユの腕のμブレスレットが、警告するようにかすかに熱を持った。
通信が入る。
《ミユさん》
ワトソンの声だった。
《配信信号を確認しました。複数のミラーサーバーを経由しています。停止には時間がかかります》
メグは即座にイヤホンを片耳に入れた。
「なら、元動画を探します。ワトソンさん、保存ログへのアクセスを」
《許可します。メグさん、端末を研究所回線へ接続してください》
「了解です」
メグは床に膝をつき、タブレットとスマホをケーブルで接続した。
彼女の指が、恐ろしい速度で画面を叩く。
その横で、ミユはかなえの前に立った。
「ママ、下がって」
「ミユ、これは何なの?」
「説明はあと!」
「また、あと?」
かなえの声が痛かった。
ミユは振り返れない。
説明したい。
でも今は、説明している時間がない。
マンティスシザーは、静かに両腕を広げた。
「さあ、開廷しましょう」
その言葉と同時に、彼の身体が変わり始めた。
黒いコートが裂けるように広がり、背中から薄い翅状のパネルが展開する。銀のハサミが腕に吸い込まれ、前腕そのものが長く鋭い鎌のような鋏へ変わった。
首が細く伸び、顔の輪郭が逆三角形に尖る。眼鏡の奥にあった穏やかな瞳は、緑がかった複眼の光へ変化した。
深緑と黒の装甲。
銀色に光る鎌腕。
背中に浮かぶ、無数の映像フレーム。
マンティスシザーの怪人体が、モニターの光の中に立っていた。
かなえが息を呑む。
「本当に……怪人……」
ミユは胸が苦しくなった。
ほら、言ったでしょ。
そう言いたくなる。
でも、それを言えば、また何かが切られる気がした。
マンティスシザーは、優雅に一礼した。
「被告人は科学少女プリティミュー」
空中の映像刃が、ぐるりと円形に並ぶ。まるで法廷の傍聴席のように。
「罪状は、正義を名乗りながら真意を隠したこと」
「勝手に裁判始めんな!」
ミユは叫んだ。
すぐに、空中の映像片がひとつ光る。
《勝手に裁判始めんな!》
そこに字幕が付いた。
《プリティミュー関係者、配信を妨害》
ミユはぞっとした。
「今のも切るの!?」
「もちろん」
マンティスシザーは微笑む。
「発せられた言葉は、もうあなたのものではありません。誰かに聞かれた瞬間、編集可能な素材になる」
「ふざけないで」
「ふざけてなどおりません。これは現実です」
彼の鎌腕が、空中を軽く切った。
映像片がつながり、別のモニターに流れる。
そこには、ミユが母に向かって「信じちゃだめ」「罠だから」と叫んでいる映像が映った。前後は切られ、マンティスシザーの弱々しい姿だけが添えられている。
字幕が出る。
《怪人被害者を拒絶する少女》
かなえが、小さく息を呑んだ。
「違う、ママ、それは――」
ミユは言いかけて、止まった。
言えば、また切られる。
母に届く前に、別の意味に変えられる。
こんなにも、言葉が怖いと思ったことはなかった。
マンティスシザーが、ゆっくり近づいてくる。
「変わらないのですか。言葉を失った正義の味方さん」
その声は、優しい。
優しいから、余計に腹が立つ。
ミユは唇を噛んだ。
かなえが近くにいる。
変身すれば、正体がバレるかもしれない。
いや、もうかなり危ない。
ここで消えて、プリティミューが現れたら、母はきっと何かを察する。
でも、このままでは母も、メグも、プリティミューの真実も切り刻まれる。
メグが必死に端末を操作している。
かなえは混乱している。
マンティスシザーは、言葉を奪っている。
ミユは、ブレスレットに触れた。
怖い。
見られたくない。
正体を知られたくない。
でも。
ここで動けない自分を、後から許せる気がしなかった。
「正義の味方って言われると」
ミユは小さく言った。
マンティスシザーが首を傾ける。
「はい?」
「まだちょっとムズムズする」
ミユは顔を上げた。
「では、何者です?」
マンティスシザーの声が、スタジオに響く。
ミユはかなえを一瞬だけ見た。
母は、こちらを見ている。
何かを聞きたい顔で。
でも、まだ何もわからない顔で。
ごめん。
ミユは心の中で呟いた。
今は、全部は言えない。
でも、逃げない。
「少なくとも」
ミユは、照明の落ちた舞台袖へ走った。
マンティスシザーの鎌腕が動く。
映像の刃が飛ぶ。
ミユは身を低くしてかわした。髪の先が少し切れ、床に落ちる。
かなえが叫ぶ。
「ミユ!」
ミユは振り返らなかった。
「今ここで逃げる人間ではない!」
舞台袖の暗がりに飛び込む。
そこはモニターの光が届きにくい、わずかな死角だった。
ミユはμブレスレットを掲げる。
心臓がうるさい。
母の声が聞こえる。
メグが端末を叩く音が聞こえる。
マンティスシザーのハサミが閉じる音が聞こえる。
怖い。
でも、それよりも、切られたままにされる方が嫌だった。
「サイエンスパワー・メイクアップ!」
白とピンクの光が、舞台袖から弾けた。
それは、ただ明るいだけの光ではなかった。
空中に漂っていた映像片が、その光に押されて震える。切り取られた字幕が乱れ、モニターの映像が一瞬だけノイズを起こす。
かなえは、まぶしさに目を覆った。
「ミユ……?」
彼女は、変身そのものをはっきりとは見ていない。
ただ、暗がりに飛び込んだ娘の姿と、そこから溢れた眩しい光を見た。
次の瞬間。
科学少女プリティミューが、スタジオ中央へ跳び出した。
ピンクと白の装甲。
胸元で光る科学の紋章。
手にはミュー・ハンマー。
表情は、怖がりながらも前を向いている。
モニターが一斉にその姿を映した。
配信コメントが滝のように流れ始める。
《出た》
《プリティミュー本物?》
《乱入?》
《さっきの子どこ行った?》
《これも演出?》
《時給制ヒーロー来た》
プリティミューは、その流れを一瞬だけ見た。
胸が痛い。
でも、もう止まれない。
マンティスシザーは、長い鎌腕を広げた。
銀の刃が、モニターの光を受けて冷たく光る。
「ようこそ」
彼は、舞台上の司会者のように優雅に礼をした。
「切り抜かれた正義」
プリティミューはハンマーを構えた。
「そのタイトル、あとで絶対差し替えるから」
「それもよい素材になります」
「なら、素材ごと叩き割る!」
スタジオの床を、編集タイムラインのような光が走る。
空中の映像刃が、プリティミューを囲む。
かなえは、モニターの光の中で立ち尽くしている。
メグは端末から顔を上げず、必死に元動画の場所を探している。
そして、マンティスシザーの配信は続いていた。
切り抜き裁判は、始まったばかりだった。




