第4節 ― 母さんは、怪人にもお茶を出す
その日の夕方、ミユはいつもより少し遅く家へ帰った。
学校が終わったあと、メグと一緒に切り抜き動画の発信元を追っていたせいだった。
宝珠南高校の図書室の隅で、メグはノートパソコンを開き、怪人事件ログと投稿履歴と動画の音声波形を照合していた。ミユは横で見ていたが、途中から完全に置いていかれた。
背景音の途切れ。
映像の圧縮ノイズ。
投稿時刻の微妙なずれ。
同じアカウント群の不自然な拡散。
メグはそれらを、まるで複雑なパズルを解くように見ていた。
途中、アインからも連絡が来た。
《こちらでも映像解析を進めている。切り抜き動画は複数のミラーアカウントから拡散されているね》
ミユはスマホに向かって文句を言った。
「つまりどういうこと?」
《簡単に言えば、消しても増える》
「最悪な雑草みたいな言い方しないで」
《しかも今回は、発信源が怪人そのものとは限らない。怪人が火をつけ、人間が面白がって運んでいる》
その言葉は、ミユの胸に重く残った。
怪人が作ったものでも、広げているのは人間。
それが一番嫌だった。
放課後の校舎を出る頃には、空は薄いオレンジ色に染まっていた。冬の日暮れは早い。校門を出た時にはまだ明るかったはずなのに、住宅街へ入る頃には、街灯の光がぽつぽつと目立ち始めていた。
ミユは鞄を肩にかけ直しながら、スマホを確認した。
メグからのメッセージが届いている。
《帰宅後も、知らないリンクは開かないでください》
《SCISSOR CLIPから接触がある可能性があります》
《あと、先輩のお母さまにも注意してください》
最後の一文で、ミユの足が止まった。
「ママにも……?」
胸の奥がざわつく。
母のかなえは、普通の人だ。
怪人事件のことも、プリティミューの正体も知らない。たまにミユの様子を見て怪しむことはあるが、まさか娘が科学少女として怪人と戦っているとは思っていない。
思っていないはずだ。
ミユは返信を打った。
《ママはたぶん大丈夫》
《でも気をつける》
送信してから、自分でその言葉に不安になった。
たぶん大丈夫。
最近、たぶん、という言葉がぜんぜん信用できない。
家の前に着く。
門灯がついている。窓からは、台所の明かりが漏れていた。夕飯の支度をしているのだろう。家の中から、かすかに味噌汁の匂いがする。
普通の家。
普通の夕方。
それだけで、ミユは少しだけほっとした。
学校で自分の言葉が切り刻まれても、ネットでプリティミューが好き勝手に言われても、家に帰れば、まだ自分は朝倉ミユでいられる。
そう思った。
玄関のドアを開けるまでは。
「ただいまー」
靴を脱ぎかけたところで、ミユは固まった。
家の奥から、母の声が聞こえた。
「おかえり、ミユ」
それはいつもの声だった。
だが、もうひとつ。
知らない男の声がした。
「お嬢さんがお帰りですね」
穏やかで、柔らかい声。
ミユは、靴を片方だけ脱いだ姿勢のまま、動けなくなった。
聞き覚えがある。
ネオ・アキバタウンの路上。
銀のハサミ。
黒いコート。
街頭ビジョンの切り抜き動画。
ミユは、ゆっくり顔を上げた。
廊下の向こう、台所の明かりの下。
食卓に、その男が座っていた。
黒いロングコートは椅子の背にかけられ、深緑のベストが見えている。白い手袋は外しているが、指先の動きは異様に整っていた。銀縁の眼鏡の奥で、細い目が静かに笑っている。
食卓の上には、湯呑みが置かれていた。
かなえが、普通にお茶を出している。
ミユの喉から、変な声が出た。
「……誰?」
かなえは、味噌汁の鍋を火にかけながら、いつもの調子で振り返った。
「ミユ、おかえり。この人、マンティスさん」
「名前の時点で帰ってもらって!」
廊下にミユの叫びが響いた。
かなえは目を丸くした。
「ちょっと、帰ってきていきなり失礼でしょ」
「いやいやいやいや、ママ! 今、名前聞いた? マンティスさんだよ? マンティスってだいたいカマキリ方面だよ?」
「本名じゃないんですって。事情があるみたいで」
「事情がある偽名がマンティスなの、だいぶ主張強いよ!」
男――マンティスシザーは、湯呑みを両手で持ち、弱々しく微笑んだ。
「申し訳ありません。驚かせてしまいましたね」
「驚くよ! 昨日ネオ・アキバで路上ハサミショーしてた人が家でお茶飲んでたら驚くよ!」
かなえが眉をひそめる。
「ミユ、この人を知ってるの?」
「あっ」
しまった。
ミユは口を押さえた。
マンティスシザーの目が、ほんの少し細くなる。
それは笑っているようにも、獲物を見つけたようにも見えた。
「昨日、少しだけお見かけしたのです。お嬢さんも、あの場所にいらしたのですね」
「たまたま! たまたま通っただけ!」
「奇遇ですね」
「奇遇って言葉で片づけちゃだめなやつ!」
かなえは困ったように二人を見比べた。
「ミユ、落ち着きなさい。マンティスさん、具合が悪そうだったのよ」
「具合?」
「買い物帰りに駅前の近くで見かけてね。壁にもたれていて、顔色が悪くて。声をかけたら、少し休めば大丈夫だって言うんだけど、放っておけないじゃない」
「放っておこうよ、そこは!」
「ミユ」
かなえの声が少しだけ低くなった。
ミユは息を呑む。
この声はまずい。
母が本気で注意する時の声だ。
マンティスシザーは、申し訳なさそうに視線を落とした。
「奥様のご厚意に甘えてしまいました。すぐに出ていくつもりでしたが……」
「奥様って呼ばないでください。うちはそういう格式じゃない」
「では、かなえさん」
「距離を詰めるな!」
ミユが叫ぶと、かなえがため息をついた。
「ミユ、最近ちょっと言い方がきついよ」
胸に刺さった。
言い方がきつい。
それは、今日ずっと考えていたことでもあった。
プリティミューのツッコミ。
切り抜かれた暴言。
怪人に対する言葉。
自分では、場を立て直すために言っているつもりだった。怖い時に、文句を言わないと足が動かない時もあった。
でも、見方によってはきつく見える。
ひどく聞こえる。
怪人を見下しているように見える。
ミユは唇を噛んだ。
だが、目の前の男は違う。
この人は、明らかに危ない。
「ママ、聞いて」
ミユは靴を脱ぎ、廊下から台所へ入った。
食卓のそばで足を止める。
マンティスシザーとの距離は、わずか数歩。
近くで見ると、ますます普通の人間には見えなかった。整いすぎている。声も仕草も、少しずつ人間の自然さからずれている。
それなのに、かなえには「弱っている人」に見えている。
そのことが怖かった。
「あのね、ママ。その人、たぶん怪人」
かなえは動きを止めた。
「怪人?」
「そう。ジョーカーの怪人。たぶん、マンティスシザーっていう――」
「待って」
かなえは鍋の火を弱めた。
「ミユ、どうしてそんなことがわかるの?」
「それは……」
言葉が詰まる。
言えない。
昨日ネオ・アキバタウンで見たから。
プリティミューの切り抜き動画を流したアカウントと関係しているから。
アインが警戒しているから。
自分がプリティミューだから。
どれも言えない。
「なんとなく」
苦し紛れに出た言葉は、あまりにも弱かった。
かなえは困ったように眉を下げる。
「なんとなくで、人を怪人扱いするの?」
「人じゃない可能性が高いっていうか」
「怪人だからって、全部悪い人なの?」
ミユは息を詰めた。
その言葉は、思っていたより深く刺さった。
全部悪い人なのか。
これまで戦ってきた怪人たちを思い出す。
蜘蛛男。
蝙蝠伯爵。
レイディスコーピオン。
サラセニア・ルージュ。
みんな危険だった。
人を傷つけた。
止めなければならなかった。
でも、完全にただの悪意だけだったのか。
蝙蝠伯爵の最後の笑み。
レイディスコーピオンの「あなたも、いつか刺されるわ」という言葉。
サラセニア・ルージュの「欲しいものを我慢する子は、いつか壊れますわよ」という声。
怪人にも、何かがあるのかもしれない。
そう思い始めていた。
だからこそ、かなえの言葉を真っ向から否定できなかった。
「いや、でも」
「でも?」
「でも、その人はだめ。信じちゃだめ」
「どうして」
「罠だから!」
声が強くなった。
かなえの顔が曇る。
マンティスシザーは、そこで初めて口を開いた。
「無理もありません」
静かな声だった。
弱っているように、慎ましやかに、しかしはっきり聞こえる声。
「お嬢さんのおっしゃる通り、私は怪人です」
かなえが小さく息を呑む。
ミユも一瞬、言葉を失った。
認めた。
あっさりと。
マンティスシザーは湯呑みを置き、両手を膝の上に重ねた。
「私は、ジョーカーに利用された哀れな怪人です。ですが、もう人を傷つけたくないのです」
ミユは目を見開いた。
「何それ」
マンティスシザーは、悲しそうに微笑む。
「信じていただけないでしょうね。仕方ありません。私には、それだけのことをしてきた自覚があります」
かなえは食卓の椅子に手を置いたまま、黙っている。
マンティスシザーは続けた。
「私は、もともとは映像編集の仕事をしていました。人の言葉を整え、伝わりやすくする仕事です。ですが、ジョーカーはその技術に目をつけた。私の身体を変え、言葉を切る力を与えた」
嘘だ。
ミユの頭の中で警報が鳴る。
証拠はない。
けれど、わかる。
この声は、弱っている人の声ではない。
弱っている人の声に似せた声だ。
マンティスシザーは、かなえの方へ静かに目を向けた。
「私は逃げ出しました。もう誰かを傷つけるために、言葉を切りたくない。そう思ったのです」
かなえの表情が揺れた。
母は、優しい。
困っている人を放っておけない。
誰かが苦しんでいるなら、まず話を聞こうとする。
それは、ミユが好きな母の部分だった。
でも今は、その優しさが危ない。
「ママ、だめ」
ミユは一歩前に出た。
「信じちゃだめ。こういうの、絶対罠だから」
「ミユ」
かなえの声が低くなった。
「困っている人を、最初から罠って決めつけるのはよくないよ」
「でも、実際そうなんだって!」
「何を知っているの?」
その問いに、ミユは答えられなかった。
何を知っているのか。
なぜ知っているのか。
言えない。
かなえは、じっとミユを見る。
「何も説明しないで、ただ信じるなって言われても、ママにはわからないよ」
「説明できないけど、危ないの!」
「それじゃ、わからない」
その瞬間だった。
マンティスシザーの指先が、小さく動いた。
本当に、小さな動きだった。
白手袋を外した細い指が、食卓の端をすっとなぞる。まるで見えない糸をつまみ、軽く切ったように。
ちょきん。
音はしなかった。
けれど、ミユの耳の奥で、確かにハサミの残響がした。
空気が一瞬だけ歪む。
ミユはぞくりとした。
今、何かされた。
でも、何を。
「怪人なんて信じる価値ない」
かなえの耳に、ミユの声が届いた。
ミユはそんなことを言っていない。
言っていないはずだった。
しかし、かなえの表情が明らかに変わる。
「困っていても関係ない」
「違う、ママ、今の――」
「ママは騙されてる」
かなえが、傷ついた顔をした。
ミユの胸が冷たくなる。
「ミユ」
「違う! 今の、私言ってない!」
「でも」
かなえの声が震えた。
「今、そう聞こえたよ」
「違うの!」
「ミユ、そんな子だった?」
その一言が、何より痛かった。
ミユは動けなくなった。
母の顔が、目の前にある。
怒っているというより、悲しんでいる顔だった。
「人を見た目だけで決めつける子に育てた覚えはないよ」
「違う……」
声が弱くなった。
本当に違う。
でも、どう言えばいいのかわからない。
言葉を足せば足すほど、また切られる。
強く言えば、もっとひどい形で母に届くかもしれない。
黙れば、何も伝わらない。
ミユは拳を握りしめた。
マンティスシザーは、食卓の向こうで静かに微笑んでいる。
「言葉は難しいですね」
彼は、まるで善意の第三者のように言った。
「少し切り口が変わるだけで、傷になります」
ミユは睨んだ。
「あなたがやったんでしょ」
「私は何も。ただ、聞こえたものを少し整えただけです」
「それをやったって言うの!」
「お嬢さん」
マンティスシザーは首を傾けた。
「それもまた、切り取られれば乱暴な言葉になりますよ」
ミユは歯を食いしばった。
母の前で変身はできない。
正体を明かせない。
しかも、この怪人は自分の言葉を切る。
守るための言葉が、母を傷つける言葉に変えられる。
こんなの、どうすればいいのか。
ミユのスマホがポケットの中で震えた。
たぶんアインかメグだ。
でも、今取り出せない。
かなえが、ゆっくり椅子に座った。
「ミユ。ママは、怪人のことなんてよく知らない」
「うん」
「でも、目の前で困っている人を、ただ怪しいから追い出すのは違うと思う」
「それは……」
間違っていない。
かなえの言っていることは、たぶん正しい。
でも、今回は違う。
この人は、困っているふりをした怪人だ。
その説明ができない。
できないことが、悔しい。
マンティスシザーは、ゆっくり立ち上がった。
長い指で、椅子の背にかけていた黒いコートを取る。
「これ以上、親子の間を乱すつもりはありません」
「十分乱してる!」
「ミユ!」
かなえの声に、ミユは口を閉じた。
マンティスシザーは、かなえへ向き直る。
「かなえさん。ご迷惑をおかけしました。私は今夜、ネオ・アキバタウンの配信スタジオで、ジョーカーの真実を話すつもりです」
「配信スタジオ?」
「ええ。私のように利用された怪人がいることを、世間に知っていただきたい。プリティミューが何をしているのかも含めて」
ミユの中で、血の気が引いた。
CUT ROOM。
配信スタジオ。
切り抜き動画。
すべてがつながる。
「だめ」
ミユは反射的に言った。
かなえが見る。
マンティスシザーは、弱々しく笑う。
「怖いのですか、お嬢さん」
「違う!」
「プリティミューの真実が語られることが?」
「そうじゃない!」
「では、なぜ止めるのです」
答えられない。
まただ。
説明できない。
言葉が喉で止まる。
かなえは、しばらくマンティスシザーを見つめていた。
それから、静かに言った。
「私も行くわ。ひとりじゃ危ないもの」
「ママ、だめ!」
今度こそ、ミユは叫んだ。
台所の空気が固まる。
かなえは、ミユを見た。
その目は、怒っているわけではない。
困っている。
心配している。
そして、少し傷ついている。
「ミユ。あなたが何を隠しているのか、ママにはわからない」
ミユは息を止めた。
「でも、何も説明しないで止めるだけじゃ、信じられないよ」
言葉が出なかった。
今すぐ全部言えたら、どれだけ楽だろう。
私がプリティミューだよ。
この人はジョーカーの怪人で、切り抜き動画を作って、私の言葉を奪っている。
ママを巻き込んで、私を追い詰めようとしている。
そう言えたら。
でも、言えない。
言えば、かなえをもっと危険に巻き込むかもしれない。
言わなければ、かなえは今まさに危険へ向かっている。
どちらも怖かった。
マンティスシザーは、黒いコートを羽織った。
その動きは優雅で、どこまでも腹立たしいほど落ち着いていた。
「では、かなえさん。無理はなさらず」
「待って。すぐ支度するわ」
「ママ!」
かなえは一度だけミユを振り返った。
「ミユは家にいなさい」
「いるわけないでしょ!」
「なら、ちゃんと説明して」
「……っ」
ミユは何も言えない。
かなえは、その沈黙を見て、悲しそうに目を伏せた。
それが、いちばんこたえた。
マンティスシザーは玄関へ向かう途中、ミユの横を通った。
すれ違いざま、彼はミユにだけ聞こえる声で囁いた。
「ご安心を。お母さまを傷つけるつもりはありません」
ミユは睨みつける。
「信じると思う?」
「信じなくて結構」
マンティスシザーは微笑んだ。
「信じられないという感情も、立派な素材です」
ミユの背筋が冷える。
男は玄関で靴を履き、かなえを待った。
かなえはバッグを手に取り、急いでコートを羽織る。
ミユは立ち尽くしていた。
追わなければならない。
でも、どうやって止める。
言葉は切られる。
母は信じてくれない。
変身はできない。
ポケットの中で、またスマホが震えた。
今度は取り出した。
画面には、メグからのメッセージ。
《先輩、SCISSOR CLIPの発信源候補が出ました》
《ネオ・アキバタウン裏通り》
《閉鎖配信スタジオ CUT ROOM》
ミユは、玄関へ向かうかなえの背中を見た。
そして、スマホを握りしめた。
「……最悪」
声が震えた。
怖い。
怒っている。
泣きそうでもある。
でも、行くしかない。
マンティスシザーは玄関の外で、夕闇に溶けるように立っていた。
銀色のハサミが、街灯の光を受けて一瞬だけ光る。
ちょきん。
小さな音がした。
ミユの普通の家の空気が、そこで何かひとつ、切り離された気がした。




