第3節 ― ジョーカー帝都支部、文脈裁断作戦
ジョーカー帝都支部の作戦司令室は、昼間でも夜のように暗かった。
壁一面に並んだモニターだけが、冷たい光を放っている。赤、黒、白。ジョーカーの紋章が浮かぶスクリーンの下で、戦闘員たちが慌ただしく端末を操作していた。
映し出されているのは、戦闘映像だけではない。
プリティミュー関連の投稿数。
切り抜き動画の再生回数。
コメントの感情分析。
拡散経路。
炎上傾向。
宝珠区内の検索数上昇率。
かつての悪の秘密結社なら、基地のモニターには世界征服地図やミサイル発射カウントダウンが映っていたかもしれない。
だが、今のジョーカー帝都支部のモニターには、縦長ショート動画のサムネイルがずらりと並んでいた。
ゲル大佐は、その光景を見ながら胃を押さえていた。
机の上には、サラセニア・ルージュ作戦の報告書が積まれている。
厚い。
あまりにも厚い。
表紙には《J-04 サラセニア・ルージュ作戦総括》と印字されている。その横には、付箋がいくつも貼られ、赤字で「捕食圏設計の改善」「地下施設秘匿性不足」「カレー臭による香気阻害について」「高梨メグの情報支援能力再評価」と書き込まれていた。
ゲル大佐は、赤字のひとつを見て目を閉じた。
「なぜ、我々の怪人作戦の反省項目にカレーが入るのだ……」
胃が痛い。
最近、敗北そのものよりも、敗北理由の多様化がつらい。
蜘蛛男は初戦だった。
蝙蝠伯爵は夜明けに崩れた。
レイディスコーピオンは冷却され、サラセニア・ルージュはカレーのスパイスで香気を割られた。
何を言っているのかわからないが、報告書にはすべて真面目に書かれている。
そして、その真面目な報告書を読まなければならないのがゲル大佐だった。
「大佐」
控えめな声がした。
ゲル大佐は目を開ける。
戦闘員42号が、両腕いっぱいに新しい資料を抱えて立っていた。
紙資料。
タブレット。
外部記録媒体。
さらに、透明なファイルケース。
嫌な予感しかしなかった。
「何だ、42号」
「プリティミュー関連の切り抜き動画分析です」
ゲル大佐は、しばらく無言だった。
「……もう一度言え」
「プリティミュー関連の切り抜き動画分析です」
「なぜ敵の動画マーケティングまで分析せねばならんのだ……」
「伸びています」
「伸びるな!」
ゲル大佐の声が司令室に響いた。
近くの戦闘員がびくっと肩を跳ねさせる。
42号は資料を机に置いた。どさり、と重い音がする。
「大佐、こちらが各動画の再生数推移です。特に《正義の味方、時給制発言》が高く伸びています。コメント欄では『時給制ヒーロー』という呼称が一部で定着しつつあります」
「定着させるな!」
「こちらが派生タグです」
「見せるな!」
「こちらがプリティミューさんのツッコミのみをまとめた音MADです」
「なぜある!」
「人類の創作意欲は恐ろしいです」
「感心するな!」
ゲル大佐は片手で額を押さえた。
戦闘員42号は、かなり真面目に仕事をしている。しているのだが、報告内容がいちいち胃に悪い。
「大佐、こちらがコメント感情分析です。好意、疑念、嘲笑、警戒が混在しています」
「疑念はわかる。嘲笑とは何だ」
「主にピコピコハンマーと時給制についてです」
「またハンマーか……」
「ただし、好意的な層も一定数います。『怖がってるのに頑張ってる感じがいい』『文句言いながら助けるのが人間っぽい』という意見もあります」
ゲル大佐は目を細めた。
そこは、ただの笑い話ではない。
プリティミューは、単純な神聖視をされていない。
完璧なヒーローとして称賛されているわけではない。
むしろ、未完成で、怖がりで、文句を言う少女として見られている部分がある。
だからこそ、崩し方を間違えると逆に支持が固まる。
「……敵ながら、扱いが難しい」
「はい。バズらせ方を間違えると、逆に人気が出ます」
「我々は何の会議をしているのだ」
ゲル大佐が低く呟いた、その時だった。
司令室の照明が、ふっと一段暗くなった。
モニターのひとつに、白いノイズが走る。
次の瞬間、空間の一部が横に裂けたように見えた。
紙を鋏で切るような、乾いた音。
ちょきん。
何もないはずの通路に、細い切れ目が入る。
そこから、黒いコートの裾が現れた。
深緑のベスト。
白手袋。
銀色のハサミ。
穏やかな微笑み。
長身の男が、まるで舞台袖から出てくる俳優のように、静かに司令室へ足を踏み入れた。
マンティスシザー。
まだ人間態の姿だった。
彼は胸に手を当て、優雅に一礼した。
「ごきげんよう、大佐」
声は柔らかい。
だが、ゲル大佐は、その柔らかさの奥にある刃を知っていた。
「遅いぞ、マンティスシザー」
「申し訳ございません。少し、髪を整えておりました」
「誰の」
「通行人の」
「作戦前に勝手な露出をするな」
「露出ではありません。導入です」
マンティスシザーは微笑んだまま、手元のハサミを鳴らした。
ちょきん。
その音に、42号が微妙に身を引く。
マンティスシザーは、机の上の資料を一枚手に取った。プリティミュー関連の切り抜き動画分析だ。彼はそれを目で追い、満足そうに頷く。
「順調ですね」
「順調と言えるのか、これは」
「ええ。人は全文を読みません。ならば、こちらが読ませたい部分だけを残せばよいのです」
彼は資料の端をハサミで切った。
紙の一部が床へ落ちる。
それだけで、文章の意味が変わった。
《プリティミューは市民救出を優先した》という一文から、前半が切り落とされ、残ったのは《プリティミューは優先した》だけ。
意味が曖昧になる。
マンティスシザーは、それを指でつまんで見せた。
「言葉とは、実に繊細です。少し前を落とし、少し後ろを整えるだけで、別の顔になる」
ゲル大佐は眉間に皺を寄せた。
「貴様の言う整えるは、だいたい破壊と同義だ」
「いいえ、大佐。破壊ではありません。編集です」
「なお悪い」
マンティスシザーは、口元だけで笑った。
その笑みには、蝙蝠伯爵のような古風な美学も、レイディスコーピオンのような毒々しい華やかさも、サラセニア・ルージュのような甘い陶酔もない。
冷えていた。
人が何に反応し、何を信じ、何を読まず、どこで怒るかを知っている者の笑みだった。
ゲル大佐は、資料を閉じた。
「作戦概要を確認する」
「どうぞ」
「今回の目的は、プリティミューの社会的信用を削ることだ。彼女を直接倒すことが第一目的ではない」
「存じております」
「彼女の周囲とのつながりを切る。高梨メグ、学校、母親、一般市民。彼女が守ろうとしている関係性を揺さぶる」
「ええ。戦場で装甲を切るより、日常で信頼を切る方が深く入ります」
マンティスシザーは、銀のハサミを光にかざした。
「彼女はよく喋る。怖い時も、怒った時も、恥ずかしい時も、必ず何かを言葉にする。あれは弱点であり、同時に強さです」
ゲル大佐は黙った。
それは彼も感じていた。
プリティミューは、怪人に対して怯えないわけではない。
むしろ毎回のように怯えている。
理不尽には怒り、危険には文句を言い、作戦名には容赦なくツッコむ。
普通なら、それは未熟さだ。
だが、あの少女はその未熟さのまま立つ。
だから、見ている者の一部に刺さる。
マンティスシザーの作戦は、そこを逆手に取るものだった。
言葉が多いなら、素材も多い。
素材が多いなら、切り抜ける。
切り抜けるなら、別の人物像を作れる。
正義の味方ではなく、金目当ての暴力少女。
市民より正体を優先する臆病者。
怪人を見下す身勝手なヒーロー。
本人が口にした言葉だけで、そう見せることができる。
ゲル大佐は、資料の上に指を置いた。
「ただし、やりすぎるな」
「やりすぎ、とは?」
「プリティミューを追い詰めることと、無関係な一般人を壊すことは違う」
マンティスシザーは、少しだけ目を細めた。
「大佐はお優しい」
「命令だ」
「承知しております」
その時、司令室のメインモニターが暗転した。
空気が変わる。
ゲル大佐は即座に立ち上がった。42号も慌てて姿勢を正す。周囲の戦闘員たちも一斉に作業を止めた。
黒い画面の中央に、白い仮面のアイコンが浮かぶ。
首領X。
「ゲル大佐」
「はっ、首領X」
ゲル大佐は深く頭を垂れた。
首領Xの声は、いつも通り感情が読めなかった。
「プリティミューは、欲望を否定しなかった」
モニターに、前回の戦闘データが表示される。
地下温室。
サラセニア・ルージュの幻影。
普通の生活が欲しいと認めるプリティミュー。
それでも、メグを置いていくのは違うと言い、根本体を砕く瞬間。
「しかし、欲望に従属もしなかった」
「……はい」
ゲル大佐は答えた。
あの戦いは敗北だった。
だが首領Xは、最初から勝敗だけを見ていなかった。
サラセニア・ルージュが倒されたことより、プリティミューが何を選んだかを見ていた。
蜘蛛男戦から、ずっとそうだ。
首領Xは怪人を投入するたび、プリティミューの反応を観測している。
戦闘力。
日常防衛反応。
悪意への耐性。
欲望への応答。
そして今回は、言葉。
「次は、彼女の言葉を切り取れ」
ゲル大佐は顔を上げた。
「言葉、ですか」
「彼女は恐怖を言葉に変える。怒りを言葉に変える。羞恥を言葉に変える」
首領Xの声は静かだった。
「その言葉が、彼女を守るのか。あるいは壊すのか。観測せよ」
ゲル大佐は、背筋に冷たいものを感じた。
また、観測。
敗北を恐れていない。
損失を惜しんでいない。
怪人の投入すら、実験の一部に見える。
首領Xの目的は何なのか。
プリティミューを倒したいのか。
育てたいのか。
測りたいのか。
あるいは、もっと別の何かを見ているのか。
ゲル大佐には、まだわからない。
だが、わからないからこそ従うしかない。
「承知しました。文脈裁断作戦を進行します」
首領Xの仮面アイコンが、わずかに揺らいだ。
「良い切断を期待する」
通信は切れた。
司令室に、再びモニターの冷たい光だけが戻る。
42号が小声で呟いた。
「良い切断って、何ですかね……」
「聞くな。私にもわからん」
ゲル大佐は椅子に座り直した。
胃が痛い。
だが、作戦は進めなければならない。
マンティスシザーは、首領Xの通信が終わるまで完璧な礼の姿勢を保っていた。通信が切れると、ゆっくり顔を上げる。
「ご安心ください、大佐」
「安心できる要素があったか」
「刃を入れるのは、首ではありません」
彼は銀のハサミを鳴らした。
「文脈です」
ゲル大佐は低く唸った。
「だから貴様は信用ならんのだ」
「よく言われます」
「一般人への直接被害は抑えろ。特に家族への過剰介入は許さん」
その言葉に、マンティスシザーの表情がほんの少し変わった。
笑顔は崩れない。
だが、目の奥が細くなる。
「もちろん。私はただ、言葉を整えるだけです」
「貴様の整えるは信用ならん」
「大佐は、言葉をずいぶん大事になさる」
「作戦上の制限を言っている」
「ええ。ですが、制限もまた文脈次第です」
ゲル大佐の目が鋭くなる。
「マンティスシザー」
司令室の空気が、わずかに重くなった。
42号がそっと一歩下がる。
ゲル大佐は、怪人たちを使う立場にある。
彼は冷酷な指揮官ではある。
一般人を巻き込む作戦も行う。
ジョーカーの幹部として、正義の味方から見れば間違いなく敵である。
だが、彼なりの線引きはある。
作戦には目的が必要だ。
損害には意味が必要だ。
無駄に広げる混乱は、統制を失う。
そして、統制を失った怪人は、いつか組織そのものを削る。
「朝倉かなえに接触するのは許可する。だが、傷つけるな。操るな。人質化するな」
「承知しました」
「彼女は対象者本人ではない。あくまでプリティミューの反応を見るための接点だ」
「ええ」
「それを忘れるな」
マンティスシザーは、深く頭を下げた。
「忘れません。私はただ、切り口を入れるだけです」
「その言い方が不穏だと言っている」
「美しいカットには、最初の刃が必要ですから」
ゲル大佐は胃を押さえた。
この怪人は、言葉の上では命令に従う。
だが、その命令の隙間を切る。
文字通り、解釈の刃を入れる。
扱いづらい。
しかも、首領Xの観測意図には合っている。
だから投入せざるを得ない。
ゲル大佐は、内心で大きくため息をついた。
その横で、42号が資料を抱え直しながらぼそりと言った。
「大佐、切り抜きって怖いですね」
「ああ」
ゲル大佐は、思わず素直に頷きかけた。
そして、すぐに42号を見た。
「お前も任務報告を切り抜いて都合よく提出するなよ」
「ぎくっ」
「今ぎくっとしたな?」
「してません!」
「声が裏返ったぞ」
「大佐、それは文脈の問題です!」
「貴様まで文脈を使うな!」
司令室の一部に、妙な緊張と気まずさが走った。
マンティスシザーだけが、楽しそうに微笑んでいた。
「よいことです。皆さま、すでに文脈の重要性を理解し始めている」
「貴様のせいでな」
「教育効果です」
「悪影響と言うのだ」
ゲル大佐は、モニター操作卓に目を向けた。
「作戦対象の確認を行う。プリティミュー本人、高梨メグ、宝珠南高校周辺、ネオ・アキバタウンの配信系インフラ。以上だ」
「ひとつ追加を」
マンティスシザーが言った。
「何だ」
「朝倉かなえ」
モニターのひとつが切り替わった。
そこに映ったのは、買い物袋を提げて歩く女性だった。
朝倉かなえ。
ミユの母。
住宅街の商店街を歩きながら、スマホで買い物メモを確認している。髪を軽くまとめ、少し疲れた顔をしているが、目元には柔らかさがある。
ゲル大佐は表情を険しくした。
「監視映像か」
「市街地カメラと公開投稿からの再構成です。ご安心を。家屋内部にはまだ入っておりません」
「まだ、という言い方をやめろ」
マンティスシザーは、かなえの映像を見つめた。
「やさしい母親ほど、切り口が入れやすい」
その言葉に、司令室の空気が冷えた。
42号でさえ、少しだけ表情を引き締める。
ゲル大佐は低く言った。
「やりすぎるなよ、マンティスシザー」
マンティスシザーは、静かに微笑む。
「ええ。少しだけ、心の前髪を整えるだけです」
彼はハサミを閉じた。
ちょきん。
その音と同時に、モニターのかなえの映像が一瞬だけ乱れた。
まるで、どこか目に見えない場所で、日常の端が少しだけ切られたかのように。
ゲル大佐は、その乱れを見つめたまま、胃の奥に重い痛みを覚えていた。
次の作戦は、戦場では終わらない。
少女の学校。
友人の記録。
母親の善意。
そして、言葉。
それらすべてが、刃の届く場所にある。
ジョーカー帝都支部の暗い司令室で、マンティスシザーはもう一度だけ優雅に礼をした。
「では、大佐。少し、街へ出てまいります」
「任務範囲を逸脱するな」
「もちろん」
黒いコートの裾が揺れる。
空間に細い切れ目が入る。
マンティスシザーの姿は、その切れ目の向こうへ滑るように消えていった。
残されたのは、銀のハサミの音だけだった。
ちょきん。
司令室のモニターには、朝倉かなえの映像がまだ映っている。
彼女は何も知らないまま、夕方の商店街を歩いていた。




