第1節 ― 日曜日の呼び出しと、切られた正義
日曜日の朝、朝倉ミユは布団の中で、世界の平和を強く願っていた。
世界規模の平和ではない。
少なくとも今日一日、自分の半径五メートル以内に怪人が出ない程度の、非常に個人的で切実な平和だった。
カーテンの隙間から、薄い朝の光が差し込んでいる。休日らしい静けさが部屋の中に満ちていた。平日なら、目覚まし時計が鳴り、母のかなえが台所から「ミユ、起きなさい」と声を飛ばし、寝癖のまま洗面所へ転がり込む時間だ。
けれど今日は日曜日。
学校はない。
小テストもない。
体育もない。
そして、できれば怪人もない。
ミユは布団を鼻の下まで引き上げ、スマホの画面を見た。
メグからのメッセージが届いている。
《先輩、今日の午後、ネオ・アキバタウンにできた雑貨店を見に行きませんか?》
《怪人事件とは関係ありません》
《たぶん》
最後の《たぶん》が、やや不穏だった。
それでもミユは、口元を少しだけゆるめた。
「たぶん、ってつけちゃうあたりがメグちゃんだよなあ……」
ネオ・アキバタウン。
電気街とサブカル街と配信スタジオとジャンクショップが、ごちゃごちゃに混ざったような街だ。ミユも何度か行ったことはあるが、最近は怪人絡みの移動ばかりで、普通に遊びに行った記憶が少ない。
雑貨店。
日曜。
後輩と寄り道。
怪人事件とは関係ない。
すばらしい響きだった。
ミユは布団の中で返信を打った。
《行く。怪人事件とは関係ない方向でお願いします》
数秒で既読がついた。
《努力します》
「努力じゃなくて確約してほしかった……」
ミユは苦笑して、スマホを枕元に置いた。
身体のあちこちには、まだ少し疲れが残っている。蜘蛛男から始まり、蝙蝠伯爵、レイディスコーピオン、サラセニア・ルージュ。怪人との戦いは、回を追うごとに妙な方向へ複雑になっていた。
殴れば終わる敵ばかりではない。
眠りを奪う怪人。
言葉を毒にする怪人。
欲望を甘い夢にして捕まえる怪人。
そして、そのたびにミユは、よくわからないまま走って、転んで、叫んで、どうにか助けたいものを助けてきた。
正義の味方。
そう呼ばれるたび、まだ落ち着かなかった。
そんな立派なものではない。
やりたくて始めたわけでもない。
危ないし、怖いし、時給制だし、労働条件はだいぶ怪しい。
けれど、目の前で誰かが困っていたら放っておけない。
それだけは、少しずつ自分の中ではっきりしてきた。
だからこそ、今日は休みたかった。
ミユはもう一度、布団の中に潜り込んだ。
「今日は何も起きない。今日は普通の日曜日。私は普通の高校生。午後から後輩と雑貨店。完璧」
声に出して確認する。
その直後、スマホが震えた。
画面に表示された名前を見て、ミユは布団の中で固まった。
《アイン》
ミユは、しばらく画面を見つめた。
出たくない。
ものすごく出たくない。
だが、出なかったら出なかったで、もっと面倒なことになる気がした。
ミユは深く息を吸い、通話ボタンを押した。
「……もしもし」
《やあ、バイト君。日曜の朝に失礼》
「失礼だとわかってるなら切って」
《至急研究所へ来たまえ》
「今日、休みなんだけど!」
《ジョーカーも労働基準法を守ってくれればいいんだけどね》
「先に守ってないのはそっち!」
ミユは布団から起き上がった。
髪が片側だけ跳ねている。寝巻きの袖も少しねじれていた。正義の味方とは思えない姿である。
「何? また怪人反応?」
《現時点では断定できない。ただし、プリティミュー関連の情報流通に不自然な動きがある》
「情報流通?」
《動画、音声、短文投稿。複数の切り抜きが拡散されている》
「切り抜き?」
《詳しい説明は研究所で行う。急いでくれ》
「わかったけど、せめて午後じゃだめ?」
《できれば午前中が望ましい》
「私の日曜日が午前中から死んだ」
《命はある》
「そういう問題じゃない!」
通話が切れた。
ミユはスマホを握ったまま、しばらく天井を見上げた。
普通の日曜日。
さっきまで、確かにそこにあったはずのものが、目の前でふわっと消えていった。
ミユはメグにメッセージを送る。
《ごめん、アインに呼ばれた》
《午後の予定、ちょっと遅れるかも》
すぐに返事が来た。
《怪人事件とは関係ありましたか?》
ミユは、布団の上でうなだれた。
《たぶん》
*
朝倉家の台所では、かなえが洗濯物を畳みながらテレビを見ていた。
ミユが制服ではなく、私服に着替えて階段を降りると、かなえはすぐに目を細めた。
「あんた、日曜なのに出かけるの?」
「うん。ちょっと」
「ちょっとって、どこに」
「研究……じゃなくて、えーと、友達と」
「今、研究って言いかけなかった?」
「言ってない。日曜に研究するタイプの高校生じゃないし」
「それはそうね」
かなえはあっさり納得しかけて、すぐにミユの顔を見直した。
「また変な顔してる」
「変な顔?」
「何か隠してる時の顔」
「そんな顔ある?」
「ある。母親にはわかる」
ミユはぎくりとした。
最近、その言葉が一番怖い。
怪人より怖いとまでは言わない。けれど、かなり怖い。
ミユは冷蔵庫から麦茶を出し、コップに注ぎながらごまかした。
「大丈夫。ほんとにちょっと用事」
「危ないことじゃないでしょうね」
「危ないことじゃない方向に努力する」
「努力?」
「確約はできない時代だから」
「何その嫌な現代感」
かなえは畳んだタオルを置き、ミユをじっと見た。
その視線には、心配が混じっている。
ミユは胸が少し痛くなった。
母に嘘をついている。
完全な嘘ではないにしても、大事なことを何も言えていない。
変身していること。
怪人と戦っていること。
アイン科学研究所で、かなり怪しいバイトのようなものをしていること。
言えるわけがない。
言ったら、かなえはきっと怒る。
心配する。
止める。
もしかしたら、泣くかもしれない。
それが怖くて、ミユはいつも笑ってごまかしている。
「お昼までには戻るかも」
「かも、が多い」
「現代人は予定が流動的だから」
「便利に現代を使わない」
かなえはため息をついた。
「まあ、出かけるなら朝ごはん食べてから行きなさい」
「時間が」
「食べてから」
「はい」
ミユは素直に席についた。
トーストと目玉焼きと、昨日の残りのスープ。
普通の朝食だった。
それが少しだけ、ありがたかった。
*
アイン科学研究所は、街の外れにある古い研究棟だった。
少なくとも、ミユはそう思っていた。
何度も呼び出され、何度も文句を言いながら通った場所だ。外観は怪しく、中はもっと怪しく、だが今となっては、ある意味で見慣れた場所でもある。
だからミユは、いつも通りの道を歩き、いつも通りの門の前で足を止めた。
そして、固まった。
門が閉まっていた。
建物の窓は暗い。
研究所の入口には、白い紙が一枚貼られている。
ミユは嫌な予感を覚えながら近づいた。
紙には、黒い文字でこう書かれていた。
《移転しました》
それだけだった。
行き先はない。
地図もない。
連絡先もない。
ただ、移転しました。
ミユは、しばらく紙を見つめた。
「……は?」
静かな住宅街に、低い声が落ちた。
ミユはスマホを取り出し、即座にアインへ電話をかけた。
数秒後、つながる。
《やあ、バイト君。到着したかな》
「到着したよ。空き家に」
《ああ、旧研究所の方へ行ったのか》
「旧って何!?」
《研究所は移転した》
「紙に書いてあったよ! 行き先は書いてなかったけどね!」
《ああ、伝え忘れていた》
「一番伝えるべきやつ!」
通行人がちらりとミユを見る。
ミユは少し声を落としたが、怒りは落ちなかった。
「人を呼び出しといて引っ越してるってどういうこと!?」
《緊急性が高かったのでね》
「緊急ならなおさら住所を送って!」
《今送る》
スマホに地図が届いた。
場所は、ネオ・アキバタウン。
ミユは画面を見た。
「遠い!」
《電車で二十分だ》
「日曜の朝に予定外の二十分は遠い!」
《交通費は出る》
「そこは出るんだ!」
《労務管理だからね》
「労務管理の意味、都合よく使いすぎ!」
ミユは深く息を吐いた。
怒っていても仕方がない。行かなければ説明は聞けない。
アインは続けた。
《旧研究所の通信経路をジョーカー側に一部掴まれた可能性がある。安全のため拠点を移した》
「それ、普通に大事な話じゃん」
《だから呼んだ》
「呼び方!」
《気をつけて来たまえ。こちらでも動画の解析を進めている》
「はいはい。ネオ・アキバね。行けばいいんでしょ」
《そうだ。駅からは徒歩七分、怪しい雑居ビルの地下だ》
「怪しいって自分で言うな!」
通話を切った後、ミユはもう一度、旧研究所を見た。
空っぽの建物。
閉ざされた門。
風に揺れる《移転しました》の紙。
何かが少しずつ変わっている。
ジョーカーも、アインも、自分の日常も。
ミユはスマホを握り直し、駅へ向かった。
*
日曜午前のネオ・アキバタウンは、すでに人が多かった。
電気街の看板。
中古パーツショップのワゴン。
アニメグッズの店。
配信機材専門店。
メイドカフェの呼び込み。
スマホを構えた観光客。
イベント帰りらしい人たち。
情報と音と色が、通りいっぱいに溢れている。
宝珠区の住宅街とはまるで違う。
歩くだけで目が疲れる街だった。
ミユは地図アプリを見ながら歩いた。
「怪しい雑居ビルの地下って、該当する建物多すぎない……?」
アインから送られた位置情報は、駅から少し外れた裏通りを示している。
そこへ向かう途中、ミユは大通りの角で人だかりに気づいた。
円形に集まった人々。
スマホを掲げる手。
小さなどよめき。
時々、拍手。
「何?」
ミユは足を止めた。
本当は急ぐべきだ。
でも、人だかりというのは気になる。しかも最近の経験上、人だかりの中心にはだいたい怪しいものがいる。
ミユは警戒しながら近づいた。
人垣の隙間から、中心が見える。
そこにいたのは、ひとりの男だった。
長身で、細身。
黒いロングコート。
深緑のベスト。
白い手袋。
銀縁の眼鏡。
手には、大きなハサミを持っている。
美容師が使うものよりずっと大きい。舞台用の小道具にも見えるが、刃の光り方が妙に鋭い。
男の前には、若い男性客が椅子に座っていた。即席の路上ヘアカットらしい。男は銀のハサミを軽やかに動かし、前髪を整えていく。
チョキン。
髪が落ちる。
周囲のスマホが、その手元を撮影している。
男はカメラの位置を意識して、ゆっくりと微笑んだ。
「髪も言葉も、少し切るだけで印象は変わるのです」
周囲から「おお」と声が上がる。
ミユは眉を寄せた。
うまい。
たしかに手つきは鮮やかだ。数回ハサミを入れただけで、座っている男性の印象が変わった。重かった前髪が軽くなり、顔立ちが明るく見える。
だが、男の言葉が引っかかった。
髪も言葉も、少し切るだけで印象は変わる。
普通の美容師の宣伝文句にしては、妙に冷たい。
隣の女子高生たちが話している。
「すご、動画映えする」
「ショートに上げたら伸びそう」
「この人、誰?」
「なんか《SCISSOR CLIP》ってアカウントで配信してるらしいよ」
ミユの耳が、その名前を拾った。
SCISSOR CLIP。
アインが言っていた、切り抜き動画の話。
ミユはスマホを開きかけた。
その瞬間、男と目が合った。
遠くからの一瞬。
しかし、男はまるで最初からミユに気づいていたかのように、穏やかに微笑んだ。
ミユの背筋がぞわりとした。
怪人だ。
そう断定できる証拠はない。
けれど、今までの経験が警鐘を鳴らしている。
あの笑顔は、普通の人間の笑顔ではない。
男は、最後にもう一度ハサミを鳴らした。
チョキン。
その音が、妙に大きく聞こえた。
「完成です。余分なものを切り落とせば、本当に見せたいものだけが残る」
周囲が拍手する。
椅子に座っていた男性は、鏡を見て嬉しそうに笑った。
男はその様子をスマホで撮影し、配信画面に向かって軽く会釈した。
ミユは唇を結んだ。
今すぐ声をかけるべきか。
それとも、アインのところへ先に行くべきか。
迷っていると、街頭ビジョンの音量が急に上がった。
大通りの上に設置された巨大スクリーン。普段は広告やイベント情報を流しているビジョンが、突然、映像を切り替えた。
そこに映ったのは、プリティミューだった。
ミユの心臓が跳ねた。
「え……」
周囲の人々も顔を上げる。
ビジョンの中で、プリティミューが叫んでいた。
《税金じゃない! 時給制!》
字幕がつく。
《正義の味方、時給制発言》
通行人たちがざわついた。
「え、プリティミューってバイトなの?」
「時給制って何?」
「ネタ?」
映像が切り替わる。
レイディスコーピオン戦。
プリティミューが怒って叫んでいる。
《その格好で言う!?》
字幕。
《怪人への暴言》
さらに切り替わる。
蝙蝠伯爵戦。
暗い廃劇場で、ミユが変身前に呟いた声。
《見られたら、終わるじゃん……》
字幕。
《市民より正体隠しを優先?》
ミユの喉が詰まった。
違う。
そういう意味じゃない。
あれは、メグを助けたいけれど、正体がバレることも怖くて、でも結局飛び込んだ場面だった。
そこだけ切り取られたら、まったく違う意味になる。
映像はさらに続く。
サラセニア・ルージュ戦。
《普通の生活、欲しいよ》
字幕。
《正義より普通の生活を望むヒーロー》
街の音が遠くなった。
ミユは、画面を見上げたまま動けなかった。
どれも、自分の言葉だ。
言った。
確かに言った。
時給制とも言ったし、怖いとも言ったし、普通の生活が欲しいとも言った。
でも、あの時の前後がない。
誰を助けようとしていたのかがない。
何に怒っていたのかがない。
何を選んだのかがない。
言葉だけが切り取られ、別の形に並べられている。
自分の声なのに、自分ではないものにされている。
吐き気がした。
周囲から声が聞こえる。
「なんかイメージ違うな」
「でも、ヒーローってそんなもんじゃない?」
「時給制は笑う」
「怪人にも事情あるかもしれないのに、煽りすぎじゃない?」
「切り抜きでしょ?」
「でも本人が言ってるじゃん」
本人。
その言葉が刺さった。
本人が言っている。
だから、嘘ではない。
でも、真実でもない。
ミユは手を握りしめた。
反論したい。
この場で叫びたい。
違う。
そういう意味じゃない。
あの時は、メグを助けようとしていた。
怖くても逃げなかった。
時給制はただの文句で、本気で人助けを金勘定だけでしているわけじゃない。
けれど、言えない。
ミユとして言えば、なぜそんなに詳しいのかと怪しまれる。
プリティミューとして変身すれば、人目の中で正体に近づく。
何より、今ここで言った言葉もまた切り取られるかもしれない。
ミユの背中に冷たい汗が伝った。
映像の最後に、黒い背景が映る。
銀色のハサミのアイコン。
その下に、白い文字。
《SCISSOR CLIP》
そして、柔らかい男性の声がビジョンから流れた。
《あなたが見ている正義は、誰かが見せたい正義かもしれません》
街がざわめく。
ミユは、人だかりの中心へ振り返った。
黒いコートの男は、もうこちらを見ていなかった。
ただ、手元のハサミを静かに閉じる。
チョキン。
その音が、街のざわめきの中で、やけにはっきり聞こえた。
ミユのスマホが震えた。
アインからのメッセージ。
《バイト君、今の映像を見たか》
ミユは、震える指で返信した。
《見た》
《最悪》
すぐに返事が来る。
《急いでくれ。今回の敵は、君の言葉を狙っている》
ミユは街頭ビジョンを見上げた。
そこにはもう、別の広告が流れている。
何事もなかったように、ネオ・アキバタウンの街は騒がしいままだった。
でも、ミユの中では何かが切られたままだった。
自分の言葉が、自分から離れていく感覚。
それは、刃で切られる痛みより、ずっと気持ちが悪かった。
ミユは拳を握りしめ、アインの新研究所へ向かって歩き出した。




