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第7節 ― ほしいものは、悪くない

 地下温室は、ゆっくりと枯れていった。


 赤紫の光は、波が引くように弱まっていく。壁一面を覆っていた蔓は水分を失い、艶をなくし、古い紙のように乾いていった。天井から垂れていた花弁状の器官はひとつ、またひとつと落ち、床に触れる前に黒ずんだ欠片へ変わる。


 甘い匂いも、完全には消えない。


 けれど、さっきまでのように頭の奥へ入り込んでくる感じは薄れていた。代わりに、地下水の湿った匂い、古いコンクリートの匂い、そしてどこか遠くから流れ込むカレーのスパイスの匂いが残っている。


 現実の匂いだった。


 プリティミューは、息を切らしながら地下水路から中央広場へ戻った。


 ミュー・ハンマーを握る手が震えている。装甲の内側は汗でびっしょりだった。足元も重い。さっきまで何度も分株体と戦い、地下水路まで走り、根本体を叩き壊したのだから当然だ。


 それでも、まだ立っていなければならなかった。


 中央広場では、捕虫筒型のポッドが次々と開いていた。


 半透明の膜が萎み、中に入っていた人々が咳き込みながら外へ出てくる。眠っていたはずなのに、全員が深い夢から急に引き戻されたような顔をしていた。足元がおぼつかず、誰かの肩を借りる者もいる。何が起きたのかわからず、ただ周囲を見回す者もいた。


「ここ……どこ……?」


「私、店に入って……それから……」


「診断を受けてたはずなのに……」


「すごく、幸せだった気がする……」


 若い女性が、床に座り込んだまま呟いた。


 その顔には、まだ夢の名残があった。笑っていいのか泣いていいのかわからないような、空っぽに近い表情だった。


 隣の会社員らしい男性が、震える手で自分の顔を押さえる。


「でも、起きたら怖くなった……何を選んだのか、覚えてるようで覚えてない」


 別の女性が、小さく首を振った。


「自分で選んでるつもりだったのに……」


 プリティミューは、その言葉を聞いて動けなくなった。


 自分で選んでいるつもり。


 その言葉が、胸の奥に引っかかる。


 ルージュ・ピッチャーの入口で、《普通の生活》を押しそうになった自分を思い出す。地下温室で見た、母が笑っている幻。メグと普通に帰る放課後。危険なバイトも怪人事件もない、ただの高校生活。


 あれは、自分の中にあった願いだ。


 サラセニア・ルージュに作られたものではない。


 だからこそ、怖かった。


 嘘なら振り払える。

 全部が偽物なら、怒って壊せる。

 でも、本当に欲しいものを差し出された時、人は足を止めてしまう。


 プリティミューはハンマーを下ろした。


「……ほしいって思うことは、悪くないんだよね」


 誰に言ったのか、自分でもわからなかった。


 近くで起き上がろうとしていた女性が、ぼんやりと彼女を見る。プリティミューは慌てて顔を背けた。


 ヒーローらしい言葉になっていない。


 でも、今の自分にはそれしか言えなかった。


《ミユさん》


 ワトソンの声が通信に入った。


《地上への導線を確保しました。旧搬入口から避難可能です》


「了解。みんな、歩ける人はこっち! 歩けない人は肩を貸して! たぶん、上に出れば救急の人も来ます!」


《アインさんが匿名で通報済みです》


「匿名で便利に社会システム使うのやめなさいって言いたいけど、今回は助かる!」


《褒め言葉として受け取ります》


「今のは褒めてない!」


 プリティミューは、ふらつく人々を誘導し始めた。


 ポッドから出てきた人たちは混乱していたが、暴れる者はいなかった。むしろ、みんな夢から覚めたばかりのように力が抜けている。階段を上るだけでも大変そうだった。


 中央の椅子では、メグがまだ座っていた。


 プリティミューは駆け寄った。


「メグちゃん!」


 メグの周囲に張られていた赤紫の膜はもう消えている。鏡も割れ、床に破片が散っていた。メグは眼鏡をかけ直そうとして、手元がうまく定まらず、少し苦戦している。


 プリティミューは反射的に手を伸ばしかけた。


 その瞬間、メグが顔を上げる。


 ふたりの目が合った。


 ほんの一瞬、メグの瞳に何かが宿った。


 プリティミューの顔。

 声。

 ミユの声。

 地下へ飛び込んできた制服姿の先輩。


 それらが、メグの中で重なったかもしれない。


 プリティミューは固まった。


「えっと、その、私は通りすがりの科学少女で」


「プリティミューさん」


 メグが静かに言った。


 その声は弱いが、意識は戻っている。


「助けに来てくれて、ありがとうございます」


「あ、うん。どういたしまして」


「ミユ先輩は?」


「えっ」


 プリティミューの喉が変な音を立てた。


「え、えーと、ミユ先輩は、その、なんか、たぶん、たまたま、上の方に」


「そうですか」


 メグは少しだけ目を伏せた。


「あとで、お礼を言います」


「うん。言っておいて。本人に。本人っていうか、本人は本人で……」


 自分で何を言っているのかわからなくなる。


 メグは、ほんの少しだけ笑った。


「プリティミューさん」


「はい」


「先輩に、無理をしないでくださいって伝えてください」


 プリティミューは何も言えなかった。


 その言葉が、胸の奥にまっすぐ刺さる。


 メグは続けた。


「欲しいものがあるのは、悪いことじゃないと思います」


 プリティミューは息を呑んだ。


「……聞こえてた?」


「少しだけ」


「うわ」


 声が素に戻りそうになり、慌てて咳払いする。


「そ、それは、本人には黙っておいた方がいいかもね!」


「はい」


 メグは眼鏡を直した。


「秘密にしておきます」


「ほんと?」


「プリティミューさんには報告しません」


「その言い方やめて!」


 完全に素のツッコミが出た。


 メグは今度こそ、小さく笑った。


 笑えるなら、大丈夫。


 少なくとも今は。


 プリティミューはほっとして、メグに肩を貸した。


「立てる?」


「はい。たぶん」


「たぶんは信用できないなあ」


「先輩ほどではありません」


「今のは何と比べたの!?」


「秘密です」


 メグはまだふらついていたが、しっかり自分の足で立った。


 地下温室の出口へ向かう途中、ポッドから出てきた人々が、ぽつぽつと言葉をこぼしていた。


「有名になった夢を見てた」


「誰かに、すごく褒められてた」


「何もしなくても、全部うまくいく場所にいた気がする」


「戻りたいって、少し思っちゃうのが怖い」


 プリティミューは、その言葉を聞くたびに胸が重くなった。


 ほしいものは悪くない。


 でも、ほしいものは人を揺らす。


 その揺れを、自分で選べなくなるところまで持っていくのが、サラセニア・ルージュの罠だった。


 ミユは、それを忘れないようにしようと思った。


     *


 地上へ出る頃には、空はすっかり夜になっていた。


 ルージュ・ピッチャーの赤紫のネオンは消えている。


 外から見ると、さっきまであれほど華やかだった店は急に古びて見えた。ガラスの奥は暗く、花型の照明も沈黙している。店員たちの姿はない。残っているのは、甘い香りがしみついた空気と、入口前で戸惑う救助隊員たちの声だけだった。


 被害者たちは、救急車や警察関係者らしき人たちに誘導されていく。


 もちろん、プリティミューはその場に残れない。


 人目が増える前に、彼女はメグを安全な場所まで連れていき、崩れた店舗の裏手で変身を解いた。


 光が消え、制服姿のミユに戻る。


 その瞬間、全身の疲れが一気に来た。


「……重っ」


 身体が重い。

 腕が上がらない。

 足が笑っている。

 お腹も空いた。


 そして、甘い匂いを嗅ぎ続けたせいか、口の中が妙に気持ち悪い。


「ミユ先輩」


 近くの壁にもたれていたメグが、顔を上げた。


 ミユはぎくりとした。


「はいっ」


「なぜ敬語ですか」


「いや、なんとなく」


 メグは少しだけ首を傾げたが、追及しなかった。


 その代わり、深く頭を下げた。


「すみません、先輩。また危ないところに行きました」


「ほんとだよ」


 ミユは即答した。


 ここは甘やかしていいところではない。


 メグは顔を上げ、少ししゅんとする。


「でも、今回は少しだけ役に立てました」


「少しじゃないでしょ」


 ミユは、はっきり言った。


 メグが目を瞬く。


「助かったよ。メグちゃんが赤い線のこと教えてくれなかったら、私、たぶん地下でずっと迷ってた」


「先輩なら、最終的に壁を壊して進んだと思います」


「否定できないけど、できれば壊したくなかった」


「ポッドもありましたから」


「そう。だから、助かった」


 メグは黙った。


 そして、眼鏡の奥で少しだけ嬉しそうに目を細めた。


「……よかったです」


 その顔を見て、ミユも少し笑った。


 それからメグは、急に真面目な顔に戻った。


「でも、先輩」


「なに?」


「普通の生活が欲しいって思うのは、悪いことじゃないと思います」


 ミユは固まった。


「……やっぱり聞こえてた?」


「少しだけ」


「うわ、恥ずかしい」


「秘密にしておきます」


「ほんと?」


「プリティミューさんには報告しません」


「その言い方やめて!」


 さっきと同じやり取りになって、ミユは頭を抱えた。


 でも、今度は少し笑えた。


 メグも笑っていた。


 それだけで、地下の甘い夢よりもずっと現実味があった。


 冷たい夜風が、駅裏の通りを抜けていく。


 その風に乗って、また別の匂いが届いた。


 カレーの匂いだった。


 ミユのお腹が、正直に鳴った。


 メグが見る。


「先輩」


「今のは地下温室から生還した身体の正当な主張」


「否定はしません」


「しないんだ」


「私もお腹が空きました」


「じゃあ、行く?」


 ミユが指差した先には、小さな赤と黄色の庇が見えた。


 コブラカレー。


 店の札は、いつの間にか《営業中》に戻っていた。


     *


 コブラカレーの店内は、相変わらず狭くて怪しかった。


 けれど、地下温室の赤紫の光を見た後では、その怪しさすら少し安心できた。油の匂い、スパイスの匂い、鍋の湯気、古いポスター、カウンターの傷。どれも本物の現実に属している。


 コブラは、二人を見るなり、何も聞かずに皿を出した。


 湯気の立つカレー。


 ミユはカウンターに座ったまま、目を丸くする。


「え、頼んでない」


「サービスだ。甘い匂いを嗅いだ後は、辛いもん食っとけ」


「この店、衛生的に大丈夫?」


「嬢ちゃん、失礼だねえ」


「いや、だって地下に換気ダクト逆流させてなかった?」


 コブラの手が一瞬だけ止まった。


 それから、何事もなかったように水の入ったグラスを置く。


「カレー屋には、いろんな風が吹くんだよ」


「絶対ごまかしてる」


「嬢ちゃん、カレーは熱いうちだ」


「それでごまかされると思ってる?」


 ミユはスプーンを持った。


 一口食べた。


 沈黙。


「……でもおいしいから腹立つ」


 コブラは少しだけ口の端を上げた。


「だろ」


 メグもカレーを口に運び、静かに息を吐いた。


「スパイスで頭がはっきりします」


「だろ。甘い夢から戻るには、少し辛いくらいがちょうどいい」


 その言葉に、ミユは顔を上げた。


 コブラは鍋をかき混ぜている。

 いつも通りの飄々とした横顔。


 でも、さっきの言葉はただのカレー屋の雑談には聞こえなかった。


「おじさん」


「何だい」


「なんか知ってる?」


「何を」


「ルージュ・ピッチャーのこと。サラセ……じゃなくて、あの怪しい店のこと」


 コブラは、しばらく鍋を見つめていた。


 煮立つルーの表面に、油がゆっくり輪を作っている。


 やがて彼は、低い声で言った。


「欲しいもんがあるなら、大事にしな」


 ミユは黙った。


 コブラは続ける。


「欲しいもんがあるから、腹が減る。腹が減るから、飯がうまい。もっと良くなりたい、変わりたい、楽になりたい。そう思うのは、人間なら普通のことだ」


 その声は、いつもの軽さを少し失っていた。


「ただし」


 コブラはミユを見た。


 目だけが、やけに鋭い。


「欲しいもんを餌にして近づくやつには気をつけろ」


 ミユはスプーンを止めた。


 メグも、静かに顔を上げる。


「おじさん、やっぱりなんか知ってるでしょ」


「カレー屋はな、客の顔色を見る商売なんだよ」


「その返し、さっきも聞いた気がする」


「便利なんだ」


「便利な言い訳として使わないで」


 コブラは答えなかった。


 代わりに、赤いスパイスの小皿をミユの前へ置く。


「辛さを足すかい」


「今、話を逸らしたよね」


「人生、逸らさなきゃ焦げる話もある」


「名言っぽくしてもだめ」


 ミユは睨んだが、コブラはそれ以上言わなかった。


 ただ、鍋の向こうで静かに目を細める。


 その表情には、どこか遠いものを見るような影があった。


 ミユは、その影を追及できなかった。


 今は、カレーが温かい。


 メグが隣にいて、少し疲れているけれど無事で、外の赤紫のネオンは消えている。


 それで十分だと思うことにした。


 少なくとも、今夜は。


     *


 ジョーカー帝都支部。


 指令室の空気は、いつもよりさらに重かった。


 ゲル大佐は、作戦失敗報告を受けて、しばらく無言だった。


 報告をしている戦闘員の声だけが、妙に乾いて響く。


「サラセニア・ルージュ、活動停止。地下温室施設も破壊されました。捕食ポッドは全停止。一般人の回収前に、当方の作戦班は撤収済みです」


「またか……」


 ゲル大佐は椅子に深く座り、片手で胃を押さえた。


 報告書はまだ薄い。


 だが、これから分厚くなることはわかっている。


 プリティミューの欲望反応。

 高梨メグの支援行動。

 コブラカレー周辺の予期せぬ気流干渉。

 サラセニア・ルージュの本体破壊。


 反省点が多すぎる。


 戦闘員42号が横に立っていた。


「大佐、追加報告です」


「聞きたくないが、聞こう」


「地下水路でサラセニア・ルージュの蜜腺組織、および捕虫根片を回収しています」


「損失は」


「戦闘員数名がカレー臭くなりました」


「人的損失を先に言え」


「軽傷のみです」


「ならよい」


 42号は少し安心したように敬礼した。


 その時、指令室の照明が落ちた。


 中央モニターが黒く染まる。


 白い仮面のアイコンが浮かび上がった。


 首領X。


 ゲル大佐は即座に姿勢を正した。


「はっ」


「ゲル大佐」


 首領Xの声は、いつも通り感情が読めなかった。


「良いデータだった」


 ゲル大佐は、胃の奥がさらに重くなるのを感じた。


「……また敗北しましたが」


「彼女は欲望を否定しなかった」


 モニターに、戦闘データが表示される。


 ルージュ・ピッチャー入口で、《普通の生活》の選択肢に指を止めるミユ。

 地下温室で、母と友人のいる普通の日常の幻を見つめるミユ。

 それでも、メグを置いていくのは違うと言ったミユ。

 根本体へハンマーを振り下ろすプリティミュー。


「しかし、欲望に従属もしなかった」


 ゲル大佐は黙っていた。


 まただ。


 首領Xは、怪人の敗北を惜しまない。

 施設の破壊すら、大きな問題として扱っていない。


 見ているのは、いつもプリティミューの選択だ。


 ゲル大佐は、恐る恐る尋ねた。


「首領X。次の段階とは」


 白い仮面のアイコンが、ほんの少しだけ揺らいだように見えた。


「次は、彼女の言葉を切り取れ」


「言葉を……?」


「彼女は恐怖を言葉に変える。怒りを言葉に変える。羞恥を言葉に変える。欲望すら、選択の言葉に変えた」


 首領Xの声が低くなる。


「ならば、その言葉そのものを断て」


 ゲル大佐の脳裏に、ひとつの怪人候補が浮かんだ。


 鋭い刃。

 切断。

 紙片。

 切り抜かれた声。


 マンティスシザー。


 ゲル大佐は、静かに敬礼した。


「承知しました」


 通信が切れる。


 指令室に照明が戻った。


 ゲル大佐はしばらくモニターを見つめていた。


 プリティミューの映像は消えている。


 だが、その声が耳に残っていた。


《ちゃんと選ぶの》


 ゲル大佐は低く呟いた。


「厄介な小娘だ」


 42号が首を傾げる。


「大佐、それは褒めていますか」


「敵への評価だ」


「ほぼ褒めている気がします」


「黙れ」


「はい」


     *


 地下水路の片隅では、戦闘員たちが残骸回収を進めていた。


 赤紫の根の欠片。

 香気を出していた蜜腺組織。

 捕虫筒の一部。

 ルージュ・ミラーの破片。


 すべてが専用ケースへ収められていく。


 42号は現場通信で指示を出した。


「大佐、回収完了です」


《急げ。長居するとカレー臭くなる》


「自分、ちょっと食べて帰りたいです!」


《任務中だ!》


「はい!」


 42号は敬礼したが、通信が切れた後、少しだけ駅裏の方角を見た。


「でも、いい匂いなんだよなあ……」


 隣の戦闘員が頷く。


「わかる」


「撤退後、非番で来る?」


「怪人の残骸回収した後に?」


「カレーは別腹」


「別腹かなあ」


 そんな会話をしながら、戦闘員たちは暗い地下へ消えていった。


     *


 そのさらに奥。


 誰もいない暗い研究室で、黒い手袋をした人物がケースを受け取った。


 ケースの中には、赤紫の根片が収められている。


 完全に枯れたはずのそれは、透明な保存液の中で、かすかに脈打っていた。


 黒い手袋の人物は、無言でラベルを貼る。


《J-04 サラセニア・ルージュ/蜜腺組織・捕虫根片・敗北データ回収予定》


 ラベルの文字が、冷たい白色灯の下で浮かび上がる。


 ケースの中で、根がもう一度だけ小さく震えた。


 まるで、まだ何かを欲しがっているかのように。


     *


 夜。


 コブラカレーの店内で、ミユは最後の一口を食べ終えた。


 辛い。


 でも、うまい。


 甘い夢の後に食べるカレーは、妙に現実の味がした。


 メグは隣で水を飲んでいる。辛さに少し弱いらしく、目元が赤くなっていた。


「メグちゃん、大丈夫?」


「はい。少し辛いです」


「辛さ普通って言ってたよね」


「この店の普通は、普通ではありません」


 カウンターの奥で、コブラが笑った。


「人生は辛口だって言ったろ」


「それで全部ごまかせると思わないでください」


 メグが真面目に返す。


 ミユは思わず笑った。


 笑ったら、少しだけ泣きそうになった。


 普通の生活は、まだ戻ってこない。


 明日も学校がある。

 アインから呼び出されるかもしれない。

 ジョーカーはまた何か仕掛けてくる。

 プリティミューの動画は、きっとまた増える。


 それでも、今ここに、カレーを食べている自分がいる。


 隣にはメグがいる。


 少し怪しい店主が、何も聞かずに水を足してくれる。


 それは完璧な普通ではない。


 でも、欲しかったものの一部ではある気がした。


「ほしいものってさ」


 ミユはぽつりと言った。


 メグが見る。

 コブラも鍋をかき混ぜながら、少しだけ耳を向けている。


「悪くないんだよね」


 メグはうなずいた。


「はい」


 コブラも、短く言った。


「悪かねえよ」


 ミユはスプーンを皿の上に置いた。


「じゃあ、大事にしないとね」


 自分の言葉なのに、少し照れた。


 メグが微笑む。


「はい」


 コブラは空になった皿を下げながら言った。


「大事にするなら、まず食って寝ることだな」


「急に現実的」


「夢より効く」


「それはちょっとわかる」


 ミユは椅子にもたれた。


 辛さで身体が温まっている。


 甘い匂いはもうしない。


 外では、ルージュ・ピッチャーの消えた看板が、夜風に小さく揺れていた。


 ミユはそれを見ないようにして、コブラカレーの湯気の方へ視線を戻した。


 ほしいものは、悪くない。


 ただ、それを誰かに食べられないように。


 ちゃんと、自分で選べるように。


 その夜、ミユは少しだけ、前より自分の欲しさを嫌わずに済んだ。


 ――第4話 終

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