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第6節 ― 甘い匂いを、辛さで割る

 何体目を叩き潰したのか、もう数えていなかった。


 プリティミューのミュー・ハンマーが、赤紫の装甲を砕く。


 ピコッ、という場違いに間抜けな電子音。


 その直後、分株体のサラセニア・ルージュが花びらのように裂け、赤紫の粒子になって散った。


「よし!」


 プリティミューは息を吐いた。


 だが、安堵する暇はなかった。


 床を這う根が、どくん、と脈打つ。


 湿ったタイルの隙間から新しい芽が膨らみ、赤紫の葉が開き、捕虫筒のようなスカートが形を取り、ルージュ色の蔓が髪のように垂れる。


 数秒前に倒したはずの女が、同じ笑みで立っていた。


「おかえりなさいませ」


「帰ってこないで!」


 プリティミューは叫んだ。


 背後にも気配。


 振り返ると、別の分株体が蔓の腕を振り上げていた。プリティミューは身を低くして避ける。蔓が空を切り、壁のポッドに絡みついた。半透明の膜がぶよんと揺れ、中で眠る女性の表情が少し歪む。


「やばっ!」


 プリティミューは足を止めた。


 この地下温室には、囚われた人たちがいる。


 壁一面のポッド。

 中央の椅子に座らされたメグ。

 床を走る根。

 天井から垂れる花弁。


 どこを叩いても、誰かを巻き込みかねない。


 そのため、攻撃が大振りにできない。ハンマーの出力を上げれば、分株体ごと周囲のポッドまで砕いてしまうかもしれない。逆に抑えれば、サラセニア・ルージュは何度でも再生する。


 最悪の足場。

 最悪の匂い。

 最悪の数。


 その上、甘い香気がどんどん濃くなっていた。


 変身しているおかげで直接吸い込む量は減っているはずなのに、頭の奥が少しずつ重くなる。身体が熱いのに、力が抜けそうになる。戦う理由が、ふと遠くなる。


 もう少し楽になってもいいのではないか。


 そんな声が、頭のどこかで囁く。


 プリティミューは歯を食いしばった。


「うるさい」


 分株体の一体が首を傾げる。


「わたくし、まだ何も言っておりませんわ」


「匂いがうるさい!」


「あら。香りは言葉より正直ですのよ」


「その正直さが迷惑!」


 プリティミューは前へ踏み込んだ。


 右から蔓。

 左から花弁。

 足元から根。


 ジャンプしようとして、天井から垂れた捕虫筒が口を開く。中には蜜のような液体が光っていた。


「天井まで罠!」


《バイト君、右後方三十度》


 アインの声が飛ぶ。


「右後方ってどっち!」


《君から見て右だ》


「私から見て右以外ある!?」


 文句を言いながらも、身体は反応していた。


 プリティミューは右へ転がり、迫ってきた蔓を避ける。そのまま床に手をつき、ハンマーを横に振るった。低い軌道で叩きつけられた一撃が、分株体の脚部を砕く。


 赤紫の花びらが散る。


 しかし、また根が脈打った。


 新しい花が咲く。


「何体いるの、ほんとに!」


 サラセニア・ルージュたちが、四方から笑った。


「欲望は枯れませんわ」


「切っても切っても生えてくる」


「踏まれても、摘まれても」


「誰かの胸の奥から、また芽吹くのです」


「欲望を雑草扱いするな!」


「では、花と呼んで差し上げましょう」


「そういう問題じゃない!」


 プリティミューはハンマーを構え直した。


 息が荒い。


 装甲の内側で、汗がじっとりと流れている。地下の湿気と香気が身体にまとわりつき、まるで見えない蔓で縛られているようだった。


《解析が進んだ》


 アインの声が少し鋭くなる。


《本体は地下水路の奥だ。根が全ポッドに繋がっている》


「そこまでどう行くの!」


《迷わなければ行ける》


「迷う前提で話して!」


《地下温室の床に赤い栄養流がある。それが根の中枢へ向かっているはずだ》


「床、赤い線だらけなんだけど!」


《濃い方だ》


「曖昧!」


 プリティミューは足元を見た。


 確かに、床を這う根の中に、赤く光る線がある。だが、どれも似ている。太いものも細いものもあり、途中で枝分かれし、ポッドに繋がり、壁に消え、また床に戻ってくる。


 迷路だった。


 しかも、生きた迷路。


 根が動くたび、道が変わる。


「アイン、これ本当に行ける?」


《行けるかどうかで言えば、理論上は行ける》


「出た、理論上!」


《実践は君の担当だ》


「バイトの業務範囲、広すぎ!」


 その時、中央の椅子から小さな音がした。


 カチ、とスマホのロックが外れる音。


 プリティミューは振り返った。


 メグが、椅子の上でかすかに動いていた。


 彼女の周囲には赤紫の光の膜が残っている。まだ完全には自由になっていない。顔色は悪く、眼鏡はずれ、呼吸も浅い。


 それでも、メグの手は膝の上のスマホを探していた。


「メグちゃん!」


 プリティミューが叫ぶ。


 メグの指が震えながら画面をなぞった。


 暗い画面が点灯する。


 怪人事件ログ。

 保存していた地図。

 ルージュ・ピッチャーの店内配置。

 地下配管図。

 駅裏商業施設の古い見取り図。


 メグは、ぼやける視界の中で、それらを重ねた。


「先輩……」


 声は弱い。


 けれど、届いた。


「床の赤い線……栄養流です……」


「うん、それは聞いた!」


「全部じゃないです……本体に繋がる線だけ……流れが逆です……」


「逆?」


 メグは必死に目を凝らし、震える指でスマホ画面を拡大した。


「ポッドに向かって流れてる線じゃなくて……ポッドから戻ってる線……吸い上げた反応が、中心に戻ってます……」


 プリティミューは足元を見た。


 赤い線。


 ただ光っているだけではない。


 流れている。


 ポッドへ向かって脈打つ線と、ポッドから戻っていく線がある。前者は薄く広がり、後者は細いが濃い。まるで血管の静脈と動脈のように、温室全体を巡っている。


 メグが言う。


「濃い赤……壁際じゃなくて……床の中央を避けるように走ってる線です……それを辿ってください……」


「メグちゃん、天才!」


「まだ……普通です……」


「この状況で普通なわけないでしょ!」


 メグの口元が、ほんの少しだけ動いた。


 笑おうとしたのかもしれない。


 だが、その瞬間、鏡が赤く光る。


 メグの身体がびくりと震えた。


 サラセニア・ルージュの分株体が、冷たい目で彼女を見た。


「目覚めが早い子は、困りますわ」


「メグちゃんに手を出すな!」


 プリティミューは駆け出そうとした。


 しかし、前に立ちふさがるように分株体が三体、根から咲き上がる。


「通しませんわ」


「夢を見る子は、静かに寝かせておくもの」


「目覚ましは嫌われますのよ」


「嫌われても起こす!」


 プリティミューはハンマーを握りしめた。


 ミュー・ハンマーが光る。

 前方の分株体へ向かって突っ込む。


 一体目の蔓をハンマーで弾き、二体目の捕虫筒を蹴って跳び、三体目の肩を踏み台にして、床の濃い赤の線へ着地した。


「よし、この線!」


《そのまま辿れ》


 アインの声。


《本体は地下水路方面だ。旧商業施設の排水経路を利用して根を張っている》


「地下水路って、今よりもっと地下ってこと?」


《そうなる》


「これ以上地下に行くの!?」


《植物は根を深く伸ばすものだ》


「理科の授業みたいに言わないで!」


 プリティミューは濃い赤の線を追って走った。


 だが、サラセニア・ルージュは当然見逃さない。


 床から蔓が伸びる。

 壁のポッドから触手のような根がせり出す。

 天井から花弁が落ちてくる。


 避ける。

 叩く。

 滑る。

 転びかける。


 華麗な戦いではない。

 泥臭く、必死で、かなり危なっかしい。


 湿った床で足を取られ、プリティミューは危うく転びそうになった。


「うわっ!」


 体勢を崩した瞬間、甘い香気が一気に濃くなる。


 通路の奥から、霧のように流れてきたのだ。


 赤紫の霧。


 それを吸った瞬間、膝の力が抜けた。


「っ……」


 視界が揺れる。


 また、普通の生活の幻が見えた。


 母が笑っている。

 メグが隣を歩いている。

 学校帰り、何も起きない放課後。

 コブラカレーで普通にカレーを食べて、ただ「おいしかったね」と言って帰るだけの日。


 ほしい。


 今でも、ほしい。


 だからこそ、足が止まりそうになる。


「……だめ」


 プリティミューはハンマーを支えにして踏みとどまった。


 でも、身体が重い。


 甘い匂いが、装甲の隙間から心の中へ入り込んでくるみたいだった。


 サラセニア・ルージュの声が響く。


「無理をしなくていいのですわ」


「欲しいものを、欲しいと言えばいい」


「戦わないあなたも、きっと愛されますわ」


「普通のあなたも、きっと幸せですわ」


 分株体たちの声が、地下通路に重なる。


 優しい。


 優しい声のはずなのに、プリティミューは吐き気がした。


 その時。


 別の匂いが流れ込んできた。


 甘さをぶった切るような、強烈な匂い。


 唐辛子。

 クミン。

 黒胡椒。

 にんにく。

 炒め玉ねぎ。

 熱した油。

 焦げる寸前のスパイス。


「……え?」


 プリティミューは顔を上げた。


 甘い香気が、揺らいでいる。


 赤紫の霧の中に、黄色く熱い気配が混じる。鼻の奥を刺激し、涙が出そうになるほど辛い。


 だが、その刺激で、ぼんやりしていた頭が少しだけ戻った。


「何この匂い!?」


《ミユさん、今です。香気濃度が低下しました》


 ワトソンの声が通信に入る。


「ワトソン? 何したの!?」


《コブラカレーの厨房換気ダクトを一時的に逆流させています》


「どういうこと!?」


《地上の店舗排気が、旧地下商業施設の換気経路と繋がっていました。私の外部行動用人型アバターでダクト制御盤へアクセスし、気流を反転させました》


「説明がすごいけど、要するに?」


《カレーです》


「戦闘中にお腹空くやつ!」


《空腹を感じるほど意識が戻ったなら、効果はあります》


「ワトソン、たまにすごく理屈で殴ってくる!」


 通信の向こうで、ワトソンは淡々としていた。


《スパイスの刺激臭により、サラセニア・ルージュの甘香性誘導物質が一時的に撹乱されています。長くは持ちません》


「了解!」


 プリティミューは立ち上がった。


 甘い匂いはまだある。

 でも、さっきほどではない。


 辛い香りが鼻を刺すたび、現実の身体感覚が戻る。目が覚める。足に力が入る。


     *


 地上。


 コブラカレーの厨房では、コブラが大鍋をかき混ぜていた。


 店内には客がいない。


 入口には《準備中》の札がかかっている。


 厨房の奥、古い換気ダクトの点検口が開いていた。そこに、白い作業服を着た小柄な人物が立っている。


 人間にしか見えない。

 だが、その目の奥には、猫型AI特有の静かな光があった。


 ワトソンの外部行動用人型アバターである。


「排気圧、もう少し上げられますか」


 ワトソンが尋ねる。


 コブラは木べらを止めずに答えた。


「厨房を爆発させる気がないなら、これが限界だな」


「爆発は推奨しません」


「だろうな」


 コブラは鍋に、赤黒いスパイスペーストを一匙加えた。


 じゅっ、と音がして、湯気が一気に立つ。


 目が痛くなるほど強い香り。


 コブラは、駅裏の方角へ視線を向けた。


「甘い罠には、辛い目覚ましだ」


 ワトソンは彼を見た。


「あなたは、あの施設が何か知っているのですか」


「カレー屋はな」


 コブラは鍋をかき混ぜながら言った。


「客の匂いと顔色を見る商売なんだよ」


「回答になっていません」


「よく言われる」


 コブラはにやりともせず、ただ鍋を見ていた。


 その目は、昔の何かを思い出しているように鋭かった。


     *


 地下。


 プリティミューは再び走り出した。


 床の濃い赤の線を追う。


 辛い匂いで香気が揺らいでいるうちに、できるだけ進む。背後から分株体が追ってくるが、さっきより動きが鈍い。甘い霧が乱れたことで、再生の速度も落ちているようだった。


《バイト君》


 アインの声。


《ミュー・ハンマーの出力を調整する》


「今度は何!?」


《ハンマーの音波に、スパイス粒子の拡散振動を乗せる》


「料理番組と科学番組が混ざってる!」


《香気誘導物質は空間に滞留している。叩くだけでは根に届かない。スパイス粒子を振動で拡散し、甘香成分を乱しながら本体へ接近する》


「ちゃんと理屈はあるのが腹立つ!」


《技名はミュー・スパイスブレイク》


「今回は嫌いじゃない!」


《珍しく好評だ》


「わかりやすさって大事!」


 ミュー・ハンマーの先端が光を帯びた。


 いつもの白とピンクの光に、オレンジ色に近い暖かな輝きが混じる。ハンマーを振ると、ピコッという電子音の後に、ぱちぱちと弾けるような微細な振動が空気へ広がった。


 甘い霧が割れる。


 赤紫の粒子が散り、代わりにスパイスの刺激が通路を満たす。


 分株体が顔をしかめた。


「何ですの、この下品な匂いは!」


「カレーに謝れ!」


「美しくありませんわ!」


「おいしいものはだいたい正義!」


 プリティミューはハンマーを振り抜いた。


「ミュー・スパイスブレイク!」


 音波と振動が通路を走る。


 分株体たちの捕虫筒が震え、赤紫の花弁がばらばらと落ちた。床の根も一瞬、流れを乱す。


 その隙に、プリティミューは通路の奥へ飛び込んだ。


 旧地下商業施設の端。

 そこには、錆びた鉄格子の扉があった。


 扉の向こうから、水の音がする。


 地下水路。


 赤い栄養流は、その隙間から奥へ続いていた。


「ここか!」


《その先だ》


「開かないんだけど!」


《ハンマーで》


「了解!」


 プリティミューはミュー・ハンマーを振り上げた。


 ピコッ。


 鉄格子が派手にひしゃげる。


 音は間抜けでも、威力は十分だった。


 プリティミューは身を滑り込ませるようにして、地下水路へ入った。


     *


 地下水路は、温室よりさらに暗かった。


 天井は低く、壁は湿っている。足元には浅い水が流れ、そこへ赤紫の根が何本も沈んでいた。水面に浮かぶ油膜のように、甘い光が揺れている。


 奥へ進むほど、根は太くなる。


 そして、匂いも濃くなる。


 スパイスの刺激がなければ、数歩で膝をついていただろう。プリティミューはミュー・ハンマーを前に構え、スパイスブレイクの微振動を断続的に放ちながら進んだ。


 やがて、地下水路の奥に広い空間が現れた。


 貯水槽のような場所だった。


 そこに、巨大なサラセニアが根を張っていた。


 太い根が、天井、壁、床、そして水路の奥へと絡みついている。その中心に、巨大な捕虫筒がいくつも重なり、花冠のように開いていた。花弁の内側には、無数の斑点があり、それらがまるで目のようにプリティミューを見ている。


 そして、根の中心。


 美しい女の顔が浮かんでいた。


 サラセニア・ルージュ。


 地上で見た人間の姿でも、温室で見た分株体でもない。


 本体だった。


 彼女は、水の上に浮かぶ花のように、静かに微笑んでいた。


「ようこそ、根の奥へ」


 声が、空間全体から響く。


「ずいぶん辛そうな匂いを連れてきましたのね」


「そっちが甘すぎるからでしょ」


「甘いものは、人を幸せにしますわ」


「辛いものも、目を覚ますよ」


 プリティミューはハンマーを構えた。


 だが、すぐには踏み込めない。


 根本体の周囲には、赤紫の太い根が幾重にも走っている。どれが本体の中枢なのか、まだ見えない。下手に叩けば、温室のポッドと繋がっている根まで暴走するかもしれない。


 サラセニア・ルージュは、そんなミユの迷いを見透かしたように笑った。


「あなたが欲しいものを、わたくしは知っていますわ」


 その声と同時に、周囲の水面が鏡のように光る。


 母の笑顔。

 学校の廊下。

 メグとの普通の帰り道。

 何も背負わない自分。


 また見える。


 さっきよりも近い。


 手を伸ばせば、今度こそ届きそうだった。


 プリティミューは目を閉じなかった。


 見る。


 逃げずに見る。


 欲しいものだから。


 自分の中に、本当にあるものだから。


「うん」


 プリティミューは静かに言った。


「私も知ってる」


「ならば――」


 サラセニア・ルージュの声が甘くなる。


「手を伸ばしなさい。疲れたでしょう。怖かったでしょう。普通の子に戻りたいのでしょう」


「戻りたいよ」


 プリティミューは答えた。


 サラセニア・ルージュの笑みが深くなる。


 だが、プリティミューは続けた。


「でも、欲しいものがあるからって、誰かを食べていい理由にはならない!」


 ミュー・ハンマーが強く光った。


 白とピンク。

 そこに、スパイス色のオレンジが混じる。


 香気が揺らいだ。


 サラセニア・ルージュの顔が、初めて不快そうに歪む。


「わたくしは食べてなど――」


「食べてる!」


 プリティミューは叫んだ。


「身体じゃなくても、判断力とか、意志とか、夢とか、そういうのを勝手に吸い上げてるなら食べてるのと同じでしょ!」


「皆さまが望んだのですわ」


「望んだ気持ちにつけ込んだんでしょ!」


 プリティミューはハンマーを振りかぶった。


「欲しいって気持ちは悪くない。でも、それを餌にして穴に落とすやつは悪い!」


 地上から流れ込んだスパイスの香りが、地下水路まで届く。


 ワトソンの声が通信に入る。


《ミユさん、香気濃度がさらに低下。今ならポッド内の意識反応が回復します》


 アインの声も重なる。


《バイト君、本体周囲の根に振動を通せ。香気生成器官が露出する》


「了解!」


 プリティミューは足元を踏みしめた。


「ミュー・スパイスブレイク!」


 ハンマーを床へ叩きつける。


 ピコッ。


 場違いな音が地下水路に響いた。


 その直後、スパイス色の振動波が水面を走った。赤紫の根を伝い、貯水槽全体へ広がる。甘い香気が激しく揺らぎ、花弁のような器官が震えた。


 壁の奥で、何かが割れる音がする。


 遠く、地下温室のポッドの中で眠る人々が、次々と目を開け始めた。


     *


 中央広場。


 メグは、椅子の上で大きく息を吸った。


 甘い夢が薄れていく。


 鏡の中の自分が揺れる。

 プリティミューの隣に立つ、理想の自分。

 誰にも守られるだけではない自分。


 それは、完全な嘘ではなかった。


 メグは、そうなりたかった。


 役に立ちたかった。

 隣に立ちたかった。

 見ているだけではなく、自分の足で事件の中へ踏み込みたかった。


 でも。


 その夢の中の自分は、ミユを見ていなかった。


 自分がどう見えるかばかり見ていた。


 それに気づいた瞬間、メグの意識が戻った。


「……先輩」


 鏡の赤い光が弱まる。


 手の中のスマホが、まだ地図を表示していた。


 地下水路の奥から、強い振動が走ってくる。


 それに合わせて、床の根が透けるように赤く光った。


 メグは目を見開いた。


 見えた。


 温室全体に張り巡らされた根の中で、ひときわ太い中心の根。そこから、細い根が各ポッドへ繋がっている。甘い香気を作っている蜜腺器官も、赤い光の下で浮かび上がっていた。


 通信がまだ繋がっている。


 メグは震える手でスマホを握りしめ、叫んだ。


「先輩、本体の根、今なら見えます!」


     *


 地下水路に、メグの声が届いた。


 プリティミューは顔を上げる。


 サラセニア・ルージュの根本体の周囲。


 スパイスブレイクの振動で、赤紫の根の一部が透明に光っている。その奥に、ひときわ太く、黒ずんだ根が見えた。そこだけが、どくん、どくんと強く脈打っている。


 あれだ。


 プリティミューは直感した。


《確認した。中枢根だ》


 アインが言う。


《そこを破壊すれば、地下温室全体の分株体は停止する》


「わかった!」


 プリティミューはハンマーを握り直した。


 サラセニア・ルージュの表情が変わる。


「やめなさい」


 その声から、初めて余裕が消えた。


「その根を折れば、夢が枯れますわ」


「夢は、地下に吊るして吸うものじゃない!」


 プリティミューは跳んだ。


 水路の壁を蹴り、太い根を避け、伸びてくる蔓をハンマーで弾く。捕虫筒が大きく開き、彼女を飲み込もうとする。


「入らない!」


 空中で身体をひねり、筒の縁を蹴る。


 体勢は崩れた。


 でも、届く。


 中枢根へ。


 ミュー・ハンマーが最大出力で光る。


 白。

 ピンク。

 オレンジ。


 甘い匂いを割る辛い光。


 プリティミューは叫んだ。


「プリティ・ルートブレイク・インパクト!」


 ハンマーが中枢根に叩き込まれた。


 ピコッ。


 その小さな電子音の直後、地下水路全体が震えた。


 根に亀裂が走る。


 赤紫の光がひび割れ、蜜腺器官が破裂し、甘い香気が一気に吹き散らされる。水面が波立ち、壁に絡みついていた根が次々と枯れ始めた。


 サラセニア・ルージュの顔が歪む。


「いや……!」


 中枢根が砕けた。


 その瞬間、地下温室の分株体たちが一斉に崩れた。


 中央広場の鏡が割れる。

 壁のポッドが開く。

 眠っていた人々が、咳き込みながら目を覚ます。

 赤紫の花弁が、乾いた紙のように散っていく。


 地下全体に張り巡らされた甘い罠が、根元から枯れていった。


     *


 貯水槽の中心で、サラセニア・ルージュの本体が崩れ始めていた。


 美しい顔の輪郭が、花びらのようにほどける。

 髪の蔓が乾き、赤紫の光が薄れていく。

 巨大な捕虫筒も、内側から茶色く枯れ始めていた。


 プリティミューは、息を切らしながら水の中に立っていた。


 全身が重い。

 腕が震える。

 匂いはまだ残っているが、もう甘さだけではない。スパイスの刺激と、湿った地下水の匂いが混ざっている。


 現実の匂いだった。


 サラセニア・ルージュは、崩れながらもミユを見た。


「欲しいものを我慢する子は、いつか壊れますわよ」


 その声は、さっきより弱かった。


 でも、どこか本気でもあった。


 プリティミューはハンマーを下ろした。


「我慢するんじゃない」


 サラセニア・ルージュが、かすかに目を細める。


「では?」


 プリティミューは、少しだけ考えた。


 普通の生活は欲しい。

 お金も欲しい。

 母を安心させたい。

 メグと嘘なしで笑える放課後も欲しい。


 全部、本当だ。


 でも、それを全部いますぐ叶えると言われて、誰かを置いていくのは違う。


 欲しいものを捨てるのではない。

 欲しいものに飲み込まれるのでもない。


 自分で、選ぶ。


「ちゃんと選ぶの」


 プリティミューは言った。


 サラセニア・ルージュは、その言葉を聞いて、少しだけ笑った。


 毒のある笑みではなかった。


 甘い罠の奥に残った、かすかな感情のような笑みだった。


「それは……難しいことですわ」


「知ってる」


「なら、せいぜいお大事になさい。あなたの欲しいものは、きっとこれからも、あなたを苦しめますわ」


「それでも、勝手に食べられるよりはいい」


 サラセニア・ルージュの姿が、さらに崩れる。


 赤紫の粒子が、地下水路の暗闇へ散っていく。


 最後に、彼女の声だけが残った。


「欲望は、枯れませんわよ」


 プリティミューは、砕けた中枢根を見下ろした。


「うん」


 そして、小さく息を吐く。


「だから、ちゃんと育てるんでしょ」


 地下水路に、静けさが戻ってきた。


 遠くで、メグが誰かを呼ぶ声が聞こえる。


 ポッドから目覚めた人々の混乱した声もする。


 事件はまだ終わっていない。

 救助も必要だ。

 地上に戻れば、また説明に困ることもたくさんある。


 でも、甘い匂いはもう、薄れていた。


 プリティミューはミュー・ハンマーを握り直し、メグのいる温室へ向かって走り出した。

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