第5節 ― 地下に咲く、欲望の温室
落ちる、と思った。
床が割れ、赤紫の蔓がうねり、甘い匂いの底へ身体が吸い込まれた瞬間、ミユは反射的に腕をかばった。
視界が回る。
赤紫の光。
黒い影。
白い店内の床。
鏡に映った普通の自分。
それらがぐちゃぐちゃに混ざり、上へ遠ざかっていく。
「うわああああっ!」
《バイト君、姿勢制御!》
「無茶言うな!」
《身体を丸めろ。落下先の深度を計測中――》
「計測よりクッション出して!」
《μブレスレットにエアクッション機能はない》
「ないの!?」
《次回改修候補に入れておく》
「今ほしい!」
通信の向こうで、アインはいつも通り冷静だった。冷静すぎて腹が立つ。けれど、その声が聞こえていることだけで、ミユはかろうじて意識を保っていられた。
落下は長く感じた。
実際には数秒だったのかもしれない。
だが、甘い匂いを含んだ湿った風が、顔を撫で、髪を引き上げ、身体中の力を抜いていく。眠気とは違う。安心とも違う。何かに身を任せれば楽になる、という誘惑に近かった。
その感覚が、怖い。
怖いのに、少し楽だった。
だから、余計に怖い。
「っ……!」
突然、背中に柔らかいものが当たった。
落下の衝撃は思ったほど強くない。何か弾力のある膜のようなものが、ミユの身体を受け止めたのだ。
しかし、安心したのは一瞬だった。
その膜はぬるりとしていた。
湿っていて、粘りがある。
まるで巨大な葉の内側に落ちたような感触。
「うわ、何これ! 最悪!」
ミユは慌てて身を起こした。
足元には、赤紫色の厚い葉が広がっていた。葉の縁は筒状に丸まり、内側には濃い斑点模様がある。甘い蜜のような液体が細かく光り、触れた制服の袖が少しだけ貼りついた。
捕虫筒。
その言葉が頭をよぎり、ミユは全身に鳥肌が立った。
「落下用マットにしては趣味悪すぎる……!」
《バイト君、無事か》
「無事って言いたいけど、落ちた先が植物の胃袋っぽい!」
《正確には捕虫葉に近い構造だろう》
「正確さで気分悪くしないで!」
ミユは葉の縁に手をかけ、どうにか外へ這い出した。
その先に広がっていた光景を見て、言葉を失った。
地下だった。
だが、ただの地下室ではない。
そこは、巨大な温室だった。
天井は高い。
古い地下商業施設の吹き抜けを、そのまま植物の根と蔓で覆い尽くしたような空間。コンクリートの柱には赤紫の蔓が絡み、壁には配管と根が一体化して走っている。床の一部には、かつて店の区画だった名残が残っていた。割れたタイル、錆びたシャッター、使われなくなった案内板。
だが、それらはもう人間の施設には見えない。
根が張り、葉が覆い、花が開いている。
赤紫の光が、天井から垂れ下がる花弁状の照明器官から降っていた。どこかで水滴が落ちる音がする。ぽたん、ぽたん、と規則的に響くその音は、地下水の音にも、心臓の音にも聞こえた。
そして、匂い。
甘い。
地上の店内よりも、ずっと濃い。
花と蜜と香水を煮詰めて、そこへ人のため息を混ぜたような匂いだった。吸い込むたび、頭の奥がぼんやりする。立っているだけで、自分が何をしに来たのか、少しずつ曖昧になっていく。
ミユは急いでマスクを押さえ直した。
「……ここ、地下商業施設の跡地?」
《おそらく、駅裏再開発で封鎖された旧地下フロアだ。現在は正式な出入口が閉鎖されている》
「じゃあ、どうやってこんな植物園になってるの」
《ジョーカーの施設改造能力と、怪人由来の生体組織だろうね》
「説明されても嫌なものは嫌!」
ミユは周囲を見回した。
壁一面に、巨大な筒が並んでいる。
サラセニアの捕虫筒に似た、赤紫のポッド。
ひとつひとつが人間ひとりをすっぽり包めるほど大きい。半透明の膜に覆われ、中には淡い光が満ちている。
その中に、人がいた。
会社員らしい男性。
若い女性。
制服姿の高校生。
主婦らしい人。
配信者のように派手な髪色の青年。
見覚えのある顔もある。メグのノートに載っていた、失踪者たちだ。
彼らは、眠っていた。
拘束されているようには見えない。
苦しんでいる様子もない。
むしろ、微笑んでいる。
ある女性は、誰かに褒められている夢でも見ているように頬をゆるめていた。
若い男性は、胸の前で何かを抱きしめるような手つきをしている。
スーツ姿の会社員は、安心しきった子どものような顔で眠っていた。
ミユは、ぞっとした。
悲鳴を上げている人なら、助けなきゃと思える。
苦しんでいる人なら、迷わず壊せる。
だが、彼らは幸せそうだった。
それが、一番怖い。
「助けを呼んでる顔じゃないのが、一番怖いんだけど……」
ミユの声は、自分でも驚くほど小さかった。
《ピッチャー・ポッド内部で、対象者は欲望に適合した幻覚を見せられている可能性が高いです》
今度はワトソンの声だった。
《肉体的損傷は現時点では限定的ですが、意志反応と判断力が低下しています。長時間放置すれば、回復に影響が出るかもしれません》
「つまり、急いだ方がいいってことね」
《はい》
ミユはうなずき、通路の奥へ走り出した。
足元には、赤い線のようなものが走っていた。
根だ。
細い根が床タイルの隙間に入り込み、ポッドからポッドへ、通路から奥へと伸びている。まるで血管のように、薄く脈打っていた。
その中心へ向かえば、きっとメグがいる。
ミユはそう直感した。
「メグちゃん!」
声が地下温室に反響する。
返事はない。
代わりに、遠くで鏡が鳴るような澄んだ音がした。
ミユはその音を追って走った。
*
温室の中央は、かつて広場だった場所らしい。
地下商業施設のイベントスペース。
今は、赤紫の花弁に囲まれた舞台のようになっている。
中央に、椅子があった。
美容サロンのカウンセリングチェアにも、女王の玉座にも見える、白く艶のある椅子。
そこに、メグが座らされていた。
「メグちゃん!」
ミユは駆け寄ろうとして、足を止めた。
メグの前には、大きな鏡があった。
鏡の縁には赤紫の蔓が絡み、花弁のような装飾が開いている。表面は普通の鏡ではなく、水面のようにゆらゆら揺れていた。
その鏡の中に、別のメグが映っている。
眼鏡を外し、ピンクと白の衣装をまとった少女。
プリティミューの隣に立つ、もう一人の科学少女のような姿。
小柄な体に、軽やかな装甲。
手には小型端末のような武器。
背中には透明な羽根にも見えるデータパネル。
鏡の中のメグは、堂々と笑っていた。
プリティミューの隣で。
同じ場所に立っていた。
ミユは息を呑んだ。
現実のメグは、椅子に座ったまま、ぼんやりと鏡を見つめている。眼鏡は少しずれ、指先は膝の上で小さく震えていた。
唇が動く。
「私も……役に立てる……」
「メグちゃん!」
ミユは今度こそ駆け寄った。
「それ、たぶん詐欺広告の最終形態!」
メグの肩を掴もうとした瞬間、鏡の表面が赤く光った。
ミユの腕に、びりっと痺れが走る。
「痛っ!」
弾かれた。
椅子の周囲に、見えない膜のようなものが張られている。赤紫の光が、円形の結界のように床へ走っていた。
メグはミユの声に、少しだけ反応した。
「先輩……?」
「そう! 先輩! 現実の先輩! 鏡の広告じゃなくて!」
「私……隣に……」
「立たなくていいとは言ってない! でも、こんな怪しい地下温室で変身体験コースに申し込むのは絶対違う!」
メグの瞳が揺れる。
だが、鏡の中のメグが微笑むと、現実のメグの表情もまたぼんやりと緩んだ。
「必要……とされたい……」
その言葉に、ミユの胸が痛んだ。
わかる。
わかってしまう。
メグはずっと見ていた。調べて、記録して、ミユを助けようとしてくれた。でも、肝心なところでは、いつも危険な場所から引き離される。守られる側にされる。秘密の外側に置かれる。
それが寂しくないはずがない。
ミユは言葉を探した。
けれど、その前に、甘い声が響いた。
「詐欺ではありませんわ。夢です」
赤紫の花びらが舞った。
中央の広場の奥、巨大な花の影から、サラセニア・ルージュが現れる。
地上で見た人間のスタッフの姿よりも、さらに怪人らしくなっていた。
赤紫のドレス風装甲は、地下の光を吸って艶めいている。スカート部分の捕虫筒は広がり、内側の斑点が生き物の目のようにうごめいた。肩から伸びる葉状パーツは翼のようで、髪の蔓は甘い霧をまとって揺れている。
彼女は、舞台に立つ女優のように優雅に歩いてきた。
「夢なら人を地下に吊るすな!」
ミユは叫んだ。
「吊るしてなどおりませんわ。皆さま、眠っているだけですもの」
「ポッドに入れてる時点で十分アウト!」
「皆さま、自分から望んだのです」
サラセニア・ルージュは、壁一面のポッドへ視線を向けた。
「美しくなりたい。愛されたい。認められたい。楽になりたい。誰かの隣に立ちたい。誰かに必要とされたい。何も心配しなくていい場所へ行きたい」
彼女の視線が、ミユへ戻る。
「あなたも同じでしょう、ミユさん」
名前を呼ばれた瞬間、ミユの背筋が冷えた。
「……なんで名前」
「あら。欲望は名前より正直ですもの」
「答えになってない!」
「名前はただの札ですわ。でも、欲しいものは、その人の奥に根を張っている。匂いを辿れば、誰のものかすぐにわかります」
サラセニア・ルージュは、細い蔓の指先をミユへ向けた。
「あなたは、とてもわかりやすい」
「勝手に分析しないで」
「お金が欲しい。平穏が欲しい。お母さまを安心させたい。怪人と戦わなくていい放課後が欲しい。嘘をつかなくていい友達が欲しい。普通の生活が欲しい」
「やめて」
ミユは思わず言った。
言った後で、悔しくなった。
やめて。
それは、図星だと認める言葉だった。
サラセニア・ルージュは微笑む。
そして、周囲の鏡が一斉に光った。
視界が変わる。
*
ミユは、自分の家の台所に立っていた。
母・かなえが笑っている。
「ミユ、ごはんできたよ」
いつもの声だった。
疲れたところを隠すような笑い方ではない。
心配を誤魔化すような声でもない。
明るくて、少し雑で、でも優しい母の声。
テーブルには湯気の立つ味噌汁と、焼き魚と、卵焼き。冷蔵庫の扉には、スーパーの特売チラシが貼ってある。テレビからは夕方のニュースが流れているが、そこに怪人事件の文字はない。
プリティミューの動画もない。
ミユは制服姿で椅子に座った。
左手首に、μブレスレットはなかった。
かなえが言う。
「あんた、今日は早かったね」
「うん。普通に帰ってきた」
「普通って何よ」
「普通は普通」
かなえが笑う。
その笑顔を見て、ミユは胸が詰まった。
家計の心配がない。
変なバイトをしなくていい。
危険な場所に行かなくていい。
母に嘘をつかなくていい。
次の瞬間、場面が変わる。
学校の廊下。
メグが隣を歩いている。
手には調査ノートではなく、購買で買ったパン。
怪人事件ログも、プリティミューの動画もない。
ただの後輩として、少し早口で、今日の授業の話をしている。
「先輩、次の小テストの範囲、覚えていますか」
「覚えてない」
「やっぱり」
「やっぱりって何」
「先輩らしいです」
「ひどくない?」
笑い合う。
何も隠さないで。
何も守らなくてよくて。
何も怖くなくて。
ただ、普通に。
ミユは、その光景に手を伸ばしかけた。
欲しい。
これが欲しい。
怪人を倒したいわけじゃない。
有名になりたいわけじゃない。
動画で褒められたいわけじゃない。
ただ、こういう日常が欲しい。
その気持ちを、否定できなかった。
*
「それ、欲しいよ」
ミユは、地下温室の中央で呟いていた。
幻はまだ目の奥に残っている。
母の笑顔。
メグの笑顔。
何も知らない自分。
何も背負っていない自分。
サラセニア・ルージュは、満足げに目を細めた。
「なら、手を伸ばせばよろしいのに」
鏡の中で、普通のミユが笑っている。
手を伸ばせば、そこへ行けるような気がした。
全部なかったことにできるような気がした。
蜘蛛男も。
蝙蝠伯爵も。
レイディスコーピオンも。
今、地下に囚われている人たちも。
メグが椅子に座らされていることも。
全部、遠くなる。
楽になれる。
ミユは、右手を少し上げた。
指先が、鏡の光に触れそうになる。
その時。
「先輩……」
小さな声がした。
メグだった。
椅子の上で、メグがかすかに目を開けている。
焦点は合っていない。
まだ夢の中にいる。
それでも、彼女は呼んだ。
「先輩……行かないで……」
ミユの手が止まった。
胸の奥で、何かが痛んだ。
欲しい。
普通の生活は欲しい。
でも、その普通の生活の中に、メグを置き去りにした自分はいない。
ミユは、上げかけた手を握りしめた。
「でも」
声が震えた。
それでも言った。
「そのためにメグちゃん置いていくのは、違う」
サラセニア・ルージュの微笑みが、わずかに薄くなる。
「我慢するの?」
「違う」
ミユは首を振った。
「欲しいよ。欲しいものくらい、あるよ。いっぱいある。お金も欲しいし、楽もしたいし、普通の生活も欲しい」
彼女は袖の上から、左手首のμブレスレットを掴んだ。
「でも、欲しいものがあるからって、誰かを餌にしていい理由にはならない」
μブレスレットが光った。
白とピンクの光が、地下温室の赤紫を切り裂く。
サラセニア・ルージュが目を細める。
「あら。ここで変わるのね」
「ここで変わらなきゃ、何しに落ちてきたかわかんないでしょ」
《ミユさん》
ワトソンの声が届く。
《周囲に一般人の意識反応があります。攻撃範囲に注意してください》
「わかってる」
《香気濃度、危険域です。変身後も長時間は推奨できません》
「じゃあ短時間で終わらせる」
《アインさんが喜びそうな無茶です》
「言わないで!」
アインの声が割り込んだ。
《バイト君、変身を許可する。地下空間のため目撃リスクは限定的だ》
「許可制なの!?」
《労務管理上、一応ね》
「あとで絶対文句言う!」
ミユは大きく息を吸った。
甘い匂いが肺に入りそうになり、慌てて止める。
代わりに、胸の奥に残っている言葉を掴む。
欲しいものはある。
でも、選ぶ。
ミユはμブレスレットを掲げた。
「サイエンスパワー・メイクアップ!」
光が弾けた。
地下温室の赤紫の光を押し返すように、白とピンクのラインがミユの身体を包む。制服が光にほどけ、科学少女のスーツへと変わっていく。装甲が肩に、腕に、脚に走り、スカート状のパーツがふわりと広がる。胸元のエネルギーコアが点灯し、ミュー・ハンマーが光の粒子から形成された。
甘い香気が一瞬、吹き散らされる。
壁のポッドの中で眠る人々の表情が、わずかに揺れた。
椅子に座るメグの瞳にも、白とピンクの光が映る。
「……プリティ……ミュー……」
その声は、夢の中から届いたように弱かった。
ミユ――プリティミューは、ミュー・ハンマーを構えた。
「待ってて。すぐ助ける」
サラセニア・ルージュは、ゆっくりと拍手した。
ぱち、ぱち、ぱち。
地下温室に、乾いた音が響く。
「素晴らしいですわ。欲しいものを見ても、手を伸ばさない。なんて健気で、なんて危うい子」
「解説しなくていい!」
「では、遊びましょうか」
サラセニア・ルージュが指を鳴らした。
床の根が一斉に脈打つ。
赤紫の蔓が盛り上がり、地面を突き破った。そこから、サラセニア・ルージュと同じ姿をした分身が次々と咲き上がる。
一体。
二体。
三体。
赤紫のドレス風装甲。
艶やかな笑み。
捕虫筒のスカート。
蔓の髪。
だが、顔はどれも少しずつ同じで、どれも少しずつ違う。花から咲いた人形のようだった。
「え、増えた!」
「わたくしは花ですもの。根がある限り、いくらでも咲きますわ」
「花はそんなホラーな増え方しない!」
一体目が蔓を振るう。
プリティミューはハンマーで受け止めた。
重い。
植物の蔓とは思えない力で、腕がしびれる。
横から二体目が迫る。
「っ!」
プリティミューは身を沈め、転がるように避けた。床は湿っていて滑りやすい。立ち上がろうとした瞬間、三体目の捕虫筒が大きく開いた。
内側に甘い光が渦巻いている。
「それ、絶対入っちゃダメなやつ!」
ミュー・ハンマーを振るう。
ピコッという間抜けな電子音が鳴り、分身の胴体を叩き飛ばした。
分身は花びらになって崩れた。
「よし!」
だが、床の根がまた脈打つ。
同じ場所から、新しいサラセニア・ルージュが咲き上がった。
「嘘でしょ!?」
《バイト君、本体を叩け》
アインの声が飛ぶ。
「どれが本体!?」
《根だ》
「植物の試験問題みたいに言うな!」
《事実だ。地上やこの広場にいる個体は分株体だ。根の中枢を破壊しない限り、再生する》
「中枢ってどこ!」
《解析中》
「そこ一番先に解析して!」
分身たちが一斉に笑った。
「急がなくてよろしいのに」
「ゆっくり夢を見ていきましょう?」
「欲しいものは、逃げませんわ」
「むしろ、逃げるのは現実ですもの」
同じ声が、四方から響く。
プリティミューはハンマーを構え直した。
背後には、眠る人々のポッド。
中央には、メグ。
前には、咲いても咲いても尽きないサラセニア・ルージュ。
甘い匂いがまた濃くなる。
ミユの胸の奥で、普通の生活への憧れがまだ痛んでいた。
けれど、今はそれを抱えたまま立つしかない。
「いいよ」
プリティミューは、足元の根を睨んだ。
「欲望が根っこなら、根っこごと引っこ抜いてやる!」
ミュー・ハンマーが白く光った。
地下に咲いた欲望の温室で、科学少女は一歩踏み出した。




