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第4節 ― ルージュ・ピッチャーの入口

 放課後のチャイムが鳴った瞬間、ミユは机に突っ伏した。


 今日は、一日が長かった。


 授業が長かったわけではない。

 むしろ、授業の内容はあまり頭に入っていない。


 問題は、教室の空気だった。


 朝からずっと、《ルージュ・ピッチャー》の話題があちこちで聞こえていた。無料診断。似合う香水。理想の自分が見える鏡。自分磨き。限定カウンセリング。どの言葉も明るくて、きらきらしていて、普通の女子高生なら少しは興味を持ってもおかしくないものばかりだった。


 だからこそ、気持ちが悪かった。


 怪人は、わかりやすく怪人の顔をして来るとは限らない。

 そのことを、ミユはもう何度も思い知らされている。


「先輩」


 教室の入口から、メグの声がした。


 ミユは顔を上げる。


 メグは鞄を両手で抱え、いつもより少し硬い表情で立っていた。マスクをつけている。さらに、胸ポケットからは予備のマスクらしきものが覗いていた。


「準備よすぎない?」


「香気対策です」


「本気度が高い」


「前回までの反省です」


「反省が装備になるタイプの後輩」


 ミユは椅子から立ち上がり、鞄を肩にかけた。


 正直、行きたくない。


 とても行きたくない。


 だが、メグを一人で行かせる選択肢はない。

 それだけは、もう迷わなかった。


 教室の外では、まだ数人の女子生徒がスマホを見ながら話していた。


「ねえ、ルージュ・ピッチャー、今日も混んでるって」


「放課後行ってみる?」


「無料診断だけならよくない?」


「でも、予約いるんじゃない?」


「アプリ入れれば優先案内されるっぽいよ」


 ミユは思わず足を止めた。


 今すぐ「やめた方がいい」と言いたくなった。


 でも、言えなかった。


 何と言えばいいのか。


 怪人がいるから?

 甘い匂いで判断力を奪われるから?

 欲望反応を吸われるかもしれないから?


 言えるわけがない。


 下手に止めれば、逆に興味を持たれるかもしれない。

 それに、ミユ自身にもまだ決定的な証拠はない。


 メグが小さな声で言った。


「先輩」


「……うん」


「行きましょう」


 ミユは唇を噛んで、うなずいた。


     *


 宝珠南高校からホウジュ駅裏までは、歩いて二十分ほどだった。


 大通りを抜け、商店街の端を曲がると、人の流れが変わる。


 駅前の明るい雑踏とは違い、駅裏は少し古びている。昔ながらの喫茶店、シャッターの降りた雑貨屋、小さな居酒屋、古いクリーニング店。そこに最近できた新しい店舗だけが、不自然なほど明るく浮いていた。


 夕暮れの空の下、赤紫のネオンが咲いている。


《Rouge Pitcher》


 花の形をした看板。


 それは普通の花ではなかった。

 筒状の花弁がいくつも重なり、入口へ向かって開いている。華やかで、妖しくて、美しい。


 けれど、ミユはその形を見て、アインの言葉を思い出した。


 食虫植物。


 きれいな花ではなく、獲物を落とす筒。


 店の外観は、やけにきらびやかだった。


 美容サロンのような白い壁。

 香水店のようなガラス棚。

 カフェのようなメニュー看板。

 撮影スタジオのようなライト。

 入口脇には、赤紫の花を模したアーチがあり、その下をくぐる客たちは、どこか夢を見るような顔をしている。


 若い女性たちが列を作っていた。

 会社帰りらしい女性もいる。

 男子高校生の姿もあった。

 中には、疲れた顔の中年男性までいる。


 誰もが、入口のネオンを見上げている。


 ミユは店の前で足を止めた。


「怪しい」


 第一声だった。


 メグも看板を見上げたまま言う。


「はい」


「ここまで怪しいと逆に安心感ある」


「安心しないでください」


「だって悪役の店として百点じゃん。看板がもう罠ですって言ってる」


「普通の人には、おしゃれな店に見えている可能性があります」


「普通の人の危機管理どうなってるの」


「先輩も昨日、コブラカレーに入りました」


「それはカレーの匂いが強すぎたから!」


「似た構造です」


「うわ、言い返せない」


 メグは鞄からマスクをもう一枚取り出し、ミユに差し出した。


「一応、つけてください」


「ありがと」


 ミユはマスクを受け取り、つけた。


 それでも、甘い匂いは入ってきた。


 花。

 蜜。

 香水。

 熟れた果実。

 そして、その奥にある、逃げ道を閉じるような湿った匂い。


 昨日、コブラカレーで嗅いだものより濃い。


 舌の奥が、わずかに甘くなる。


「……これ、マスクしててもわかるんだけど」


「長時間は危険だと思います」


「じゃあ長居しない」


「はい。入口周辺の確認だけです」


「ほんとに入口だけね」


「はい」


 メグは一度うなずいた。


 その真面目な横顔を見て、ミユは少しだけ安心した。


 しかし、その安心は店内に一歩入った瞬間、すぐに薄れた。


     *


 店内は、外から見たより広かった。


 入口のすぐ先には、受付スペースがある。

 白い床。赤紫の絨毯。壁一面の鏡。天井から吊るされた花型の照明。奥にはカフェスペースらしき丸テーブルが並び、さらにその先には個室ブースのような扉がいくつも見えた。


 店内スタッフは全員、整いすぎた笑顔をしていた。


 赤紫の制服。

 白い手袋。

 同じ角度の会釈。

 同じ声の高さ。


「いらっしゃいませ」


「ようこそ、ルージュ・ピッチャーへ」


「本日の無料診断はこちらです」


「あなたが本当に欲しいものを、ご一緒に見つけましょう」


 言葉は丁寧だ。


 けれど、全員の笑顔が同じすぎる。


 ミユは小声で言った。


「怖い。笑顔が量産型」


「目が笑っていません」


「メグちゃん、さらっと怖いこと言う」


「事実です」


 メグはすぐにマスクを押さえ直した。

 ミユも慌ててハンカチを取り出し、マスクの上から鼻と口に当てる。


 甘い香気が、店内ではさらに濃かった。


 吸っただけで、身体の力が少し抜けるような気がする。

 頭の奥が、ふわりと緩む。


 危ない。


 ミユは自分の太ももを軽くつねった。


「痛っ」


「先輩?」


「目覚まし」


「効果はありそうです」


「原始的だけどね」


 受付カウンターの前には、大きな端末が並んでいた。


 花の形をしたタッチパネル。

 画面には、淡い赤紫の背景に、白い文字が浮かんでいる。


《無料診断》

《あなたが本当に欲しいものは?》


 その下に、選択肢が並んでいた。


《お金》

《美しさ》

《人気》

《才能》

《恋》

《自由》

《普通の生活》


 ミユはその文字を見た瞬間、息を止めた。


 普通の生活。


 その選択肢だけが、画面の中で少し強く光ったように見えた。


 怪人事件もない。

 変身もない。

 アインからの呼び出しもない。

 危険なバイトもない。

 母に嘘をつかなくていい。

 メグに隠しごとをしなくていい。

 筋肉痛で朝起きられないこともない。

 スマホでプリティミューの動画を見て、正体がバレるかと胃を痛めることもない。


 ただの高校生として、普通に起きて、普通に学校へ行って、普通に友達と話して、普通に寄り道して、普通に家に帰る。


 そんな生活。


 欲しくないわけがなかった。


 ミユの指が、無意識に画面へ伸びる。


 《普通の生活》の文字へ。


 触れる直前、指が止まった。


 自分で自分に驚いた。


 ミユは慌てて手を引っ込めた。


「……危な。今ちょっと押しそうになった」


 メグがすぐに振り返る。


「先輩?」


「なんでもない」


「今、普通の生活を見ていました」


「見てない」


「見ていました」


「メグちゃん、観察眼が鋭すぎる時あるよね」


「今回は鈍くした方がよかったですか」


「いや……いい」


 ミユは画面から目をそらした。


 胸の奥が、妙にざわついている。


 欲しいと思ってしまった。


 それ自体は、悪くない。

 昼休みに、自分でそう言った。


 でも、こうやって目の前に置かれると、思ったよりも揺れる。


 普通の生活。


 その言葉は、ミユが思っていたよりずっと重かった。


 メグは隣の端末を見ていた。


 そこには、ミユのものとは違う文面が表示されている。


《見ているだけのあなたへ》

《支える側ではなく、隣に立つ側になりませんか?》


 メグの表情が揺れた。


 ほんのわずかに。


 でも、ミユにはわかった。


 メグの指も、画面へ伸びかけていた。


「メグちゃん」


 ミユが呼ぶと、メグははっとしたように顔を上げた。


「……すみません」


「大丈夫?」


「はい。大丈夫です」


 その声は、少し硬かった。


 メグは端末から一歩離れた。


「これ、こちらの欲しいものを読み取って、表示を変えている可能性があります」


「可能性っていうか、ほぼそうじゃない?」


「はい。ほぼそうです」


「じゃあ、もう出よう。入口確認はできた」


 ミユがそう言った時だった。


 店の奥から、声がした。


「お帰りになるには、少し早いのではなくて?」


 甘い声だった。


 店員の声と似ている。

 だが、もっと濃い。

 もっと深い。

 もっと、舌の上に残る。


 ミユはメグを背に庇うように、一歩前へ出た。


 店の奥、鏡張りの通路から、ひとりの女性が歩いてくる。


 赤紫のスタッフ制服。

 白い手袋。

 長い巻き髪。

 艶やかな口紅。


 一見、人間のスタッフに見えた。


 けれど、違う。


 歩くたびに、床へ赤紫の花びらが落ちる。

 髪の先が、細い蔓のように揺れる。

 目の奥に、人間ではない光がある。


 美しい。


 だが、その美しさは、虫を誘う花の色だった。


 女は、優雅に一礼した。


「いらっしゃいませ。迷えるお嬢さまたち」


 ミユは即座に言った。


「店員さんの圧が強い!」


 女は微笑んだ。


「あなたが欲しいものを、わたくしが見つけて差し上げますわ」


「間に合ってます」


「あら」


 女は、ミユを見つめた。


 その視線が、肌に絡みつくようだった。


「では、あなたは何も欲しくないの?」


「欲しいものくらいあるけど、怪しい店員に言う義務はない!」


「怪しいだなんて、失礼ですわ」


「普通の店員さんは登場で花びら散らさない!」


「演出ですわ」


「やりすぎ!」


 メグが小さく言った。


「先輩。この人、たぶん人間ではありません」


「うん。かなりわかりやすく人間じゃない」


 女は、メグへ視線を移した。


「あら、眼鏡のお嬢さん。あなたはとても正直な目をしているのね」


 メグの肩がわずかに揺れる。


 ミユはすぐに前へ出た。


「メグちゃんを見ないで」


「まあ」


 女は口元に手を添えて笑った。


「守るのね」


「守るよ。友達だから」


 言ってから、ミユは少しだけ息を呑んだ。


 友達。


 その言葉を自分で言うたび、胸の奥がまだ少し痛む。秘密を抱えたまま言っていいのかと、どこかで思ってしまう。


 だが、女はそのわずかな揺れを見逃さなかった。


「友達。素敵な言葉ですわね。けれど、友達とは隣に立つもの? それとも、後ろで見ているもの?」


 メグの表情が固まる。


 ミユは強く言った。


「そうやって人の気持ちをつつくの、趣味悪いよ」


「趣味ではありませんわ。お仕事です」


「最悪の接客!」


 女は、ゆっくりと自分の胸に手を当てた。


「サラセニア・ルージュ。甘い夢を咲かせる者。親しみを込めて、サラセニアぁンと呼んでくださってもよろしくてよぉン」


「呼ばない!」


「つれませんわね」


 その時、店内の奥から悲鳴が聞こえた。


 短い悲鳴だった。


 だが、確かに人の声だった。


 ミユの身体が反射的に動く。


「今の!」


 奥へ走ろうとした瞬間、床が震えた。


 白い床の継ぎ目が、赤紫に光る。


 次の瞬間、床が花のように割れた。


「え――」


 メグの足元から、赤紫の蔓が伸びた。


 細く、しなやかで、速い。


 メグの足首に絡みつく。


「メグちゃん!」


 ミユは手を伸ばした。


 メグも手を伸ばす。


 指先が触れる。


 だが、蔓は一本ではなかった。床の割れ目からさらに何本も伸び、メグの腰、腕、鞄に絡みつく。


「先輩!」


「離さない!」


 ミユはメグの手を掴んだ。


 だが、甘い香気が一気に濃くなる。


 鼻と口を覆っていても、足元から立ち上る匂いが身体の中へ入ってくる。頭の奥がふわりと溶ける。腕に力が入らない。


 視界がにじんだ。


 鏡張りの壁に、自分の姿が映る。


 そこにいたのは、制服姿のミユだった。


 普通の制服。

 普通の鞄。

 普通の放課後。


 左手首にμブレスレットはない。

 身体に傷もない。

 筋肉痛もない。

 怪人事件の記憶もない。


 鏡の中のミユは、友達と笑っていた。


 メグもいる。

 でも、怪人事件ログなんて持っていない。

 プリティミューの正体を探ってもいない。


 ただの後輩として、ただの友達として、普通に隣を歩いている。


 母のかなえが、夕飯を用意して待っている。

 アインからの呼び出しはない。

 ワトソンの警告もない。

 ジョーカーもいない。


 普通。


 あまりにも普通で、胸が痛くなる。


「……ずるい」


 ミユは歯を食いしばった。


 欲しい。


 それは欲しい。


 こんなの、欲しいに決まっている。


 でも、今この手を離したら、メグが落ちる。


 普通の生活が欲しいからといって、目の前の友達を見捨てるのは違う。


 ミユは、奥歯を噛みしめた。


「メグちゃん!」


 力を込める。


 けれど、蔓の方が強い。


 メグの身体が、床の割れ目へ引き込まれていく。


「先輩、手を――」


「離さないって!」


「違います!」


 メグは苦しそうに叫んだ。


「先輩まで落ちます!」


「もう落ちかけてる!」


「冷静に返さないでください!」


「この状況で冷静な方がおかしい!」


 サラセニア・ルージュが、優雅に笑った。


「まあ、仲良しですこと。でも、見ているだけの子にも、夢を見る権利はありますわ」


「夢って言えば何してもいいと思うな!」


「いいえ。わたくしは、ただ入口を開けるだけ。落ちるのは、いつもご本人の願いです」


「言い方!」


 ミユはメグの手をさらに強く握った。


 しかし次の瞬間、太い蔓が二人の間を打った。


 手が離れる。


「メグちゃん!」


 メグの姿が、赤紫の花弁の奥へ沈んでいった。


 床が閉じる。


 メグの声が、途切れる。


 店内に残ったのは、甘い香りと、サラセニア・ルージュの微笑みだけだった。


 ミユは床に膝をついた。


 手の中に、メグの手の感触がまだ残っている。


 離してしまった。


 いや、離された。


 でも、結果は同じだ。


 メグが落ちた。


 ミユはゆっくり立ち上がった。


 喉の奥が熱い。


 怖さより、怒りより、先に自分への苛立ちが来る。


「……返して」


 声は低かった。


 サラセニア・ルージュは、首を傾げる。


「何を?」


「メグちゃんを返して」


「あの子は、自分の夢を見に行っただけですわ」


「その夢の入口を床に開けたのは誰だ!」


 ミユが一歩踏み出した瞬間、袖の下でμブレスレットが震えた。


 通信が入る。


《バイト君、応答しろ》


 アインの声だった。


《そこは植物型怪人の捕食圏内だ。すぐ離脱しろ》


「メグちゃんが落ちた!」


《なら訂正する。すぐ追え》


「軽い!」


《ただし香気濃度が高い。長時間の行動は危険だ。変身は地下に入ってから判断しろ。店内は監視カメラが多い》


「ほんと最悪!」


 サラセニア・ルージュは、面白そうにミユを見ていた。


「追いかけるの? あなたも欲しい夢があるのに」


「あるよ」


 ミユははっきり言った。


「普通の生活、欲しいよ。お金も欲しいし、平穏も欲しいし、怪人と戦わない放課後も欲しい。欲しいものだらけだよ」


 サラセニア・ルージュの目が、楽しげに細まる。


「なら――」


「でも」


 ミユは床の赤紫の継ぎ目を睨んだ。


「友達を置いてもらう普通の生活なんて、いらない」


 そう言って、ミユは床の割れ目へ向かって走った。


 床は再び開こうとしていた。


 赤紫の蔓が、誘うようにうねる。


 甘い香りがさらに濃くなる。


 ミユは息を止め、鞄を投げ捨てた。


《バイト君、落下先不明。衝撃に備えろ》


「わかってる!」


 ミユは、赤紫の穴へ飛び込んだ。


 視界が一気に暗くなる。


 甘い匂いと湿った風が、下から吹き上げてきた。


 その奥で、遠く、メグの声が聞こえた気がした。

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