第3節 ― ジョーカー帝都支部、甘い作戦会議
ジョーカー帝都支部の指令室には、甘いものが置かれなくなっていた。
最初は、誰かが差し入れで置いたチョコレートだった。
次に、作戦班の戦闘員が持ち込んだキャンディ。
それから、仮眠明けの分析員が飲んでいた甘い缶コーヒー。
理由は単純だった。
ゲル大佐の胃に悪いからである。
正確に言えば、甘いものそのものが悪いわけではない。甘い香りを嗅ぐと、現在進行中の作戦を思い出して、ゲル大佐の胃痛が悪化するのだ。
指令卓の上には、三冊の報告書が積まれていた。
《J-01 スパイダー作戦 観測成果報告》
《J-02 ノクターンバット作戦 観測成果報告》
《J-03 ヴェノムスコーピア作戦 敗北検証および言語反応解析》
最後の一冊だけ、やけに分厚い。
ゲル大佐はその表紙を見つめ、無言で胃のあたりを押さえた。
「……なぜ三話分でここまで胃が重くなる」
悪の幹部が口にするには、かなり生活感のある呟きだった。
だが、仕方がない。
プリティミューは未熟だ。
戦闘経験も浅い。
戦術も荒い。
動きも泥臭い。
なのに、倒れない。
蜘蛛男を退け、蝙蝠伯爵を撃破し、レイディスコーピオンの毒すら突破した。しかも毎回、こちらの想定と少し違う方向から、妙な粘りを見せる。
ゲル大佐は、報告書を一枚めくった。
《対象:プリティミュー》
《言語刺激への反応:高》
《挑発耐性:低?中》
《ツッコミ頻度:非常に高》
《備考:ツッコミは対象の精神安定および戦闘リズムの形成に関与している可能性あり》
ゲル大佐は目を閉じた。
「……我々は何を研究しているのだ」
その横で、戦闘員42号が、大量の資料を抱えたまま直立していた。
いつも通り、姿勢だけは真面目である。
ただし資料の山が高すぎて、顔の半分が隠れていた。
「大佐、今回の反省会資料です」
「また厚いのか」
「はい。主にプリティミューさんのツッコミの心理的影響について」
「なぜ我々が敵のツッコミを分析しているのだ……」
「分析班いわく、プリティミューさんの戦闘継続能力と発話内容には相関があるそうです」
「発話内容」
「はい。特に『文句』『労働条件への不満』『技名への苦情』『敵の作戦名へのツッコミ』が、戦闘時の恐怖反応を中和している可能性があると」
42号は資料の一枚を読み上げた。
「『対象は恐怖や羞恥を、即時的な言語反応に変換することで行動停止を回避している』とのことです」
ゲル大佐はゆっくりと額を押さえた。
「つまり、口が悪いから折れにくいということか」
「ざっくり言うと、そうです」
「ざっくり言うな。嫌な納得感がある」
「ただし、前回のレイディスコーピオン戦では、言い返すのではなく言葉を止める行動も確認されています」
「それが厄介なのだ」
ゲル大佐はモニターを見上げた。
そこには、前回の駅前広場での戦闘映像が映っている。水に濡れたプリティミューが、ミュー・ハンマーを構え、レイディスコーピオンへ向かって叫ぶ場面。
《ツッコミは、人を刺すためにあるんじゃない!》
ゲル大佐は目を細めた。
未熟な小娘だ。
だが、ただの小娘ではない。
怒りに流される。
怖がる。
正体を隠す。
失敗もする。
しかし最後には、自分で言葉を選ぶ。
首領Xが見ているのは、そこなのだろうか。
戦闘能力ではなく。
兵器性能でもなく。
少女が何を選ぶか。
ゲル大佐には、まだ首領Xの真意が読めなかった。
その時。
指令室に、甘い香りが漂った。
ゲル大佐の眉が、ぴくりと動く。
42号も顔を上げた。
「大佐、甘い匂いがします」
「言われなくてもわかる」
「差し入れは禁止のはずですが」
「これは差し入れではない」
床の赤い照明が、淡い紫に染まる。
空調の風に逆らうように、赤紫の花びらが一枚、指令卓の上へ落ちた。
それから二枚。
三枚。
十枚。
花びらはどこからともなく舞い込み、コンクリートと金属で作られたはずの指令室に、場違いなほど華やかな香気を広げていく。
戦闘員たちが一斉に鼻を押さえた。
「甘……」
「なんか、デパートの化粧品売り場みたいな匂いが……」
「いや、それより濃い……」
ゲル大佐は低く言った。
「換気を強めろ」
「はっ!」
戦闘員の一人が空調パネルを操作する。
だが、香りは薄れない。
むしろ、花びらの数が増えた。
指令室の奥、暗い通路に、赤紫の光が灯る。
そこから、ひとりの女が歩いてきた。
赤紫のドレス風装甲。
肩と腰からは、艶のある葉状のパーツが幾重にも重なって伸びている。歩くたびに、それらが柔らかく揺れ、香水のような霧をこぼした。
スカートに見える部分は、よく見れば布ではない。サラセニアの捕虫筒のように縦長で、内側には不気味な斑点模様が覗いている。優雅なドレスにも、獲物を落とす罠にも見えた。
髪は、ルージュ色の巻き髪のような蔓。
手袋の指先からは、細い蔓が爪のように垂れている。
顔は美しい。
だが、その美しさは、人を安心させるためではなく、近づかせるためのものだった。唇は艶やかに赤く、微笑むと、口元の奥に植物の裂け目のような影がちらりと見えた。
彼女は指令室の中央で、舞台女優のように優雅に一礼した。
「ごきげんよう、大佐。人は怒りよりも、甘い夢でよく落ちますわ」
ゲル大佐は、彼女の足元に散った花びらを見た。
「現れるたびに床を汚すな」
「花びらですわ」
「掃除するのは戦闘員だ」
「まあ。では皆さまに、わたくしの香りを片づける名誉を差し上げますわ」
42号が小声で言った。
「名誉より手当がほしいです」
「42号」
「すみません」
ゲル大佐は改めて怪人を見た。
「サラセニア・ルージュ」
彼女はにっこりと笑った。
「はい。ジョーカーが誇る、欲望の花にございます。親しみを込めて、サラセニアぁンと呼んでくださってもよろしくてよぉン」
「呼ばん」
「あら、つれない」
「作戦会議だ。余計な自己演出は省け」
「自己演出ではありませんわ。第一印象の設計です」
「それを余計と言っている」
ゲル大佐は指令卓の端末を操作した。
モニターに、ホウジュ区駅裏の映像が表示される。
赤紫のネオン。
華やかな外観。
美容サロン、カフェ、香水店、撮影スタジオを一つにまとめたような店舗。
《Rouge Pitcher》
映像には、若い女性や会社員、学生たちが次々と店へ入っていく様子が映っていた。
誰も抵抗していない。
むしろ、どこか期待に満ちた顔をしている。
サラセニア・ルージュは満足げに目を細めた。
「よく育っておりますわね」
「現在までに、対象施設への入店者数は想定値の一・四倍。診断アプリの拡散率も高い」
ゲル大佐は資料をめくる。
「表向きは、美容診断、香水カスタム、自分磨きカフェ、相性診断、無料カウンセリングを組み合わせた期間限定サロン」
「ええ。今どき、ただの罠では誰も入ってくれませんもの」
「裏では、入店者の欲望反応を収集。甘い香気と鏡面装置、診断アプリを連動させ、判断力を低下させる」
「正確には、判断の前に夢を見せるのですわ」
サラセニア・ルージュは、指先の蔓をくるりと巻いた。
「人は、欲しいものを目の前に出されると、自分で歩きます。美しくなりたい。認められたい。愛されたい。楽になりたい。普通ではない自分になりたい。あるいは、普通に戻りたい」
最後の言葉に、ゲル大佐はわずかに目を細めた。
「プリティミューを想定しているのか」
「もちろん」
サラセニア・ルージュは微笑んだ。
「正義の味方も女の子。欲しいものは山ほどあるでしょう?」
「甘く見るな。対象はすでに三度の作戦を突破している」
「存じておりますわ。蜘蛛の糸を破り、夜の舞踏会から友人を取り戻し、毒舌の針を折った小さな科学少女」
彼女はうっとりとした声で続ける。
「だからこそ、甘い夢が似合うのです。疲れている子ほど、休ませてあげたくなるでしょう?」
「休ませるのと、捕食するのは別だ」
「捕食だなんて。わたくしは奪ってなどおりませんわ。皆さまが、自分から甘い夢を選んだだけですもの」
ゲル大佐は即座に言った。
「その言い回しが作戦リスクだ」
「まあ」
「一般人に過度な被害は出すな。首領Xの目的はプリティミューの観測だ。ホウジュ区住民の大規模捕食ではない」
「ええ。食べるのは、夢だけですわ」
「その言い方がすでに不穏なのだ!」
42号が資料を見ながら補足した。
「大佐、捕食筒内に収容された対象者は、肉体的損傷は軽微ですが、判断力と意志反応の低下が見られます」
「見ろ。不穏ではないか」
「眠っている間は幸せそうですわ」
「それも不穏だ!」
サラセニア・ルージュは、少し不満そうに唇を尖らせた。
「大佐は夢がありませんのね」
「夢で作戦を管理するな。数値で管理しろ」
「では数値で申し上げますわ。対象者の欲望反応は順調に蓄積中。特に『変わりたい』『認められたい』『隣に立ちたい』という反応は、非常に甘い濃度です」
その言葉に、42号がモニターを切り替えた。
表示されたのは、宝珠南高校周辺のデータだった。
ゲル大佐は無言で画面を見た。
朝倉ミユ。
高梨メグ。
二人の周辺に、赤紫の反応点がゆっくりと近づいている。
サラセニア・ルージュは、ミユの映像を見ると楽しげに笑った。
「あら。この子は、ずいぶん我慢していますわね」
「何が見える」
「欲しいものです」
彼女は指先の蔓で、自分の唇をそっとなぞった。
「お金。平穏。母親を安心させる生活。危険なバイトから解放される日常。誰にも嘘をつかずに済む関係。そして、自分が普通の高校生でいられる放課後」
ゲル大佐は黙った。
プリティミューの戦闘映像では見えなかったもの。
首領Xが見ようとしているもの。
サラセニア・ルージュは、そこへ手を伸ばそうとしている。
ゲル大佐の胃が、また重くなった。
「……首領Xへの接続を」
戦闘員がすぐに端末を操作した。
指令室の照明が落ちる。
赤紫の花びらが舞う中、中央モニターが黒く染まった。
白い仮面のアイコンが浮かび上がる。
首領X。
その存在が映った瞬間、甘い香りの中に、冷たい圧が混じった。
「ゲル大佐」
ゲル大佐は姿勢を正した。
「はっ、首領X」
「プリティミューは悪意に晒され、なお他者を守る言葉を選んだ」
「……はい」
「怒り、恐怖、悪意。これまでの観測により、彼女はそれらに反応しながらも、最終的に行動を停止しないことが確認された」
モニターに、これまでの戦闘データが重ねて表示される。
蜘蛛男戦。
蝙蝠伯爵戦。
レイディスコーピオン戦。
プリティミューが叫び、転び、迷い、立ち上がる姿。
首領Xの声は、淡々としていた。
「次は、欲望への反応を観測せよ」
ゲル大佐は、わずかに眉を動かした。
「欲望、ですか」
「彼女は何を欲し、何を諦め、何を守るか」
指令室の空気が静まる。
ゲル大佐は、また同じ違和感を覚えた。
首領Xは、プリティミューを倒せと言っていない。
観測せよ。
反応を見よ。
選択を記録せよ。
そればかりだ。
悪の組織の首領としては、あまりにも遠回りだった。怪人を投入し、施設を作り、市民を巻き込み、データを集める。すべてが、ひとりの少女を追い詰めるために組み上げられている。
だが、その追い詰め方は、殺すためというより――
ゲル大佐は、そこまで考えてやめた。
今は命令に従うべきだ。
「了解しました。サラセニア・ルージュによる欲望反応収集作戦を継続します」
「過度な破壊は不要だ」
「承知しております」
「高梨メグの反応にも注意せよ」
その名が出た瞬間、ゲル大佐はわずかに顔を上げた。
「高梨メグ、ですか」
「彼女は対象の行動選択に影響を与える」
「前回同様、観測補助因子という扱いで?」
「現時点では」
また、その言葉だった。
現時点では。
ゲル大佐の胸に、小さな棘のようなものが刺さる。
サラセニア・ルージュは、モニターに映るメグを見て、楽しげに目を細めた。
「この子、ずっと見ている側にいるのね」
モニターには、非常階段でノートを開くメグの映像が映っている。
小柄な身体。
眼鏡。
真面目な顔。
スマホに届いた赤紫の通知を見つめる横顔。
「一般人だ。巻き込みすぎるな」
ゲル大佐は低く言った。
サラセニア・ルージュは、ゆっくりと振り返った。
「巻き込むのではありませんわ」
彼女は微笑む。
「望ませるのです」
その声は、指令室の温度を少し下げるほど甘かった。
首領Xの仮面アイコンは、何も語らない。
ただ、見ている。
ゲル大佐は、メグの映像を見た。
プリティミューを追い、記録し、支えようとする少女。
確かに、あの少女は危うい。
自分が戦闘員であることを棚に上げても、そう思う。
見ているだけの者は、いつか自分も手を伸ばしたくなる。
それをサラセニア・ルージュは、甘く誘うつもりなのだ。
首領Xの通信が切れた。
指令室の照明が戻る。
甘い香りも戻った。
ゲル大佐は、しばらく無言だった。
それから、端末を操作し、ホウジュ区駅裏の地図を拡大した。
ルージュ・ピッチャー。
駅裏商店街。
地下水路。
旧地下商業施設跡。
そして、そのすぐ近くに表示された小さな店舗名。
《コブラカレー》
42号が、小声で言った。
「大佐、駅裏にはコブラカレーがありますが」
ゲル大佐の目つきが、わずかに険しくなった。
「……そこには手を出すな」
「なぜですか?」
「面倒な老人がいる」
「面倒な老人」
「詮索するな」
「はい」
42号は素直にうなずいた。
しかし、その様子をサラセニア・ルージュは見逃さなかった。
「あら。大佐が避ける店があるなんて、興味深いですわね」
「興味を持つな」
「カレー屋でしょう? 甘い夢の横に、辛い現実。悪くない配置ですわ」
「そこには手を出すなと言った」
ゲル大佐の声が、わずかに低くなった。
指令室の戦闘員たちが、空気の変化に気づいて姿勢を正す。
サラセニア・ルージュは数秒だけゲル大佐を見つめ、それから肩をすくめた。
「承知しましたわ。わたくしの主役は、あくまで小さな科学少女と、その隣に立ちたがる眼鏡のお嬢さんですもの」
「任務を忘れるな。目的は欲望反応の観測と収集。プリティミューを無力化できるならそれに越したことはないが、施設の存在を早期に露見させるな」
「すでに、甘い夢は根を張っておりますわ」
サラセニア・ルージュは、赤紫の花びらを一枚、指先に乗せた。
「自分から来ます。彼女たちは、必ず」
花びらがふわりと舞い、指令卓の上に落ちる。
ゲル大佐はそれを見下ろした。
赤紫の花びらは、金属の卓上に触れた途端、わずかに溶けるように湿った跡を残した。
捕虫植物。
花に見えて、罠。
夢に見えて、穴。
ゲル大佐は低く命じた。
「作戦を続行する。ただし、コブラカレー周辺での活動は最小限に抑えろ。戦闘員は地下経路を優先。一般客の誘導はルージュ・ピッチャー側で完結させる」
「了解です!」
42号が敬礼する。
サラセニア・ルージュも優雅に一礼した。
「では、甘いお茶会を始めましょう」
「会議だ」
「夢の入口は、いつでもお茶会のようなものですわ」
「余計な比喩を増やすな」
「大佐は本当に夢がありませんのね」
「胃痛はある」
「まあ、お気の毒」
サラセニア・ルージュは笑った。
そして、来た時と同じように赤紫の花びらを舞わせながら、指令室の奥へ歩いていく。
その背中を見送りながら、42号が小声で言った。
「大佐」
「何だ」
「自分、ちょっとだけカレーが食べたくなりました」
「任務中だ」
「はい」
「だが、作戦後に生きて戻ったら、考えなくもない」
「大佐……!」
「感動するな。自腹だ」
「ですよね」
42号は少し肩を落とした。
ゲル大佐は、再びモニターへ視線を戻した。
ホウジュ区駅裏。
赤紫のネオン。
甘い香りに誘われる人々。
そして、非常階段でスマホを握る高梨メグ。
その近くにいる朝倉ミユ。
ゲル大佐は、誰にも聞こえない声で呟いた。
「プリティミュー。貴様は、欲しいものを前にしても立てるのか」
答えは、まだない。
だが、赤紫の根はすでに伸び始めている。
駅裏の地下へ。
人々の心へ。
そして、科学少女の日常のすぐ足元へ。




