第2節 ― 無料診断は、だいたい高い
翌朝の宝珠南高校は、いつもより少し甘い匂いがした。
それが本当に匂いだったのか、それともミユの気のせいだったのかは、わからない。
校門をくぐった瞬間、ミユは思わず鼻を鳴らした。
昨日、コブラカレーの店内に入り込んできた、あの赤紫の甘い匂い。花のようで、香水のようで、熟れすぎた果実のようで、どこか逃げ場をふさぐような匂い。
今朝の校舎に、それと似たものが薄く漂っている気がした。
「……やだなあ」
ミユは小さく呟いた。
朝から不吉な予感がする。
怪人事件に巻き込まれるようになってから、ミユはこういう予感を無視できなくなっていた。以前なら、少し変だと思っても、寝不足とか、気のせいとか、朝ごはんが足りないせいにできた。
けれど今は違う。
変な匂い。
変な広告。
変な通知。
変な店。
それらが全部、最終的に怪人とつながる可能性がある。
正直、かなり嫌だった。
普通の高校生は、校門の匂いから怪人の気配を疑ったりしない。
ミユは靴箱の前で上履きに履き替えながら、自分の左手首をちらりと見た。袖の下には、μブレスレットがある。
便利で、頼れて、かなり迷惑な装置。
「今日は何も起きませんように……」
祈りに近い声で呟いた瞬間、背後から明るい声が聞こえた。
「ねえ、ルージュ・ピッチャー行った?」
ミユの肩が跳ねた。
振り返ると、同じ学年の女子生徒たちが数人、スマホを見ながら廊下を歩いている。ミユに話しかけたわけではない。彼女たちは、自分たちの会話に夢中だった。
「まだ。でも昨日、先輩が行ったって」
「無料で似合う香水作ってくれるんだって」
「え、無料なの?」
「最初だけじゃない? でも性格診断、めっちゃ当たるらしいよ」
「理想の自分が見える鏡、やばくない?」
「それ、ちょっと怖くない?」
「でも見たくない? 理想の自分」
「見たい。めっちゃ見たい」
ミユは上履きを履いた姿勢のまま、固まった。
話題になっている。
昨日の時点で怪しいと思っていた施設が、もう学校中に広がり始めている。
情報の広がり方が早すぎる。
スマホの広告、口コミ、友達同士の会話、短い動画。どこかで火がつくと、一晩で教室まで届いてしまう。第3話の時、悪意の投稿が広がっていくのを見たばかりだったせいか、ミユはその速さにぞっとした。
甘いものは、毒よりも自然に入ってくる。
廊下の奥でも、別の生徒たちが同じ話をしていた。
「昨日行った先輩、今日休みらしいけど」
「え、そうなの?」
「でもストーリーには上げてたよ。めっちゃきれいになってた」
「加工じゃなくて?」
「わかんない。でも、顔色はよかった」
「顔色よくて休みって何?」
笑い声が上がる。
ミユは笑えなかった。
休み。
顔色はよかった。
昨日のコブラカレーの前を、幸せそうな顔でルージュ・ピッチャーへ向かっていった人々を思い出す。
自分から入っていく。
笑顔で。
望んでいるように。
その先で、連絡が取れなくなる。
「……完全に嫌な流れじゃん」
ミユは鞄を持ち直し、教室へ向かった。
*
教室に入っても、話題は変わらなかった。
むしろ、教室の方が濃かった。
朝のホームルーム前のざわめきの中に、《ルージュ・ピッチャー》という名前が何度も混じっている。窓際の席では、女子生徒たちがスマホを囲んで診断アプリの画面を見ていた。
「これ、質問かわいくない?」
「えー、何これ。『あなたが本当は欲しいものは?』だって」
「欲しいもの? お金」
「現実的すぎ」
「じゃあ人気」
「それも現実的」
「でもさ、欲しいものって聞かれると、急にわかんなくならない?」
「わかる。欲しいものありすぎて逆に出ない」
少し離れた席では、男子生徒も画面を覗いていた。
「俺も入れてみようかな」
「美容サロンだぞ」
「相性診断あるらしいし」
「お前、誰との相性見るんだよ」
「うるせえな」
軽い冗談。
普通の朝。
でも、その普通さが怖かった。
怪しいものが、怪しい顔をして近づいてくるならまだわかりやすい。赤黒い装甲の怪人が駅前に立っていれば、誰だって逃げる。
けれど今回は違う。
無料診断。
似合う香水。
理想の自分。
もっと自分を好きになれる。
今だけ限定。
どれも、日常に紛れ込む言葉だった。
ミユは席につき、机に突っ伏した。
「朝から胃もたれする……」
「先輩」
すぐ横から声がした。
顔を上げると、メグが立っていた。
小柄な身体に、いつもの眼鏡。
手には、いつもより分厚いノート。
表紙には、付箋がいくつも貼られている。
ミユはそれを見て、嫌な予感をさらに強めた。
「メグちゃん、そのノート、昨日より育ってない?」
「はい。情報が増えました」
「情報は増えてもいいけど、危険度まで増えてない?」
「増えています」
「即答しないでほしかった」
メグは真面目な顔で、ミユの机の横に立った。
「先輩、昼休みに少し時間をください」
「今じゃなくて?」
「今話すと、周囲に聞こえます」
「その言い方、怖い」
「怖い話です」
「やっぱり!」
メグは、ちらりと教室の中を見た。
生徒たちはまだ、ルージュ・ピッチャーの話をしている。楽しそうで、少し浮かれていて、誰もそれが危ないものだとは思っていない。
メグは声を落とした。
「昨日の通知、先輩も見ましたよね」
「見た。あれ、メグちゃん登録してないって言ってたよね」
「はい。公式アプリは入れていません。メールアドレスも登録していません」
「じゃあ、どうやって来たの」
「わかりません」
メグの表情が、少しだけ曇った。
「それが一番問題です」
ミユは喉の奥が冷えるのを感じた。
勝手に届く通知。
登録していないのに、個人へ届くメッセージ。
前回の《VENOM QUEEN》も気味が悪かったが、今回は違う方向で嫌だった。攻撃してくるのではなく、優しく手招きしてくる。
「……昼休み、いつもの階段で」
「はい」
メグは小さくうなずき、自分の教室へ戻っていった。
その背中を見送りながら、ミユは机の下で左手首を押さえた。
μブレスレットは、静かだった。
けれど、その静けさが逆に不気味だった。
*
昼休み。
校舎の端にある非常階段は、風がよく通る場所だった。
冬の空気が冷たい。
朝感じた甘い匂いは、ここでは薄い。
ミユはコンビニのパンを片手に、階段の踊り場で待っていた。昨日コブラカレーを食べたせいで、今日の昼食がかなり物足りなく感じる。
あの怪しいカレー屋の味を思い出してしまい、ミユは少し悔しくなった。
「また行ったら負けな気がする……でも、おいしかった……」
「何に負けるんですか」
メグが来ていた。
片手におにぎり、もう片方に調査ノート。
昼食よりノートの方が大きい。
「胃袋に」
「コブラカレーのことですか」
「うん。怪しいけど、おいしいってずるいよね」
「味覚による信用形成です」
「急に分析するじゃん」
「おいしいものを出す人は、警戒されにくいです」
メグが何気なく言った言葉に、ミユは少し引っかかった。
おいしいもの。
甘い匂い。
無料診断。
理想の自分。
欲しいものを差し出されると、人は警戒を緩める。
それはたぶん、悪いことばかりではない。おいしいカレーを食べて少し元気になることもある。似合う服や香水を見つけて嬉しくなることもある。誰かに認められたいと思うことだって、普通にある。
問題は、その気持ちをどう扱われるかだ。
メグは踊り場の隅にしゃがみ、ノートを開いた。
地図、SNS投稿のスクリーンショット、行方不明者の時系列、ルージュ・ピッチャーの広告文言が、きれいに整理されている。
ミユは思わず言った。
「メグちゃん、本当に中学生?」
「高校一年です」
「あ、そうだった」
「先輩、ひどいです」
「いや、情報整理力が探偵か記者なんだよ」
「褒めていますか」
「褒めてる。かなり」
メグは少しだけ照れたように眼鏡を直した。
それから、すぐ真面目な顔に戻る。
「先輩、ここ三日でホウジュ区の行方不明者が増えています」
「また?」
「はい。ただし、今回は誘拐ではなく、自分から店に入った記録が残っています」
「自分から?」
「はい。みんな、すごく幸せそうな顔で」
メグはノートを指差した。
そこには、失踪者の特徴がまとめられていた。
会社員。
配信者。
就活中の学生。
ハンドメイド作家。
育児中の主婦。
地下アイドルのファン。
小さな劇団の役者。
美容系の専門学生。
年齢も職業もばらばらだ。
けれど、共通点はあった。
強い願望。
疲労。
焦り。
承認欲求。
変わりたい気持ち。
メグは静かに言った。
「みんな、何かを強く欲しがっていたようです」
ミユはノートを見つめた。
会社員の欄には、昇進試験に落ち続けていたというメモがある。
配信者の欄には、再生数の伸び悩み。
就活中の学生には、内定が出ない焦り。
主婦には、自分の時間がなくなっているという投稿。
ハンドメイド作家には、作品が売れないという悩み。
どれも、笑えなかった。
大げさな欲望ではない。
世界を支配したいとか、不老不死になりたいとか、そういう話ではない。
認められたい。
変わりたい。
楽になりたい。
自分を好きになりたい。
好きなものに近づきたい。
どれも、たぶん普通の気持ちだ。
ミユはパンの袋を握ったまま、少し黙った。
「でもさ」
「はい」
「綺麗になりたいとか、認められたいとか、そういうのは別に悪くなくない?」
「悪くないです」
メグはすぐに答えた。
その即答に、ミユは少し安心した。
「じゃあ何が問題なの」
「そこにつけ込まれていることです」
メグは、ノートの別ページを開いた。
ルージュ・ピッチャー関連の投稿が並んでいる。
《無料カウンセリング受けたら人生変わった》
《もっと自分を好きになれる》
《欲しいものを我慢しなくていい》
《判断する前に、まず体験》
《迷っている時間が、あなたを古くする》
《選ばれる人は、もう始めている》
《本当のあなたは、まだ眠っているだけ》
ミユは眉を寄せた。
「うわ……」
言葉そのものは、そこまで危険に見えない。
でも、並べて読むと息苦しい。
急かしてくる。
比べてくる。
今のままでは駄目だと言ってくる。
欲しいものを持っていない自分が悪いみたいに思わせてくる。
ミユの視線が、ひとつの文で止まった。
《判断する前に、まず体験》
胸の奥が、ざらついた。
「判断する前に、って何。そこ一番大事でしょ」
「はい」
「体験してから判断しろって言い方、ちょっと怖くない?」
「怖いです。判断力を下げてから、本人の同意を取る形に見えます」
「言い方がもう詐欺の分析なんだよ」
「詐欺に近い構造だと思います」
メグは、淡々と言った。
「無料診断、無料体験、限定クーポン、今だけの特別枠。入口は軽いです。でも、その入口を通った後に、本人の欲望を拡大して判断力を下げる仕組みがあるなら、かなり危険です」
ミユはノートを閉じるように手を置いた。
「欲しいと思うことは悪くない」
自分で言って、自分で少し驚いた。
その言葉は、誰かに向けたものというより、自分に向けたものだった。
お金がほしい。
普通の生活がほしい。
怪人と戦わない放課後がほしい。
母に心配をかけたくない。
メグに嘘をつかなくていい日常がほしい。
そう思ってしまう自分を、ミユはどこかで少し責めていた。
でも、それは悪いことなのだろうか。
メグが静かに言った。
「はい。悪くありません」
ミユは顔を上げた。
メグはまっすぐミユを見ていた。
「欲しいものがあるから、人は動けます。問題は、その欲しさを利用して、考える力を奪うことです」
「……メグちゃん、たまにすごく大人みたいなこと言うよね」
「先輩が子どもっぽいだけでは」
「今の、まあまあ刺さった」
「すみません」
「いや、正論だからいいけど」
ミユは苦笑して、パンを一口食べた。
味があまりしなかった。
非常階段の外では、冬の空が薄く曇っている。
昨日の夕方に見た赤紫のネオンが、まだ目の裏に残っている気がした。
「アインに連絡する」
ミユはスマホを取り出した。
「校内で?」
「声を小さくする」
「それで済むんですか」
「済ませる」
メグが少し不安そうな顔をする横で、ミユはアインへ通信を入れた。
数秒後、スマホ画面にアインの顔が映った。
白衣姿。
背景はアイン科学研究所。
どう見ても、すでに何か調べていた顔だった。
《やあ、バイト君。ちょうどいい》
「その『ちょうどいい』で始まる会話、だいたいよくないんだけど」
《今回もよくはない》
「やっぱり!」
ミユは非常階段の壁に背中を預け、声を落とした。
「ルージュ・ピッチャーって知ってる?」
《ホウジュ区駅裏の期間限定複合サロンだね。美容、香水、診断アプリ、カフェ、自己実現カウンセリングを組み合わせた施設》
「説明が早い」
《昨夜から調べていた》
「言ってよ!」
《君がカレーを食べていたから》
「見てたの!?」
《μブレスレットの位置情報は把握している》
「プライバシー!」
《労務管理だよ》
「そんな労務管理ある!?」
メグが横から小さく言った。
「先輩、声が大きいです」
「ごめん」
ミユは咳払いした。
「で、怪人なの?」
《断定はまだだ。ただ、ホウジュ区駅裏から植物性生体反応と微弱な神経撹乱物質を検知している》
「植物性?」
《食虫植物に近い反応だ》
「食虫植物」
ミユは嫌そうに顔をしかめた。
蜘蛛。
蝙蝠。
サソリ。
次は植物。
怪人のバリエーションが豊かすぎる。
《バイト君、今回は欲望誘導型だ》
「また新ジャンル!」
《簡単に言えば、甘い匂いで人の判断力を下げる》
「最悪の客引きじゃん!」
《かなり正確な表現だ》
アインはモニターを見ながら続けた。
《匂い、広告文言、診断アプリ、鏡面装置。複数の刺激を組み合わせて、対象の欲望を可視化・増幅している可能性がある。欲望そのものを生成しているわけではない。既存の願望を肥大化させるタイプだろう》
ミユは、ノートに書かれた失踪者たちの悩みを思い出した。
「それって、本人が悪いみたいに見えるやつじゃん」
《そこが厄介だ。本人の中にある欲求を利用しているなら、外部からの強制と本人の意思の境界が曖昧になる》
「うわ、嫌なやつ」
《つまり、殴れば解決するとは限らない》
「毎回それ言ってない?」
《毎回本当だからね》
「もう聞き飽きたけど、毎回本当なのがもっと嫌!」
画面の端に、ワトソンが映った。
《ミユさん、甘い香気を感じた場合は長時間吸入しないでください。可能なら、マスクやハンカチで鼻と口を覆ってください》
「了解。メグちゃんは昨日から対策してる」
「はい。予備マスクもあります」
《さすがです、メグさん》
メグは少しだけ背筋を伸ばした。
「ありがとうございます」
ミユは横目で見た。
「ワトソンに褒められると嬉しそうだね」
「はい」
「正直」
《それと、店内には不用意に入らないこと》
ワトソンの声が少し硬くなった。
《捕食圏内に入ると、離脱が難しくなる可能性があります》
ミユは頷いた。
「わかった。近づかない」
メグが視線をそらした。
ミユはそれを見逃さなかった。
「メグちゃん?」
「……近くまでです」
「だめ」
「まだ何も言っていません」
「言う前からだめ」
「近くまで確認するだけです」
「メグちゃんの近くまでは、だいたい現場の中心なの!」
「今回は本当に入口周辺だけです」
「入口が一番罠っぽいんだけど!」
メグは口を閉じた。
その表情を見て、ミユは強く言いすぎたかもしれないと思った。
メグは危ないことをしたいわけではない。
ただ、自分にできることをしようとしている。
それはわかっている。
でも、危ないのだ。
前回も、前々回も、メグは巻き込まれた。助かったからよかっただけで、少し間違えば取り返しがつかなかった。
「……お願いだから、一人で行かないで」
ミユは声を落とした。
怒るのではなく、頼むような声になった。
メグはミユを見た。
しばらくして、小さくうなずく。
「わかりました。一人では行きません」
「ほんと?」
「はい」
「じゃあ放課後、私も行く。近くまで」
「はい。近くまで」
「本当に近くまでだからね」
「努力します」
「努力じゃなくて約束!」
メグは少しだけ笑った。
その時だった。
メグのスマホが震えた。
短い通知音。
ミユとメグは、同時に画面を見た。
赤紫の花のアイコン。
昨日と同じ、《ルージュ・ピッチャー》からの通知だった。
メグの表情が固まる。
「また……」
画面に文字が浮かぶ。
《あなたは、彼女の隣に立ちたくありませんか?》
ミユは息を呑んだ。
彼女。
誰のことか、考えるまでもなかった。
次の文が表示される。
《見ているだけの自分を、変えたくありませんか?》
メグの指が止まった。
画面の赤紫の光が、眼鏡に映っている。
その横顔に、ほんの少しだけ揺れが見えた。
メグは、いつも見ている。
調べている。
記録している。
支えてくれている。
でも、本当は。
それだけでは足りないと思っているのかもしれない。
ミユの胸が、きゅっと痛んだ。
自分が隠しているせいで。
自分が正体を言えないせいで。
メグはずっと、外側に置かれている。
メグは小さく息を吸った。
画面に指が触れそうになる。
「メグちゃん」
ミユは、その手をそっと押さえた。
強くではない。
止めるために。
メグの指先は、少し冷たかった。
「……すみません」
メグが呟いた。
「押すつもりはありませんでした」
「うん」
ミユは頷いた。
「でも、押したくなる文だった」
メグは黙った。
それが答えだった。
スマホ画面の花が、ゆっくりと開く。
甘い匂いが、非常階段の冷たい空気の中にも、ほんのわずかに混じった気がした。
ミユはその画面を睨んだ。
「ほんと、最悪の客引きじゃん」
μブレスレットが、袖の下で小さく震えた。
放課後まで、あと数時間。
けれど、罠はもう、彼女たちの日常の中へ根を伸ばし始めていた。




