第1節 ― 甘い匂いのするカレー屋
放課後のホウジュ区は、いつものように騒がしかった。
駅前の大通りでは、会社帰りにはまだ少し早い大人たちと、学校帰りの生徒たちがゆるく混ざり合っている。コンビニの前には新作スイーツのポスターが貼られ、ドラッグストアの店頭では花粉対策と保湿クリームが並び、ファストフード店の窓際では、制服姿の高校生たちがポテトをつまみながらスマホを覗き込んでいた。
真冬のはずだった。
だが、数日前の異常熱波騒ぎ以来、ホウジュ区の人々は少しだけ空を疑うようになっていた。今日の風はちゃんと冷たい。駅前の電光掲示板の気温も平年並み。けれどミユは、首元に巻いたマフラーを何度か触ってしまう。
また、何か変なことが起きるのではないか。
そう思う自分が、少し嫌だった。
「先輩、こっちです」
前を歩くメグが、スマホの地図を確認しながら細い路地へ曲がった。
朝倉ミユはその背中を見て、ため息をつく。
「メグちゃん」
「はい」
「念のため聞くけど、これ、ただの寄り道じゃないよね」
「はい。調査です」
「やっぱり」
ミユは肩を落とした。
「メグちゃんの『調査です』って、だいたい私の平穏が死ぬ合図なんだよね」
「今回は、失踪者が出ています」
「急に本当に事件だった!」
反射的に声が大きくなり、通りかかった主婦が少し驚いた顔で振り返った。ミユは慌てて咳払いをして、何事もなかったように歩幅を整える。
メグはいつものように真面目な顔で続けた。
「ホウジュ区駅裏に、期間限定サロン《ルージュ・ピッチャー》という施設ができています。美容診断、香水カスタム、自分磨きカフェ、相性診断アプリ、無料カウンセリングを組み合わせた複合サロンです」
「情報量が多い」
「若い女性を中心に人気が出ていますが、ここ数日、利用者の一部と連絡が取れなくなっています」
「ちょっと待って。普通に警察案件じゃない?」
「警察にも情報は行っていると思います。ただ、奇妙なのは、消えた人たちが全員、自分から店に入っていることです」
ミユは眉を寄せた。
「自分から?」
「はい。防犯カメラの映像では、みんな笑顔で入店しています。無理やり連れ込まれた様子はありません」
「それ、一番怖いやつじゃん」
「はい。一番怖いやつです」
メグは淡々と言ったが、その横顔は少し硬い。
ミユはそれを見逃さなかった。
メグは強い。
前よりずっと強くなった。
廃劇場で眠りを奪われかけ、駅前広場で毒の言葉に晒され、それでも彼女は怪人事件ログを続けている。人よりもよく見て、人よりも多く気づいて、怖くても自分にできることを探している。
でも、怖くないわけではない。
それをミユは、もう知っている。
「で、その《ルージュなんとか》を見に行くと」
「《ルージュ・ピッチャー》です」
「名前からして絶対怪しい」
「同感です」
「でも行くんだ」
「近くまでです」
「メグちゃんの『近くまで』は、だいたい現場の中心なんだけど」
「今回は、本当に近くまでです」
「信用したいけど、実績がなあ」
ミユがそう言った瞬間、鼻先を強烈な匂いがかすめた。
甘い匂いではない。
香水でもない。
花でもない。
スイーツでもない。
もっと強い。
唐辛子。
クミン。
カルダモン。
にんにく。
炒め玉ねぎ。
煮込まれた肉と油の匂い。
空腹を直接殴ってくるような匂いだった。
「……何、この暴力的においしそうな匂い」
ミユの足が止まった。
路地の角に、小さな店があった。
古びた木製の看板。
赤と黄色の色あせた庇。
入口脇には、小さな黒板メニュー。
看板には、デフォルメされたコブラが、湯気の立つカレー皿に巻きついている絵が描かれていた。
《コブラカレー》
ミユは看板を見上げ、数秒黙った。
「……入りづらっ」
メグも看板を見上げた。
「口コミ評価は高いです」
「調べるの早い」
「『店主は怪しいがカレーは本物』」
「店主の怪しさ、味で相殺していいタイプなんだ」
「『初見は入りにくいが、食べたら負ける』とも書いてあります」
「何に負けるの?」
「胃袋では」
「負けたくないけど、匂いが強すぎる」
ぐう、とミユのお腹が鳴った。
メグが無言でミユを見る。
「今のは、店の営業妨害レベルの匂いが悪い」
「お腹が空いているなら、調査前に食べた方がいいと思います」
「メグちゃん、今すごく正しいこと言った」
「空腹時の判断力低下は危険です」
「そうそう。ヒーロー業にも糖質とたんぱく質が必要だからね」
「ヒーロー業?」
「たとえ話!」
ミユは慌てて言い直したが、メグは少しだけ笑った。
二人が戸を開けると、入口の上の鈴がからん、と鳴った。
店内は狭かった。
カウンター席が八つ。
奥に小さな二人掛けのテーブルが二つ。
壁には古い映画のポスター、インド風の布、なぜか昭和の特撮番組のブロマイドめいたものが雑然と貼られている。照明は少し暗いが、不潔な感じはしない。むしろ鍋もカウンターもよく磨かれており、油の匂いの奥にきちんとした清潔さがあった。
カウンターの奥で、大きな鍋をかき混ぜていた男が顔を上げた。
年齢は五十代後半か、六十代に入っているかもしれない。白髪混じりの髪を後ろでまとめ、蛇柄のバンダナを巻いている。口元には無精ひげ。エプロン姿だが、その立ち方に妙な隙のなさがあった。
目だけが、やけに鋭い。
男は二人を見ると、にやりと笑った。
「いらっしゃい、嬢ちゃんたち。辛いのいけるかい」
ミユは一歩引いた。
「未成年に最初から試練を出さないでください」
「人生はだいたい辛口だ。カレーくらい甘くしてもいいがね」
「言ってることはいい感じなのに、店名のせいで全部怪しい」
「コブラは縁起物だぜ」
「ほんとに?」
「少なくとも、うちではな」
男は鍋を軽く叩いた。
「俺はコブラ。この店の店主だ。メニューはだいたいカレー。辛さは甘口から、後悔するやつまである」
「後悔するやつをメニューに入れないでください」
「若いうちの後悔は財産だ」
「カレーで得る財産じゃないと思う」
メグが黒板メニューを見た。
「先輩、チキンカレー、キーマカレー、野菜カレーがあります」
「どれが安全?」
コブラが答えた。
「初めてならチキンにしときな。辛さは普通。眼鏡の嬢ちゃんは野菜もいける顔だ」
メグが少し驚いたように目を瞬いた。
「なぜですか」
「見る顔だ。食い物を情報として見るタイプは、野菜カレーの方が味の構成を追いやすい」
「……先輩」
「何」
「この店主、怪しいですが観察眼があります」
「そこは同意しちゃうんだ」
結局、ミユはチキンカレー、メグは野菜カレーを頼んだ。
皿が出てくるまでの間、ミユは店内を見回した。
古い。
怪しい。
でも、不思議と落ち着く。
壁に貼られた手書きの張り紙には、妙な文句が並んでいる。
《甘い話の後には辛いカレー》
《悩みは無料、追加ルーは有料》
《怪しい客歓迎。ただし暴れるな》
最後の張り紙で、ミユは目を細めた。
「暴れる客、来るんですか」
コブラは鍋をかき混ぜながら答えた。
「この町はいろいろあるからな」
「いろいろ」
「いろいろだ」
それ以上は言わない。
メグがスマホで周辺地図を確認していると、コブラの視線がちらりとその画面へ動いた。
ミユは、それにも気づいた。
ただのカレー屋のおじさんにしては、目がよすぎる。
でも、敵意はない。
少なくとも今は。
やがて、カレーが出てきた。
銀色の皿。
つやのある米。
濃い飴色のルー。
上に散らされた香草。
小皿には玉ねぎの漬物と、謎の赤いペースト。
ミユはスプーンを手に取った。
「いただきます」
一口。
次の瞬間、ミユは無言になった。
辛い。
でも、ただ辛いだけではない。甘みがある。香りがある。口の中で何層も味が広がる。チキンはほろほろで、ルーは重いのに後味が妙にすっきりしている。
悔しいくらい、うまい。
「……おいしい」
ミユは小さく言った。
コブラが笑う。
「だろ」
「怪しいのに」
「味は嘘つかねえ」
「いや、怪しい店でもおいしいことあるんだ……」
「人生勉強だな」
メグも野菜カレーを一口食べ、少し目を見開いた。
「スパイスの層が複雑です。最初に甘みが来て、後から辛さが来ます。でも、舌に残りすぎない」
「眼鏡の嬢ちゃん、いい舌してるな」
「ありがとうございます」
「褒められてるの、それ?」
ミユは文句を言いつつ、スプーンを止められなかった。
身体の芯が温まる。
さっきまでの調査の緊張や、学校での疲れが、少しだけ溶けていく気がした。
食べることは、かなり大事だ。
世界が怪人だらけになっても、カレーがおいしければ少しだけ立て直せる。そんなことを考えていると、店の外を人影が何人も通った。
若い女性。
スーツ姿の会社員。
制服の高校生。
疲れた顔の男性。
スマホを見ながら歩く主婦。
全員が、同じ方向へ向かっている。
駅裏の奥。
ミユが窓の外を見ると、通りの先に赤紫のネオンが見えた。
《Rouge Pitcher》
花の形をした看板。
甘く光る入口。
あれが、噂のルージュ・ピッチャーなのだろう。
その瞬間、店内に別の匂いが入ってきた。
カレーのスパイスを押しのけるほどではない。
だが、確かに感じる。
甘い。
甘すぎる。
花。
蜜。
香水。
熟れすぎた果実。
そして、その奥に、少しだけ腐る寸前のような匂い。
ミユは眉をひそめた。
「……何、この匂い」
コブラの手が止まった。
鍋をかき混ぜていた木べらが、ぴたりと静止する。
その横顔から、さっきまでの軽薄な笑みが消えていた。
店内の空気が、ほんの一瞬だけ変わる。
コブラは、窓の外を見た。
赤紫のネオン。
そこへ吸い寄せられる人々。
彼は低く呟いた。
「……甘すぎるな」
ミユは聞き返した。
「え?」
コブラはすぐにいつもの顔に戻った。
「いや。カレー屋の独り言だ」
「今の、絶対ただの独り言じゃないやつでしょ」
「嬢ちゃん、カレー屋はな、匂いにうるさいんだよ」
「それだけ?」
「それだけだ」
そう言って、コブラはミユの皿を指差した。
「冷めるぞ」
「ごまかされた」
「うまいカレーは、だいたいの疑問をごまかせる」
「ごまかせてないけど、おいしいから腹立つ」
ミユはもう一口食べた。
やっぱりうまい。
悔しい。
メグは店の外を見つめていた。
彼女のスマホが震える。
通知音だった。
メグは画面を確認する。
そこには、赤紫の花を模したアイコンが表示されていた。
《ルージュ・ピッチャー無料診断 本日限定》
ミユはスプーンを止めた。
「メグちゃん、それ」
メグは画面を見つめたまま言った。
「私、登録していません」
画面に次の文が浮かぶ。
《あなたが本当に欲しいものを、見つけてあげます》
文字の下で、赤紫の花がゆっくり開くアニメーションが流れた。
甘い香りが、ほんの少しだけ濃くなる。
メグの眼鏡に、赤紫の光が映った。
ほんの一瞬。
けれどミユには、それがやけにはっきり見えた。
「メグちゃん」
ミユが呼ぶ。
メグはすぐに顔を上げた。
「はい」
返事は普通だった。
でも、ミユは胸の奥に小さな不安を覚えた。
コブラがカウンターの向こうで、静かに二人を見ている。
さっきまで飄々としていた店主の目は、もう笑っていなかった。
「嬢ちゃんたち」
低い声だった。
「甘い匂いを嗅いだ後は、辛いもんを食っとけ」
ミユは首を傾げた。
「どういう意味?」
コブラは、追加の小皿を二つカウンターに置いた。
真っ赤なスパイスペースト。
見るからに辛そうだった。
「目を覚ますには、ちょうどいい」
その言い方が、ただのカレー屋のサービスには聞こえなかった。
外では、赤紫のネオンが夕暮れの路地を染めている。
人々は、まるで自分から望んでいるような顔で、その光の中へ歩いていく。
ミユはスプーンを握り直した。
おいしいカレーの辛さが、舌の上に残っている。
その辛さだけが、甘い匂いに流されないための小さな錨のように感じられた。




