第7節 ― 刺された言葉と、残った棘
水の音が、駅前広場に降っていた。
さっきまで赤く濁っていた空気が、少しずつ透明になっていく。
消火用散水設備から噴き出した水は、広場の石畳を濡らし、テントの布を叩き、大型ビジョンの黒い画面を細かな水滴で覆っていた。真冬の夕方の空気が、ようやく本来の冷たさを取り戻し始める。
頬に落ちる水が、冷たい。
それだけで、ミユは少し息をしやすくなった。
プリティミューは、ミュー・ハンマーを握ったまま、広場の中央に立っていた。
身体は重い。
胸の奥はまだ痛い。
毒針に刺された場所は、装甲の上からでも熱を残している。
けれど、さっきまでのような赤い視界の揺れは薄れていた。
広場の人々も、少しずつ我に返っていた。
「……私、何言ってた?」
「ごめん、さっきの、違う。そんなつもりじゃなくて」
「いや、私も……ごめん」
「暑くて、頭が変になってたのかな」
「でも、言ったのは自分だよね……」
誰かが、隣の人に小さく謝っている。
誰かが、スマホの画面を見て顔を青くしている。
大型ビジョンに流れていた匿名投稿は消えていたが、各自の端末には、まだ自分の書いた言葉が残っている。消そうと思えば消せる。でも、言ったことそのものは消えない。
その事実に気づいた人たちが、気まずそうに目を伏せていた。
泣き出している女の子もいる。
「私、あんなこと思ってない……思ってないのに……」
友人らしい子が、濡れた肩を抱いていた。
「うん。大丈夫。大丈夫だから、もう帰ろ」
大丈夫かどうかは、たぶん、すぐには決められない。
けれど、少なくとも毒の熱は引いている。
それだけは、ミユにもわかった。
広場の端で、メグが拡声器を下ろした。
顔色は悪い。
制服も髪も水で濡れている。
それでも、彼女はまだ周囲を見ていた。
「体調の悪い方は駅ビル側へ移動してください! 救急要請は済んでいます! スマホの画面を見続けないでください!」
声は少し枯れていた。
でも、ちゃんと届いていた。
ミユはその背中を見て、胸の奥で何かがじんとした。
強い。
あの子は、本当に強い。
怖がらないから強いのではない。
怖がっても、自分にできることを探すから強いのだ。
プリティミューは、倒れたレイディスコーピオンへ視線を戻した。
レイディスコーピオンは、ステージ脇の壊れた装飾パネルにもたれかかっていた。
赤黒い装甲はところどころ剥がれ落ち、尾針は根元から折れている。鋏状の腕部装甲も片方が砕け、髪のように揺れていた毒針状の感覚器は、水に濡れて力なく垂れていた。
それでも、彼女はまだ消えてはいなかった。
プリティミューが近づくと、レイディスコーピオンはゆっくり顔を上げた。
崩れた装甲の隙間から、顔の一部が見えていた。
怪人の外殻の下に、人間の女性のような表情があった。
ほんの一瞬だけ。
怒りでも嘲笑でもない、疲れたような顔。
ミユは足を止めた。
レイディスコーピオンは、かすれた声で言った。
「あなたも、いつか刺されるわ」
プリティミューは、少しだけ息を吐いた。
「うん。もう刺された」
「なら、なぜ笑えるの」
「笑ってないと、泣きそうだから」
それは、強がりだった。
けれど、嘘ではなかった。
ミユは本当に、泣きそうだった。
怖かった。
痛かった。
恥ずかしかった。
怒りたかった。
逃げたかった。
それでも、今ここで泣いてしまったら、立っていられなくなる気がした。
だから、少しだけ笑っていた。
レイディスコーピオンは、ミユを見つめた。
そして、一瞬だけ笑った。
毒を含んだ笑いではなかった。
もっと小さく、もっと弱い笑いだった。
「それは……毒より厄介ね」
その言葉を最後に、彼女の身体が崩れ始めた。
赤い粒子が、装甲の端からほどけていく。
黒い外殻が粉のように割れ、水に濡れた石畳へ落ちる前に光になって消える。
尾。
腕。
肩。
顔。
レイディスコーピオンの姿は、赤い粒子となって散っていった。
けれど、完全には消えなかった。
石畳の上に、折れた尾針の欠片だけが残った。
赤黒い、細い破片。
それは、まだ微かに光っていた。
プリティミューがそれを見つめた瞬間、広場の反対側で黒い煙幕が上がった。
「撤退および残骸回収任務です!」
聞き覚えのある声。
戦闘員42号だった。
黒い戦闘員たちが、やけに足元を気にしながら広場へ駆け込んでくる。散水で石畳が濡れているせいで、何人かは滑りそうになっていた。
「また来た!」
プリティミューは思わずハンマーを構えた。
42号は両手を上げる。
「戦闘ではありません! 回収です! 今回は暑かったので、早く帰りたいです!」
「いま寒いでしょ!」
「濡れたので寒いです!」
「どっちなの!」
《42号! 会話している場合か!》
通信越しにゲル大佐の声が響いた。
《レイディスコーピオン、活動停止。戦闘員、毒針片を回収して撤退しろ!》
42号は、折れた尾針の欠片を見て、プリティミューを見て、また欠片を見た。
「大佐、プリティミューさんが見ています!」
《見られても拾え!》
「拾ったら怒られそうです!」
《怒られる前に撤退しろ!》
「了解です!」
42号は、回収用の小型ケースを取り出した。
プリティミューは一歩踏み出す。
「それ、持っていかせると思う?」
42号はぴたりと止まった。
「ですよね!」
《何を納得している!》
「でも大佐、プリティミューさん、今かなり怒ってます!」
《それでも拾え! それは重要サンプルだ!》
プリティミューはハンマーを握る手に力を込めた。
だが、その時、広場の向こうで救急車のサイレンが聞こえた。
人々がまだいる。
メグもいる。
体調を崩した人もいる。
ここで戦闘員と追いかけっこをしている場合ではない。
その一瞬の迷いを、42号は見逃さなかった。
「今です!」
戦闘員の一人が煙幕弾を投げる。
黒い煙が広がった。
「こら!」
プリティミューは煙の中へ踏み込んだが、濡れた石畳で足を取られかける。
「うわっ!」
《バイト君、無理に追うな。毒の影響が残っている》
アインの声が飛ぶ。
「でも!」
《市民対応が先だ》
悔しいが、その通りだった。
煙が薄れるころには、戦闘員たちは姿を消していた。
折れた毒針の欠片もない。
ただ、石畳の上に水滴と、赤い粒子の残滓だけが残っていた。
プリティミューは、ハンマーを下ろした。
「……回収、された」
《そのようだね》
「また使われる?」
《可能性は高い》
アインの声は静かだった。
ミユは唇を噛む。
倒したのに、終わっていない。
この感じにも、少しずつ慣れ始めている自分が嫌だった。
*
ジョーカー帝都支部。
指令室では、ゲル大佐が濡れた現場映像を無言で見つめていた。
レイディスコーピオンの反応は消失。
毒性フィールドは解除。
駅前広場の熱源反応は低下。
プリティミューは健在。
そして、回収班は毒針片の確保に成功。
戦術的には敗北。
観測任務としては成功。
またしても、その分類になる。
ゲル大佐は、拳を握った。
「……三体目だぞ」
蜘蛛男。
蝙蝠伯爵。
レイディスコーピオン。
ジョーカー怪人が、三体続けてプリティミューに敗れた。
その事実は重い。
だが、それ以上に重いのは、首領Xがその敗北をまるで惜しんでいないことだった。
指令室の照明が落ちる。
中央モニターが黒く染まり、白い仮面のアイコンが浮かび上がる。
「ゲル大佐」
ゲル大佐は姿勢を正した。
「はっ」
「良いデータだった」
予想していた言葉だった。
それでも、胸の奥に小さな違和感が残る。
「また敗北しましたが」
「彼女は悪意に晒され、なお他者を守る言葉を選んだ」
「……」
「怒りによる出力上昇だけではない。抑制、選択、言語反応の変化。いずれも有用だ」
モニターに、プリティミューの戦闘データが表示される。
毒針被弾。
幻覚反応。
言語抑制。
冷却出力。
最終技発動。
その横に、メグの行動ログも並ぶ。
避難誘導。
制御端末アクセス。
大型ビジョン連動の発見。
散水設備起動補助。
ゲル大佐は眉をひそめた。
「高梨メグの介入も、想定内で?」
「想定以上だ」
首領Xは淡々と言う。
「彼女は対象の行動選択に影響を与える。観測価値が高い」
「一般人です」
「現時点では」
その一言に、ゲル大佐は言葉を失った。
現時点では。
首領Xは、何を見ているのか。
プリティミューを倒すためなのか。
成長させるためなのか。
それとも、彼女の周囲にいる人間までも含めて、何かの実験を進めているのか。
ゲル大佐には、まだ見えない。
「次の段階へ進める」
首領Xが告げた。
「次は、欲望への反応を見る」
「欲望、でありますか」
「怒り、恐怖、悪意の次は、欲しいものだ。人は奪われる時だけでなく、与えられる時にも壊れる」
ゲル大佐は、静かに頭を下げた。
「了解しました」
仮面のアイコンが消える。
指令室の照明が戻る。
ゲル大佐は、しばらくモニターを見つめていた。
そこには、水に濡れたプリティミューが映っている。
小さな科学少女。
未熟で、口が悪く、危なっかしい。
だが、倒れない。
「……首領Xは、貴様に何を見ている」
ゲル大佐の呟きは、指令室の機械音に溶けて消えた。
*
駅前広場の騒ぎは、日が完全に落ちるころにはようやく収まり始めた。
救急隊と警察が到着し、体調を崩した人たちは駅ビル内や救急車へ運ばれていった。イベント運営のテントは封鎖され、大型ビジョンも停止している。
プリティミューはその前に姿を消していた。
ミユは、駅ビル裏の非常階段で変身を解除した。
制服はところどころ濡れている。
左腕には、かすり傷の痕が残っていた。
胸の奥も、まだ少し痛い。
けれど、立って歩ける。
それだけで、今日は十分だった。
メグは駅ビルの外で待っていた。
彼女も濡れていた。
眼鏡には水滴が残っている。
髪も少し乱れている。
それでも、手にはスマホとノートがある。
「先輩」
「メグちゃん」
二人は、しばらく黙って向かい合った。
聞きたいことは、たくさんあるはずだった。
さっきのプリティミュー。
さっきの声。
さっきの言葉。
けれど、メグは今日も聞かなかった。
代わりに、静かに言った。
「腕、大丈夫ですか」
ミユは少しだけ目を丸くした。
「……うん。大丈夫」
「本当ですか」
「たぶん。ちょっと痛いけど」
「それは大丈夫ではありません」
「メグちゃん、チェック厳しい」
「先輩が雑なので」
「それ、刺さるなあ」
「すみません」
「いや、今のは普通に刺さっていいやつ」
メグは少しだけ笑った。
それから、スマホを操作する。
「事件ログ、更新します」
「もう?」
「早い方がいいです。変な噂が広がる前に、危険情報だけは整理しておきたいので」
「……うん」
ミユは横から画面を覗いた。
メグは、いつものように慎重な文体で書いていく。
《真冬のホウジュ区に発生した異常熱波は、怪人による毒性反応だった可能性が高い》
《イベント会場で配布・誘導されていた診断アプリの利用は避けてください》
《悪意ある投稿の拡散には注意してください》
《言葉は、誰かを刺す針になる》
《でも、誰かを止める手にもなる》
ミユは、その最後の二行を見て黙った。
雨ではない水滴が、まだ髪から落ちてくる。
冷たい。
でも、嫌な冷たさではなかった。
「……メグちゃん、文章うまいんだよなあ」
メグは画面を見たまま答えた。
「先輩のツッコミよりは刺さりにくい文章を心がけています」
「それ、今ちょっと刺さった」
「すみません。修正しますか」
「いや、そのままでいい。たぶん、そのくらいは刺さった方がいい」
メグは、少しだけ目を細めた。
「先輩」
「何?」
「全部の言葉を避けるのは、無理だと思います」
「うん」
「でも、どの言葉を受け取るかは、少し選べると思います」
ミユは、駅前広場を見た。
さっきまで赤い熱に包まれていた場所は、今は冬の夜に戻りつつある。濡れた石畳に街灯の光が反射し、通行止めの黄色いテープが風に揺れていた。
消せない言葉はある。
残る棘もある。
それでも、その全部で自分が変えられてしまうわけではない。
ミユは小さくうなずいた。
「……うん。そうだね」
メグは投稿を送信した。
画面に《投稿しました》と表示される。
ミユはそれを見て、少しだけ笑った。
*
アイン科学研究所では、ミユはまた検査椅子に座らされていた。
水に濡れた制服は、研究所に置いてあった謎の乾燥装置で半ば強引に乾かされた。原理は説明されたが、ミユには半分もわからなかった。
左腕にはセンサー。
胸部にもセンサー。
額にもセンサー。
ミユは不満げに椅子へ沈み込んでいる。
「今回、精神的にも物理的にも疲れてるんだけど」
「だから測定している」
「そういうところだよ、アイン」
アインはモニターを見ながら、いつものように楽しそうだった。
「今回のキミは、戦闘出力よりも言語反応の変化が興味深い」
「また人のメンタルをデータにしてる」
「キミは怒りで出力を上げるが、怒りを抑えた時にも別の出力が出る」
「何それ」
「たぶん、ヒーローっぽいやつ」
「雑!」
「専門用語で言うと長くなる」
「じゃあ雑でいい!」
ワトソンが端末の上で尻尾を揺らした。
「ミユさん。今回は、よく言い返さずに耐えました」
ミユは目を瞬いた。
「猫型AIに褒められた……」
「褒めています」
「素直に嬉しいのが悔しい」
「喜んでよいと思います」
「ワトソンは優しいなあ」
「ただし、途中まではかなり挑発に乗っていました」
「優しさが急に精密射撃になる!」
アインが笑った。
「でも、最終的には踏みとどまった。そこは評価していい」
「アインまで普通に褒めると怖いんだけど」
「失礼だな。ボクは結果が良ければ褒める」
「じゃあ危険手当も褒めて」
「報告書提出後に処理する」
「また報告書!」
「今回は『言語刺激に対する反応』の項目を追加しておいた」
「絶対長くなるやつ!」
ミユは天井を仰いだ。
疲れている。
本当に疲れている。
でも、前回とは違う疲れだった。
今回は、怪人を倒したことよりも、倒すまでに自分が何を言いかけて、何を飲み込んだかの方が胸に残っている。
言い返したかった。
刺し返したかった。
でも、刺し返しても終わらないことがある。
それを、ほんの少しだけ知った。
ワトソンが静かに言った。
「ミユさん」
「何?」
「刺さった言葉が残る場合は、無理に抜こうとしなくてよいと思います」
ミユはワトソンを見た。
「そうなの?」
「はい。抜こうとして触り続けると、傷が広がることがあります。まずは、それが刺さっていると認識することが重要です」
「……それ、医学?」
「猫型AI的な一般論です」
「便利な一般論だなあ」
ミユは少しだけ笑った。
「でも、ありがと」
ワトソンは、静かに瞬きをした。
*
その夜。
暗い研究室に、赤い光が灯っていた。
ジョーカー帝都支部の奥深く。
通常の指令室とも、怪人待機室とも違う場所。
壁には、透明な保存ケースが並んでいる。
《J-01 スパイダー》
《J-02 ノクターンバット》
《J-03 ヴェノムスコーピア》
それぞれのケースの中に、敗北した怪人たちの残骸が収められていた。
蜘蛛の外殻片。
黒い翼膜。
超音波器官。
そして、新たに運び込まれた、折れた毒針片。
黒い手袋をした人物が、無言でケースを開けた。
ピンセットで毒針片を持ち上げる。
毒針は折れている。
だが、死んではいなかった。
赤い光が、内部でゆっくり脈打っている。まるで、まだ誰かの悪意を吸っているかのように。
黒い手袋の人物は、小さな標本ケースにそれを収めた。
ラベルが貼られる。
《J-03 ヴェノムスコーピア/毒針片・敗北データ回収予定》
ケースの蓋が閉じた。
ロック音。
赤い光が、ケースの中で一瞬だけ強くなる。
低い機械音が、部屋の奥から響いた。
モニターには、プリティミューの戦闘映像が映っている。
毒に刺され、膝をつき、それでも立ち上がる小さな科学少女。
黒い手袋の人物は、映像を停止した。
プリティミューがハンマーを振り抜く瞬間で、画面が止まる。
その人物の声が、暗がりに落ちた。
「怒り、恐怖、悪意。反応は順調」
次のケースが、空のまま用意されている。
ラベルはまだ貼られていない。
「次は、欲望か」
暗い研究室の中で、毒針片が赤く光った。
それは、消えたはずの棘が、まだどこかに残っていることを告げる光だった。
真冬のホウジュ区に、冷たい夜が戻ってくる。
けれど、ジョーカーの実験は、まだ終わっていなかった。




