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第6節 ― 冷たい水と、折れない名前

 薄い。


 その言葉が、ミユの胸の奥で何度も響いていた。


 あなたの正義、ずいぶん薄いのね。


 薄い。

 軽い。

 浅い。

 見せかけ。

 自分に酔っているだけ。

 嫌われたくないだけ。

 怖いくせに、ヒーローのふりをしているだけ。


 教室の床に膝をついたまま、ミユは呼吸をしようとした。


 息が入らない。


 周りでは、クラスメイトたちがこちらを見ている。

 顔は知っているはずなのに、ひとりひとりの輪郭がぼやけている。口だけがやけにはっきりしていて、その口から、赤い針みたいな言葉がこぼれてくる。


「本当にヒーロー?」

「助けたいんじゃなくて、助けた自分が好きなんでしょ?」

「怖いならやめればいいのに」

「正体隠してるくせに、友達とか言うんだ」

「嘘つき」


 嘘つき。


 その言葉だけが、他の針より深く刺さった。


 違う。


 そう言いたい。


 でも、喉が動かない。


 ミユは自分の両手を見た。


 制服の袖。

 変身していない手。

 普通の女子高生の手。


 この手で何ができるのか。

 プリティミューになれば、怪人を殴れる。ハンマーを振れる。走れる。跳べる。


 でも、言葉は止められない。


 見られることも、言われることも、嫌われることも、怖がられることも。


 怖い。


 怖い。

 見られたくない。

 悪く言われたくない。

 正体を知られたくない。

 メグに、嘘つきだと思われたくない。


 なのに、秘密にしている。


 その矛盾が苦しくて、ミユは膝をついたまま動けなかった。


 教室の窓の外に、赤いサソリの影が映っている。


 その尾針が、ゆっくりと自分の心臓へ向けられる。


「ほら」


 レイディスコーピオンの声が、教室中のスピーカーから流れるように響いた。


「あなたは刺される側に回ると、何も言えない」


 ミユは唇を噛んだ。


「……うるさい」


「その声では、誰にも届きませんわ」


「うるさい……!」


「怒鳴ればいい。いつものように、言い返せばいい。そうすれば、その言葉もまた針になる。あなたが振り回してきた軽い言葉と同じように」


 ミユは顔を上げた。


 教室の奥に、メグが立っている。


 けれど、こちらを責めるような目ではなかった。


 毒の幻覚の中で、彼女だけが少し違って見えた。輪郭は揺れている。それでも、眼鏡の奥の目は、いつものメグの目だった。


「先輩」


 声がした。


 遠い。


 でも、確かに聞こえる。


「全部の言葉に勝たなくていいです」


 ミユは、震える息を吸った。


「でも……刺さるんだけど!」


 声が出た。


 情けないくらい、泣きそうな声だった。


「めちゃくちゃ刺さるんだけど! 無視しろって言われても、無理じゃん! 見えてるし! 聞こえてるし! 言われたら普通に痛いし!」


 メグは、一歩近づいた。


 幻覚の教室で。

 あるいは、現実の駅前広場で。


「刺さっても、先輩の名前は変わりません」


 ミユは瞬きをした。


「名前……?」


「はい」


 メグの声は、まっすぐだった。


「誰かが何かを言っても、先輩が何を怖がっても、先輩の名前は変わりません」


 ミユの胸の奥で、何かが小さく揺れた。


 朝倉ミユ。


 それは、プリティミューの正体を隠すための名前ではない。

 変身する前の自分だけの名前でもない。


 怖がっている自分。

 怒っている自分。

 失敗する自分。

 友達を助けたい自分。

 ツッコミを間違える自分。

 何も言えなくなる自分。


 全部ひっくるめて、朝倉ミユだ。


 プリティミューになっても、消えない名前。


 ミユは、膝の上に置いた手を握った。


 教室の床が揺れる。


 赤いサソリの影が、少し薄くなった。


「先輩」


 今度の声は、はっきり現実から聞こえた。


「聞こえますか!」


     *


 駅前広場。


 プリティミューは、膝をついたまま顔を上げた。


 視界はまだ赤く揺れている。

 胸の装甲には、レイディスコーピオンの毒針が突き刺さった痕が残っている。身体の中は熱く、心臓の音がうるさい。


 けれど、完全には沈んでいない。


 メグが背後にいる。


 制御端末の前で、予備端末と仮設キーボードをつなぎ、必死に画面を見ている。


「先輩、聞こえるなら返事してください!」


「……聞こえてる」


 プリティミューは、ハンマーを支えにしながら立ち上がった。


 膝が笑う。


 それでも立った。


「めちゃくちゃ聞こえてる。あと、めちゃくちゃ刺さってる」


「それは困ります」


「ほんとにね!」


 言い返した瞬間、少しだけ息がしやすくなった。


 レイディスコーピオンの表情が、わずかに変わる。


「まだ立つの?」


「立つよ」


 プリティミューは、ハンマーを握り直した。


「座ってたら、もっと言われそうだし」


「まあ。まだ強がる余裕がおありなのね」


「強がりでも、立てるなら使う!」


 大型ビジョンには、相変わらず赤い投稿が流れている。


《まだ立った》

《根性ある?》

《いや無理してるだけ》

《さっきの子のため?》

《友達アピール続行》

《痛そう》

《でも撮れ高ある》


 投稿がまた、毒針の形を取り始める。


 だが、その動きはさっきより少し遅い。


 メグが端末を操作しながら叫んだ。


「先輩、わかりました! 熱波装置と大型ビジョンが連動しています!」


「どういうこと!?」


「匿名コメントが大型ビジョンに送られると、会場内の熱波装置が反応しています。悪意ある投稿ほど温度が上がって、温度が上がるほど毒が強くなる仕組みです!」


「性格が悪い永久機関!」


「はい、かなり性格が悪いです!」


 メグの手元で、画面が赤く点滅している。


 制御端末には、会場全体の温度分布が表示されていた。広場中央が真っ赤に染まり、ステージ、大型ビジョン、仮設テントの足元に熱源が集中している。


 ワトソンの声が通信に入った。


《ミユさん、毒の活性化には温度が関係しています。会場温度を下げれば、毒針の出力は落ちます》


「温度を下げるって、どうやって!?」


《駅前広場には消火用散水設備があります。イベント会場の仮設電源と連動しているため、制御端末から起動可能です》


 メグがすぐに言った。


「散水設備、こちらから起動できます。でも、ロックがかかっています」


《解除キーを送る》


 アインの声が割り込んだ。


《バイト君、散水設備を利用しろ。ミュー・ハンマーに冷却衝撃を乗せる》


「また変な新技!?」


《名前はミュー・クーリングブレイク》


「今回はまあまあわかりやすい!」


《採用ということでいいね》


「仮採用!」


《では、仮採用技として登録する》


「登録しなくていい!」


 いつものやり取りができる。


 それだけで、ミユは少し自分を取り戻した。


 レイディスコーピオンは、その様子を面白くなさそうに見ていた。


「水? 冷却? 随分と野暮なことを考えますのね」


「野暮で結構!」


 プリティミューは、ミュー・ハンマーを構えた。


 ハンマーの先端が展開する。

 ピンク色の外装の内側に、銀色の冷却ユニットがせり出し、白い霜のような光がまとわりつく。


 じゅっ、と音がした。


 熱い空気の中で、冷気が小さく白く煙る。


 メグが端末に解除キーを打ち込む。


「散水設備、ロック解除……できます!」


「やって!」


「はい!」


 メグが実行キーを押した。


 一瞬、何も起きなかった。


 次の瞬間。


 駅前広場の周囲に設置された防災用ノズルが、一斉に開いた。


 高い位置から、水が噴き出す。


 最初は細い線のように。

 すぐに霧になり、雨になり、広場全体へ降り注いだ。


「わっ!」


「水!?」


「冷たっ!」


「何これ、スプリンクラー!?」


 人々のざわめきが変わる。


 怒鳴り声が、驚きの声に変わる。

 熱で赤くなっていた顔に、冷たい水滴が落ちる。

 大型ビジョンの下で立ち尽くしていた人々が、我に返ったように周囲を見回す。


 熱波が揺らいだ。


 赤く濁っていた空気が、水の膜に洗われる。


 石畳から白い蒸気が上がった。


 レイディスコーピオンの装甲にも水滴が落ちる。


 彼女は顔を歪めた。


「私の毒を、水で薄めるつもり?」


「うん」


 プリティミューは、ハンマーを構えたまま言った。


「熱くなりすぎた頭は、冷やした方がいいから!」


 レイディスコーピオンの目が鋭くなる。


「小娘が」


 それまで優雅だった声に、初めて露骨な怒りが混じった。


「人の毒を、わかったような顔で語らないでくださる?」


「わかんないよ!」


 プリティミューは叫んだ。


 言葉は強かった。

 けれど、それは刺すための強さではなかった。


「わかんないから止めてるの! 誰かのこと全部わかったふりして、勝手に刺して、勝手に燃やして、それで何が残るの!」


 レイディスコーピオンの尾が、激しくしなる。


 水に濡れた赤い尾針が、怒りに反応するように巨大化していく。

 節の一つ一つが膨らみ、毒の光が脈打つ。


 大型ビジョンの悪意ある投稿が、最後の力で赤く燃え上がった。


《偽善》

《目立ちたいだけ》

《友達ごっこ》

《弱い》

《嘘つき》

《正義が薄い》


 それらが集まり、巨大なサソリの尾の形を作る。


 レイディスコーピオンは両腕を広げた。


「ならば受けなさい。これが、あなたに向けられた本音ですわ」


 巨大な尾が、赤い光をまとってプリティミューへ迫る。


 プリティミューはハンマーを握った。


 怒鳴り返したい。


 うるさい。

 黙れ。

 勝手なこと言うな。

 あんたこそ何様だ。


 いくらでも言葉は浮かぶ。


 でも、喉元まで出かかった言葉を、ミユは飲み込んだ。


 刺し返すための言葉では、また毒になる。


 ミユは、レイディスコーピオンを見た。


 濡れた赤黒い装甲。

 怒りに歪んだ美しい顔。

 どこか人間の女性に似た表情。


 ふと、思った。


 この怪人は、最初から毒だったのだろうか。


 誰かを刺すために生まれたのだとしても。

 その前に、誰かに刺されたことはなかったのだろうか。


 ミユは低く言った。


「……あんた、たぶん誰かにずっと刺されてきたんでしょ」


 レイディスコーピオンの動きが、一瞬止まった。


「何を――」


 そのわずかな隙に、プリティミューは踏み込んだ。


「だからって」


 ミュー・ハンマーに、冷却光が集まる。


 白い光。

 水滴を凍らせるほどではない。

 けれど、熱を奪い、毒の赤を薄める光。


「他の人を刺していい理由にはならない!」


 巨大な尾針が振り下ろされる。


 プリティミューは逃げなかった。


 ハンマーを振り上げる。


「ミュー・クーリングブレイク!」


 白い衝撃が、尾針とぶつかった。


 赤い毒光と、白い冷却光が広場中央で激突する。

 空気が震え、水滴が一瞬だけ宙に浮いたように見えた。


 次の瞬間、尾針にひびが入る。


 ぱきん。


 小さな音。


 それが、広場中に響いた。


 ひびは一気に広がり、巨大なサソリの尾を根元から砕いた。赤い毒の光が白い霧へ変わり、熱波が水に溶けるように薄れていく。


 レイディスコーピオンが後退する。


「私の針が……!」


「まだ終わってない!」


 プリティミューは、濡れた石畳を蹴った。


 水しぶきが上がる。


 装甲の傷は残っている。

 胸の奥には、まだ言葉の針が刺さっている。


 でも、立てる。


 刺さっても、名前は変わらない。


 プリティミューはミュー・ハンマーを両手で構えた。


 大型ビジョンには、まだ赤い投稿が流れようとしていた。だが、水と冷却で、文字は乱れ、針の形を保てなくなっている。


 レイディスコーピオンは、なおも笑おうとした。


「いい気にならないで。あなたの言葉だって、誰かを刺して――」


「刺すこと、あると思う」


 プリティミューは遮った。


 ただし、怒鳴らなかった。


「私のツッコミ、きつい時あると思う。笑わせるつもりで、誰かを傷つけることもあるかもしれない」


 その声に、広場のざわめきが少し静まった。


 メグも、端末の前でプリティミューを見ている。


 プリティミューは続けた。


「でも」


 ハンマーの先に、ピンクと白の光が重なる。


「ツッコミは、人を刺すためにあるんじゃない!」


 ミュー・ハンマーが大きく展開する。


 冷却された空気の中で、ピンクの光が花火のように弾けた。


「ズレたものを、戻すためにあるんだよ!」


 レイディスコーピオンの目が見開かれる。


 その表情には、怒りだけではない何かが混じっていた。


 驚き。

 痛み。

 ほんの一瞬の、ためらい。


 プリティミューは踏み込んだ。


 濡れた石畳を滑りそうになりながら、それでも体勢を立て直す。

 ハンマーを肩の上まで振り上げる。


「プリティ・デトックスインパクト!」


 ミュー・ハンマーが、レイディスコーピオンの胸部装甲を捉えた。


 ピコッ。


 相変わらず間の抜けた電子音が鳴る。


 けれど次の瞬間、広場全体に白とピンクの衝撃波が広がった。


 毒を洗い流すような光。


 熱を冷ますような風。


 レイディスコーピオンの身体が大きく吹き飛ばされる。

 赤黒い装甲から毒の光が剥がれ、細かな粒子となって散っていく。


 彼女はステージ脇の装飾パネルに叩きつけられた。


 同時に、大型ビジョンの赤い投稿が一斉に乱れた。


《偽善》

《嘘つき》

《弱い》

《目立ちたいだけ》


 文字がほどける。


 赤い針の形を失い、ただの光のノイズになって消えていく。


 画面が一度、真っ白になった。


 それから、通常のイベント案内画面へ戻る。


《冬の温活フェス》


 だが、その文字もすぐに停電のように消えた。


 広場に残ったのは、水の音だった。


 散水設備から降る冷たい水。

 石畳を流れる水。

 人々が我に返って息をつく音。


 プリティミューは、ハンマーを下ろした。


 足元がふらつく。


「……勝った、かな」


《レイディスコーピオンの毒性反応、大幅低下》


 ワトソンの声がした。


《ただし、活動反応はまだ残っています》


「つまり、まだ油断するなってことね」


《はい》


 プリティミューは、ステージ脇で倒れたレイディスコーピオンを見た。


 赤い毒の光は弱まっている。


 それでも、彼女の尾針の根元には、まだ小さな赤い光が残っていた。


 終わりきってはいない。


 けれど、毒の熱はもう広場を支配していなかった。


 ミユは水に濡れた前髪を手で払った。


 視線の先で、メグがこちらを見ている。


 メグは小さく、でも確かにうなずいた。


 刺さっても、名前は変わらない。


 その言葉が、まだ胸の中に残っていた。

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