第5節 ― 毒舌対決、プリティミュー炎上す
視界が赤く揺れていた。
駅前広場の人波。
大型ビジョンの光。
汗ばんだ顔。
スマホを構える手。
逃げようとしている人と、怖いもの見たさで立ち止まっている人。
その全部が、熱に溶けてにじんで見える。
ミユは左腕を押さえた。
制服の袖は裂けている。
その下の皮膚に、細い赤い傷があった。
ただのかすり傷のはずだった。
なのに、傷口から流れ込んだ熱は、腕だけでなく胸の奥まで広がっていく。心臓が速い。呼吸が浅い。頭の奥で、誰かの声が何度も跳ね返る。
見られるのが怖いのね。
レイディスコーピオンの声。
その通りだった。
怖い。
ミユは怖かった。
怪人が怖い。
痛いのが怖い。
正体がバレるのが怖い。
それ以上に、見られて、好き勝手に言われるのが怖い。
「先輩!」
メグの声がした。
その声で、ミユはどうにか意識をつなぎ止めた。
メグは人混みの中で、拡声器を握ったままこちらへ駆け寄ろうとしている。けれど、広場は混乱し始めていた。熱と毒で苛立った人々が、出口へ向かう流れと、怪人を見ようとする流れでぶつかっている。
「下がって!」
ミユは叫んだ。
声がかすれていた。
「でも――」
「いいから!」
叫んだ瞬間、自分の声の鋭さにミユ自身が傷ついた。
違う。
メグを責めたいわけじゃない。
なのに、言葉がうまく出ない。
熱が頭にのぼる。
焦りが声を尖らせる。
心配が怒鳴り声になる。
レイディスコーピオンが、ステージの上で美しく笑った。
「まあ。優しい子ほど、よく刺さる」
ミユは唇を噛んだ。
《バイト君》
μブレスレットから、アインの声が聞こえた。
《毒の拡散が速い。変身しろ。今の状態で長く動くのは危険だ》
「わかってる……!」
《人目を気にしている余裕はない》
「それも、わかってる!」
わかっている。
わかっているのに、足がすくむ。
ここは駅前広場だ。
隠れる場所なんてほとんどない。
人も多い。
カメラもある。
スマホもある。
けれど、このままではメグも、周囲の人たちも巻き込まれる。
ミユは歯を食いしばった。
「メグちゃん!」
ミユはメグに向かって叫んだ。
「人を駅ビル側に逃がして! 私は、ちょっと裏に回る!」
メグは一瞬だけ目を見開いた。
それから、何かを察したようにうなずく。
「はい!」
聞かない。
今は、聞かないでいてくれる。
それがありがたくて、胸が痛かった。
ミユは広場の端へ走った。
足元がふらつく。
毒の熱で膝が笑う。
息を吸うたび、喉の奥が乾いて焼ける。
それでも、走る。
イベント会場の裏手には、スタッフ用の搬入口があった。赤いテントの裏。段ボール箱。飲料ケース。折りたたみ椅子。仮設電源のケーブル。
人目を避けるには、そこしかない。
ミユは搬入口の陰に飛び込んだ。
背後では、レイディスコーピオンの声が広場に響いている。
「逃げてもよろしいのよ。隠れてもよろしいのよ。だって、怖いものは怖いですものね」
その言葉に、周囲のざわめきが重なる。
「さっきの子、怪人に狙われてた?」
「逃げた?」
「撮れた?」
「誰か動画上げて」
「プリティミュー来ないの?」
「正義の味方なら早く助ければいいのに」
言葉が、背中に刺さる。
ミユは袖をまくった。
μブレスレットが、熱の中で白く光っている。
ミユは深く息を吸った。
呼吸が震えていた。
「……やるしかないじゃん」
《変身シークエンス、起動可能です》
ワトソンの声がした。
《ミユさん、毒の影響で心拍が上昇しています。無理は――》
「無理する仕事でしょ、これ」
《否定できません》
「じゃあ、行く」
ミユは左手首を掲げた。
「サイエンスパワー・メイクアップ!」
光が走った。
白とピンクの粒子が、熱を裂くように広がる。
制服が光に包まれ、科学少女の装甲へと組み替わっていく。胸元のエンブレムが点灯し、ブーツが仮設床を踏みしめる。
ミュー・ハンマーが手の中に形成される。
可愛らしい形。
場違いなほど明るいピンク。
でも、今のミユには、その重みが少しだけ頼もしかった。
科学少女プリティミューは、搬入口の陰から広場へ飛び出した。
その瞬間、シャッター音が鳴った。
一つではない。
いくつも。
「プリティミューだ!」
「出た!」
「今、裏から来なかった?」
「近い近い!」
「撮って撮って!」
スマホが一斉に向けられる。
ミユは一瞬、足を止めそうになった。
見られている。
顔は見えないはず。
正体は隠れているはず。
でも、視線は装甲を貫く。
自分の動き、声、立ち方、迷い。
その全部を見られている気がする。
大型ビジョンの片隅に、SNSの投稿が流れ始めた。
《プリティミュー来た》
《近くで見るとちっさ》
《またピコハン》
《動き必死すぎ》
《本当にヒーロー?》
《税金でやってんの?》
プリティミューは思わず叫んだ。
「税金じゃない! 時給制!」
叫んだ直後、自分でもしまったと思った。
周囲から笑いが起きる。
「時給制なんだ!」
「今の撮った?」
「切り抜き確定」
「バイトヒーローじゃん」
「かわいい」
「いや、かわいそう」
大型ビジョンに、すぐ新しい投稿が流れる。
《税金じゃない時給制w》
《プリティミュー、労働者だった》
《時給いくら?》
《怪人退治でバイト代出るの草》
ミユの頬が熱くなる。
毒のせいか、恥ずかしさのせいか、わからない。
レイディスコーピオンはステージの上で口元を押さえた。
「ほら、刺さっているでしょう? 人の言葉は、針より深く入るのですわ」
「うるさい!」
プリティミューはミュー・ハンマーを構えた。
「人の言葉を勝手に武器にするな!」
「あら。言葉はもともと武器ですわ。私が少し、形を整えて差し上げているだけ」
レイディスコーピオンの尾針が赤く光る。
同時に、大型ビジョンに流れていた投稿が、赤い文字になって浮かび上がった。
それらは画面から剥がれるように立体化し、細い針の形へ変わっていく。
《ちっさ》
《ダサい》
《本当にヒーロー?》
《目立ちたいだけ》
《正体誰?》
《ヤラセ?》
文字の毒針が、プリティミューへ飛んだ。
「っ!」
ミユはハンマーを振るって弾いた。
ピコッという電子音が鳴り、いくつかの針が砕ける。
だが、全部は弾けない。
細い針が肩に、腕に、脚に当たる。装甲に傷はほとんどない。けれど、内側に響く。
痛い。
物理的な痛みではない。
胸の奥がきゅっと縮むような、嫌な痛みだった。
《バイト君、挑発に乗るな。相手は言語刺激を毒に変換している》
アインの声が飛ぶ。
「じゃあ黙って殴ればいいの!?」
《それも一案だけど、今回は周囲の市民がいる》
「最悪!」
《しかも、君が強い言葉を返すほど、毒性反応が増す》
「私の主武装、ハンマーじゃなくてツッコミなんだけど!?」
《だから相性が悪いと言った》
「もっと早く、もっと優しく言って!」
レイディスコーピオンが笑う。
「まあ、賑やか。あなた、本当に刺しがいがありますわ」
彼女はステージから跳んだ。
赤いヒールが石畳を蹴る。
信じられない速度で距離を詰めてくる。
プリティミューは反射的にハンマーを振った。
だが、身体が重い。
毒で体温が上がりすぎている。
視界の端が熱で揺れて、距離感がずれる。
ハンマーは、レイディスコーピオンの肩をかすめただけだった。
「甘い」
鋏状の腕部装甲が、プリティミューのハンマーを受け流す。
尾が横から迫る。
プリティミューは身をひねって避けた。
尾針が地面をかすめ、石畳が赤く焼ける。
「危なっ!」
「戦場でかわいい悲鳴ですこと」
「かわいくない!」
「その格好で言う?」
レイディスコーピオンが笑った瞬間、周囲の投稿がまた針になる。
《その格好で言う?》
《ピンクで怒ってるの草》
《かわいくないは無理ある》
《必死すぎ》
針が飛ぶ。
プリティミューはハンマーで叩き落とした。
「いちいちコメント拾うな!」
「あなたが反応してくださるから、拾いやすいのですわ」
「その作戦名、長いしダサい!」
「ヴェノム・ヒート・キャンペーンのことかしら?」
「そう、それ!」
「でも、あなたの技名も大概ではなくて?」
「それは私も思ってる!」
《バイト君、敵に同意するな》
「だって事実!」
言えば言うほど、周囲の空気が熱くなる。
人々のスマホが光る。
投稿が増える。
大型ビジョンが赤く点滅する。
レイディスコーピオンの尾針が、さらに鋭く光る。
ミユはようやく気づいた。
これは、会話ではない。
餌を与えている。
自分の言葉が、相手の毒を強くしている。
黙らなきゃ。
そう思うのに、黙れない。
怒りが喉まで上がってくる。
恥ずかしさが、言い返したい気持ちに変わる。
怖いから、強い言葉で押し返したくなる。
プリティミューはハンマーを握りしめた。
広場の端では、メグがまだ避難誘導を続けていた。
「駅ビル側へ移動してください! 診断アプリは閉じてください! 画面を見続けないでください!」
メグの声は、少し枯れている。
それでも、はっきり届いていた。
同時に、彼女は予備端末を操作している。
避難誘導をしながら、投稿の発生源を追っているのだ。
ミユは一瞬だけそちらを見る。
メグはステージ裏に設置された制御端末へ近づいていた。大型ビジョンや診断アプリ、会場内の温風装置を管理しているらしい仮設システムだ。
彼女の目が画面を走る。
「……匿名コメントの一部が、大型ビジョンに直接同期してる」
メグは小さく呟いた。
「表示じゃなくて、増幅装置……?」
指先がキーボードに触れる。
その瞬間、レイディスコーピオンの目がメグを捉えた。
「あら」
声が、急に冷たくなった。
「あなた、また余計なことをしているのね」
尾針がメグへ向く。
ミユの心臓が跳ねた。
「メグちゃん!」
レイディスコーピオンは微笑む。
「あなたも刺してあげる。親切な子ほど、折れると綺麗なの」
赤い尾針が伸びた。
速い。
メグは反応できない。
プリティミューは考えるより先に飛び出した。
身体が熱で重い。
視界が揺れる。
それでも、足は動いた。
メグと尾針の間に、プリティミューは滑り込む。
「させるか!」
尾針が、プリティミューの胸部装甲に突き刺さった。
装甲が火花を散らす。
衝撃が身体の中心へ入る。
「ぐっ……!」
《ミユさん!》
ワトソンの声が割れる。
《毒性反応、急上昇!》
ミユはメグを背に庇ったまま、膝をついた。
尾針そのものはすぐ引き抜かれた。
だが、何かが残った。
熱ではない。
もっと冷たいもの。
心の奥に、細い針を刺し込まれたような感覚。
広場の音が遠ざかる。
スマホのシャッター音。
大型ビジョンの投稿。
人々のざわめき。
すべてが、ゆっくりと溶けていく。
気がつくと、ミユは教室にいた。
*
宝珠南高校の教室。
夕方の光。
机。
黒板。
窓際のカーテン。
でも、何かがおかしい。
全員が、ミユを見ていた。
クラスメイトたちが、スマホを持っている。
画面にはプリティミューの動画。
ミユは制服姿だった。
変身していない。
でも、みんなの目は知っている。
知っていて、見ている。
「プリティミューって、目立ちたいだけでしょ?」
誰かが言った。
別の誰かが笑う。
「友達を助けたのも、自分に酔ってるんじゃない?」
「正義の味方って言われたいだけじゃん」
「本当は怖いくせに」
「怖いならやめればいいのに」
「でも、やめたら助けられないんでしょ?」
「かわいそう」
「かわいそうって言われるの、好きそう」
言葉が、四方から飛んでくる。
ひとつひとつは、刃物ほど大きくない。
でも、細い。
細くて、数が多い。
ミユは耳をふさごうとした。
手が動かない。
机の間に立ったまま、身体が固まっている。
教室の後ろに、メグが立っていた。
メグもこちらを見ている。
その顔は、いつものメグではない。
悲しそうで、少しだけ遠い。
「先輩」
メグが言う。
「私のこと、本当に友達だと思ってますか?」
ミユの息が止まった。
「思ってる」
すぐに答えたかった。
でも、声が出ない。
秘密にしている。
嘘をついている。
ごまかしている。
それでも友達だと言えるのか。
自分の中の迷いが、言葉を塞ぐ。
メグの姿が、少しずつ遠ざかる。
「先輩は、いつも大事なことを隠します」
「違う……」
ようやく声が出た。
けれど、かすれていた。
「違うの。言えないだけで……」
「言えないことと、言わないことは違いますか?」
その言葉は、メグの声で、メグではない誰かが言っていた。
ミユは足元を見る。
床に、赤いサソリの影が広がっている。
教室の窓に、レイディスコーピオンの笑顔が映る。
「あなたの正義は、誰かに褒めてもらわなければ立てないのかしら」
「違う……」
「あなたの優しさは、自分が傷つきたくないだけではなくて?」
「違う!」
「本当に?」
教室中の視線が、ミユに突き刺さる。
「本当にヒーロー?」
「本当に友達?」
「本当に助けたいの?」
「本当は、自分が嫌われたくないだけでしょ?」
ミユは膝をついた。
息ができない。
胸が痛い。
涙が出そうなのに、出ない。
全部が熱い。
でも、心の奥だけが冷えている。
違うと言いたい。
でも、少しだけ当たっている。
嫌われたくない。
怖がられたくない。
普通のままでいたい。
でも、助けたい。
その全部が自分の中にある。
どれが本物なのか、わからなくなる。
*
現実の駅前広場で、プリティミューは膝をついていた。
ハンマーを支えにして、かろうじて倒れずにいる。
メグが背後から声をかける。
「先輩! 聞こえますか、先輩!」
その呼び声も、今のミユには遠い。
レイディスコーピオンは、赤い尾針をゆっくり持ち上げた。
大型ビジョンには、毒を帯びた投稿が流れ続けている。
《プリティミュー膝ついた》
《負けそう》
《やっぱ弱い?》
《さっきの子かばった?》
《友達アピール?》
《正義薄くない?》
レイディスコーピオンは、プリティミューの前に歩み寄った。
赤いヒールが、石畳を叩く。
こつん。
こつん。
彼女は膝をついたプリティミューを見下ろし、甘く囁いた。
「あなたの正義、ずいぶん薄いのね」
その言葉が、最後の毒針のように、ミユの胸の奥へ沈んでいった。




