表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
25/56

第4節 ― 温活イベントと、赤い尾針

 放課後のチャイムが鳴っても、宝珠南高校の熱気は引かなかった。


 むしろ、日が傾き始めたぶん、校舎の中にこもった空気は逃げ場を失っている。廊下の窓は開けられているのに、流れ込んでくる風は冷たくない。冬の夕方なら、制服の袖口から入り込む空気に肩をすくめるはずなのに、今日は頬に触れる風まで、誰かのため息みたいにぬるかった。


 ミユは鞄を肩にかけながら、教室の出口で足を止めた。


 廊下の向こうに、メグが立っていた。


 いつも通り、眼鏡をかけ、ノートを抱えている。

 けれど、その表情はいつもより硬い。


 無理もない。


 昼休み、メグのスマホに届いた《VENOM QUEEN》からのメッセージ。


《あなたの大好きな科学少女は、あなたを本当に友達だと思っているのかしら?》


 あの一文は、まだミユの胸にも残っていた。


 自分に向けられた言葉ではない。

 けれど、刺さっている。


 秘密を抱えている側だからこそ、何も言えなくなる。

 友達だよ、と言えば言うほど、隠していることが重くなる。


 ミユはメグの前まで歩いていった。


「……行くの?」


 メグはうなずいた。


「はい。駅前広場を確認します」


「一人じゃなくて?」


「先輩と一緒に」


「そこはよし」


「ただし、危険だと判断したら撤退します」


「それもよし」


「でも、危険だと判断するまでは確認します」


「そこはちょっとよくない」


 メグは、少しだけ口元を緩めた。


「前回の反省を生かしています」


「前回の反省って、夜の怪しいワゴンに近づかないとかじゃないの?」


「それもあります」


「それが一番大事だよ」


「今回は昼です」


「そういう問題じゃない!」


 ミユのツッコミに、廊下を通りかかった生徒がちらりと見る。


 ミユは慌てて声を落とした。


「とにかく、危なかったらすぐ逃げる。いい?」


「はい」


「本当に?」


「はい」


「メグちゃんの『はい』、たまに契約書の小さい文字みたいな抜け道あるから怖いんだけど」


「今回はありません」


「今回はって言った」


 メグは眼鏡を押し上げた。


「ただ、何もしないとは言っていません」


「ほら!」


「先輩。前回の反省は、一人で危ないところへ行かないことです。何もしないことではありません」


 言い返せなかった。


 正論だった。


 そして、今のミユには、正論が少し痛い。


 けれど、それは昼間の教室で感じた刺々しい痛みとは違った。メグの言葉は、ミユを責めるためではなく、前へ進むために置かれている。


 だから、ミユは小さく息を吐いた。


「……わかった。でも、無茶したら本気で怒るからね」


「はい。先輩もです」


「私も!?」


「はい」


「後輩が対等に怒ってくる」


「友達なので」


 さらりと言われて、ミユは一瞬だけ固まった。


 友達。


 その言葉は、昼休みのメッセージの毒を少しだけ薄めた。


 ミユが何も言えずにいると、メグは少し不思議そうに首を傾げる。


「先輩?」


「……いや。なんでもない」


「顔が変です」


「変って言わないで」


「すみません。照れてます?」


「さらに言わないで!」


 ミユは慌てて歩き出した。


 メグはその隣に並ぶ。


 二人は校門を出て、駅前広場へ向かった。


     *


 ホウジュ駅前広場は、明らかに冬ではなかった。


 空は夕方の淡い青を残している。駅ビルの壁面には薄いオレンジ色の光が反射し、通勤客や学生たちが行き交っていた。


 けれど、広場に近づくにつれて、空気が変わる。


 肌にまとわりつく熱。

 アスファルトから立ち上がる揺らぎ。

 冬服を着た人々の額に浮かぶ汗。


 広場の中央には、白と赤のテントが並んでいた。


《冬の温活フェス》

《冷え性改善キャンペーン》

《美肌温活》

《ストレス診断》

《あなたの本音を可視化します》


 いかにも駅前イベントらしい明るい看板。

 ホットドリンクの試飲。

 無料診断ブース。

 美容系のサンプル配布。

 大型ビジョンには、笑顔の女性モデルが映っている。


 普通に見れば、少し怪しいけれど、まあありそうなイベントだった。


 若い女性たちが足を止めている。会社帰りらしい人たちもいる。高校生のグループもいる。温活という言葉に惹かれたのか、年配の女性も並んでいた。


 だが、広場全体を覆う熱気は不自然だった。


 ミユはブレザーの襟元を引っ張った。


「暑……何これ。温活っていうか、もう煮込み」


 メグはスマホで気温を確認している。


「広場内の温度投稿、三十二度まで上がっています」


「冬の駅前で三十二度は、温めすぎでしょ」


「しかも周辺道路は十四度です」


「局地的すぎる」


 ミユは周囲を見回した。


 イベントスタッフらしい人たちが、赤い腕章をつけて客を案内している。笑顔は丁寧だが、どこか均一で、マニュアルの通りに口角だけを上げているようにも見えた。


 テントの一つに、大きなQRコードが掲げられている。


《公式アプリで無料診断》

《あなたの隠れた本音をチェック》

《相性診断・ストレス診断・本音診断》


 メグは立ち止まり、看板を見上げた。


「先輩。アプリ、かなり怪しいです」


「見た目からして怪しいけどね」


「一応、確認します」


「入れるの!?」


「本端末には入れません。検証用の予備端末です」


 メグは鞄から古いスマホを取り出した。


 ミユは目を丸くする。


「そんなの持ち歩いてるの?」


「怪しいアプリを直接メイン端末に入れるのは危険です」


「怪人事件ログ管理者、装備がガチ」


「前回、眠らされかけましたので」


「あ、ごめん」


「謝らなくていいです。反省が装備になっただけです」


 それは冗談のようで、少しだけ本気だった。


 ミユは何も言えなくなる。


 メグはQRコードを読み取り、アプリを起動した。


 画面に、赤いサソリのロゴが一瞬だけ表示される。


 それから、甘い色の診断画面に切り替わった。


《あなたの心を温める本音診断》

《質問に答えるだけで、あなたの隠れた感情を可視化します》


 ミユは横から覗き込んだ。


「可視化しなくていい感情ってあると思うんだけど」


「同意します」


 最初の質問が表示される。


《あなたが一番負けたくない相手は?》


 メグの眉が動いた。


「……変です」


「どう変なの?」


「自分の悩みを聞いているようで、誰かと比べさせる質問ばかりです」


 次の質問。


《その人が失敗したら、少し嬉しいですか?》


 さらに次。


《あなたが本当は嫌いな友達は?》


 ミユは顔をしかめた。


「何この性格の悪い心理テスト!」


 周囲では、同じアプリを試している人々が少しずつざわつき始めていた。


「え、これ当たってるかも」


「やだ、私そんなこと思ってないし」


「でも、ちょっとわかる」


「本音って怖いね」


「ねえ、これ誰の名前入れた?」


「言うわけないじゃん」


「え、私のことじゃないよね?」


 会話が、少しずつ湿り気を帯びていく。


 笑っているのに、目が笑っていない。

 軽い冗談のはずなのに、声の奥に棘がある。


 昼間の教室と同じだ。


 ただ、規模が違う。


 ここでは、広場全体が教室になっている。


 大型ビジョンの画面が切り替わった。


《あなたの本音を、もっと自由に》

《言えなかった一言を、ここで吐き出しましょう》


 画面の下部に、匿名投稿が流れ始める。


《あの子ばっかり褒められるの、正直うざい》

《親友のふりって疲れる》

《頑張ってる人を見ると、自分が責められてる気がする》

《正義の味方って、結局目立ちたいだけじゃない?》


 ミユの胸が、きゅっと縮んだ。


 最後の一文だけ、妙に刺さった。


 正義の味方。


 自分に向けられているわけではない。

 そう思いたい。


 でも、広場のどこかで、プリティミューの話をしている人の声が聞こえた。


「ほら、あのピンクの子のことじゃない?」


「プリティミュー?」


「正義の味方とか言ってるけど、どうせ目立ちたいだけでしょ」


 ミユの足が止まる。


 喉が渇いた。


 暑さのせいだけではない。


 メグがすぐにミユを見た。


「先輩」


「大丈夫」


 反射的に言った。


 でも、あまり大丈夫な声ではなかった。


 その時、会場の温度が急に上がった。


 まるで、見えないドームの中に閉じ込められたようだった。

 熱が上から降ってくる。地面からも立ち上がる。息を吸うだけで、喉の奥が乾く。


 人々の顔が赤くなっていく。


 額に汗。

 荒い息。

 苛立った目。


 列に並んでいた女性が、前の人に声を荒げた。


「並んでたの私なんだけど!」


「え、さっき抜けたじゃないですか」


「飲み物取りに行っただけでしょ!」


「じゃあ最初から並び直してくださいよ!」


 別の場所では、学生らしい二人が言い争っている。


「ちょっと可愛いからって何?」


「そんなこと言ってないじゃん」


「言ってる顔だった!」


「顔まで文句言われるの!?」


 会社員の男性が、同僚らしい女性に向かって苛立った声を出す。


「だから君は、いつもそうやっていい子ぶるんだよ」


「今それ関係あります?」


「関係あるだろ。全部そうだろ」


 広場全体が、少しずつ荒れていく。


 熱と苛立ちが混ざって、空気そのものが赤く濁る。


 メグはスマホを握りしめた。


「先輩、これ以上上がると、本当に熱中症が出ます」


「うん。わかってる」


 ミユは左手首に触れた。


 μブレスレットが熱い。


 いつでも変身できる。


 でも。


 人が多すぎる。


 周囲には、スマホを構えている人がいる。大型ビジョンもある。イベントスタッフもいる。駅前には防犯カメラもある。


 ここで変身したら、確実に見られる。


 いや、見られるだけでは済まない。

 撮られる。

 拡散される。

 解析される。


 プリティミューがどこから現れたのか。

 直前に誰がいたのか。

 制服はどこの学校か。


 宝珠南高校。

 朝倉ミユ。


 その線が、繋がってしまうかもしれない。


 ミユの指先が震えた。


 変身しなければ、誰かが危ない。

 でも、ここで変身したら日常が壊れる。


 まただ。


 また、この選択だ。


 メグが小声で言った。


「先輩、ここは私が人を避難させます」


「は?」


 ミユは思わず振り返った。


「何言ってるの。危ないから下がって」


「人が多すぎます。このままだと先輩が動けません」


「だからってメグちゃんが前に出る理由にはならない!」


「あります」


 メグの声は震えていなかった。


「私は、プリティミューではありません。でも、情報を見て、危ないと判断することはできます。人を逃がす声を出すこともできます」


「メグちゃん」


「前回、私は助けられるだけでした」


 その言葉に、ミユは息を呑んだ。


 メグは広場を見ている。


 怖くないわけがない。

 顔色は白い。

 手も、少し震えている。


 それでも、彼女は逃げていなかった。


「今回は、できることをします」


 ミユは止めようとした。


 しかし、メグはもう動いていた。


 広場の案内板の前へ走り、係員用の拡声器が置かれたテーブルに近づく。スタッフらしき人物が止めようとするより早く、メグは拡声器を手に取った。


「すみません!」


 思ったより大きな声が広場に響いた。


「会場内の気温が危険域まで上がっています! 体調の悪い方は、広場外へ移動してください! 水分補給をしてください! 診断アプリは一度閉じてください!」


 ざわめきが起きる。


「何?」


「スタッフ?」


「高校生じゃない?」


「でも暑いのは本当だよね」


 メグは続ける。


「駅ビル側の通路は比較的気温が低いです! お子さんや高齢の方を先に移動させてください! 押さないでください!」


 その声に、何人かが動き始めた。


 完全ではない。

 全員が従うわけではない。


 それでも、流れができる。


 立ち尽くしていた人々の何人かが、広場の外へ向かった。

 具合の悪そうな女性を、別の人が支える。

 学生グループの一人が「こっち行こう」と友人を引っ張る。


 メグの声は、刺す言葉ではなかった。


 混乱をほどくための声だった。


 ミユは、その背中を見て拳を握った。


「……ほんと、強いな」


 その時。


 こつん。


 音がした。


 ヒールが、石畳を叩く音。


 こつん。


 もう一度。


 人々のざわめきの中で、その音だけがやけにはっきり聞こえた。


 広場の空気が、すっと割れる。


 人混みの奥から、赤と黒の影が現れた。


 高いヒール状の脚部装甲。

 黒い外殻。

 赤く光る尾針。

 髪のように揺れる毒針の房。

 美しく、刺々しい笑顔。


 レイディスコーピオン。


 彼女は、温活イベントの中央に設置された赤いステージへ、ゆっくりと歩いていく。


 逃げ始めていた人々が、その姿を見て足を止める。


 怪人だ。


 誰かがそう叫ぶ前に、彼女は両腕を広げた。


「ようこそ、毒の温室へ」


 声が、広場全体に染み込んだ。


 大型ビジョンの画面が赤く変わる。

 サソリの紋章が浮かび上がる。


 レイディスコーピオンは、うっとりと笑った。


「皆さま、よく温まっていらっしゃるわ。怒りも、嫉妬も、不安も、比較も。ほら、どれも新鮮で、とてもよい香り」


 ミユは歯を食いしばった。


「やっぱり怪人……!」


 μブレスレットに手をかける。


 だが、その瞬間、周囲の視線を感じた。


 逃げかけていた人。

 スマホを構える人。

 大型ビジョンを見上げる人。

 泣きそうな子ども。

 怒りで顔を赤くした人たち。


 ここで変身すれば、全部見られる。


 それでも。


 レイディスコーピオンの尾針が、ゆっくりとメグの方を向いた。


 ミユの身体が先に動いた。


「メグちゃん、下がって!」


 メグが振り返る。


 その一瞬の隙に、レイディスコーピオンはミユを見た。


 赤い瞳が、楽しげに細まる。


「あら」


 彼女は、まるで待っていたように笑った。


「変わらないの?」


 ミユの手が、ブレスレットの上で止まる。


 レイディスコーピオンの声は甘かった。


 甘いのに、毒がある。


「かわいそう。見られるのが怖いのね」


 ミユの胸に、鋭いものが刺さった。


 図星だった。


 否定したい。

 でも、否定できない。


 レイディスコーピオンはステージから一歩踏み出した。


 その動きは速くない。

 なのに、目を離せない。


「大丈夫。皆さま、見ていますわ」


 彼女の尾が弧を描く。


「あなたが何を隠して、何を怖がって、誰の前で立ち止まるのか」


 ミユは咄嗟に後ろへ下がった。


 だが、遅い。


 赤い尾針が、空気を切った。


 ミユの左腕をかすめる。


「っ――!」


 鋭い痛み。


 制服の袖が裂け、肌に細い赤い線が走った。


 ただのかすり傷。


 そう思った直後、熱が入り込んできた。


 傷口から、血ではなく火が流れ込んだみたいだった。

 腕が熱い。

 心臓が跳ねる。

 視界の端が赤くにじむ。


 ミユは膝をつきかけた。


「先輩!」


 メグの声が聞こえる。


 でも、遠い。


 広場のざわめきが膨らむ。


「今の子、狙われた?」

「何してるの?」

「逃げなよ」

「もしかして、知り合い?」

「なんであの子だけ?」


 言葉が、熱に混ざって耳へ流れ込んでくる。


 全部が刺さる。


 全部が、自分を見ている。


 ミユは左腕を押さえた。


 μブレスレットが、袖の下で激しく光っている。


《バイト君、応答しろ》


 アインの声が通信に入る。


《毒性反応を検知。体温上昇、心拍増加。変身を推奨する》


「わかってる……!」


 声が、うまく出ない。


 レイディスコーピオンは、赤い尾針をゆっくり持ち上げた。


「さあ、小さな科学少女」


 その声が、ミユの耳元で直接囁くように響いた。


「刺されたまま、隠れていられるかしら?」


 ミユの視界が揺れる。


 広場の光がにじみ、赤いサソリの紋章が、空いっぱいに広がっていくように見えた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ