第3節 ― ジョーカー帝都支部、灼熱の刺客
ジョーカー帝都支部の指令室は、地下にある。
地上の季節が夏でも冬でも、そこには基本的に関係がない。
分厚いコンクリートの壁。
空調管理された機械室。
赤と黒の照明。
壁一面に並ぶ監視モニター。
悪の秘密基地としては、それなりに快適な環境が保たれている――はずだった。
だが、その日の指令室は暑かった。
じっとりとした熱気が、床から這い上がってくる。
冷却ファンは回っている。空調も稼働している。なのに、空気が重い。悪の組織らしい黒い制服を着た戦闘員たちは、誰も口には出さないが、明らかにいつもより動きが鈍かった。
中央指令卓の前で、ゲル大佐は胃薬の袋を破っていた。
破り方が、少し荒い。
会議卓の上には、またしても分厚い報告書が積まれている。
《J-02 ノクターンバット作戦 敗北検証および観測成果報告》
表紙の文字だけで、胃が痛くなる。
ゲル大佐は黒い軍服風のコートの襟元を少し緩め、無言で水を飲んだ。悪の幹部としての威厳は保っている。だが、胃薬の回数だけは確実に増えていた。
「……二連敗か」
低く呟く。
蜘蛛男。
蝙蝠伯爵。
どちらも、作戦としては完全な無駄ではなかった。プリティミューの戦闘能力、精神反応、正体秘匿への執着、友人救出時の出力上昇。得られたデータは多い。
だが、現場指揮官としては、怪人が二体連続で敗北したという事実が重い。
ゲル大佐は報告書をめくった。
ページの半分以上が、プリティミューの行動解析だった。
《対象:プリティミュー》
《変身判断:友人救出を優先したことにより発動》
《出力変動:友人危機状態で二十二パーセント上昇》
《使用武装:ミュー・ハンマー》
《備考:技名に対する本人の不満が確認された》
ゲル大佐は最後の備考欄を睨んだ。
「なぜ本人の不満まで報告書に入っている」
横に立っていた戦闘員42号が、両手に抱えた資料の山を少し持ち直した。
「分析班いわく、発言傾向も戦闘スタイルの一部だそうです」
「戦闘スタイルに文句が含まれる時代か」
「プリティミューさん、けっこう文句を言いながら戦いますので」
「知っている。見ていた」
ゲル大佐は、こめかみを押さえた。
42号は気まずそうにしながら、さらに別の資料束を指令卓に置いた。
どさり、と音がする。
ゲル大佐の眉が動いた。
「それは何だ」
「プリティミュー関連投稿の分析資料です」
「何ページある」
「紙版だと百二十六ページです」
「紙にするな!」
「すみません。会議用にと言われまして」
「誰がそんなに読みたがる!」
「首領Xが……」
ゲル大佐は黙った。
言葉を飲み込む。
首領Xの名前が出た以上、文句は言えるが否定はできない。
42号は端末を操作し、中央モニターにグラフを表示した。
プリティミュー関連投稿数。
動画再生数。
切り抜き拡散率。
好意的コメント。
嘲笑的コメント。
正体推測。
ピコピコハンマー関連語。
最後の項目だけ、妙に伸びている。
「大佐、プリティミュー関連投稿、前回比二百四十パーセント増です」
「なぜ怪人の敗北より、ピコピコハンマーの話題の方が伸びているのだ……」
「武器の見た目と威力の落差が、拡散向きだったようです」
「我々は何と戦っているのだ」
「プリティミューさんと、SNSアルゴリズムですかね」
「後者の方が厄介に聞こえるな」
ゲル大佐は大きく息を吐いた。
モニターには、一般人の投稿が流れている。
《ピンクの子、また出た》
《あのハンマー何》
《見た目かわいいのに戦い方ガチ》
《泥臭いの好き》
《正体、宝珠南の子って噂ある?》
《ヤラセじゃないの?》
《怪人よりプリティミューのバイト代が気になる》
ゲル大佐は眉間を押さえる。
「バイト代の話まで広がっているのか」
「本人が現場で言っていましたので」
「小娘め。悪の組織より労働条件の方を印象づけるとは」
「ある意味、現代的ですね」
「褒めるな」
42号はすぐに姿勢を正した。
「失礼しました」
その時だった。
指令室の温度が、さらに一段上がった。
空調の風が止まったわけではない。
むしろ冷風は出ている。
それなのに、熱い。
空気の中に、目に見えない赤い粉が混ざったような、ざらついた熱。
戦闘員たちが一斉に周囲を見回す。
指令室の奥、暗い通路から、硬い音が響いた。
こつん。
こつん。
ヒールが床を打つ音だった。
蝙蝠伯爵の杖の音とは違う。
もっと鋭く、もっと高く、もっと人を見下ろすような音。
赤い照明が、通路の奥から順に灯る。
その光の中から、彼女は現れた。
黒と赤の装甲。
脚部は高いヒールのように細く、だがその先端は金属の爪めいて床を捉えている。腰から背にかけて、節のある尾が弧を描いて持ち上がり、先端には赤く濡れたような毒針が光っていた。
腕の外側には細い鋏状の装甲。
肩から背中にかけて、サソリの外殻を思わせる黒い装甲が重なっている。
髪のように揺れるものは髪ではない。
赤黒い細い感覚器がいくつも束になり、歩くたびに毒針の房のように揺れていた。
顔は、完全な怪物ではなかった。
人間の女性の面影がある。
整った輪郭。
美しい唇。
長い睫毛に似た黒い外殻。
だが、その笑顔は甘くない。
笑っているのに、刺す。
美しさそのものに毒を混ぜたような怪人だった。
戦闘員たちが、思わず道を空ける。
彼女は指令室の中央へ進み、ゲル大佐の前で優雅に腰を折った。
「ごきげんよう、大佐」
声は艶やかだった。
だが、聞いた後に舌の奥がしびれるような声だった。
「次はこの私が、あの小娘の心を刺して差し上げますわ」
ゲル大佐は彼女を見下ろし、重々しく名を呼んだ。
「レイディスコーピオン」
彼女は微笑む。
「はい。ジョーカーが誇る、毒針の淑女にございます」
42号が小声で呟いた。
「自己紹介の圧が強い……」
ゲル大佐が横目で睨む。
「42号」
「すみません」
レイディスコーピオンは気にした様子もなく、中央モニターへ視線を向けた。プリティミュー関連投稿のグラフを見て、唇を吊り上げる。
「あら、よく育っておりますわね」
「何がだ」
「視線ですわ」
レイディスコーピオンは、鋭い指先でモニターをなぞる。
「好意。嘲笑。憧れ。嫉妬。疑念。比較。正体探し。どれも柔らかくて、まだ熱い。毒を回すには、ちょうどよい土壌です」
ゲル大佐は腕を組んだ。
「今回の作戦目的を確認する」
「承っておりますわ」
「市民の感情を毒で増幅し、プリティミューを人前に引きずり出す。単純な破壊ではない。対象が群衆の視線と社会的悪意に晒された時、どのように判断するかを観測する」
「ええ。殴る、蹴る、吹き飛ばす。それだけでは、女の子は壊れませんもの」
レイディスコーピオンは楽しげに笑った。
「人は、見られることで削れます。比べられることで熱を持ちます。褒め言葉でさえ、角度を変えれば針になる。『可愛いね』は『可愛くなければ価値がない』に変わる。『頑張ってるね』は『もっと頑張れ』に変わる。『正義の味方』は『失敗したら許されない』に変わる」
42号は資料を抱えたまま、少し黙った。
指令室の戦闘員たちも、何となく言葉を失っている。
ゲル大佐は苦い顔をした。
「口上が長い」
「美しい毒には前置きが必要ですの」
「作戦時間を守れ」
「もちろん」
レイディスコーピオンは微笑んだまま、尾針をゆっくり揺らした。
「ただし、大佐。毒は急がせると、味が落ちますわ」
「味など求めていない。成果を求めている」
「成果ならば、ご心配なく」
彼女はモニターに表示された《VENOM QUEEN》のアカウントを指差した。
「すでに、教室の空気には毒が回り始めております。駅前の熱源も順調。大型ビジョン、温活イベント、診断アプリ、匿名相談SNS。どこからでも刺せますわ」
「市民に過度な被害は出すな」
「まあ」
レイディスコーピオンは、わざとらしく目を丸くした。
「悪の組織の幹部とは思えない、優しいお言葉」
「現場管理だ。死者が出れば隠蔽コストが跳ね上がる」
「現実的ですこと」
「貴様の毒は強すぎる。制御を誤れば、作戦どころではない」
ゲル大佐の声が低くなる。
「プリティミューの観測が目的だ。市民全体を暴走させることではない」
レイディスコーピオンは、わずかに笑みを薄くした。
「承知しております。殺しはいたしません。ただ、少しだけ本音を温めるだけ」
「それが危険だと言っている」
「本音は、もともと危険なものですわ」
その時、指令室の照明が一段落ちた。
モニターのすべてが、一瞬だけ黒く染まる。
戦闘員たちが一斉に姿勢を正した。
ゲル大佐も、すぐに中央モニターへ向き直る。
黒い画面の中央に、白い仮面のアイコンが浮かび上がった。
首領X。
指令室の熱気が、不思議なほど冷たく感じられた。
「ゲル大佐」
「はっ、首領X」
ゲル大佐が深く頭を下げる。
レイディスコーピオンも、優雅に膝を折った。
「ご機嫌麗しゅう、首領X」
首領Xの仮面は、何も変わらない。
だが、見ている。
この場の全員が、それを感じていた。
「プリティミューは、友人救出を選んだ」
首領Xの声が流れる。
「正体秘匿よりも、他者防衛を優先した。前回の観測で、それは確認された」
「はっ」
「次は、群衆の視線と悪意の中で、彼女が何を守るかを観測せよ」
ゲル大佐は顔を上げた。
「群衆の視線、でありますか」
「日常圏における戦闘は、物理的障害だけでは成立しない。注目、評価、嘲笑、疑念。それらは変身者の行動を制限する」
モニターに、プリティミューの映像が映る。
廃劇場の屋上で戦う姿。
非常階段に叩きつけられる姿。
メグを支える姿。
そして、SNS投稿の波が重ねられる。
好意的な言葉。
否定的な言葉。
無責任な推測。
笑い。
期待。
それらが、プリティミューの映像の上に、針のように降り注いでいく。
「彼女は、まだ未完成だ」
首領Xは言った。
「恐怖を知っている。羞恥を知っている。怒りに反応する。友人には強く反応する。ならば、群衆に対してはどうか」
「首領X」
ゲル大佐は慎重に言った。
「プリティミューを撃破する機会があるなら、逃すべきではないと考えます」
「撃破は、最終目的ではない」
即答だった。
ゲル大佐は言葉を飲む。
まただ。
蜘蛛男の時も。
蝙蝠伯爵の時も。
首領Xは、怪人の勝敗よりも、プリティミューが何を選ぶかを見ている。
それは、敵を倒すための観測なのか。
それとも、何かを育てるための観測なのか。
ゲル大佐には、まだわからない。
わからないことが、不愉快だった。
首領Xは続ける。
「レイディスコーピオン」
「はい」
「毒は、殺すためではなく、選択を露出させるために使え」
「心得ております」
「高梨メグへの直接刺激は、過度に行うな。彼女は観測補助因子として有用だ」
レイディスコーピオンの目が、わずかに細くなった。
「補助因子。ずいぶんとお気に入りですのね」
「有用なものを、無駄に壊す必要はない」
「かしこまりましたわ」
その返事には、従順さと、ほんの少しの不満が混じっていた。
ゲル大佐はそれを聞き逃さなかった。
悪の怪人は、命令に従う。
だが、性質までは完全には消せない。
レイディスコーピオンは、刺すことに快楽を覚えるタイプだ。
だからこそ有用であり、だからこそ危険だ。
首領Xの仮面アイコンが、最後に言った。
「良い毒は、反応を明確にする。進め」
「はっ」
ゲル大佐が頭を下げる。
レイディスコーピオンも、赤い尾針をゆっくり揺らして礼をした。
「美しい反応を、お見せいたしますわ」
画面が黒く沈み、仮面のアイコンが消えた。
指令室の照明が戻る。
同時に、熱気も戻った。
ゲル大佐は、ゆっくりと息を吐いた。
「作戦を開始する」
戦闘員たちが一斉に動き出す。
「温活イベント会場、設営完了!」
「大型ビジョンとの同期、開始します!」
「匿名相談SNS《VENOM QUEEN》、拡散率上昇中!」
「駅前広場、局地熱源反応、目標値まであと十二パーセント!」
42号も資料を抱え直した。
「大佐、現場配置に向かいます」
「待て。今回の任務は何だ」
「ええと、市民誘導、機材警備、残骸回収準備、あと暑さ対策です」
「最後が一番切実そうだな」
「はい。戦闘員スーツ、通気性が悪くて……」
「我慢しろ」
「悪の組織にもクールビズが必要だと思います」
「作戦中に労務改善を提案するな」
ゲル大佐はそう言いながら、自分も内心では少し同意していた。
暑い。
かなり暑い。
レイディスコーピオンは、そんな指令室の空気を楽しむように深く息を吸った。
「さあ、大佐。街はもう、温まり始めておりますわ」
「過熱させるなと言ったはずだ」
「ええ。焦がしはしません」
彼女は振り返り、赤い唇で笑う。
「ただ、誰もが少しだけ、自分の中の毒に気づく程度に」
「その程度が信用できん」
「では、大佐はモニターでご覧くださいませ。あの小さな科学少女が、どんな顔で刺されるのか」
ゲル大佐は鋭く言った。
「油断するな。プリティミューは、すでに二体の怪人を退けている」
「存じております」
「奴は未熟だが、土壇場で出力を上げる。感情で動く分、読みづらい」
「だからこそ、毒が効くのですわ」
レイディスコーピオンは、尾針を自分の指先で軽く撫でた。
「怒る子は、よく刺さる。優しい子は、もっと深く刺さる。そして、秘密を持つ子は――」
彼女は、うっとりと目を細めた。
「自分で自分を刺し続ける」
ゲル大佐は黙っていた。
指令室のモニターに、宝珠南高校周辺の映像が映っている。
教室。
廊下。
駅前。
スマホの画面に浮かぶ赤いサソリのアイコン。
そのどこかに、朝倉ミユがいる。
小さな科学少女がいる。
ゲル大佐は、短く命じた。
「行け、レイディスコーピオン。だが忘れるな。今回の作戦目的は観測だ。プリティミューを感情的に追い詰めることは許可する。だが、制御を失えば貴様ごと作戦を中止する」
「まあ、怖い」
レイディスコーピオンは笑った。
「けれど、そういう厳しい殿方も嫌いではありませんわ」
「無駄口を叩くな」
「はいはい」
「返事は一回でいい」
「はい」
42号が小声で呟く。
「大佐、だいぶ扱い慣れてますね」
「慣れたくて慣れたのではない」
レイディスコーピオンは最後にもう一度、指令室の全員を見渡した。
戦闘員たちは、背筋を伸ばす。
何人かは、無意識に喉を鳴らした。
彼女の笑顔には、見ているだけで自分の弱いところを探られるような圧があった。
「それでは皆さま」
レイディスコーピオンは、赤い尾針を高く掲げた。
「灼熱毒針作戦――ヴェノム・ヒート・キャンペーンを始めましょう」
床の赤い照明が、一斉に強く光った。
ホウジュ区の地図上で、駅前広場が赤く点滅する。
温活イベント会場。
大型ビジョン。
診断アプリ。
匿名アカウント。
学校へ広がる刺々しい空気。
すべてが、一本の毒針の先へ収束していく。
レイディスコーピオンは、踵を鳴らして歩き出した。
こつん。
こつん。
指令室の扉が開く。
向こう側には、地上へ向かう輸送リフトが待っていた。赤い装甲の専用車両が起動し、車体側面にサソリの紋章が浮かび上がる。
ゲル大佐はモニターを見つめたまま、低く言った。
「プリティミュー。貴様は、今度は何を選ぶ」
誰に聞かせるでもない言葉だった。
だが、その問いに答えるように、駅前大型ビジョンの映像が切り替わる。
赤いサソリのマーク。
そして、甘く毒を含んだ女の声。
《本音を隠す皆さまへ。今夜、あなたの心を温めて差し上げます》
レイディスコーピオンは、地上へ向かっていく。
真冬のホウジュ区に、毒の熱が広がり始めていた。




