第2節 ― 笑顔の毒は、教室から回る
午後の授業が始まる頃には、教室の暑さはもう「気のせい」で片づけられるものではなくなっていた。
暖房は切られている。
窓も開いている。
廊下側の扉も半分開いている。
それなのに、空気は重かった。
冬の教室特有の、乾いた冷たさがない。代わりに、湿った熱気が床のあたりからじわじわ上がってくる。制服の襟元に熱がこもり、ノートに落ちる手の影まで、どこかぼやけて見えた。
先生も何度かハンカチで額を拭いている。
「えー……今日は、体調が悪い者は無理をしないように。水分補給も許可します。冬場だからといって油断しないように」
教室のあちこちで、ペットボトルのふたを開ける音がした。
ミユも机の横から水筒を取り出し、一口飲む。
ぬるい。
「……水筒の中身まで負けてる」
小さくぼやくと、隣の席のクラスメイトが笑った。
「朝倉、今日ずっと文句言ってない?」
「文句じゃなくて、気候への正式な抗議」
「気候、聞いてくれるかな」
「聞いてくれなかったら労基に言う」
「気候を?」
「季節の労働環境が悪すぎる」
いつもなら、そこで軽く笑って終わるはずだった。
けれど今日は、後ろの席から別の声が飛んだ。
「朝倉って、何でも文句にするよね」
笑い混じりの声だった。
悪意があったかと言えば、たぶん、そこまでではない。
けれど、言葉の先端が妙に尖っていた。
ミユは振り向きかけて、止まった。
今のは、冗談で返していいのか。
それとも、流すべきなのか。
たったそれだけの判断が、いつもよりずっと難しい。
「いや、別にそういう……」
言いかけたところで、別の女子が割って入った。
「でも、朝倉のツッコミってたまにきつくない?」
「え、そう?」
「いや、面白いけどさ。たまに、言われた方ちょっと傷つくやつ」
ミユの胸に、ちくりと何かが刺さった。
そんなつもりはない。
そう言おうとして、言葉が喉に引っかかる。
そんなつもりがなければ、いいのか。
自分が笑いにしたことを、誰かがずっと気にしていた可能性はないのか。
それは、怪人の毒かもしれない。
でも、完全に嘘とも言い切れない。
だから、痛い。
「……ごめん」
ミユが小さく言うと、相手は一瞬、気まずそうな顔をした。
「いや、そんな真面目に謝られると、こっちが悪いみたいじゃん」
「え、いや、そういう意味じゃ」
「ほら、そういうとこ」
空気が、さらに重くなる。
先生が黒板に向かっている間だけ、教室中で小さな棘が動いているみたいだった。
誰かの消しゴムが落ちる。
「ちょっと、拾ってよ」
「自分で落としたんじゃん」
「近いんだからいいでしょ」
「何それ。使いっ走り?」
前の席では、女子二人が髪の話をしていた。
「今日、気合い入ってるね」
言った方は、本当に褒めたつもりだったのだと思う。
少し巻いた髪。
いつもより丁寧に整えられた前髪。
薄いリップ。
それを見て、素直に「いいね」と言いたかっただけ。
けれど、返事は鋭かった。
「いつもは手抜きってこと?」
「え、違う違う。そういう意味じゃなくて」
「じゃあ、どういう意味?」
「似合ってるって意味だよ」
「最初からそう言えばいいじゃん」
「何で怒ってるの?」
「怒ってないし」
怒っている声だった。
周りの数人が、ちらちらとそちらを見る。
見るだけで、誰も止めない。
止めたら、今度は自分に飛んでくるかもしれない。
そんな空気があった。
ミユは立ち上がりかけた。
でも、どう言えばいいのかわからない。
いつものように、
「はいはい、髪型ひとつで裁判開かない!」
とでも言えば、場は笑ってくれるかもしれない。
けれど今は、その言葉も誰かを刺しそうだった。
裁判って何。
私たちが面倒くさいってこと?
また朝倉が茶化してる。
そう受け取られる可能性が、頭の中に浮かんでしまう。
ミユは、結局、椅子に座り直した。
何も言えない。
何か言えば悪くなる気がして、何も言わなければもっと悪くなる気がする。
そのどちらも選べない自分が、ひどく情けなかった。
*
休み時間になっても、教室の空気は戻らなかった。
むしろ、授業という蓋が外れたぶん、ざわつきは大きくなっていた。
誰かが笑う。
別の誰かが、その笑いを自分のことだと思う。
スマホの画面を見せ合う声が、いつもより少し大きい。
陰口ではないはずの言葉が、陰口みたいに聞こえる。
ミユは机に突っ伏した。
「……何これ。教室全体が機嫌悪い」
自分も、少し機嫌が悪い。
暑いせい。
寝不足のせい。
怪人案件かもしれない不安のせい。
でも、それだけではない。
さっき言われた言葉が、まだ胸に残っている。
朝倉のツッコミってたまにきつくない?
軽い一言だった。
なのに、抜けない。
自分の中にあるものを、怪人の毒が増幅しているのだとしたら。
それは、怪人が全部作った感情なのか。
それとも、元々あった小さな棘を、大きくしているだけなのか。
考えれば考えるほど、気持ちが悪くなる。
その時、廊下から控えめな声がした。
「ミユ先輩」
顔を上げると、メグが扉のところに立っていた。
いつものようにきちんとした姿勢。
けれど、顔色が少し悪い。
ミユは立ち上がった。
「メグちゃん。どうしたの?」
「少し、見てほしいものがあります」
声が小さい。
メグは、人前で必要以上に声を落とす子ではない。
むしろ、情報を伝える時ははっきり話すタイプだ。
そのメグが、明らかに周囲を気にしている。
ミユはすぐに鞄からスマホを取り、廊下へ出た。
「何かあった?」
「怪人事件ログです」
メグはスマホを差し出した。
画面には、メグが管理している《ホウジュ区怪人事件ログ》の投稿が表示されていた。
真冬の異常熱波について、目撃情報を整理したもの。
赤いサソリのマークについて、未確認情報として注意を促したもの。
プリティミューについては、正体や個人情報に触れないよう、かなり慎重に書かれている。
文章は冷静だった。
煽っていない。
断定しすぎていない。
危険な噂を広めないように注意している。
それなのに、コメント欄は荒れていた。
《プリティミューの身内気取り?》
《嘘情報流すな》
《正体知ってるなら晒せよ》
《眼鏡の追っかけ、きもい》
《怪人とか言って注目されたいだけだろ》
《こういう考察垢が一番うざい》
《プリティミュー本人だったりしてw》
《学校どこ?》
ミユの手が、じわりと熱くなった。
暑さのせいではない。
「何これ」
声が低くなった。
「匿名なら何言ってもいいと思ってるの?」
メグは、いつものように冷静な顔をしようとしていた。
けれど、スマホを持つ手が小さく震えている。
ミユはそれに気づいた。
胸の奥で、怒りがさらに熱くなる。
「メグちゃん、これ消した方がいいよ。ていうか、通報しよ。全部。まとめて。こういうの本当に――」
「先輩」
メグは小さく言った。
「これ、普通の炎上じゃないです」
ミユは言葉を止めた。
「普通じゃない?」
「はい。コメントの増え方が不自然です。最初は一件、二件だったんです。でも、駅前の気温上昇が始まった時刻とほぼ同時に、攻撃的なコメントが急増しています」
メグは別の画面を開く。
時系列グラフ。
赤い線が、コメント数。
橙色の線が、駅前周辺の温度投稿数。
二つの線は、気味が悪いほど似た動きをしていた。
「投稿のタイミングと、駅前の気温上昇が連動してます」
「……何それ」
「さらに、攻撃的なコメントが増えると、その周辺地点で体調不良の投稿も増えています」
メグは淡々と言う。
でも、声は少し震えている。
怖いのだ。
怖いのに、分析している。
ミユはそのことに、また胸が痛くなった。
「メグちゃん、無理しなくていいから」
「無理はしています」
「正直」
「でも、必要です」
メグは画面を見つめたまま言った。
「わたしが怖いと思ったものを、怖いからって見ないことにしたら、たぶん次はもっと怖くなります」
その言葉は、メグ自身にも向けられているようだった。
廃劇場の夜。
白いワゴン。
オルゴールの音。
あれを経験して、それでもこの子は見ようとしている。
ミユは、怒りと心配と、少しの尊敬が混ざった気持ちで息を吐いた。
「……だからって、傷ついていいわけじゃないでしょ」
「はい」
「はいって」
「傷ついてはいます」
メグは眼鏡を押し上げた。
指先が、まだ少し震えていた。
「でも、傷ついていることと、間違っていることは別です」
ミユは何も言えなくなった。
その通りだ。
その通りすぎて、何も言えない。
廊下の奥では、別のクラスの生徒たちがスマホを見ながら騒いでいる。
「また《VENOM QUEEN》来た!」
「やば、これうちの学校のことじゃない?」
「誰のこと?」
「絶対あの子でしょ」
「えー、でも本人見たら泣きそう」
「泣けばいいじゃん」
笑い声。
それが、ひどく耳障りだった。
ミユはスマホを握りしめた。
「アインに連絡する」
メグが一瞬、ミユを見た。
「先輩」
「大丈夫。場所変える」
ミユは廊下の端、非常階段へ向かった。
メグもついてくる。
階段の踊り場は、教室より少しだけ涼しかった。
それでも、冬の空気ではない。
ミユは袖で左手首を隠しながら、μブレスレットを軽く叩いた。
「アイン、聞こえる?」
数秒のノイズ。
それから、いつもの声が返ってきた。
《聞こえているよ、バイト君。授業中の通信は校則違反では?》
「休み時間!」
《なら問題ないね。労働基準法上は休憩時間に業務連絡を入れるのは微妙だけど》
「雇用主側がそれ言う!?」
《ボクは雇用主ではなく研究責任者だ》
「もっと悪い!」
いつものやり取り。
少しだけ安心する。
でも、状況は安心できない。
「ホウジュ区の異常熱波と、SNSの荒れ方、何かわかる?」
《ちょうど解析していたところだ》
アインの声が、少しだけ真面目になる。
《ホウジュ区一帯に、微弱な生体毒反応と熱源反応を検知している。特に駅前広場、宝珠南高校周辺、旧北口商店街入口の三地点で反応が強い》
「生体毒反応?」
《蜘蛛男の糸や蝙蝠伯爵の音波器官とは別系統だね。今回は化学物質に近い。ただし通常の毒物ではない。感情反応に同期して活性化するタイプだ》
ミユは眉をひそめた。
「感情反応に同期って……つまり、イライラすると毒が強くなるってこと?」
《かなり乱暴に言えばそう》
「乱暴じゃない言い方だと?」
《人間のストレス反応、体温上昇、攻撃的言語刺激、SNS上の拡散速度が、同一の増幅場に接続されている可能性がある》
「ごめん、乱暴な方でいい」
アインは少し楽しそうに言った。
《バイト君、今回は殴れば終わるタイプじゃないかもしれない》
「毎回それ言ってない?」
《毎回本当だからね》
「毎回違う面倒くささ出してくるの、悪の組織として努力の方向性がおかしい!」
メグが横から小さく言った。
「アインさん、SNS投稿そのものが毒の媒体になっている可能性はありますか」
《ある。誰かな、今の冷静な質問は》
「高梨メグです」
《ああ。夜の観測者ちゃんか》
メグの眉が少し動いた。
「その呼び方は不本意です」
《なら仮称を変えよう。怪人事件ログの管理者》
「それなら許容範囲です」
「そこ許容するんだ」
ミユは思わず突っ込んだ。
アインは続ける。
《投稿文そのものに毒性があるというより、投稿を見た人間の反応を起点に毒が広がっている。言葉が針になる、という表現が近いかな》
「言葉が針……」
ミユは、さっきの教室を思い出した。
今日、気合い入ってるね。
いつもは手抜きってこと?
軽い冗談。
何気ない一言。
いつものツッコミ。
全部が、いつもより尖っていた。
《バイト君》
「何」
《挑発に乗りやすいキミには、相性が悪い相手かもしれない》
「今それ、地味に刺さったんだけど」
《事実だよ》
「事実で刺すのやめて!」
メグが少しだけ笑った。
その笑いは弱かったけれど、ちゃんと彼女のものだった。
ミユはそれを見て、ほんの少しだけ息をつけた。
その時、メグのスマホが震えた。
通知音。
メグは画面を見る。
そして、表情を固めた。
「……先輩」
ミユの胸が嫌な音を立てる。
「何?」
メグはスマホをこちらへ向けた。
ダイレクトメッセージ。
送信者名は、赤いサソリのアイコン。
《VENOM QUEEN》
本文は短かった。
《あなたの大好きな科学少女は、あなたを本当に友達だと思っているのかしら?》
非常階段の踊り場に、沈黙が落ちた。
暑いはずなのに、ミユの指先が冷えた。
メグは画面を見つめている。
唇が、ほんの少しだけ震えていた。
ミユは何か言おうとした。
大丈夫。
そんなの嘘。
気にしないで。
私たちは友達。
どれも、今言うと嘘っぽく聞こえそうだった。
秘密を抱えたまま、友達だと言うことが、急に難しくなる。
言葉が針になる。
アインの言葉が、頭の中で繰り返された。
ミユは、メグのスマホを見つめたまま、静かに拳を握った。
赤いサソリのアイコンは、画面の中で笑っているように見えた。




