第1節 ― 真冬の熱中症注意報
その朝、ホウジュ区には、季節が一つだけずれて届いていた。
暦の上では、まだ冬である。
駅前の街路樹は葉を落とし、通学路の花壇には霜よけのシートがかけられている。コンビニの入口には肉まんとおでんののぼりが立ち、ドラッグストアの店頭にはカイロと保湿クリームが山積みになっていた。
なのに、暑い。
朝倉ミユは、宝珠南高等学校へ向かう坂道の途中で、マフラーを外した。
「……冬って、こんな汗かくイベントだったっけ」
首元にこもっていた熱が、ようやく少し逃げる。
それでも、空気そのものがぬるい。
朝の通学路は、いつもなら冷たい風が制服の袖口から入り込んで、手をポケットに突っ込みたくなる時間帯だ。けれど今日は、冬服のブレザーが罰ゲームみたいに重い。背中にじんわり汗がにじみ、前髪が額に張りつく。
周りの生徒たちも、みんな変な顔をしていた。
「暑くない?」
「暑い。ていうか、気持ち悪い」
「天気予報、今日の最高気温十三度って言ってなかった?」
「駅前の温度計、二十九度だったんだけど」
「バグでしょ」
「いや、バグにしては汗がリアルすぎる」
ミユは心の中で全力でうなずいた。
バグであってほしい。
天気のバグ。
季節のバグ。
世界の設定ミス。
でも、ここ最近の経験からして、こういう変なことはたいてい怪人案件である。
蜘蛛男。
蝙蝠伯爵。
眠らない夜。
廃劇場。
オルゴール。
思い出しただけで、肩のあたりが少し痛くなった。
いや、実際にまだ痛い。
あれから一週間ほど経っているのに、ミユの身体は完全には元に戻っていない。変身すれば戦える。だが、変身解除後の筋肉痛や疲労までは、魔法みたいに消えてくれない。
科学少女なのに、そこは妙に現実的だった。
「……バイトって、もっとこう、レジ打ちとか、品出しとか、そういうのじゃないの」
小さくぼやいた瞬間、左手首のμブレスレットが袖の下でかすかに震えた。
通信ではない。
ただの反応。
まるで、聞こえているぞ、と言われた気がした。
ミユは慌てて袖を押さえた。
「いや、今のは独り言。労働環境への正当な感想であって、職場への反逆ではありません」
誰に言い訳しているのかわからない。
自分で言っていて虚しくなったところで、横から声がした。
「ミユ先輩。朝から労働環境について考えているんですか」
「わっ」
振り向くと、高梨メグがいた。
小柄な体に、きちんと着た制服。
黒縁の眼鏡。
肩にかけた通学鞄。
手には、いつものノートではなく、スマホが握られている。
メグは、ミユの顔をじっと見た。
「今日も顔色、悪いです」
「今日もって言うな」
「でも、事実です」
「朝から後輩に健康診断されるの、けっこう心にくるんだけど」
「睡眠時間は?」
「聞かないで」
「昨夜、何時に寝ましたか」
「それも聞かないで」
「なるほど」
「何がなるほどなの!?」
メグは眼鏡を押し上げた。
その仕草は、いつもより少しだけ遠慮があった。
第2話の事件以来、二人の距離は微妙に変わっている。
メグは、ミユがプリティミューだとほとんど気づいている。
ミユも、メグが気づいていることにほとんど気づいている。
けれど、メグは聞かない。
ミユも言わない。
だから会話は、以前と同じようでいて、ところどころに変な段差ができる。普通の雑談をしているはずなのに、足元に透明な境界線が引かれているみたいだった。
メグはその境界線を踏み越えないように、少し慎重に言った。
「普通の女子高生は、夜中に怪人と戦うと顔色が悪くなるんでしょうか」
ミユは反射的に答えた。
「普通の女子高生は、夜中に怪人と戦わないんだよ」
言ってから、しまったと思った。
メグがじっと見る。
ミユは咳払いした。
「たとえ話!」
「はい。たとえ話ですね」
「その納得の仕方やめて。全然納得してないでしょ」
「しています。たとえ話として記録します」
「記録しないで!」
メグは少しだけ笑った。
その笑顔を見て、ミユは少し安心した。
ちゃんと笑えている。
あの廃劇場で、メグは眠りを奪われかけた。怖い目にも遭った。普通なら、怪人事件なんてもう関わりたくないと思ってもおかしくない。
けれど、メグは今日もここにいる。
ノートを持ち、スマホを握り、相変わらず見ている。
危なっかしい。
でも、頼もしくもある。
その頼もしさが、ミユには少し怖かった。
「それより、先輩」
メグはスマホの画面を見せた。
「これ、見ましたか」
画面には、地域ニュースの速報が表示されていた。
《ホウジュ区駅前で局地的な気温上昇》
《冬場の熱中症に注意》
《原因不明の体調不良、複数報告》
記事には、駅前広場の写真が載っている。
マフラーを外して汗を拭く会社員。
コートを腕に抱えた女性。
自販機の前にできた長い列。
救急隊員に付き添われる高齢者。
ミユは眉をひそめた。
「冬場の熱中症って、文字だけでだいぶ嫌だね」
「昨日の夕方から、駅前だけ気温が上がっているみたいです。深夜には一度下がったんですが、今朝また上がっています」
「気象の問題じゃないの?」
「気象庁の観測データだと、ホウジュ区全体の気温は平年並みです。でも、駅前周辺の個人投稿では、体感温度が二十七度から三十一度になっています」
「個人投稿の温度計って信用できるの?」
「単独なら微妙です。でも、複数地点の投稿が同じ傾向です」
メグは画面を切り替える。
地図上に、赤い点がいくつも打たれていた。
駅前広場。
旧北口商店街入口。
大型ビジョン前。
バスロータリー周辺。
点は、まるで駅前を囲むように広がっている。
「……これ、またアレっぽい?」
ミユが小声で言う。
メグも小声で返した。
「かなりアレっぽいです」
「アレって言うだけで通じるの、嫌すぎる」
「先輩が言い出しました」
「うん……」
その時、前を歩いていた女子二人がスマホを見ながら声を上げた。
「ねえ、プリティミューまたトレンド入ってる!」
ミユの背筋が固まった。
メグが、ほんのわずかにミユを見た。
見ないでほしい。
いや、見ないでくれている。
でも、気づいている。
ミユは首をぎこちなく前に向けた。
女子たちは楽しそうに画面を覗き込んでいる。
「蝙蝠怪人のやつ、別角度の動画出てる」
「え、これ本物?」
「暗すぎてよくわかんないけど、ピンクの子が飛ばされてる」
「飛ばされ方、めっちゃリアルじゃん」
「ていうか戦い方泥臭くない?」
「そこがいいんじゃん。なんか本当に頑張ってる感じする」
「でも武器ピコピコハンマーでしょ?」
「それはダサい」
「いや、可愛いじゃん」
ミユは顔を伏せた。
心臓に悪い。
褒められているような、笑われているような、両方のような。
正体がバレていないのに、まるで自分の服装や走り方や転び方を直接見られているようで、落ち着かない。
プリティミューの動画が広がっている。
前回もそうだった。
でも今回は、少し空気が違う。
蜘蛛男の時は、まだ都市伝説めいた扱いだった。
蝙蝠伯爵の時は、夜の怪異として噂が広がった。
今は違う。
みんなが、プリティミューを「見てもいいもの」として見始めている。
可愛い。
ダサい。
強い。
弱そう。
泥臭い。
ヤラセっぽい。
正体は誰か。
好き勝手な言葉が、ミユの知らないところで増えていく。
メグが静かに言った。
「嫌なら、見なくていいです」
ミユは目を丸くした。
「え?」
「プリティミューの話題です。全部追わなくていいと思います」
「いや、私は別に……」
言いかけて、言葉が止まる。
知らないふりをするには、少し疲れていた。
「……気になるじゃん」
ミユは小さく言った。
「自分のことかもしれないし」
「かもしれない、なんですね」
「かもしれない話です」
「はい」
メグはそれ以上、踏み込まなかった。
その代わり、スマホをしまい、ノートを取り出した。
「ただ、今回はプリティミューの噂だけじゃありません」
「何かあるの?」
「最近、《VENOM QUEEN》という匿名アカウントが拡散されています」
「ベノム……毒?」
「はい。投稿内容は短いです。でも、かなり嫌な刺さり方をします」
メグはノートを開いた。
そこには、赤いペンでいくつかの投稿文が写されていた。
《あの子が褒められると、少しだけ嫌な気持ちになるでしょう?》
《親友の成功を、あなたは本当に喜べていますか?》
《可愛いって言われている子ほど、陰で誰かを見下している》
《優しい人は、優しいふりが上手なだけ》
《本音を隠すくらいなら、毒を吐いた方が綺麗》
ミユは顔をしかめた。
「うわ……性格悪い」
「ただの煽りアカウントなら、無視でいいんです。でも、このアカウントに引用された人たちの周囲で、揉め事が起きています」
「揉め事?」
「友達同士の喧嘩。部活内の対立。バイト先のトラブル。あと、駅前での言い争い」
メグはスマホを再び見せた。
駅前広場で、若い女性二人が言い争っている短い動画。
その後ろで、別の男性が誰かに怒鳴っている。
さらに奥では、暑そうにうちわで顔を扇ぐ人々。
画面の端、大型ビジョンに一瞬だけ赤いマークが映った。
ミユは目を凝らす。
「今の、何?」
メグは動画を巻き戻した。
一時停止。
大型ビジョンの隅に、赤いサソリのような紋章が表示されている。
一瞬だけ。
普通なら見逃す。
でも、メグは見つけていた。
「サソリ……?」
ミユの左手首が、また袖の下で小さく震えた。
今度ははっきりとした警告のようだった。
ミユは息を呑む。
「メグちゃん」
「はい」
「これ、アレだね」
「はい。かなりアレです」
「アレで通じるの、やっぱり嫌だなあ……」
冗談めかして言ったのに、声が少し硬くなった。
メグもそれに気づいたらしく、表情を引き締める。
「放課後、駅前を見に行きます」
「待って」
ミユは即座に言った。
思ったより強い声が出た。
メグが立ち止まる。
通学路の流れの中で、二人だけが一瞬止まった。
周囲の生徒たちが、邪魔そうに横を通り過ぎていく。
ミユは少し声を落とした。
「一人で行かないで」
メグは、しばらくミユを見ていた。
それから、ゆっくりうなずいた。
「はい」
あまりに素直な返事だったので、ミユは逆に戸惑った。
「……ほんとに?」
「はい。前回の件で、反省しました」
「よかった。ちゃんと反省できる子だった」
「でも、調査はします」
「そこは曲げないんだ」
「危ないからこそ、情報が必要です」
メグは真面目な顔で言った。
「ただし、先輩に連絡してから動きます」
それは、約束のようだった。
ミユは少しだけ肩の力を抜いた。
「うん。それなら……まあ、うん」
「先輩もです」
「え?」
「ひとりで危ないところに行かないでください」
ミユは言葉に詰まった。
メグの目は真剣だった。
秘密には踏み込まない。
でも、心配はする。
そういう線引きが、そこにはあった。
ミユは視線をそらしながら言った。
「……努力します」
「努力目標ではなく、約束がいいです」
「後輩が強い」
「先輩が危なっかしいので」
「それ、メグちゃんにだけは言われたくない」
二人は、並んで校門へ向かった。
校門前では、生活指導の先生が汗を拭きながら立っていた。
「今日は暑いから、水分を取るように! 冬服で無理をしない! 体調が悪い人は保健室へ!」
冬の朝に聞くには、あまりに違和感のある注意だった。
ミユは校舎を見上げる。
青い空。
白い校舎。
冬とは思えない熱気。
そのどこかに、赤いサソリの影が入り込んでいる気がした。
*
昼休み。
教室の空気は、朝よりさらに重くなっていた。
暑い。
暖房は切られている。
窓も少し開いている。
それなのに、空気がこもっている。
昼食の時間だというのに、いつもの賑やかさは少し尖っていた。笑い声はある。でも、妙に大きい。誰かの冗談に、別の誰かが過剰に反応する。普段なら流れる一言が、今日は机の角みたいに引っかかる。
ミユはお弁当の唐揚げを箸でつまみながら、ぼんやり窓の外を見ていた。
「暑い……唐揚げはおいしいけど暑い……」
食欲はある。
そこは揺るがない。
ただ、食べているのに疲れる。
隣の席のクラスメイトがスマホを見ながら言った。
「ねえ、また《VENOM QUEEN》流れてきた」
「何それ」
「本音暴露系? なんか当たってるって話題」
「怖いやつ?」
「怖いっていうか、性格悪い。でも見ちゃう」
ミユの耳が反応する。
見ちゃう。
それは、すごくよくわかる言葉だった。
嫌なら見なければいい。
そう言うのは簡単だ。
でも、自分のことが書かれているかもしれない。
自分がどう見られているか知りたい。
怖いのに、画面を閉じられない。
その気持ちは、ミユにもあった。
クラスメイトの一人が、軽い調子で言った。
「これ、プリティミューにも言ってほしいよね。本当は目立ちたいんでしょ、って」
ミユの箸が止まった。
別の子が笑う。
「あー、でもあれだけ派手な格好してたら、目立ちたいんじゃない?」
「いや、格好は本人の趣味じゃないかもよ」
「じゃあ誰の趣味?」
「知らないけど、ピコピコハンマー持たされてる時点でかわいそう」
「かわいそうっていうか、ちょっと面白い」
笑い声。
悪意というほどではない。
たぶん、ただの雑談だ。
でも、刺さる。
小さな針みたいに、ちくちくと。
ミユは唐揚げを口に入れた。
味が、少しわからなかった。
その時、教室の前方にある電子掲示板が一瞬だけ乱れた。
本来なら、午後の連絡事項が表示されている画面。
そこに、赤いサソリのマークが映った。
ミユは目を見開く。
表示はすぐに戻った。
誰も気づいていない。
いや、一人だけ気づいていた。
廊下側の扉の向こうで、メグがこちらを見ていた。
昼休みなのに、わざわざ上級生の教室まで来ている。
その手のスマホ画面にも、同じ赤いマークが表示されていた。
ミユは立ち上がりかけた。
その瞬間、校内放送が入った。
《生徒の皆さんに連絡します。本日、駅前広場で予定されている冬の温活イベントについて――》
放送の声が、そこで一瞬だけ歪む。
女の笑い声が混じった。
《――本音を隠す子には、少しだけ毒が必要ですわ》
ミユの背筋が冷えた。
暑い教室の中で、そこだけ冬に戻ったみたいだった。
放送はすぐに通常へ戻る。
《参加する場合は、帰宅時間に注意し、各自水分補給を心がけてください》
教室がざわつく。
「今、変な声しなかった?」
「したよね?」
「放送事故?」
「温活イベントって駅前のやつ?」
「行ってみる?」
ミユはメグを見た。
メグも、ミユを見ている。
行かない方がいい。
そう思う。
でも、行かなければ、誰かがまた巻き込まれる。
ミユは、そっと左手首を押さえた。
袖の下で、μブレスレットが熱を持っている。
季節外れの熱気の中で、それだけが別の種類の熱だった。
ミユは小さく息を吐く。
「……今度は、サソリか」
教室の笑い声が遠くなる。
唐揚げの味は、もう完全にわからなくなっていた。




