第7節 ― 夜明けに残った秘密
夜明け前の空は、まだ夜の色をしていた。
けれど、完全な闇ではない。
東の端だけが、薄く白んでいる。
黒い紙の端を、誰かが指先で少しずつこすって色を落としているような、かすかな明るさだった。
廃劇場の裏通りには、粉塵が漂っていた。
壊れた看板の破片。
砕けた外壁。
ひび割れた舗装。
非常階段の手すりから落ちた錆。
その中心に、蝙蝠伯爵が片膝をついていた。
黒い燕尾服の外殻は大きく裂け、胸部の装甲にはプリティ・インパクトの衝撃痕が残っている。背中の翼は半分ほど崩れ、黒い布とも肉ともつかない翼膜の縁から、赤紫色の粒子が煙のように漏れていた。
それでも、彼は倒れ伏してはいなかった。
銀の杖を地面に立て、片膝をつきながら、まだ老紳士の姿勢を保っている。
プリティミューは、非常階段から裏通りへ降り立った。
足が少し震えている。
腕も痛い。
落下中に掴んだ手すりの感触が、まだ手のひらに残っていた。
ミュー・ハンマーを構え直す。
蝙蝠伯爵は、ゆっくりと顔を上げた。
赤く光っていた目は、少し暗くなっている。
けれど、その口元には、まだ薄い笑みがあった。
「小さな科学少女」
声は、かすれていた。
けれど不思議と、優雅さだけは失われていなかった。
「あなたは、夜を恐れておりましたな」
プリティミューは、少しだけ黙った。
否定しようと思えば、できた。
ヒーローらしく、怖くなんかないと言うこともできた。
科学少女らしく、あなたの催眠音波の心理干渉に過ぎないと理屈をつけることもできた。
けれど、どちらも違う。
怖かった。
怪人が怖かった。
飛ばされるのが怖かった。
傷つくのが怖かった。
学校のみんなに知られるのが怖かった。
母に知られるのが怖かった。
メグの目が変わるかもしれないのが怖かった。
だから、プリティミューは正直に言った。
「怖いよ。普通に怖い」
蝙蝠伯爵の笑みが、わずかに深くなる。
「ならば、なぜ立つ」
風が裏通りを抜けた。
廃劇場の割れた窓が、かすかに鳴る。
プリティミューは、ハンマーを少し下ろした。
「友達が寝不足になると、あとで面倒だから」
蝙蝠伯爵は、何かを言おうとして――一瞬、止まった。
そして、小さく笑った。
それは、それまでの作り物めいた優雅な笑いではなかった。
もっと疲れていて、もっと人間くさい笑いだった。
「それは……ずいぶんと人間らしい正義ですな」
「うん。たぶん、そんな立派なやつじゃない」
「立派でないものほど、時にしぶとい」
蝙蝠伯爵の身体が、さらに崩れ始めた。
黒い羽根が一枚、肩から剥がれる。
それは地面に落ちる前に、赤紫色の粒子になってほどけた。
続いて、翼の縁が崩れる。
指先が崩れる。
胸元の赤い飾りが割れ、細かな光になって流れていく。
プリティミューは息を呑んだ。
倒した。
そう思った瞬間、胸の奥が少し痛んだ。
相手は怪人だ。
メグをさらった。
たくさんの人の眠りを奪った。
許せない。
けれど、消えていく姿を見て、何も感じないほど、ミユはまだ戦い慣れていなかった。
蝙蝠伯爵は、それを見透かしたように目を細めた。
「その顔も、よい記録になるでしょう」
「記録って言い方、嫌い」
「夜は、すべてを記憶しております」
最後に、彼の胸部から、小さな黒い器官のようなものが弾け落ちた。
蝙蝠の耳の骨にも、奇妙な機械部品にも見える。
超音波を操っていた器官かもしれない。
それと同時に、裂けた翼膜の一部が舗装の上に残った。
蝙蝠伯爵の本体は、黒い羽根と赤紫色の粒子になって、夜明け前の空へほどけていく。
「では、小さな科学少女」
声だけが、最後に残った。
「どうか、よい眠りを」
次の瞬間、蝙蝠伯爵の姿は完全に崩れた。
裏通りには、朝の光に溶けきれない黒い粒子と、翼膜の破片だけが残った。
プリティミューは、しばらく立ち尽くしていた。
その耳に、通信が入る。
《バイト君、生体反応の消失を確認。J-02個体、活動停止》
「……終わったの?」
《一応ね。ただし残骸反応がある。近づかない方がいい》
「近づく気力ない」
《その割には、まだ立っている》
「倒れたら怒るでしょ」
《怒りはしない。記録するだけだ》
「それが嫌なの!」
その時、劇場の中から足音が響いた。
黒い戦闘員たちが、慌ただしく裏口へ出てくる。
しかし、戦うためではなかった。
彼らは倒れた仲間を抱えたり、壊れた機材を拾ったり、撤収用のケースを運んだりしている。
その先頭で、戦闘員42号が、半分壊れた通信端末を耳に当てていた。
《蝙蝠伯爵、作戦終了だ。戦闘員、回収可能なデータを持って撤退しろ!》
通信越しのゲル大佐の声が、裏通りに響いた。
42号は、倒れている別の戦闘員を抱えながら、やたら元気よく返事をした。
「撤退ですね!? 撤退得意です!」
《得意げに言うことではない! 残骸の一部と観測ログだけ確保しろ! プリティミューとの再戦は不要だ!》
「了解です! プリティミューさん、今日はこの辺で!」
「いや、軽く挨拶しないで」
プリティミューが構え直すと、42号は両手を上げた。
片手で戦闘員を抱えているので、正確には片手しか上がっていない。
「こちら、撤退業務中ですので! 戦闘残業は申請が面倒で!」
「悪の組織なのに残業申請あるんだ……」
「あります! ただ、通りにくいです!」
「それはちょっと同情する!」
《42号! 余計な会話をするな!》
「すみません大佐!」
戦闘員たちは、黒い煙幕を焚いた。
しかし、朝が近いせいか、煙幕は思ったより薄く、撤退する姿がうっすら見えてしまっている。
「あ、そこ段差あります!」
「うわっ」
「機材落としました!」
「拾ってから撤退!」
ばたばたと慌ただしい足音が遠ざかっていく。
プリティミューは、追わなかった。
追えなかった、という方が正しい。
今は、メグと被害者たちの方が先だ。
彼女はミュー・ハンマーを握ったまま、廃劇場の裏口へ駆け戻った。
*
ジョーカー帝都支部の指令室では、ゲル大佐がモニターを睨んでいた。
画面には、蝙蝠伯爵の反応消失ログ。
プリティミューの出力変化。
メグのノイズ干渉。
戦闘区域の被害状況。
撤退中の戦闘員たちの位置情報。
すべてが同時に流れている。
ゲル大佐は深く息を吐いた。
「……また敗北か」
悔しさはある。
だが、それ以上に、妙な疲れがあった。
作戦としては、途中まで成功していた。
プリティミューは正体秘匿と友人救出の間で揺れた。
変身のタイミングも、心理的抵抗も、出力上昇も観測できた。
しかし、怪人は倒された。
現場指揮官として、それを良しとは言えない。
そこへ、指令室の照明が暗くなった。
中央モニターが黒く染まる。
白い仮面のアイコンが浮かび上がった。
首領X。
ゲル大佐は姿勢を正した。
「はっ」
「ゲル大佐」
「申し訳ありません。蝙蝠伯爵は活動停止。プリティミューの撃破には至りませんでした」
「良いデータだった」
ゲル大佐の眉が、わずかに動いた。
「……蝙蝠伯爵は敗北しましたが」
「彼女は、正体秘匿よりも友人救出を選んだ」
首領Xの声は、相変わらず感情が読み取れない。
「恐怖反応は明確。日常崩壊への忌避も強い。それでも、対象は変身を選択した」
「……」
「加えて、周辺人物の介入が確認された。高梨メグ。観測者としての適性あり」
ゲル大佐は、モニターに映るメグの情報を見た。
ただの一般人。
高校生。
怪人事件ログ管理者。
今回は、ノイズ音によって蝙蝠伯爵の音波を一時的に乱した。
偶然ではない。
彼女は見て、考え、動いた。
それもまた、首領Xにとってはデータなのだろう。
「次の段階へ進める」
首領Xは言った。
ゲル大佐は、胸の奥に小さな違和感を覚えた。
蝙蝠伯爵の敗北を、首領Xは惜しんでいない。
蜘蛛男の時もそうだった。
今回も同じだ。
怪人は駒なのか。
それとも、プリティミューを成長させるための実験材料なのか。
その考えは、悪の幹部であるゲル大佐にさえ、少し不快だった。
だが、彼は何も言わない。
「了解しました。次段階の準備に入ります」
「期待している」
仮面のアイコンが消える。
指令室の照明が戻る。
ゲル大佐はしばらく黙っていた。
42号から通信が入る。
《大佐、残骸の一部、回収班が確保しました。あと、戦闘員三名が軽傷です。撤退完了まで五分です》
「よし。全員戻せ」
《プリティミューさんに追われてはいません》
「なら急げ。朝になる前に痕跡を消す」
《了解です》
通信が切れる。
ゲル大佐は、モニターに映るプリティミューの静止画を見た。
夜明け前の裏通りで、息を切らしながら立っている小さな科学少女。
「……正式な敵、か」
彼は低く呟いた。
「いや。首領Xにとっては、それ以上かもしれんな」
その言葉を聞いた者は、誰もいなかった。
*
廃劇場の中では、オルゴールの音が止んでいた。
それだけで、空気が変わっていた。
赤紫色の光は消え、壊れたシャンデリアもただの古い照明に戻っている。天井にぶら下がっていた影蝙蝠たちは霧のように消え、破れた幕だけが朝の風に揺れていた。
客席に座らされていた人々が、少しずつ動き始める。
「……ここ、どこ……?」
「え、私……駅に……」
「眠い……いや、眠くない……?」
「救急車、呼んだ方が……」
完全に回復したわけではない。
だが、目に光が戻っている。
プリティミューは、ほっと息を吐いた。
《ミユさん、被害者の生命反応は安定しています。強い疲労と混乱はありますが、命に別状はなさそうです》
「よかった……」
《ただし、説明が面倒です》
「そこ今言う?」
《現実的な問題です》
舞台中央。
椅子に座らされていたメグが、ゆっくりと身体を傾けた。
「メグちゃん!」
プリティミューは慌てて駆け寄り、彼女を支えた。
メグの身体は熱くも冷たくもない。
ただ、ひどく力が抜けている。
眼鏡は、ちゃんとかけている。
さっき自分でかけ直したのだろう。
メグはぼんやりと目を開けた。
「プリティ……ミューさん……」
「うん。大丈夫?」
返事をした瞬間、プリティミューは自分の声に気づいた。
戦闘中の声。
でも、ミユの声。
メグの目が、ゆっくり動く。
焦点が合っていないようで、どこかで重なっている。
「……ミユ先輩?」
「えっ」
プリティミューは固まった。
完全に固まった。
ハンマーを持ったまま、舞台の上で石像になった。
「いや、え、あの、ミユ先輩ではなく、通りすがりの科学少女というか、プリティミューというか、ええと、ミユ先輩とは親しいようで親しくないというか――」
《バイト君、言い訳が壊滅的だ》
「通信で追い打ちしないで!」
メグは、少しだけ笑った。
疲れた笑みだった。
でも、ちゃんとメグの笑みだった。
「すみません。寝ぼけてました」
プリティミューは瞬きをした。
「……寝ぼけてた?」
「はい。たぶん」
「そう! 寝ぼけてた! 寝不足は怖いね!」
全力で乗った。
乗るしかなかった。
「寝不足っていうか、眠りを奪われたっていうか、いや、細かいことはあとで!」
メグは、プリティミューの顔を見ていた。
変身後のマスクと、光る装甲。
普通なら、ミユの顔そのものはわからない。
けれど声は似ている。
反応も似ている。
焦り方も、ツッコミ方も、隠し事が下手なところも、全部似ている。
メグは何かを言いかけて、やめた。
「でも、先輩」
「なに?」
プリティミューは、反射的に返事をしてしまった。
言ってから、しまったと思う。
メグはそれを責めなかった。
「秘密にしたいことがあるなら、まだ聞きません」
プリティミューは、何も言えなかった。
胸の奥が、変に熱くなる。
助かった、と思った。
同時に、申し訳ないとも思った。
メグは知っている。
たぶん、ほとんどわかっている。
その上で、今は聞かないと言っている。
それは、追及しないという意味ではない。
信じる、という意味に近かった。
メグは、少しだけ力を入れて身体を起こした。
プリティミューが支える。
「でも、ひとりで危ないところに行くなら、怒ります」
「それ、メグちゃんが言う?」
「はい。わたしも怒られる側なので、先輩も怒られるべきです」
「理屈が強い……」
「先輩、ひとりで来ましたよね」
「メグちゃんもひとりで来たよね」
「それは反省しています」
「私も反省してる」
二人は、少しだけ黙った。
そして、どちらからともなく、小さく笑った。
廃劇場の外から、遠くサイレンの音が聞こえ始める。
誰かが通報したのか。
ワトソンが匿名通報したのか。
アインが面倒を避けるために手を回したのか。
とにかく、朝が来る。
この場所を、いつまでも秘密の舞踏会にはしておけない。
《ミユさん、そろそろ変身解除と離脱を推奨します。一般救助機関が到着します》
「うん」
プリティミューはメグを客席の安全な場所に座らせた。
「メグちゃん、ここで待ってて。すぐ人が来るから」
「プリティミューさんは?」
「私は……ええと、科学少女なので、朝日に弱い」
「設定、吸血鬼と混ざってませんか」
「今のは忘れて」
メグはまた少し笑った。
「はい。寝ぼけているので」
「助かる」
プリティミューは舞台袖へ走った。
幕の影に入る直前、メグの声がした。
「プリティミューさん」
振り返る。
メグは、眼鏡の奥からこちらを見ていた。
「助けてくれて、ありがとうございました」
プリティミューは、一瞬だけ言葉に詰まった。
それから、ハンマーを肩に担いで、少しだけ笑った。
「どういたしまして。今度から、夜の怪しい車には近づかないこと」
「先輩もです」
「だから今それ私に刺さるんだって」
今度こそ、プリティミューは幕の影へ消えた。
*
翌日。
宝珠南高等学校では、朝からその話題で持ちきりだった。
「ねえ見た? またプリティミュー出たって!」
「蝙蝠怪人だって。吸血鬼っぽいやつ」
「旧北口商店街の廃劇場でしょ?」
「救急車いっぱい来てたらしいよ」
「動画ないの?」
「遠くから撮ったやつならある。でも暗すぎ」
「プリティミュー、空から落ちてきたって本当?」
「何それ、強すぎない?」
教室のあちこちで、スマホの画面が光っている。
ミユは机に突っ伏していた。
全身が痛い。
眠い。
でも、昨夜とは少し違う眠さだった。
身体は限界なのに、胸の奥はどこか静かだった。
メグは学校に来ていた。
少し顔色は悪い。
けれど、眼鏡はいつも通りで、ノートも持っている。
ただし、今朝の《ホウジュ区怪人事件ログ》には、プリティミューの正体につながる情報は載っていなかった。
ミユは、スマホでその投稿を見ていた。
《旧北口商店街・不眠事件について》
《白いワゴン車およびオルゴール音は、怪人による誘導手段だった可能性が高い》
《被害者は保護され、現在は回復傾向》
《プリティミューが蝙蝠型怪人と交戦し、撃退》
《詳細な戦闘記録は不明。現場混乱のため、未確認情報の拡散は控えてください》
そして、最後に短く、こう書かれていた。
《眠らない街に、科学少女が現れた。彼女はきっと、怖くても逃げなかった》
ミユは、スマホを伏せた。
「……やめてよ。ちょっと泣きそうになるじゃん」
「朝倉、何見て泣きそうになってんの?」
クラスメイトに聞かれ、ミユは慌てて顔を上げた。
「天気予報」
「情緒どうした」
「低気圧に弱くて」
「今日、晴れだけど」
「心の低気圧」
「また変なこと言ってる」
笑われる。
普通の朝だった。
少しだけ壊れかけて、でも戻ってきた朝。
廊下の向こうで、メグと目が合った。
メグは、眼鏡を押し上げる。
ミユは、少しだけ困った顔をする。
メグは何も言わない。
ただ、小さく頭を下げた。
ミユも、小さく手を振った。
秘密は、まだ秘密のままだ。
けれど、昨日までとは少し違う秘密になっていた。
*
アイン科学研究所。
放課後、ミユは半ば強制的に検査用の椅子に座らされていた。
腕にはセンサー。
額にもセンサー。
足にも、よくわからない測定器。
ワトソンが端末の上に座り、尻尾を揺らしている。
アインはモニターを見ながら、実に楽しそうに言った。
「今回の結果は興味深い。キミは友人が危機に陥った時、出力が二十二パーセント上昇した」
「友達をデータにするな」
「事実だよ」
「そういうとこ!」
「それに、感情要因による出力上昇は重要だ。怒り、恐怖、保護欲、羞恥、睡眠不足。いくつかの要素が複合している」
「羞恥を混ぜるな!」
「変身を見られるかもしれないという心理的負荷は、今回の主因の一つだ」
「冷静に分析しないで!」
ミユはセンサーだらけの腕を持ち上げた。
「だいたい、なんで私ばっかりこんな目にあうの」
「μシステムの適合者だから」
「それはもう聞いた!」
「それ以上の答えは、まだ教えられない」
アインの声が、ほんの少しだけ変わった。
ミユは眉をひそめる。
「まだ?」
「言葉の綾だよ」
「今、絶対なんか隠したよね」
「キミも隠し事には覚えがあるだろう?」
「うっ」
負けた。
ミユは椅子の背に沈み込んだ。
ワトソンが静かに言う。
「ですが、ミユさん。今回はよく眠れると思います」
「なんで?」
「助けたい人を助けた後の疲労は、睡眠効率が高い傾向にあります」
「……猫型AIに慰められてる」
「慰めではありません。観測に基づく推測です」
「それでもちょっと嬉しいのが悔しい」
ワトソンは瞬きをした。
「なお、筋肉痛は明日も残る可能性が高いです」
「慰めの直後に現実を刺すな!」
アインが小さく笑った。
「危険手当の申請フォーム、送っておいたよ」
「ほんと!?」
「ただし、戦闘報告書を提出してから」
「報告書って何書くの!?」
「戦闘経過、敵能力、使用技、心理状態、反省点、次回改善案」
「学校の反省文より重い!」
「仕事だからね」
「バイトに求める責任が重すぎる!」
文句を言いながらも、ミユの声には昨日ほどの刺々しさはなかった。
疲れている。
痛い。
怖かった。
でも、メグは助かった。
その事実だけで、少しだけ呼吸がしやすかった。
*
その夜。
ミユが家に帰ると、かなえは台所で夕飯を温め直していた。
玄関を開けた瞬間、味噌汁の匂いがした。
それだけで、ミユは少し泣きそうになった。
「ただいま」
「おかえり」
かなえは振り返り、ミユの顔を見た。
そして、眉を上げる。
「あんた、また寝不足の顔してる」
「今日は寝る。めちゃくちゃ寝る」
「ごはんは?」
「食べてから寝る」
「そこはぶれないね」
「生命線だから」
ミユは鞄を置き、食卓についた。
湯気の立つ味噌汁。
ご飯。
冷凍唐揚げ。
小鉢のひじき。
普通の夕飯。
それが、やけに眩しく見えた。
かなえは箸を並べながら、何気ない声で言った。
「昨日の後輩ちゃん、大丈夫だったの?」
ミユは箸を持つ手を止めた。
「……うん。大丈夫」
「そっか」
かなえはそれ以上、聞かなかった。
聞かないでいてくれることが、今はありがたかった。
ミユは唐揚げを一つ口に入れた。
冷凍唐揚げは、ちゃんとおいしかった。
「ママ」
「何?」
「ごはん、ありがと」
かなえは一瞬だけ目を丸くした。
それから、少し照れたように笑う。
「急に何。怖いんだけど」
「怖くないし」
「変な宗教とか入ってない?」
「入ってない!」
「ならよし」
そんな会話をしながら、ミユは夕飯を食べた。
日常に帰ってきた。
完全に元通りではない。
秘密は増えた。
怖いことも増えた。
明日もまた、何かが起きるかもしれない。
それでも、この食卓に戻ってこられた。
そのことを、ミユは少しだけ実感していた。
食後、彼女は風呂に入り、湿布を貼り、ベッドに倒れ込んだ。
スマホには、メグから短いメッセージが届いていた。
《今日はありがとうございました》
《おやすみなさい、先輩》
ミユは少し迷ってから、返信した。
《おやすみ》
《夜にひとりで変なところ行かないこと》
すぐに既読がついた。
返事は、少し遅れて来た。
《先輩もです》
ミユは布団の中で笑った。
「……ほんと、強いなあの子」
目を閉じる。
今度は、オルゴールの音は聞こえなかった。
代わりに、遠くで母が食器を片づける音がする。
それは、ちゃんと夜を終わらせてくれる音だった。
*
同じ頃。
どこかの暗い研究室で、白い照明が一つだけ灯っていた。
壁には、標本ケースが並んでいる。
蜘蛛の脚のような外殻片。
黒い糸の束。
赤紫色の結晶化した粒子。
そして、今しがた運び込まれたばかりの、黒い翼膜片。
黒い手袋をした何者かが、それをピンセットで持ち上げた。
翼膜は、死んだ組織のようでありながら、微かに震えていた。
耳を近づけると、ほとんど聞こえないほど小さな音がする。
チリ。
チリ。
壊れたオルゴールの名残のような音。
手袋の人物は、透明なケースを開けた。
中には、すでに小さな黒い器官が収められている。
蝙蝠伯爵の超音波器官。
ラベルが貼られていた。
《J-02 ノクターンバット/敗北データ回収予定》
人物は無言で、翼膜片をケースに収めた。
蓋が閉じる。
ロック音。
ケースの奥で、赤紫色の光が一瞬だけ脈打った。
研究室の暗がりに、低い機械音が響く。
誰かの声が、小さく言った。
「次の素材は、よりよい反応を示すだろう」
その声の主は、光の外にいる。
顔は見えない。
ただ、ケースの表面に映った文字だけが、冷たく光っていた。
《回収完了》
夜は終わった。
けれど、ジョーカーの実験は、まだ終わっていなかった。




