第6節 ― 夜空で踊る、科学少女
屋上の夜風は、思っていたより冷たかった。
廃劇場の屋上は、長いあいだ誰にも使われていなかったらしい。コンクリートには細かいひびが走り、古い防水シートが端からめくれている。錆びた手すりはところどころ歪み、非常階段へ続く扉は、さっきプリティミューが吹き飛ばされたせいで蝶番ごと曲がっていた。
足元には、壊れた看板の残骸が転がっている。
かつて劇場の名前を掲げていたのだろう。
色褪せた文字の一部だけが、夜の中でかろうじて読めた。
《……グランド……シアター》
そんな華やかな名前だった場所は、今では街から忘れられた箱になっている。
けれど、屋上から見るホウジュ区の街は、まだ眠っていなかった。
遠くの駅前には白い光が集まり、ビルの壁面広告が夜空に色を投げている。幹線道路では車のヘッドライトが細い川のように流れ、コンビニの看板が小さく、しつこく、そこに人の生活があることを主張していた。
その明るさが、今は少し遠い。
自分が立っているこの場所だけ、夜の底に沈んでいるみたいだった。
プリティミューは、ミュー・ハンマーを握り直した。
手のひらが痛い。
変身しているから素手よりはずっと強い。装甲もある。身体能力も上がっている。さっきまで普通の制服で走り回っていた時より、足も軽い。
それでも、痛みが消えるわけではない。
肩に残る衝撃。
膝に走る痺れ。
胸の奥に残った幻覚の残り香。
みんなが自分を見ている廊下。
母の声。
普通じゃない、と言われる怖さ。
それは、変身したからといって消えるものではなかった。
ただ、逃げないと決めただけだ。
屋上の上空に、黒い影が浮かんでいる。
蝙蝠伯爵。
月のない夜を背負い、巨大な翼を広げた老紳士は、空中に立っているように見えた。翼はゆっくりと羽ばたいているが、風切り音はほとんどない。黒いマントの裏地だけが、赤紫色にうっすら光っている。
その姿は、悔しいくらい絵になっていた。
廃劇場。
夜空。
古びた街明かり。
空に浮かぶ吸血鬼めいた怪人。
そして地上に、ピンクと白の科学少女。
プリティミューは、思わず顔をしかめた。
「……絵面だけなら、そっちの方が絶対ラスボスっぽいんだけど」
蝙蝠伯爵は、空中で優雅に微笑んだ。
「誉め言葉として受け取りましょう」
「誉めてない!」
「地上で走るだけの少女が、夜空に届くとお思いですかな」
その言葉に、プリティミューはハンマーを構えた。
怖い。
空を飛ぶ相手なんて、どうすればいいかわからない。
ミュー・ハンマーは届かない。
こっちは飛べない。
アインが変な追加装備を勝手に仕込んでいない限り、今のプリティミューに翼はない。
でも、メグは下にいる。
舞台の上で、眠りの底に引きずり込まれそうになっている。
客席には、他の被害者もいる。
届かないから諦める、という選択肢はなかった。
「届かないなら」
プリティミューは、屋上の床を蹴った。
「引きずり落とす!」
彼女は壊れた看板の支柱に足をかけ、そこからさらに跳んだ。変身後の脚力で、普通の人間なら到底届かない高さまで身体が浮く。
ミュー・ハンマーを振りかぶる。
だが、蝙蝠伯爵は空中を滑るように横へずれた。
速い。
羽ばたいたというより、夜そのものが彼をずらしたみたいだった。
ハンマーは空を切った。
「っ!」
プリティミューの身体が落ちる。
屋上の床に着地しきれず、片膝をついた。コンクリートがひび割れ、細かい砂が跳ねる。
顔を上げた瞬間、蝙蝠伯爵の杖がこちらを向いていた。
「踊りの足取りとしては、少々粗い」
杖の先が赤紫に光る。
音が消えた。
いや、消えたのではない。
耳が、先に沈んだ。
次の瞬間、見えない刃が飛んできた。
「ぐっ!」
胸元の装甲に衝撃が走る。
何かに斬られたわけではない。
けれど、空気そのものを薄い刃にされたような衝撃が、プリティミューの身体を斜めに弾いた。
屋上の床を転がる。
装甲の表面に、細い傷が走っていた。
「何、今の……!」
《音波刃だ》
アインの声が通信に入った。
いつも通りの声。
むしろ少し楽しそうですらある。
《圧縮した超音波を刃状に形成している。目には見えないけれど、装甲表面に干渉できる程度のエネルギー密度がある》
「説明はありがたいけど、つまり痛いやつね!」
《正確には痛覚よりも振動衝撃に近い》
「分類どうでもいい!」
蝙蝠伯爵が空中で杖を振るう。
二撃目。
今度はプリティミューも警戒していた。
だが、見えない攻撃は避けにくい。
空気が震える予兆だけを頼りに、身体を横へ投げ出す。
音波刃が屋上の換気ダクトを切り裂いた。
金属が耳障りな音を立て、半分に割れて転がる。
《バイト君、奴の攻撃は音波だ。ミュー・ハンマーの出力を逆位相に調整する》
「逆位相って何!?」
《簡単に言えば、うるさい音にうるさい音をぶつける》
「最初からそう言って!」
《厳密にはそれでは不正確なんだけど》
「今、厳密さで命守れないから!」
ワトソンの声が続く。
《ただし、正確なタイミングが必要です。ミユさん、伯爵を正面に誘導してください》
「空飛んでる相手をどうやって!?」
《屋上構造物を利用してください。現在、右前方に大型看板跡。左側に換気設備。背後に給水塔の支持フレームがあります》
「猫に戦場ナビされる日が来るとは思わなかった!」
《私も、女子高生に夜間屋上戦闘を指示する日が来るとは思いませんでした》
「冷静に言わないで怖くなる!」
蝙蝠伯爵は楽しそうに笑った。
「賑やかな通信ですな」
「盗み聞き禁止!」
「この夜は、音のすべてが私のものです」
杖が鳴る。
こつん。
オルゴールの音が、屋上の空気に混ざった。
チリ、チリ、チリ。
それだけで、足元が少し不安定になる。
プリティミューは歯を食いしばり、屋上を走った。
まっすぐ向かっても届かない。
だから、利用する。
壊れた看板の支柱へ走り、蹴る。
斜めに跳ぶ。
換気ダクトの上へ着地。
滑る。
慌てて手をつく。
「わっ、ちょ、待っ――!」
全然華麗ではない。
ダクトの上を走るはずが、足を取られて半分転び、膝で滑りながら別の足場へ飛び移る。屋上の縁に立っていた古いアンテナを掴み、棒高跳びのように身体を持ち上げようとして、アンテナが根元からぐらついた。
「うそでしょ!?」
そのままアンテナごと傾く。
だが、傾いたおかげで、プリティミューの身体は予想外の方向へ飛んだ。
蝙蝠伯爵の真下。
「おっ――!」
ミュー・ハンマーを振る。
かすった。
蝙蝠伯爵のマントの端が、わずかに弾ける。
黒い布のような翼膜の一部が、ピンクの火花を散らした。
蝙蝠伯爵の目が細くなる。
「美しくありませんな」
「こっちはバイトでやってんの!」
プリティミューは屋上の床に転がりながら叫んだ。
「美しさまで時給に入ってない!」
《ちなみに危険手当は申請可能だよ》
「今その話じゃないけど後で詳しく!」
蝙蝠伯爵は空中で翼を広げ直した。
優雅な笑みは崩れていない。
だが、先ほどより少しだけ、距離を取っている。
プリティミューはそれに気づいた。
かすっただけでも、効いている。
届かないわけじゃない。
方法が下手なだけだ。
「だったら……下手でも何でも、やるしかないでしょ」
プリティミューは立ち上がった。
膝が笑っている。
肺が熱い。
装甲の傷から細かい火花が散っている。
それでも、ハンマーを構えた。
*
廃劇場の舞台では、メグがゆっくりと指を動かしていた。
意識は、まだ水の底にある。
瞼が重い。
頭の中で、オルゴールの音が回っている。
眠いのに眠れない。起きているのに、身体が自分のものではない。
目の前には、ぼやけた赤い幕。
頭上には壊れたシャンデリア。
客席には、動かない人々。
メグは、自分が椅子に座らされていることを理解するのに、数秒かかった。
眼鏡。
まず、眼鏡を探した。
世界がぼやけていると、思考までぼやける。
メグにとって、眼鏡は視力補正以上のものだった。見えることは、考えられることだった。
膝の上に、硬い感触。
指先が、眼鏡の縁に触れた。
メグは震える手でそれを拾い、どうにか顔にかけた。
世界の輪郭が戻る。
その瞬間、遠くで爆ぜる音がした。
屋上からだ。
ミユ先輩――いや、プリティミューが戦っている。
メグは息を吸った。
頭がまだ重い。
でも、記録しなければ。
違う。
今は、記録だけではだめだ。
助けなければ。
メグは膝の上からスマホを探した。
落とされていない。椅子の横、床の上に転がっている。
身体を動かそうとすると、ひどく重い。
見えない毛布を何枚もかけられているみたいだ。
それでも、指を伸ばす。
スマホに触れる。
画面が点灯する。
ロック解除。
指が震えて、一度失敗した。
二度目で成功。
録音アプリが開きっぱなしになっていた。
旧北口商店街で、白いワゴンを見つけた時から録音していたのだ。
波形が残っている。
オルゴールの音。
メグはぼんやりした頭で、昼間聞いた投稿音声を思い出した。
自室で整理したファイル。
動画から抜き出した音声。
プリティミュー出現動画に混じっていた、低い残響。
同じだ。
いや、完全に同じではない。
でも、基礎になっている周波数が似ている。
「音……同じ……」
自分の声が、かすれていた。
メグは、スマホのファイルを開いた。
以前保存したノイズ除去前の動画音声。
それから、比較用に作っていたホワイトノイズのテスト音。
本当は、あとで解析するつもりだった。
まさか現場で使うとは思っていなかった。
メグは震える指で、音量を最大にした。
ためらう。
これで何かができる保証はない。
むしろ、蝙蝠伯爵を怒らせるだけかもしれない。
でも、何もしなければ、プリティミューは一人で戦い続ける。
メグは唇を噛んだ。
「……わたしだって、見てるだけじゃないです」
再生。
スマホのスピーカーから、ざらついたノイズ音が流れた。
最初は小さかった。
けれど、廃劇場の音響は妙に反響がよかった。
古い客席、舞台の天井、破れた幕、壁の隙間。それらがノイズを拾い、跳ね返し、増幅していく。
ザーッ、という白い音が、オルゴールに混ざった。
チリ、チリ、チリ。
ザーッ。
チリ、チリ。
ザーッ。
オルゴールの音が、わずかに乱れる。
客席の被害者の一人が、ぴくりと指を動かした。
メグは息を呑んだ。
「効いてる……?」
*
屋上で、蝙蝠伯爵の動きが一瞬止まった。
プリティミューは見逃さなかった。
彼の翼が、ほんのわずかに乱れた。
空中で保っていた優雅な姿勢が、ほんの一拍だけ崩れる。
蝙蝠伯爵は顔をしかめた。
「小賢しい」
彼の視線が、屋上ではなく下の舞台へ向く。
メグだ。
プリティミューは直感した。
「メグちゃん……!」
蝙蝠伯爵の翼から、影蝙蝠が数匹、剥がれるように生まれた。
それらは屋上の端へ向かい、劇場内部へ戻ろうとする。
メグを止めるつもりだ。
プリティミューの胸の奥で、何かが熱くなった。
さっきまで怖かった。
今も怖い。
けれど、メグが動いてくれた。
眠りに引きずられながら、それでもスマホを握って、音を乱してくれた。
なら、ここで自分が止まるわけにはいかない。
「メグちゃんに手を出すな!」
プリティミューは、壊れた換気ダクトを蹴り飛ばした。
金属の塊が、影蝙蝠の群れへ飛ぶ。
直撃はしない。けれど、進路が乱れる。
その隙に、プリティミューは屋上の端へ走った。
《今だ》
アインの声が、いつもより鋭く響いた。
《ミュー・ハンマー、逆位相出力準備完了。バイト君、伯爵が正面に来る》
「来るってどういう――」
蝙蝠伯爵が、怒りを含んだ目でこちらを見た。
優雅な老紳士の顔に、初めてはっきりと苛立ちが浮かんでいる。
「小娘が二人揃って、夜の調律を乱すとは」
「乱されて困るなら、最初から人の眠りを勝手にいじるな!」
プリティミューはミュー・ハンマーを構えた。
ハンマーの先端が展開する。
ピンク色の外装の内側から、銀白色のリング状パーツがせり出し、小さな光の粒が円を描く。
《今だ、ミュー・ソニックブレイク!》
アインが叫ぶ。
プリティミューは一瞬だけためらった。
「その技名、あとで変えるからね!」
《却下》
「まだ提案もしてない!」
叫びながら、ハンマーを振り抜いた。
最初に鳴ったのは、いつもの間抜けな電子音だった。
ピコッ。
屋上の空気に、あまりにも場違いな音が響く。
蝙蝠伯爵が一瞬、目を細める。
その直後。
空気が爆ぜた。
音が音を食い破る。
見えない波が、ハンマーの軌道から扇状に広がり、蝙蝠伯爵の音波とぶつかった。耳では聞こえないはずの振動が、屋上の金属柵を震わせ、看板の残骸を跳ね上げる。
蝙蝠伯爵の周囲にいた影蝙蝠たちが、次々に砕けた。
黒い羽根のような粒子が、夜空に散る。
「ぐっ……!」
蝙蝠伯爵の翼が大きく乱れた。
空中で体勢が崩れる。
プリティミューは、考えるより先に走っていた。
屋上の端。
落ちたら危ない。
普通なら止まる。
でも、変身している。
届くかもしれない。
いや、届かせる。
「うああああっ!」
プリティミューは屋上の縁を蹴った。
身体が夜空へ飛び出す。
下に、廃劇場の壁面が見えた。
さらに下に、細い路地。
車のライト。
遠くの街明かり。
一瞬、足元から世界が消えた。
怖い。
けれど、目の前に蝙蝠伯爵のマントがある。
プリティミューは手を伸ばした。
指先が、黒い布のような翼膜を掴む。
「捕まえた!」
蝙蝠伯爵が目を見開いた。
「なんと乱暴な――」
「そっちが先に人をさらったんでしょ!」
落下が始まる。
蝙蝠伯爵は翼を広げようとした。
だが、ソニックブレイクの衝撃で翼の制御が乱れている。さらにプリティミューがマントにぶら下がったせいで、姿勢が保てない。
二人は、夜空から廃劇場の外壁沿いに落ちていく。
風が耳元で叫ぶ。
プリティミューは片手でマントを掴み、もう片方の手でミュー・ハンマーを持ち上げた。
落ちながら。
怖くて。
身体中が痛くて。
でも、メグの声が耳に残っている。
先輩、逃げて。
逃げない。
逃げたくても、逃げない。
「眠れない夜を増やすな!」
ミュー・ハンマーが光った。
今度は、ピコッという音すら聞こえなかった。
プリティミューは、落下の勢いごとハンマーを振り下ろす。
「プリティ・インパクト!」
直撃。
蝙蝠伯爵の胸部装甲に、ピンク色の衝撃光が咲いた。
赤紫のエネルギーが弾け、黒い翼が大きく裂ける。
蝙蝠伯爵の身体が、夜明け前の空へ叩き落とされるように落下した。
廃劇場の壁面に激突し、看板の残骸を砕きながら、裏通りの舗装へ叩きつけられる。
轟音。
粉塵が舞い上がる。
プリティミューも無事では済まない。
蝙蝠伯爵から手を離した瞬間、彼女の身体も空中で回転した。
「ちょ、着地、着地どうす――!」
《右下、非常階段》
ワトソンの声。
プリティミューは必死に手を伸ばした。
非常階段の手すりを掴む。
金属が悲鳴を上げる。
腕に強烈な負荷がかかる。
「ぐっ……!」
そのまま一段下の踊り場に叩きつけられ、転がり、ようやく止まった。
数秒、動けなかった。
肺が空気を求めて暴れる。
全身が痛い。
でも、生きている。
《バイト君、生体反応確認。無茶をするね》
「……誰のバイトだと思ってんの」
《ボクの》
「そこは否定してよ……」
プリティミューは、手すりを支えに立ち上がった。
下を見る。
廃劇場の裏通りに、蝙蝠伯爵が倒れていた。
黒い翼は裂け、赤紫の粒子が身体から漏れている。
それでも、完全には消えていない。
彼はゆっくりと指を動かし、片膝をついた。
夜空の端が、わずかに白んでいる。
夜明けが近い。
蝙蝠伯爵は、その薄い光を見上げた。
笑っているようにも、苦しんでいるようにも見えた。
「夜明け……ですか」
その声は、初めて老紳士らしい優雅さを失っていた。
プリティミューはミュー・ハンマーを握り直し、階段を駆け下りた。
まだ終わっていない。
メグを助けなければならない。
客席の人たちも。
そして、この夜を終わらせなければならない。
空の端が、少しずつ朝の色に変わっていく。




