第5節 ― 廃劇場の舞踏会
最初に戻ってきたのは、音だった。
チリ、チリ、チリ。
古いオルゴールの音。
遠くで鳴っているようで、耳のすぐ奥で鳴っているようでもある。
優しい音なのに、聞いていると胸の底が冷えていく。
ミユは、ゆっくりと目を開けた。
視界がぼやけていた。
天井が高い。
暗い。
古い木材と埃と、長いあいだ人の声を失っていた建物特有の、湿ったにおいがする。
「……どこ」
声が、思ったよりかすれていた。
ミユは身を起こそうとして、全身の痛みに顔をしかめた。
昨日の戦闘で残った筋肉痛に、さっき倒れた時の衝撃が重なっている。肩が痛い。背中も痛い。膝も擦れている。
それでも、起き上がらないわけにはいかなかった。
手のひらを床につく。
床は木製だった。
ところどころ塗装が剥げ、細かい埃が指につく。
そこが舞台袖だと気づくのに、少し時間がかかった。
赤い緞帳。
黒ずんだ幕。
剥がれた金色の装飾。
壁際に積まれた古い大道具。
使われなくなった照明機材。
割れた鏡。
ここは、劇場だ。
それも、ずっと前に閉館した劇場。
ミユは息を呑んだ。
暗い舞台の向こうに、客席が見えた。
そこには、人が座っていた。
一人ではない。
二人でもない。
十数人。
会社員らしい男性。
配達バッグを足元に置いた若い男。
塾帰りの制服姿の少年。
買い物袋を抱えたままの女性。
駅前で見かけてもおかしくない、普通の人たち。
彼らは客席に座らされていた。
背筋を伸ばしているわけではない。
眠っているわけでもない。
ただ、そこに置かれている。
目は開いていた。
けれど、誰も舞台を見ていない。
瞳は光を映しているのに、意識がそこにない。
寝ている人間の顔ではない。起きている人間の顔でもない。
ミユの背筋に、冷たいものが走った。
「なに、これ……」
低い笑い声が、舞台の上から降ってきた。
「ご気分はいかがですかな」
ミユは顔を上げた。
舞台中央に、蝙蝠伯爵が立っていた。
黒い燕尾服。
深紅の裏地を持つマント。
白い手袋。
銀の杖。
まるで、この廃劇場の主であるかのように、彼は古びた舞台の中央に立っている。
頭上には、壊れかけのシャンデリアが吊るされていた。
ほとんどの電球は消えている。けれど、いくつかだけが赤紫色にぼんやり光り、舞台の上を不気味に照らしていた。
破れた赤い幕が、風もないのにわずかに揺れている。
天井近くの暗がりには、黒い影がいくつもぶら下がっていた。
最初は布の切れ端かと思った。
違った。
蝙蝠だった。
いや、生き物ですらないのかもしれない。
影でできた蝙蝠たちが、翼を閉じたまま天井から逆さに吊り下がっている。時折、そのうちの一匹が目を開けるように赤く光った。
チリ、チリ、チリ。
オルゴールの音が続いている。
ミユは立ち上がろうとして、ふらついた。
左手首のμブレスレットが、制服の袖の下で熱を持っている。
通信は入っていない。いや、入っているのかもしれないが、音が乱れていて聞き取れない。
《……ユ……さん……応答……》
ワトソンの声が、ひどく遠い。
「ワトソン……?」
「おや。目覚めて早々、お連れの名を呼ばれますか」
蝙蝠伯爵は、舞台の上で優雅に首を傾げた。
「ですが、今宵の舞踏会では、まず主催者へご挨拶いただきたいものです」
「舞踏会……?」
ミユは客席を見た。
意識のない人々。
動かない観客。
それを舞踏会と呼ぶ声。
怒りより先に、気持ち悪さがこみ上げた。
「これのどこが舞踏会なの」
「夜に招かれた方々が集い、静かに音楽へ耳を傾ける。十分ではございませんか」
「勝手に連れてきてるくせに」
「勝手、とは心外ですな」
蝙蝠伯爵は杖を床に軽く置いた。
「皆さま、ご自分の足でここへ来られました。疲労し、眠れず、救いを求め、夜の音に耳を澄ませた。私は、道を示したにすぎません」
「操っておいて、何言ってんの!」
ミユの声が、劇場に反響した。
その声に、客席の何人かが微かにまぶたを動かした。
だが、誰も起きない。
舞台中央の椅子に、人影があった。
ミユの胸が凍った。
「メグちゃん!」
メグは舞台の中央に座らされていた。
背もたれの高い古い椅子。
そこに、眠るように身体を預けている。
眼鏡は外され、膝の上に置かれていた。
小さな手が、眼鏡の縁に触れたまま止まっている。
目は半分開いている。
でも、焦点が合っていない。
ミユは舞台へ駆け出そうとした。
その前に、黒い影が床へ落ちた。
影蝙蝠が、ミユの足元をかすめる。
「っ!」
ミユは反射的に飛び退いた。
床に、鋭い爪で引っ掻いたような跡が残る。
蝙蝠伯爵は微笑んだ。
「まだ幕は上がったばかりです。客席から舞台へ駆け上がるには、少々早い」
「メグちゃんを返して」
「返す?」
蝙蝠伯爵は、本当に不思議そうにその言葉を繰り返した。
「おかしなことを。彼女は自分で来たのです」
「操っておいて、何言ってんの!」
「人は皆、聞きたい音に従うものですよ」
「違う」
ミユは拳を握った。
「メグちゃんは、誰かが被害に遭ってるのを見過ごせなかっただけ」
「それを、知りたがりと言うのです」
「違う!」
ミユの声が、また劇場に響いた。
メグの指先が、膝の上でかすかに動いた。
ミユはそれを見逃さなかった。
まだ、完全には落ちていない。
助けられる。
そう思った瞬間、蝙蝠伯爵の視線がミユの左手首へ落ちた。
「ところで」
彼の声が、少しだけ低くなる。
「変わられないのですかな、お嬢さん」
ミユは息を止めた。
「……何の話?」
「その腕の装置」
蝙蝠伯爵は、杖の先でミユの左手首を示した。
「ずいぶんと騒がしい心音を立てている」
ミユはとっさに袖でμブレスレットを隠した。
喉が乾く。
ばれている。
完全にではないとしても、ほとんど気づかれている。
蝙蝠伯爵は、あえて言葉にしない。
プリティミュー、とは呼ばない。
その方が嫌だった。
正体を知っていると宣言されるより、「さあ、どうしますか」と待たれている方が、ずっと逃げ場がない。
「残念ながら」
蝙蝠伯爵は続けた。
「この舞踏会には、少々規則がございます」
舞台袖の暗がりから、ぞろぞろと黒い影が現れた。
戦闘員たちだった。
黒いスーツ。白い番号。
それぞれが微妙に緊張した様子で、ミユを取り囲む。
その中に、見覚えのある番号がいた。
胸元に四十二。
戦闘員42号である。
42号はミユを見て、明らかに気まずそうに肩をすくめた。
「すみません、プリ……じゃなくて一般通行人さん。ここから先は関係者以外立ち入り禁止で」
「どう見ても誘拐現場でしょ!」
「いや、上からは舞踏会と聞いてまして……」
「その説明で納得してるの!?」
「現場判断は、戦闘員の評価項目に入っていないので……」
「悪の組織、そこだけ会社っぽいのやめて!」
ミユは叫びながら、じりじりと後退した。
戦闘員たちが間合いを詰める。
変身すれば、たぶん押し返せる。
昨日も戦った。怖かったけれど、戦えた。
けれど、メグが見ている。
焦点の合わない目で、眠りと現実の境目に沈みながら、それでもこちらを見ている。
ここで変身すれば、もうごまかせない。
朝の廊下。
メグのノート。
「先輩、プリティミューですよね?」
あの声が蘇る。
ミユは袖の下のブレスレットを握った。
変身できない。
いや、できる。
けれど、怖い。
その迷いを見透かしたように、蝙蝠伯爵が微笑む。
「美しい葛藤ですな」
「うるさい!」
戦闘員の一人が飛びかかってきた。
ミユは横へ転がるように避けた。
「いった!」
肩を床に打つ。
全身に痛みが走る。
それでも、すぐに立ち上がった。
近くにあった古い大道具の板を掴み、振り回す。
「来ないで!」
「うわっ、一般通行人さんが思ったより抵抗します!」
「一般通行人に襲いかかってる自覚はあるんだ!?」
板が戦闘員のヘルメットに当たり、軽い音を立てた。
大したダメージではない。
だが、相手の動きが一瞬止まる。
ミユはその隙に客席側へ走った。
座席の間を抜ける。
埃が舞う。
客席に座らされた被害者たちの横を通るたび、胸が痛んだ。
この人たちは、ただ帰りたかっただけだ。
眠りたかっただけだ。
なのに、こんな場所で、舞踏会の客にされている。
「ふざけんな……」
ミユは小さく呟いた。
その声に、何かが少しだけ強くなる。
左手首のμブレスレットが、低く震えた。
《……ユさん……変身……推奨……》
ワトソンの声が途切れ途切れに届く。
ミユは歯を食いしばった。
「まだ……」
まだ、見られる。
まだ、メグがいる。
まだ。
その言葉のせいで、足が止まりかける。
次の瞬間、頭上から影蝙蝠が落ちてきた。
「っ!」
ミユは客席の背もたれに身を投げ出すようにして避けた。
影蝙蝠の爪が、座席の布を裂く。
戦闘員たちが客席の両側から回り込む。
逃げ場が狭まる。
42号が、なぜか申し訳なさそうに言った。
「ええと、できれば大人しくしていただけると助かります。こちらも段取りがありまして」
「人をさらう段取りに協力するわけないでしょ!」
「それはそうなんですが……」
「納得するな!」
ミユは座席を乗り越え、通路へ飛び出した。
足がもつれる。
転びそうになる。
制服のスカートが引っかかり、リボンも乱れる。
華麗でも何でもない。
それでも、止まらなかった。
舞台の上で、蝙蝠伯爵が杖を掲げる。
「では、少し音を変えましょう」
チリ、チリ、チリ。
オルゴールの音が、急に近くなった。
ミユの視界が歪む。
劇場の赤い幕が、学校の廊下に変わった。
「え……」
気がつくと、ミユは宝珠南高等学校の廊下に立っていた。
昼間の光。
窓から差し込む陽射し。
ざわざわとした生徒たちの声。
でも、何かがおかしい。
廊下の全員が、ミユを見ていた。
クラスメイトも。
知らない上級生も。
先生も。
メグも。
みんながスマホを向けている。
画面には、プリティミューの動画。
そして、その横にミユの顔写真。
「プリティミューなんでしょ?」
「嘘ついてたんだ」
「普通の子だと思ってたのに」
「怖い」
「怪人と戦うとか、普通じゃない」
「なんで黙ってたの?」
「友達じゃなかったの?」
言葉が刺さる。
ミユは後ずさった。
「違う……違うっていうか……」
何を否定しているのか、自分でもわからない。
プリティミューなのは本当だ。
隠しているのも本当だ。
怖いと思っているのも、本当だ。
廊下の奥から、母の声がした。
「あんた、何を隠してるの?」
ミユの身体が固まった。
かなえが立っていた。
いつものエプロン姿ではない。
朝のような明るい顔でもない。
ただ、こちらを見ている。
「あんた、どこで何をしてるの?」
「ママ……」
「危ないこと、してるんじゃないの?」
「違う、私は……」
「なんで言ってくれないの?」
ミユは耳をふさいだ。
「やめて……」
廊下の声が増える。
「プリティミューなんでしょ?」
「隠してたんだ」
「嘘つき」
「普通じゃない」
「怖い」
「気持ち悪い」
「ヒーローなんでしょ?」
「なら助けてよ」
「助けられるんでしょ?」
「どうしてすぐ助けないの?」
「やめて!」
ミユは叫んだ。
その瞬間、廊下が割れた。
再び、廃劇場の客席が戻ってくる。
ミユは床に膝をついていた。
息が荒い。
頬に涙が伝っている。
いつの間にか、戦闘員たちは距離を取っていた。
蝙蝠伯爵が、舞台の上から満足そうに見下ろしている。
「夜は、人の恐れをよく映します」
彼は静かに言った。
「正体を知られる恐怖。日常を失う恐怖。大切な者に知られる恐怖。実に瑞々しい」
「……最低」
ミユは震える声で言った。
「それは、誉め言葉として受け取りましょう」
蝙蝠伯爵が杖を下ろす。
舞台中央のメグが、かすかに動いた。
唇が震える。
ミユは顔を上げた。
「メグちゃん……?」
メグの目は、まだぼんやりしている。
けれど、完全には眠っていない。
彼女は、薄く唇を開いた。
「先輩……」
その声は、客席に届くか届かないかの、小さなものだった。
「逃げて……」
ミユの胸が、ぎゅっと掴まれた。
逃げて。
その言葉を聞いて、逃げられるわけがなかった。
ミユは笑いそうになった。
泣きそうにもなった。
「逃げたいよ」
正直な言葉が、口からこぼれた。
「めちゃくちゃ逃げたい。今すぐ帰りたい。お風呂入って、ごはん食べて、湿布貼って寝たい。明日、学校で普通に『昨日のテレビ見た?』とか言ってたい」
立ち上がる。
膝が震えている。
でも、立ち上がる。
「でも」
ミユは左手首を見た。
袖の下で、μブレスレットが光っている。
「友達置いて逃げたら、たぶん私、一生眠れない」
その言葉に、オルゴールの音が一瞬だけ乱れた。
蝙蝠伯爵の目が細くなる。
「ほう」
ミユは客席から舞台袖へ走った。
真正面ではない。
メグの視線から少し外れる位置。
破れた幕と積まれた大道具の影。
完全に隠れられるわけではない。
けれど、もう完璧に隠すことばかり考えている場合ではなかった。
《ミユさん》
ワトソンの声が、ようやくはっきり届いた。
《変身シークエンス、待機状態です》
アインの声も割り込む。
《バイト君、ようやく決めた?》
「あとで怒るからね」
《それは生還後に聞くよ》
ミユは左手首を掲げた。
μブレスレットが展開する。
銀白色の輪郭が光り、中央の小さなコアがピンクに輝いた。
科学記号のような光のラインが、手首から腕へ、肩へ、胸元へ走る。
劇場の暗がりに、人工的な光が咲いた。
メグのまぶたが、わずかに開く。
彼女は、半分眠ったまま、その光を見た。
ミユの声が、舞台袖から響いた。
「サイエンスパワー・メイクアップ!」
光が広がる。
白とピンクの粒子が、制服を包み込む。
装甲が形成される。
胸元に科学少女のエンブレムが灯る。
ブーツが床を踏みしめる。
手には、場違いなほど可愛らしく、しかし馬鹿にできない出力を秘めたミュー・ハンマーが現れる。
光が収まった時、舞台袖の影から一人の少女が歩み出た。
科学少女プリティミュー。
廃劇場の舞台に、ピンクの光が立った。
戦闘員たちがざわつく。
「出た!」
「本当に変身した!」
「記録、記録!」
「大佐に送信!」
42号だけが、小さく呟いた。
「……やっぱり来たんですね」
プリティミューは、ミュー・ハンマーを肩に担いだ。
目元には、まだ涙の名残がある。
けれど、その声は震えていなかった。
「メグちゃんを返して」
蝙蝠伯爵は、ゆっくりと拍手をした。
ぱち、ぱち、ぱち。
乾いた音が、廃劇場に響く。
「ようこそ、小さな科学少女」
彼は深く、優雅に礼をした。
「今宵の主役をお待ちしておりました」
「主役とか、そういうのいらない」
プリティミューはハンマーを構える。
「私は、友達を迎えに来ただけ」
「それで十分でございます」
蝙蝠伯爵は顔を上げた。
その背中のマントが、ゆっくりと広がる。
布ではない。
翼だった。
巨大な黒い翼が、舞台いっぱいに広がっていく。
天井の影蝙蝠たちが一斉に目を開け、赤い光が点々と灯る。
オルゴールの音が、低く、重く変わった。
プリティミューは一歩踏み出した。
その瞬間、蝙蝠伯爵の翼が振るわれた。
空気そのものが叩きつけられる。
「っ――!」
見えない衝撃が、プリティミューの身体を直撃した。
足が床から浮く。
舞台の上を飛ばされる。
破れた幕を突き抜け、背後の非常口の扉を吹き飛ばす。
視界が反転した。
赤い幕。
黒い翼。
メグの小さな姿。
蝙蝠伯爵の笑み。
次の瞬間、プリティミューは廃劇場の外階段を突き破るようにして、夜風の中へ投げ出された。
身体が宙を舞う。
屋上のコンクリートに叩きつけられ、転がった。
「いっ……たぁ……!」
プリティミューは歯を食いしばり、膝をついた。
夜空が見える。
ホウジュ区の街明かりが、遠くに広がっている。
壊れた屋上扉の向こうから、黒い翼の影がゆっくりと上がってきた。
蝙蝠伯爵が、月のない空を背に浮かんでいる。
「では、第二幕と参りましょう」
彼は微笑んだ。
「夜空で踊る準備は、よろしいですかな?」
プリティミューはミュー・ハンマーを握り直した。
手のひらが痛い。
足も震えている。
でも、もう逃げる選択肢はなかった。




