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第4節 ― メグは夜の音を追う

 夜のホウジュ区は、昼間よりも輪郭が曖昧になる。


 駅前の明かりはまだ賑やかで、ファストフード店の看板も、コンビニの白い光も、スマホを見ながら歩く人々の顔も、どこか現実味を失っていた。昼の街が人のためにあるものだとすれば、夜の街は、明かりと影と、帰れない気持ちのためにあるように見える。


 高梨メグは、自室の机の前に座っていた。


 机の上には、学校の教科書、ノートパソコン、スマホ、付箋だらけのノート、それから栄養補助食品の空き袋が並んでいる。壁には、古い特撮ヒーローのポスターと、都市伝説系の雑誌から切り抜いた記事が貼ってあった。


 部屋の明かりはつけている。

 けれど、カーテンは閉めていない。


 窓ガラスには、パソコンの青白い画面と、眼鏡をかけた自分の顔が映っていた。


 メグは画面を睨むように見つめながら、キーボードを叩いている。


《ホウジュ区怪人事件ログ》

《白いワゴン車に関する目撃情報整理》

《発生地点:旧北口商店街周辺に集中》

《共通項:夜間/単独行動者/オルゴール音/強い眠気または不眠感》


 投稿文を打ち込みながら、メグは何度も指を止めた。


 怖い。


 正直に言えば、怖かった。


 怪人事件を調べることと、本当に怪人がいるかもしれない場所へ行くことは、まったく違う。


 画面の中で動画を止めたり、投稿を並べ替えたり、地図に印をつけたりしている間は、自分は観測者でいられる。情報を集める側。記録する側。安全な机の前に座り、怖い出来事を文字と画像に変換して整理する側だ。


 けれど、現場へ行けば違う。


 そこには、音がある。

 空気がある。

 足音がある。

 誰かに見られる感覚がある。


 そして、もし本当に怪人がいたら。


 メグは、ノートの端を指で押さえた。


 ノートの最後のページには、プリティミューの目撃情報がまとめてある。


 身長推定。

 声の特徴。

 武器の形状。

 出現地点。

 動画のフレーム解析。

 そして、その横に小さく書かれた名前。


《朝倉ミユ先輩?》


 メグは、その文字をじっと見た。


 昼間のミユの顔を思い出す。


 否定するときの声。

 慌てて袖を隠した手。

 「危ないからやめなさい」と言った時の、いつもより強い目。


 あれは、ただの心配ではなかった。


 知っている人の反応だった。


 けれどメグは、まだ問い詰めてはいけないと思った。


 秘密を暴くことと、誰かを助けることは違う。


 プリティミューの正体を知りたい。

 それは本当だ。


 でも、もしあれがミユ先輩なら。


 あんなに普通に笑って、文句を言って、お腹が空いたと言って、テストが嫌だと言っている先輩が、昨日の夜、怪人の前で震えながら立っていたのなら。


 自分は、ただ「正体を見つけました」とは言えない。


 メグは眼鏡を外し、袖でレンズを拭いた。


「……でも、見なかったことにもできないです」


 小さく呟いた時、スマホが震えた。


 通知。


 匿名アカウント宛てのダイレクトメッセージだった。


《旧北口商店街の裏通りで見た》

《夜十時過ぎ》

《白い車》

《オルゴールみたいな音がしてた》

《近づいたら、変な眠気がしたから逃げた》

《これ、あんたが調べてるやつ?》


 メグの指先が止まった。


 旧北口商店街の裏通り。


 昼間に予測した地点と一致する。


 時計を見る。


 二十一時三十二分。


 今から行けば、間に合う。


 行くべきではない。


 頭の中の冷静な部分が、すぐに言った。


 危険だ。

 一人で行くなとミユにも言われた。

 警察に連絡すべきだ。

 大人に相談すべきだ。

 少なくとも、現場まで行く必要はない。


 でも、メグの別の部分が、それを押し返す。


 警察が信じてくれるだろうか。

 「白いワゴンとオルゴールと黒い羽根の男が怪しい」と言って、まともに取り合ってくれるだろうか。


 それに、もし今夜も誰かが被害に遭うなら。


 もし、プリティミューが現れるなら。


 もし、ミユ先輩がまた一人でそこへ行くなら。


 メグは、ノートを閉じた。


 怖い。


 けれど、知らないままでいる方が、もっと怖かった。


 彼女はスマホを手に取り、ミユとのトーク画面を開いた。


 何度も入力して、消す。


《一緒に来てください》

 消す。


《やっぱり先輩、プリティミューですよね?》

 消す。


《危ないかもしれません》

 消す。


 結局、メグは短く打った。


《先輩、ちょっとだけ確認してきます》

《危なかったらすぐ帰ります》

《もしプリティミューさんに会ったら、よろしく言っておきます》


 送信。


 送った瞬間、自分でも少し卑怯だと思った。


 これでは、ミユが止めに来るかもしれない。

 いや、来てほしいと思っているのかもしれない。


 メグは立ち上がり、薄手のパーカーを羽織った。

 ノートは持たない。重いし、現場では邪魔になる。


 代わりに、スマホとモバイルバッテリー、小型ライト、ICカード、そしてペン型の録音機をポーチに入れる。


 部屋を出る前に、鏡の前で眼鏡を押し上げた。


「……大丈夫。記録するだけです」


 自分に言い聞かせる。


 鏡の中の自分は、あまり大丈夫そうではなかった。


     *


 朝倉家の食卓では、ミユが二杯目のご飯を食べ終えたところだった。


 全身筋肉痛の身体は、昼間より少しだけましになっている。

 ただし、ましというのは「階段を上る時に人生を呪わなくて済む」程度の意味であり、普通に元気というわけではない。


 かなえは向かいの席で、スマホを見ながら明日の買い物リストを確認していた。


「ミユ、明日の朝パンでいい?」


「うん」


「お弁当、冷凍の唐揚げ入れていい?」


「神」


「安い神だね」


「冷凍唐揚げは生活の守護神」


 ミユは味噌汁をすすった。


 母とこうして普通に夕飯を食べていると、昼間のことも、怪人のことも、少し遠くなる。


 遠くなってほしい。


 できれば今日はもう何も起きないでほしい。

 お風呂に入って、湿布を貼って、寝る。

 たぶん、それが人間として正しい。


 その時、スマホが震えた。


 メグからのメッセージだった。


 ミユは何気なく画面を見て――青ざめた。


《先輩、ちょっとだけ確認してきます》

《危なかったらすぐ帰ります》

《もしプリティミューさんに会ったら、よろしく言っておきます》


 箸が止まる。


「……この子」


 かなえが顔を上げた。


「どうしたの?」


「いや、後輩が……ちょっと……」


「後輩?」


「うん。眼鏡が本体みたいな子」


「どんな紹介?」


 ミユは返信を打った。


《どこ行くの》

《行かないで》

《ほんとに危ないから》


 すぐ既読がつく。


 けれど、返信は来ない。


 代わりに、メグから位置情報が送られてきた。


 旧北口商店街方面。


 ミユは椅子から立ち上がった。


「ごめん、ママ。ちょっと出る」


「は? 今から?」


「後輩が危ない方向に行ってる」


「危ない方向って何」


「説明すると長い!」


「ミユ」


 かなえの声が低くなる。


 ミユは振り返った。


 母の目は、もう冗談の目ではなかった。

 娘が何かを隠しているとわかっている目だった。


「バイト関係?」


 ミユは一瞬だけ迷った。


 嘘をつくのが、少しだけ痛い。


 でも、言えない。


「……友達関係」


 それは完全な嘘ではなかった。


 かなえは数秒、ミユを見た。


 そして、ため息をついた。


「十時までには連絡。遅くなるなら絶対電話。変なところ行かない。知らない車に乗らない」


「小学生?」


「今のあんた、小学生より信用ない」


「ひどい」


「あと、走るなら気をつけなさい。今日、身体おかしいでしょ」


 ミユは胸が少し詰まった。


「……うん。ごめん」


「謝るなら帰ってきてからにして」


 かなえは玄関の方を顎で示した。


「行くなら、気をつけて行きなさい」


「ありがとう!」


 ミユは鞄を掴み、玄関へ走った。


 いや、走ろうとして、太ももが悲鳴を上げた。


「いっ……!」


「ほら!」


「大丈夫! 気持ちは走ってる!」


「身体も持っていきなさい!」


 母の声を背中に受けながら、ミユは家を飛び出した。


 夜の空気が肌に触れる。


 昼間より湿っていて、少し冷たい。

 道路の向こうに、駅前の明かりが見えた。


 ミユは走りながら、左手首のμブレスレットを起動した。


「アイン! 聞こえる!?」


 数秒のノイズ。


 それから、いつもの生意気な声が耳元に入った。


《聞こえているよ、バイト君。通信の最初から大声なのは、心拍数の上昇と関係があるのかな》


「今それどうでもいい!」


《ボクにとってはデータだ》


「メグちゃんが旧北口商店街に向かってる!」


《知っている》


 ミユは足を止めかけた。


「知ってる!?」


《彼女の怪人事件ログは監視対象に入れてある。一般人にしては危険なほど精度が高い》


「なんで止めないの!」


《ボクが警告したところで彼女は信じない。むしろ情報源を探ろうとする》


「そういう問題じゃないでしょ!」


 アインの声は平坦だった。


《ちょうどいい。出動だ》


「ちょうどよくない! メグちゃんが行ってるの!」


《なら、なおさら急ぐべきだね》


 腹が立つほど正論だった。


 別の声が通信に割り込む。


《ミユさん、現在地から旧北口商店街裏通りまで徒歩十一分。走行した場合、六分三十秒。ただし本日の筋肉負荷を考慮すると、到着時の脚部疲労が戦闘に影響する可能性があります》


「ワトソン、今は優しいのか厳しいのかわかんない!」


《事実です》


《バイト君、変身すれば二分で到着できる》


 アインが言った。


 ミユは左手首を見た。


 μブレスレットの中央が、淡く光っている。


 変身すれば、速い。

 強い。

 たぶん、メグより先に現場へ着ける。


 でも。


 メグが近くにいる。


 もし、変身の瞬間を見られたら。


 もし、ミユがプリティミューだと完全に知られたら。


 学校での生活はどうなる。

 母にどう説明する。

 メグはどう反応する。

 他の誰かに知られたら、ジョーカーはどう動く。


 日常が壊れる。


 その言葉が、胸の奥に冷たく落ちた。


 ミユは歯を食いしばる。


「……変身しない」


《合理的ではない》


「わかってる」


《危険だよ》


「それもわかってる!」


 ミユは走り出した。


「でも、今ここで変身したら、メグちゃんに見られるかもしれない。間に合うところまでは、このまま行く!」


《バイト君》


「うるさい! 文句はあとで聞く!」


 アインは数秒沈黙した。


 それから、小さく息を吐くような音がした。


《了解。ワトソン、経路誘導》


《了解しました。ミユさん、次の角を右です。車道に出ないでください》


「わかってる!」


《わかっていない人ほど、そう言います》


「猫型AIにまで心配されてる!」


 ミユは夜の住宅街を走った。


 街灯の下を抜けるたび、影が足元で伸び縮みする。

 コンビニの前を通り過ぎる。自転車の高校生とすれ違う。塾帰りらしい子どもが母親と手をつないで歩いている。


 普通の夜だった。


 だからこそ、異常なものがその先にあることが、余計に怖かった。


     *


 旧北口商店街は、駅前の再開発から取り残された場所だった。


 昼間でも少し寂れている。

 夜になると、ほとんどの店がシャッターを下ろし、看板の明かりも消える。


 かつては賑わっていたのだろう。

 古い八百屋の看板、閉店した洋品店のマネキン、色褪せた祭りのポスター、使われなくなったアーケードの骨組み。


 メグは、その入口に立っていた。


 スマホを胸の前に構え、録音アプリを起動している。


 音は、聞こえていた。


 チリ、チリ、チリ。


 オルゴール。


 昼間、投稿で聞いたものと同じ。

 いや、録音越しよりもずっと近い。


 耳に優しい音なのに、首の後ろがざわざわする。


 メグは一歩ずつ進んだ。


 靴音が、シャッター街に小さく響く。


「……記録開始。二十一時五十八分。旧北口商店街裏通り。オルゴール音を確認。白いワゴン車は、まだ視認できず」


 自分の声が少し震えている。


 メグは深呼吸した。


 怖い時ほど、記録する。

 記録すれば、怖さは少しだけ形になる。

 形になれば、向き合える。


 そう信じていた。


 角を曲がる。


 その先に、白い車が停まっていた。


 救急車のようで、救急車ではない。

 医療車両のようで、病院のものではない。


 側面には、眠る月のマーク。


《ナイトケア・ワゴン》


 メグは息を呑んだ。


「……確認。白いワゴン車。車体側面にナイトケア・ワゴンの表記。窓は黒。ナンバーは――」


 スマホのカメラを向けようとした瞬間、ワゴンの後部ドアが開いた。


 音もなく。


 中から、黒い燕尾服の老紳士が降りてきた。


 メグは動けなくなった。


 老人は、背が高かった。

 痩せていて、姿勢がよく、杖を持っている。

 顔は白く、目元は深い影に沈み、口元には穏やかな笑みがある。


 その笑みを見た瞬間、メグの中の警戒音が最大になった。


 人間に見える。

 でも、人間ではない。


「こんばんは」


 老紳士は、柔らかく言った。


「夜分に、ずいぶん熱心なお嬢さんですな」


 メグは声を出そうとした。


 逃げるべきだ。


 そう思うのに、足が動かない。


「あなたは……」


「おや。ご挨拶がまだでしたな」


 老紳士は、杖を胸に当てて礼をした。


「私は蝙蝠伯爵。夜の案内人でございます」


 背後で、ワゴンの中の赤紫色の光が揺れた。


 メグはスマホを握りしめる。


「怪人……?」


「怪人。吸血鬼。伯爵。呼び名はお好きに」


 あまりにも自然に認められたせいで、メグは一瞬、言葉を失った。


 怪人。


 本当にいた。


 画面の向こうではない。

 動画の中でも、噂でもない。


 目の前にいる。


 膝が震える。


 でも、同時に、胸の奥で別の感情も揺れた。


 見つけた。


 記録しなければ。


 メグはスマホを持ち上げようとした。


 蝙蝠伯爵はそれを咎めなかった。

 ただ、楽しそうに目を細める。


「夜は、知りたがりのお嬢さんに優しいものです」


「……プリティミューさんの敵ですか」


 自分でも驚くほど、声が細かった。


 けれど、聞けた。


 蝙蝠伯爵はゆっくりと笑った。


「ええ。ならば、あなたは彼女を呼ぶ鈴になる」


 その瞬間、オルゴールの音が変わった。


 チリ、チリ、チリ。


 音が、遠くからではなく、頭の中で鳴り始める。


 メグは目を見開いた。


 まずい。


 録音しなければ。

 逃げなければ。

 ミユ先輩に知らせなければ。


 思考は動いている。


 なのに、身体が動かない。


 いや、動いている。


 自分の意思とは別に。


 足が、一歩前に出た。


「……あ」


 ワゴンのドアが、口を開けた獣のように暗く見える。


 メグは必死に抵抗しようとした。


 スマホを落とす。

 音を止める。

 逃げる。


 どれもできない。


 瞼が重い。

 身体が軽い。

 頭の奥がぼんやりと温かくなっていく。


 蝙蝠伯爵が手を差し出す。


 白い手袋。

 長い指。


「さあ、お嬢さん。舞踏会へ参りましょう」


 メグの手が、その手に向かって上がる。


 その時。


「メグちゃん!」


 夜の通りに、ミユの声が飛び込んできた。


 メグの意識が、わずかに揺れた。


 商店街の角から、ミユが走ってくる。


 息が荒い。髪は乱れ、制服のリボンも少しずれている。左手首を押さえながら、それでも全力でこちらへ向かってくる。


 メグは振り返った。


 けれど、視界の焦点が合わない。


 ミユの姿が、二重に見えた。


「ミユ……先輩……?」


「こっち来て!」


 ミユはメグの腕を掴んだ。


 その瞬間、メグの身体ががくんと揺れる。

 彼女はまだ蝙蝠伯爵の音に引かれていた。まるで見えない糸でワゴンへ結ばれているみたいに、足が勝手に前へ出ようとする。


「メグちゃん、しっかりして!」


「音が……」


「聞いちゃダメ!」


「先輩……やっぱり……」


「今それ言わない!」


 ミユは必死にメグを引き戻そうとした。


 だが、普通の女子高生の力では、催眠に引かれる身体を止めきれない。

 しかもミユ自身、まだ全身が痛い。腕に力を入れるたび、肩と背中に昨日の戦闘の痛みが走る。


 蝙蝠伯爵は、その様子を面白そうに眺めていた。


「おや」


 彼は、穏やかに微笑む。


「あなたの声には、ずいぶん必死な響きがありますな」


 ミユは睨みつけた。


「メグちゃんから離れて」


「私は何もしておりません。彼女はご自分の足で、夜へ近づいたのです」


「操ってるくせに!」


「操る、とは乱暴な言葉です。人は皆、聞きたい音に従って歩くものですよ」


 蝙蝠伯爵の杖が、こつん、と地面を叩いた。


 その音が、オルゴールに重なる。


 ミユの視界が揺れた。


 街灯の光がにじむ。

 シャッターの文字が歪む。

 商店街の奥が、やけに遠くなる。


 まずい。


 ミユは直感した。


 これは、音だ。


 耳を塞げばいい。

 そう思ったが、メグの腕を離せない。


 左手首のμブレスレットが熱を持つ。


 通信が入った。


《ミユさん、怪人反応、目標正面。音波干渉を検知。危険域です》


 ワトソンの声だ。


 ミユは歯を食いしばった。


「ワトソン、メグちゃんが……!」


《状況を確認しています。ミユさん、変身してください。このままでは二人とも連れ去られます》


 変身。


 その言葉が、胸に刺さる。


 ミユはメグを見た。


 メグはぼんやりとこちらを見ている。

 完全に意識を失ってはいない。

 眼鏡の奥の目に、まだ少しだけ光が残っている。


 ここで変身したら、見られる。


 メグに。

 プリティミューの正体を疑っているメグに。


 もう、ごまかせなくなる。


 学校での普通の会話も、昼休みのくだらない話も、後輩として慕ってくれる距離感も、全部変わるかもしれない。


 怖い。


 怪人よりも、そちらの方が怖いと思ってしまう自分が、ミユは嫌だった。


「……見られたら」


 声が震える。


 蝙蝠伯爵が、静かに一歩近づく。


「何を迷っておいでですかな」


 オルゴールの音が深くなる。


 メグの身体が、またワゴンへ引かれる。


 ミユは両手でメグの腕を掴んだ。


 足元がずるりと滑る。

 自分まで引きずられる。


 ワゴンの中の闇が近づく。


《ミユさん》


 ワトソンの声が、今度は少しだけ強かった。


《選択してください》


 ミユは唇を噛んだ。


 左手首が熱い。

 心臓がうるさい。

 オルゴールの音が、頭の中で鳴っている。


 メグの眼鏡が、街灯を受けて小さく光った。


 ミユは、歯を食いしばる。


「見られたら、終わるじゃん……」


 それでも、手は離さなかった。


 次の瞬間、蝙蝠伯爵の杖が三度、地面を叩いた。


 こつん。

 こつん。

 こつん。


 音波が、夜の空気を波紋のように広がる。


 ミユの意識が、大きく揺れた。


 メグの手が、指先からすり抜ける。


「メグちゃん……!」


 白いワゴンの扉が、暗く開く。


 メグの姿が、その闇の中へ消えていく。


 ミユは踏み出そうとした。


 だが、足元が消えたように力が抜ける。


 視界が黒く染まる直前、耳元でワトソンの声が響いた。


《ミユさん、応答してください。ミユさん――》


 返事はできなかった。


 夜のオルゴールだけが、いつまでも優しく鳴っていた。

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