第3節 ― ジョーカー帝都支部、夜間作戦会議
ホウジュ区の地下には、地図に載っていない場所がいくつもある。
使われなくなった地下連絡通路。
閉鎖された商業施設の搬入口。
古い地下鉄計画の名残。
誰も借りていないはずのビルの地下倉庫。
そういう、街が忘れた空洞を、秘密結社ジョーカーは好んで使う。
ホウジュ区旧市街の端。
表向きには廃業した大型家電量販店の地下三階。
そこに、ジョーカー帝都支部はあった。
壁面には黒と赤の配線が這い、天井からは旧式の蛍光灯と最新型の監視ドローンが同居してぶら下がっている。昭和の悪の秘密基地めいた巨大な鉄扉の横に、顔認証ゲートと勤怠管理端末が設置されているあたり、組織の美学と現代の事務処理が絶妙に喧嘩していた。
中央指令室には、いくつものモニターが並んでいる。
ホウジュ区の地図。
監視カメラ映像。
SNSの監視ログ。
怪人反応の波形。
プリティミュー出現時の動画解析。
そして、会議卓の上には、分厚い書類の束が積まれていた。
表紙には、赤字でこう記されている。
《J-01 蜘蛛男作戦 第一次敗北検証資料》
その前で、ゲル大佐は胃を押さえていた。
黒い軍服風のコート。
肩章。
赤い裏地のマント。
悪の幹部らしい威厳ある姿。
ただし、顔色はあまりよくない。
彼は椅子に深く座り、片手でこめかみを押さえながら、もう片方の手で胃薬の袋を開けていた。
「……なぜだ」
低い声で、ゲル大佐は呟いた。
「なぜ、敗北後の処理は、作戦そのものより手間がかかるのだ」
会議卓の反対側で、戦闘員42号が直立不動の姿勢を取っていた。
黒い戦闘員スーツ。胸元に小さく白い番号。
番号は四十二。
本人は真面目にしているつもりなのだが、どことなく気まずそうに肩が縮こまっている。
「大佐、蜘蛛男さんの反省会資料、三十七ページあります」
「なぜ反省会資料のほうが作戦書より厚いのだ……」
「ええと、敗因分析、被害報告、糸の回収率、戦闘員の転倒件数、プリティミューさんのハンマー被弾角度、あと、動画サイトに上がった切り抜きの一覧が追加されたためです」
「最後の項目は誰が入れた」
「広報隠蔽班です」
「隠蔽班が切り抜き一覧を作るな!」
ゲル大佐の声が指令室に響いた。
近くにいた別の戦闘員たちが、反射的に背筋を伸ばす。
だが、すぐに何事もなかったようにモニター作業へ戻った。
帝都支部の職員は、ゲル大佐の怒号に慣れている。
ゲル大佐は書類をめくった。
ページには、昨日の蜘蛛男の敗北映像が連続写真で印刷されている。
蜘蛛男が糸を張る。
プリティミューが転ぶ。
プリティミューが怒る。
プリティミューがミュー・ハンマーを振る。
蜘蛛男の巣がなぜか自分ごと崩壊する。
ゲル大佐が通信越しに額を押さえる。
その下には、分析班による冷静なコメントが添えられていた。
《対象:プリティミュー。初戦闘にしては異常な環境適応速度を確認》
《武装:ミュー・ハンマー。外見に反して高出力の音波衝撃兵装》
《精神傾向:恐怖反応あり。ただし、対象者保護を優先した場合、戦闘継続率上昇》
《発言傾向:敵の口上・作戦名・装備に対する即時ツッコミが多い》
《備考:ツッコミによって怪人側の演出テンポが乱される可能性あり》
ゲル大佐は最後の一文を睨んだ。
「ツッコミが戦術項目に入る時代が来るとはな……」
「大佐、実際、蜘蛛男さんはかなり調子を崩していました」
「知っている。現場で見ていた」
「プリティミューさん、蜘蛛男さんの自己紹介を二回遮りましたし」
「悪の怪人の名乗りを遮るとは、礼儀を知らぬ小娘め」
そう言いながら、ゲル大佐は書類の一枚に赤ペンで印をつけた。
怒ってはいる。
だが、感情だけで判断しているわけではない。
蜘蛛男の敗北は痛い。
しかし、全滅ではない。
戦闘員の回収率は高い。施設の損害は想定内。怪人細胞の一部も回収済み。さらに、プリティミューの初期戦闘データが大量に取れた。
負け方としては、最悪ではない。
そこを理解できる程度には、ゲル大佐は現場指揮官だった。
問題は、上がどう見るかである。
ゲル大佐が胃薬を水なしで飲み込もうとした、その時。
指令室の照明が一段、暗くなった。
モニターの一つが、砂嵐のようなノイズを走らせる。
赤い警告ランプが、ゆっくりと点滅した。
戦闘員たちが一斉に作業を止める。
42号が小声で言った。
「大佐……」
「わかっている」
ゲル大佐は立ち上がり、背筋を伸ばした。
先ほどまでの胃痛持ちの中間管理職めいた姿は消える。
黒いコートの裾を払うと、彼は悪の幹部らしい威厳をまとった。
中央モニターが黒く染まる。
その黒の中に、白い仮面のようなアイコンが浮かび上がった。
顔ではない。
表情でもない。
ただ、目と口の位置だけがある、抽象化された仮面。
けれど、それが映った瞬間、指令室の温度が数度下がったように感じられた。
首領X。
ジョーカーの頂点。
帝都支部のすべての命令系統の、さらに上にある存在。
スピーカーから、低く、静かな声が流れた。
「ゲル大佐」
ゲル大佐は片膝こそつかなかったが、深く頭を下げた。
「はっ、首領X!」
42号を含む戦闘員たちも一斉に敬礼する。
モニターの仮面は、何も変わらない。
しかし、見られている。
ゲル大佐は、いつもそう感じる。
目の前の画面だけではない。
指令室の監視カメラ、通信ログ、作戦資料、自分の呼吸、胃薬を飲むタイミングまで、すべて見られているような感覚。
首領Xとは、そういう存在だった。
「蜘蛛男作戦の報告を受け取った」
「はっ。今回の失敗につきましては、私の現場指揮に――」
「プリティミューの戦闘データは有用だった」
ゲル大佐は言葉を止めた。
「……は?」
思わず素の声が漏れた。
慌てて咳払いする。
「は、では蜘蛛男の失敗は……」
「失敗ではない」
首領Xの声は、平坦だった。
「第一段階の観測完了だ」
指令室に、奇妙な沈黙が落ちた。
ゲル大佐は、眉間にしわを寄せる。
敗北した。
作戦目標は未達成。
怪人は倒され、プリティミューは生存。
映像は一部ネットに流出。
隠蔽班は徹夜。
それなのに、首領Xは「失敗ではない」と言う。
褒められているのか。
責められているのか。
それとも、自分が知らない作戦目標が別にあったのか。
ゲル大佐の胃が、もう一段きりきりと痛んだ。
「首領X。確認してもよろしいでしょうか」
「許可する」
「今回の作戦目標は、アイン科学研究所の妨害、およびμシステム適合者の戦闘能力測定だったはずです。蜘蛛男は撃破されました。これは現場としては敗北であります」
「現場としては、そうだ」
首領Xは言った。
「だが、観測としては十分だ」
モニターに、プリティミューの戦闘映像が映る。
ピンクと白の装甲。
銀白色のブレスレット。
ミュー・ハンマー。
転びながらも立ち上がる姿。
逃げようとして、振り返る瞬間。
映像がそこで止まった。
プリティミューの顔は、ブレている。
だが、恐怖と怒りが混ざった目だけは、かろうじて確認できた。
「対象は恐怖した」
首領Xが言う。
「逃走を選択しかけた。しかし、第三者被害の可能性を認識した瞬間、戦闘継続へ移行した。自己保存よりも、他者防衛を優先した」
ゲル大佐は黙って聞いた。
「それは、古い英雄の条件ではない」
モニターに、別の波形が表示される。
ミユの戦闘出力。心拍推定。音声反応。移動速度。
それらが、蜘蛛男に追い詰められた瞬間と、被害者へ糸が伸びた瞬間で大きく変化している。
「強者が弱者を守るのではない。逃げたい者が、逃げきれずに踏みとどまる。そこに、現代のヒーロー発生条件がある」
その言葉は、どこか人間の感想のようでいて、完全に数式でもあった。
ゲル大佐は、背筋に薄い寒気を覚えた。
彼はプリティミューを敵として見ている。
作戦を邪魔する小娘。
ジョーカー帝都支部に現れた新しい障害。
しかし首領Xは、違う。
首領Xはプリティミューを倒すべき敵としてだけ見ていない。
育つものとして見ている。
観測する対象として見ている。
その違いが、ゲル大佐には不快だった。
だが、顔には出さない。
「では、次の作戦はどのように」
「次は、彼女の戦闘力ではなく、日常防衛反応を観測せよ」
「日常防衛反応……?」
ゲル大佐が復唱する。
耳慣れない言葉だった。
首領Xの仮面アイコンは、静かに揺らめいている。
「戦場での反応は確認した。次に必要なのは、日常圏へ危機が侵入した場合の選択だ」
モニターに、ホウジュ区の地図が映し出される。
駅前。住宅地。学校。旧北口商店街。アイン科学研究所周辺。
赤い線が、プリティミュー出現地点と、目撃情報を結んでいく。
「対象は、正体を隠す必要がある。家族、学校、友人、社会的立場。それらは、変身者にとって防御壁であり、同時に枷となる」
ゲル大佐は目を細めた。
「つまり、プリティミューの周辺人物を使うと?」
「身近な者が闇に誘われた時、彼女は正体を守るか、他者を守るか」
指令室のどこかで、機械音が小さく鳴った。
42号が、ほんのわずかに肩を揺らす。
ゲル大佐は、ちらりと部下の方を見た。
戦闘員たちは無表情にしている。
だが、何人かはわかっているはずだ。
これは、単なる街の襲撃より嫌な作戦だ。
敵の心に手を入れる作戦。
ゲル大佐は悪の幹部だ。
綺麗事で戦っているわけではない。
それでも、作戦には現場の筋というものがある。
だが、首領Xの命令である。
彼は胸に手を当て、深く頭を下げた。
「了解しました。次期作戦を夜間誘導型へ移行します」
「適任を投入せよ」
「すでに候補があります」
ゲル大佐は顔を上げた。
指令卓の端末に手をかざす。
認証音。
地下格納区画への扉が、低い音を立てて開いた。
指令室の奥、赤い照明が灯る廊下の向こうに、闇があった。
そこから、杖の音が聞こえた。
こつん。
こつん。
硬い床を、上品に叩く音。
やがて、闇の中から一人の老紳士が現れた。
黒い燕尾服。
深紅の裏地を持つマント。
高い襟。
銀の飾りがついた杖。
痩せた身体。
古風な仕草。
顔は白く、目元には影が濃い。口元には、穏やかな笑みがある。
その笑みが、何よりも人間離れしていた。
彼は指令室へ一歩踏み入れると、ゲル大佐へ向かって優雅に礼をした。
「お招きいただき光栄です、大佐殿」
声は、夜に溶けるように滑らかだった。
ゲル大佐は、いつもの芝居がかった威厳を取り戻し、腕を組む。
「蝙蝠伯爵」
その名が告げられた瞬間、指令室の照明がわずかに落ちたように感じられた。
蝙蝠伯爵は、微笑んだまま首を傾げる。
「昨夜の採取結果は、ひとまず良好でございます。都会の夜は、まことによく熟れておりますな」
「余計な詩的表現はいらん」
「これは失礼」
「貴様には、夜間誘導作戦を任せる」
「承知しております」
蝙蝠伯爵は、杖の先で床を軽く叩いた。
こつん。
その音に合わせて、指令室のモニターに白いワゴン車の映像が映る。
《ナイトケア・ワゴン》
睡眠チェック無料。
夜間ストレスケア。
疲労回復モニター受付中。
柔らかなデザイン。
清潔な車体。
怪しさを覆い隠す、ちょうどよい程度の安心感。
ゲル大佐は映像を見ながら言う。
「表向きは夜間睡眠ケア。対象は夜間単独行動者。睡眠不足、疲労、判断力低下状態にある者を優先する」
「疲れた方ほど、よく音に耳を傾けてくださいます」
「人を眠らせるのではなく、眠りを奪う。よろしいですな?」
「ええ」
蝙蝠伯爵は、まるで高級な紅茶の産地を語るように答えた。
「眠りとは、血よりも繊細なものです。血は肉体に宿る。けれど眠りは、肉体と心のあわいに生まれる。そこを少しだけいただくのです」
「少しだけ、で済ませろ」
ゲル大佐の声が硬くなる。
「首領Xの望みは、プリティミューの反応だ。過度な被害は出すな」
「ご安心を。私は美しい眠りしかいただきません」
ゲル大佐は、眉間に深くしわを寄せた。
その言い回しが、まったく安心できなかった。
「蝙蝠伯爵」
「はい」
「美しいかどうかは貴様の感性だ。作戦上必要な範囲を超えるな」
「大佐殿は、いつも現実的でいらっしゃる」
「現場指揮官だからな」
「だからこそ、帝都支部は壊れずに済んでいるのでしょう」
蝙蝠伯爵は微笑んだ。
褒めているようにも、皮肉っているようにも聞こえた。
42号が小さく身じろぎする。
ゲル大佐は、蝙蝠伯爵の視線を受け止めたまま、端末を操作した。
モニターに、作戦概要が展開される。
《J-02 夜想曲作戦/ノクターン・プログラム》
第一段階。
ホウジュ区内で睡眠障害事件を連続発生させる。
第二段階。
SNS上の目撃情報を意図的に残し、情報収集者を誘導する。
第三段階。
プリティミュー、またはその協力者が接近した場合、日常圏から戦闘圏への移行反応を観測する。
第四段階。
必要に応じて対象を廃劇場へ誘導。閉鎖空間での変身判断を観測する。
蝙蝠伯爵は、計画書を興味深そうに眺める。
「なるほど。彼女に選ばせるわけですな」
「そうだ」
ゲル大佐は言った。
「プリティミューが正体を守ることを優先すれば、救助は遅れる。救助を優先すれば、正体露見の危険が増す。どちらを選ぶかを見る」
言っていて、ゲル大佐自身、少し気分が悪くなった。
悪事としては合理的だ。
作戦としても有効だ。
だが、首領Xが求めているものは勝敗ではない。
選択そのものだ。
その違和感が、喉の奥に小骨のように引っかかる。
首領Xの声が、再びスピーカーから響いた。
「ゲル大佐」
「はっ」
「対象の破壊を優先するな」
ゲル大佐は一瞬、言葉を失った。
「……プリティミューを倒すのではないのですか」
「今はまだ、その段階ではない」
今はまだ。
その言葉が、指令室の空気を冷たくした。
首領Xは続ける。
「彼女には、より多くの選択を経験させる必要がある。恐怖。疲労。羞恥。孤立。秘密。友情。責任。それらが、彼女を形成する」
ゲル大佐は拳を握った。
プリティミューを育てる。
そんな言葉は使われていない。
だが、意味は同じだった。
「了解しました」
ゲル大佐は低く答えた。
「帝都支部は、首領Xの命令を遂行します」
「期待している」
それだけ言って、首領Xの仮面アイコンはゆっくりと消えた。
モニターが通常表示へ戻る。
指令室の照明も元に戻った。
だが、空気だけはしばらく重いままだった。
戦闘員たちは、誰からともなく作業へ戻る。
キーボードの音。
通信の確認。
ドローン映像の同期。
支部は再び動き始める。
ゲル大佐は深く息を吐いた。
そして、こっそり胃のあたりを押さえた。
42号が小声で近づく。
「あの、大佐。胃薬、追加でお持ちしましょうか」
「……持ってこい」
「水も?」
「水もだ」
「かしこまりました」
42号は走りかけて、すぐに戻ってきた。
「あ、すみません。作戦前ブリーフィング、今ですか?」
「今だ。胃薬の後だ」
「順番、大事ですね」
「大事だ」
ゲル大佐は椅子に座り直し、端末の画面を切り替えた。
「対象周辺の情報を出せ」
モニターに、SNS監視ログが並ぶ。
プリティミューの目撃動画。
切り抜き。
考察アカウント。
怪人事件まとめ。
都市伝説掲示板。
眠れない人々の投稿。
その中に、一つのアカウントが強調表示された。
《ホウジュ区怪人事件ログ》
プロフィール画像は、手描きの眼鏡マーク。
投稿は整然としている。
《プリティミュー初出現地点と旧地下設備の関連性について》
《蜘蛛型怪人事件:目撃証言まとめ》
《ホウジュ区不眠症状と白いワゴン車の出現地点》
《夜間のオルゴール音に関する投稿整理》
ゲル大佐は目を細めた。
「一般人か?」
分析担当の戦闘員が答える。
「はい。専門機関ではありません。高校生と思われます。ただ、情報整理能力が高く、目撃情報の精度も良好です」
「高校生……」
ゲル大佐の眉間のしわが深くなる。
「アイン科学研究所関係者では?」
「現時点では不明です。ただし、プリティミュー出現地点と学校周辺の相関に言及しています」
別のモニターに、学校付近の地図が表示される。
宝珠南高等学校。
朝倉ミユの通学圏。
メグの投稿時間帯。
ゲル大佐は黙った。
プリティミューの正体を、帝都支部はまだ完全には掴んでいない。
アイン科学研究所とμシステム適合者。
女子高校生らしき体格。
ホウジュ区内の行動圏。
そこまでは見えている。
だが、特定には至っていない。
それなのに、この一般人の調査アカウントは、別方向から近づいている。
蝙蝠伯爵が、モニターの前に静かに歩み寄った。
彼は画面の投稿を見つめ、目を細める。
「このお嬢さん、よく見ておりますな」
声には、愉快そうな響きがあった。
ゲル大佐はすぐに言った。
「一般人だ。余計な被害は避けろ」
「もちろん」
蝙蝠伯爵は杖を胸に当て、優雅に礼をする。
「舞踏会に招くだけでございます」
ゲル大佐は、目を細めた。
「招くだけ、だな?」
「ええ。夜に迷い込んだお客様には、相応の席をご用意いたします」
「その言い回しをやめろ。不安になる」
「それは失礼」
蝙蝠伯爵は、まったく悪びれずに笑った。
モニターでは、メグのアカウントが新しい投稿を準備している。
《今夜二十二時、旧北口商店街裏。ナイトケア・ワゴン確認予定》
まだ投稿はされていない。
下書きか、予約投稿か、通信ログから拾ったものか。
だが、ジョーカーの監視網はそれを捕らえていた。
42号が戻ってきて、ゲル大佐に胃薬と水を差し出す。
「大佐、これ……この子、本当に来るんですかね」
「来るだろう」
ゲル大佐は水を受け取りながら言った。
「見てしまう者は、見なかったことにできん」
その言葉は、妙に実感がこもっていた。
42号は少し黙った。
「……プリティミューも、来ますかね」
ゲル大佐はモニターを見た。
プリティミューの映像。
震えながらも、怪人の前に戻った少女。
それを思い出し、彼は低く答えた。
「来る」
確信があった。
「あの小娘は、来る」
蝙蝠伯爵は、満足そうに目を細めた。
「では、今宵はよい夜になりますな」
彼が杖を鳴らす。
こつん。
その音に合わせるように、指令室の奥で白いワゴン車のエンジンが静かに始動した。
モニターの中で、ホウジュ区の夜がゆっくりと広がっていく。
駅前の灯り。
旧北口商店街の裏通り。
誰もいないシャッター街。
そして、夜の底から、古いオルゴールの音が流れ始める。
チリ、チリ、チリ。
まだ日は沈みきっていない。
それでも、ジョーカー帝都支部の夜間作戦は、すでに始まっていた。




