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第2節 ― 追っかけ眼鏡と、眠すぎる朝

 朝倉ミユは、目覚まし時計の音で目を覚まさなかった。


 スマホのアラームは、たしかに鳴っていた。

 枕元で、けたたましく電子音を響かせていた。


 けれど、ミユの身体は、布団の中で完全に死んでいた。


 いや、生きてはいる。


 息はしている。

 心臓も動いている。

 ただし、全身が自分のものではない。


 腕を動かそうとした瞬間、肩から背中にかけて、ぎしり、と嫌な痛みが走った。


「……いっ」


 声にならない声が漏れる。


 脚を曲げようとしたら、太ももが悲鳴を上げた。

 寝返りを打とうとしたら、腰が裏切った。

 首を少し上げただけで、腹筋が抗議してきた。


 全身筋肉痛。


 昨日まで、筋肉痛というものは体育の持久走とか、久しぶりに自転車を全力でこいだ時になるものだと思っていた。


 違った。


 怪人と戦っても、なる。


 しかも、体育の比ではない。


「……無理」


 ミユは布団の中で小さく呟いた。


 学校に行くとか、制服に着替えるとか、朝ごはんを食べるとか、そういう人間らしい活動をする以前に、まず布団から出るという文明的行為が不可能だった。


 左手首に、少し重い感触がある。


 μブレスレット。


 銀白色の、ごついスマートウォッチみたいな変身端末。

 昨日、アインとかいう最悪の天才科学者に半ば強引に使わされ、ミユを科学少女プリティミューなどという、人生で一度も名乗りたくなかった存在に変えてしまった装置である。


 昨夜、家に帰ってから何度も外そうとした。

 石鹸をつけても、ハンドクリームを塗っても、検索した「外れない指輪 対処法」を応用しても、まったく外れなかった。


 最終的に、ミユは力尽きて寝た。


 寝たというより、意識を失った。


 その結果がこれである。


「……労災」


 布団の中で、ミユは虚空に向かって呟く。


「これはもう、完全に労災……」


 階下から、母の声が飛んできた。


「ミユー! 起きてるー?」


 起きてはいる。

 起き上がれていないだけだ。


 そう返事をしたかったが、声を出すのも少し面倒だった。


「ミユ! 遅刻するよ!」


「……してる」


「何が?」


「人生が……」


「朝から重いこと言わない!」


 階段を上がってくる足音がした。


 母、朝倉かなえの足音は、昔からわかりやすい。

 少し早くて、少し雑で、でも家の中をちゃんと回している人の足音だ。


 ドアがノックされた。


「入るよ」


「待って。今、社会に出られる状態じゃない」


「学校に行くだけでしょ」


 ドアが開いた。


 かなえは、エプロン姿のまま部屋を覗き込んだ。

 仕事前の朝なので、髪は後ろでざっくりまとめている。薄く化粧も済ませているが、目元には少し疲れがある。けれど、声はいつも通り明るい。


 その母が、布団の中で半分ミノムシになっている娘を見て、眉を上げた。


「……なに、その顔」


「生きるって大変だなって顔」


「十六歳がする顔じゃない」


「十六歳にもいろいろあるんだよ」


 かなえは部屋に入り、カーテンを開けた。


 朝の光が容赦なく差し込む。


「ぐあっ」


「吸血鬼?」


「違うけど、今日の光は敵」


「昨日、何時に寝たの」


「ええと……寝たというか、落ちたというか」


「どこに」


「意識の底に」


「本当に朝から重いな」


 かなえはベッドの脇に立ち、ミユの布団を軽くめくった。


 ミユは制服どころか、まだ寝間着のままだ。髪は片側だけ妙にはねている。顔色は悪く、目の下にはうっすら隈がある。


 母の目が、すっと細くなった。


 ミユはその目を見て、少しだけ身構えた。


 かなえは普段、雑に見える。

 けれど、娘の体調不良や嘘には妙に鋭い。


「あんた、寝相で怪人と戦ったの?」


 ミユの心臓が跳ねた。


「はっ?」


「いや、全身痛そうだから」


「そ、そんなわけないじゃん。怪人って何。寝相で戦う怪人って何」


「私が聞きたいわ」


 かなえは腕を組んだ。


「昨日、帰ってきた時も変だったし。服、妙に汚れてたし。ごはん食べながら寝かけてたし。夜中、うなされてたし」


「うなされてた?」


「うん。『その技名はない』って言ってた」


 ミユは布団の中で顔を覆った。


 最悪だ。


 夢の中でまでアインに文句を言っていたらしい。


「ええと……昨日は、その……体育が」


「体育?」


「そう。体育。すごい体育だった」


「すごい体育って何」


「体を育てるって書いて体育だから、まあ、すごい日もあるかなって」


「ないでしょ」


「いや、体育の予習……?」


「体育は予習しないでしょ」


 完全に正論だった。


 ミユは負けた。


 かなえはため息をつき、ベッドに腰かけた。


「バイト、きついの?」


 その声は、さっきまでより少しだけ低かった。


 ミユは布団の端を握った。


 高額バイトに応募したことは母に伝えてある。

 ただし、仕事内容は「実験補助」としか言っていない。まさか「変身して怪人と戦う仕事です」とは言えない。


 言ったら、母はたぶん怒る。

 たぶんというか、絶対に怒る。


 そして、アイン科学研究所に乗り込む。


 それはそれで少し見たい気もするが、今は困る。


「……まあ、ちょっと」


「ちょっとでその顔?」


「初日だったから。慣れてなくて」


「辞めてもいいんだからね」


 かなえは簡単に言った。


 その簡単さに、ミユは逆に胸が詰まった。


 家計に余裕がないことを、ミユは知っている。

 母は隠しているつもりかもしれないが、電気代の明細を見て固まっている顔も、スーパーの値引きシールを見つけた時の判断の速さも、ミユはちゃんと見ている。


 だから、バイトを始めた。


 母に少しでも楽をさせたい。

 自分のスマホ代くらいは出したい。

 進学の話になった時、最初から「お金がないから」と言わなくて済むようにしたい。


 そう思っていた。


 それが、なぜか怪人と戦っている。


 人生、説明が足りない。


「辞めないよ」


 ミユは小さく言った。


「まだ、始めたばっかりだし」


「無理はしないこと」


「してない」


「今の状態で言われても説得力ゼロ」


「う」


 かなえはミユの額に手を当てた。


 熱はない。

 それを確認してから、少しだけ安心したように息を吐く。


「朝ごはん、食べられる?」


「食べる」


「即答ね」


「お腹は空いてる」


「そこだけ元気」


「そこが生命線」


 かなえは笑い、立ち上がった。


「じゃあ、五分で下りてきなさい」


「十分」


「七分」


「八分」


「六分」


「交渉って知ってる?」


「母親なめんな」


 かなえはそう言って部屋を出ていった。


 ドアが閉まる。


 ミユはしばらく天井を見つめた。


 母の声が、階下で食器を並べる音に混ざって聞こえる。テレビのニュース。味噌汁の湯気。トースターの音。


 いつもの朝。


 その当たり前の中に、自分だけが少しずれている。


 左手首のμブレスレットが、袖の下でかすかに冷たかった。


「……ほんと、どうすんのこれ」


 ミユはそう呟き、気合いで身体を起こした。


 全身が抗議した。


「いっ、た……!」


 正義の味方は、朝からかなり割に合わなかった。


     *


 宝珠南高等学校の朝は、いつもざわざわしている。


 校門前には、眠そうな顔の生徒たちが流れ込んでいた。

 自転車を押す者。イヤホンを外さない者。コンビニの袋からパンを出している者。友達と昨日のドラマの話をしている者。


 正門の横に立つ生活指導の教師が、スカート丈とネクタイの緩みを順番に注意している。


 ミユは、その横をできるだけ普通の顔で通り抜けた。


 普通の顔。


 それが、今日の目標だった。


 左手首のμブレスレットは、制服の袖とリストバンドで隠してある。

 少し不自然だが、まだ季節的に長袖でもおかしくない。


 問題は、歩き方だった。


 筋肉痛を悟られないようにすると、逆に動きがぎこちなくなる。

 階段を上る時など、太ももが一段ごとに「昨日の件、忘れてないからな」と訴えてくる。


「朝倉、おはよー」


「お、おはよ」


 クラスメイトの声に、ミユはなんとか笑って返した。


「なんか歩き方変じゃない?」


「成長期」


「高二で?」


「心の」


「朝から何言ってんの」


 笑って流される。


 助かった。


 ミユは廊下を進む。


 だが、教室に近づくにつれ、ざわめきの種類が変わっていることに気づいた。


 いつもの恋バナや小テストの話ではない。


 スマホを囲んでいる生徒が多い。

 画面を見ながら、妙に興奮した声を上げている。


「これ、やばくない?」


「ほんとにホウジュ区?」


「加工じゃないの?」


「いや、昨日の駅裏って書いてある」


 ミユの背中に、嫌な汗がにじんだ。


 嫌な予感しかしない。


 教室に入ると、その予感は的中した。


 数人の女子が机を寄せ合い、スマホの動画を再生している。


 画面は揺れていた。

 暗い場所。おそらく第1話の廃水処理施設付近。

 遠くに、蜘蛛の脚のような影。

 そして、画面の端に、ピンク色の人影が映る。


 ミユは心の中で叫んだ。


 撮られてる。


 撮られてる!


 しかも、よりによって横から!


「これホウジュ区でしょ?」


「ピンクの子、めっちゃ可愛い」


「いや、武器ピコピコハンマーじゃない?」


「でも普通に怪人ふっ飛ばしてない?」


「名前、プリティミューってタグついてる」


「何その名前。かわいいけど、ちょっと古くない?」


 ミユは鞄を机に置くふりをしながら、視線だけで動画を確認した。


 画質は悪い。

 暗い。

 顔もはっきり映っていない。


 助かった。


 そう思った瞬間、動画内のプリティミューが叫んだ。


『その作戦名、長いしダサい!』


 教室が一瞬、妙な沈黙に包まれた。


 ミユは固まった。


 自分の声。


 しかも、かなり自分らしい声。


 なぜ怪人と戦っている時にまで、そんな素のツッコミを入れてしまったのか。昨日の自分を殴りたい。


 クラスメイトの一人が、ゆっくりとミユの方を見た。


「……なんか朝倉っぽくない?」


 心臓が止まりかけた。


「えっ」


 ミユは、思わず変な声を出した。


 そのせいで、近くにいた数人がこちらを見る。


「いや、ツッコミ方が」


「わかる。朝倉、こういうこと言いそう」


「ていうか声似てない?」


「えー、でも朝倉がこんな可愛い格好する?」


「しないしない」


「しないって何!?」


 思わず反応してしまった。


 しまった。


 ミユはすぐに口を押さえたが、もう遅い。


 クラスメイトたちは笑った。


「ほら、そういうとこ」


「朝倉っぽい」


「いやいやいや、ないから。私じゃないから。そもそも私、昨日は家で……」


 何をしていたことにする?


 寝ていた。

 いや、帰宅時間を聞かれたら困る。


 勉強していた。

 誰も信じない。


 体育の予習。

 今朝すでに母に負けた。


「……精神統一を」


「急に武道家?」


 墓穴を掘った。


 ミユは机に突っ伏したくなった。


 だが、その時。


「ミユ先輩」


 背後から、静かだが妙に熱を帯びた声がした。


 ミユは振り返る。


 教室の入口に、小柄な少女が立っていた。


 高梨メグ。


 高校一年生。

 ミユの後輩で、同じ学校の生徒。

 大きめの丸い眼鏡をかけ、少し長い前髪の奥から、こちらをじっと見ている。


 片手にはスマホ。

 もう片方の腕には、付箋だらけのノートを抱えていた。


 そのノートの表紙には、手書きの文字でこう書かれている。


《ホウジュ区怪人事件ログ》


 見た瞬間、ミユは嫌な確信を抱いた。


 これは、面倒なやつだ。


「メグちゃん……おはよう」


「おはようございます」


 メグは一礼した。


 礼儀正しい。

 ただし、目が完全に獲物を見つけた研究者のそれだった。


「ミユ先輩。単刀直入に聞きます」


「聞かないで」


「先輩、プリティミューですよね?」


「聞くなって言ったよね!?」


 教室の空気が、さらにざわっとした。


 ミユは慌ててメグの肩を掴み、教室の外へ引っ張った。


 正確には、引っ張ろうとした。

 しかし筋肉痛で力が入らず、逆に自分の腕が痛んだ。


「いっ……!」


「先輩、やっぱり筋肉痛ですか?」


「ちがう!」


「プリティミューさんも、昨日の動画で右肩を押さえていました」


「偶然!」


「歩き方も似ています」


「人類の歩き方はだいたい似てる!」


「声紋も近いです」


「声紋って何をどうしたの!?」


 ミユは周囲の視線を避けるように、メグを廊下の端へ連れていった。

 階段横の掲示板の前。

 部活勧誘ポスターと進路説明会の案内に挟まれた、比較的人目の少ない場所だ。


 メグはノートを開いた。


 ページには、昨日の動画から切り出したらしい画像、地図、時刻、目撃者の投稿、プリティミューの身長推定などがびっしり書き込まれている。


 ミユは思わず引いた。


「……メグちゃん、これ何?」


「観測記録です」


「観測って言えば許されると思ってる?」


「眼鏡なので」


「眼鏡は免罪符じゃない」


 メグは眼鏡のブリッジを指で押し上げた。


「先輩、まず身長です。動画内のフェンスの高さ、周囲の配管、蜘蛛型怪人の脚部推定サイズから逆算すると、プリティミューさんの身長は百五十七から百六十二センチの範囲です」


「世の中にその身長の女子、山ほどいるから」


「次に声です。動画に入っていた『その作戦名、長いしダサい』という発言を、先輩が文化祭の時にステージ裏で言っていた『その企画名、長いしダサい』と比較しました」


「なんでそんな音声持ってるの!?」


「記録係だったので」


「記録係って怖い!」


「さらに、出現地点です。昨日の怪人出現地点は、アイン科学研究所と噂されている旧ビルから半径二キロ圏内。先輩が最近始めたバイト先も、たしかホウジュ区の外れの研究所ですよね」


「そ、それは……普通の研究所!」


「普通の研究所は、怪人出現地点と同じ方向にありません」


「偏見!」


「あと、手首」


 メグの視線が、ミユの左手首に落ちた。


 ミユは反射的に袖を押さえた。


 その動きで、メグの目がきらりと光る。


「先輩、最近ずっと左手首を隠しています」


「寒いから」


「今日は最高気温二十七度です」


「心が寒いから」


「それは否定しませんが」


「否定して!」


 メグはさらにノートをめくった。


「プリティミューさんの変身端末らしき発光体は左手首にあります。動画では一瞬しか見えませんが、形状はスマートウォッチ型。先輩が今隠しているものと位置が一致します」


「偶然!」


「先輩、偶然を使いすぎると必然になります」


「メグちゃん、そういう名言っぽいこと言うのやめて。追い詰められてる気分になる」


「追い詰めています」


「言い切った!」


 ミユは頭を抱えた。


 まずい。


 かなり、まずい。


 メグはただの好奇心で騒いでいるわけではない。

 ちゃんと見ている。

 ちゃんと集めている。

 ちゃんと考えている。


 アインが見たら、「一般人にしては観測精度が高い」とか言いそうだ。


 その時点で危険である。


 ミユは深呼吸した。


「メグちゃん」


「はい」


「仮に。仮にだよ」


「はい、仮定ですね」


「私がプリティミューだったとして」


「はい」


「いや、仮にだからね?」


「はい。仮定上の先輩がプリティミューです」


「言い方」


 ミユは声を潜めた。


「そういうの、あんまり広めないで。危ないから」


 メグの表情が、少しだけ変わった。


 それまで好奇心で輝いていた目が、わずかに真剣になる。


「危ない、ですか」


「そう。怪人とか、変な組織とか、たぶんいるから」


「たぶん?」


「たぶん! ニュースとかで!」


「先輩」


「何」


「今、かなり自白に近いです」


「しまった!」


 ミユは口を押さえた。


 もう今日は口を開かない方がいいのではないか。


 メグは、ふっと小さく笑った。


 それは勝ち誇った笑みではなかった。

 むしろ、少し安心したような、でも心配そうな笑みだった。


「わたし、先輩を困らせたいわけじゃないです」


「今かなり困ってるけど」


「それは、すみません」


 メグは素直に頭を下げた。


「でも、気になるんです。プリティミューさんが誰なのかも、もちろん気になります。でも、それ以上に……あの人、怖かったんじゃないかなって」


 ミユは黙った。


 廊下の向こうでは、生徒たちが笑いながら教室へ入っていく。

 チャイムまで、あと数分。


 そんな普通の朝の中で、メグの声だけが少し静かに響いた。


「動画、何回も見ました。プリティミューさん、怪人に向かってすごく強そうに叫んでました。でも、足、震えてたんです」


 ミユの喉が詰まった。


 見られていた。


 そんなところまで。


「それに、最初の方、逃げようとしてました。でも途中で戻った。たぶん、誰かを助けるために」


「……動画、画質悪かったでしょ」


「悪いです。でも、わかりました」


 メグは眼鏡を押し上げた。


「眼鏡なので」


「だから眼鏡を万能装備にしないで」


 ミユはそう言ったが、声にはいつもの勢いが少し足りなかった。


 怖かった。


 本当に怖かった。


 怪人も怖かった。

 変身も怖かった。

 武器がピコピコハンマーだったことも、別方向で怖かった。


 でも一番怖かったのは、戦っている自分を誰かに見られて、普通の日常に戻れなくなることだった。


 それを、メグは少しだけ見抜いている。


 ミユは、それが怖くもあり、少しだけ救いでもあった。


「でも」


 メグはノートを閉じた。


「今は、それより気になることがあります」


「それよりって何?」


 ミユは思わず聞き返した。


 プリティミューの正体疑惑より気になること。

 それがこの後輩にあるという時点で、嫌な予感がした。


 メグはスマホを操作し、画面をミユに見せた。


 SNSの投稿が並んでいる。

 ハッシュタグは、《ホウジュ区不眠》《白い車》《夜のオルゴール》《ナイトケア》など。


「ホウジュ区で、夜に眠りを失う人が増えてます」


 ミユの背筋が冷えた。


 今朝のニュースが頭をよぎる。


 アインの声も、なぜか思い出した。


 出勤だね、バイト君。


 嫌だ。


 すごく嫌だ。


 だが、メグは画面をスクロールしながら続ける。


「これ、ただの不眠症じゃないと思うんです。投稿の内容が似すぎています」


 画面に、いくつもの短い投稿が表示された。


《三日寝てないのに眠れない。眠いのに落ちない。何これ》

《夜中にオルゴールの音が聞こえた。外に出たら白い車がいた気がする》

《ナイトケア? みたいな車、駅裏で見た。あれ何?》

《黒い羽根の男を見たって友達が言ってる。さすがに盛ってる?》

《寝たはずなのに、朝になっても夜の中にいる感じがする》

《病院行ったけど異常なしって言われた。じゃあこの眠さ何?》


 ミユは、画面から目を離せなかった。


 黒い羽根の男。


 白い車。


 オルゴール。


 あまりにも、普通ではない。


 普通ではないものを、ミユは昨日見たばかりだった。


 蜘蛛の怪人。

 糸。

 廃水処理施設。

 ピンクの装甲。

 ミュー・ハンマー。

 アインの通信。

 ワトソンの冷静な声。


 日常の外側にあるものは、もうミユの知らないところで動いている。


 そして今度は、それが学校の廊下にまで届いている。


「……メグちゃん」


「はい」


「これ、どこまで調べたの」


「発生地点を地図に落としました。夜十時以降、駅前から旧北口商店街方面に集中しています。あと、被害者の多くが、残業帰り、塾帰り、夜勤明け、配達員など、夜に一人で移動している人です」


「メグちゃん、探偵か何か?」


「眼鏡です」


「眼鏡ってすごいんだね……」


 ミユは半分本気で言った。


 メグはノートを開き、地図を見せた。


 ホウジュ区の簡易地図。

 駅前。商店街。学校。住宅地。病院。

 そして、赤いペンでいくつもの印がつけられている。


 その印は、旧北口商店街の裏通りへ向かって、少しずつ集まっていた。


「ここ」


 メグが指さした。


「昨夜、白いワゴン車を見たという投稿が三件あります。時間帯は二十三時前後。動画はまだ見つかっていません。でも、音声だけ拾った投稿があって」


 メグはスマホを操作した。


 小さな音が流れる。


 チリ、チリ、チリ。


 古いオルゴールのような音。


 その音が、廊下のざわめきの中で、妙にはっきり響いた。


 ミユの腕に、鳥肌が立った。


 同時に、左手首のμブレスレットが、袖の下でかすかに震えた気がした。


 気のせいではない。


 ほんの一瞬、青白い光が布越しに漏れた。


 ミユは慌てて手首を押さえた。


 メグの視線が動く。


「先輩、今――」


「何もない!」


「まだ何も言ってません」


「予防!」


 チャイムが鳴った。


 廊下の生徒たちが教室へ戻り始める。


 ミユは内心で、チャイムに感謝した。


 助かった。


 少なくとも、今は。


「ほら、授業始まるから。メグちゃんも教室戻りな」


「はい」


 メグはノートを抱え直した。


 だが、その表情はまだ納得していない。


「先輩」


「何」


「放課後、少し話せますか」


「……内容による」


「怪人事件についてです」


「その言い方、もう内容が危ない」


「大丈夫です。学校内で話します」


「絶対だよ」


「はい」


 メグは頷いた。


 その素直さが、逆に不安だった。


     *


 授業中、ミユは何度も意識を飛ばしかけた。


 数学の板書は、途中から暗号に見えた。

 古文の助動詞は、怪人の作戦名より難解だった。

 英語のリスニングでは、音声の女性が何かを言っているのに、耳の奥であのオルゴールの音が混ざって聞こえた気がした。


 眠い。


 とにかく眠い。


 けれど、眠るのが少し怖かった。


 今朝のニュース。

 メグが見せた投稿。

 眠りを失った人たち。


 眠いのに眠れない。

 眠っても夜が終わらない。


 そんな状態が、本当にあるのだろうか。


 机に伏せそうになった瞬間、左手首がまた小さく震えた。


 ミユは反射的に袖を押さえた。


 μブレスレットの中央に、小さな光が走っている。

 警告の赤ではない。

 かすかな青白い反応。


 アインからの通信ではない。

 怪人反応に近いものを拾った時の、低出力の予備警告。


 ミユは唇を噛んだ。


 知らないふりをしたい。


 ものすごく、したい。


 自分は高校生で、今日は普通に授業を受けて、普通に昼休みにパンを食べて、普通に放課後帰ればいいはずだった。


 でも、メグは調べている。


 あの子は、怖がりなくせに好奇心で危険へ近づくタイプだ。

 そして、たぶん止めても完全には止まらない。


 ミユは窓の外を見た。


 空は明るい。

 校庭では、体育の授業をしている別クラスの生徒たちが走っている。


 こんな明るい場所にいると、昨夜の怪人も、白いワゴンも、黒い羽根の男も、全部作り話のように思える。


 けれど、左手首の冷たい重みだけが、現実だった。


     *


 放課後。


 教室のざわめきが、部活へ向かう声と、帰宅する生徒たちの足音にほどけていく。


 ミユは鞄を肩にかけた。

 本音を言えば、すぐ帰りたかった。

 帰って寝たい。

 できれば、夕飯まで寝たい。


 しかし、廊下に出ると、メグが待っていた。


 階段脇の壁に背をつけ、ノートを胸に抱えている。

 眼鏡の奥の目は、朝よりもさらに真剣だった。


「ミユ先輩」


「……うん」


 逃げられない。


 ミユは観念して、メグと並んで歩き出した。


 校舎の端、使われていない多目的教室の前。

 そこは放課後になると人通りが少ない。窓からは西日が差し込み、床に細長い光の帯を作っていた。


 メグはスマホを開いた。


「新しい投稿がありました」


「見せて」


 自分で言ってから、ミユはしまったと思った。


 もう完全に関わる気になっている。


 メグは気づいたようだったが、そこには触れなかった。


 画面には、匿名掲示板の短い書き込みがあった。


《旧北口商店街の裏、また白い車いた。夜十時くらい。音がする。近づかない方がいい》

《友達がナイトケアのチラシもらってた。今夜も来るらしい》

《黒いコートのじいさん? 見た人いる?》


 ミユは眉をひそめた。


「今夜も来るって……」


「はい」


 メグはノートを開いた。


「わたし、確認しに行こうと思います」


 ミユの返事は、ほとんど反射だった。


「危ないからやめなさい」


 廊下の空気が、少し止まった。


 メグは顔を上げる。


「先輩」


「何」


「なんで危ないってわかるんですか?」


 ミユは言葉に詰まった。


 まずい。


 まただ。


「……ニュースで言ってたから!」


「ニュースでは、まだ怪人とは言ってません」


 メグの声は、責めるようではなかった。


 ただ、確認するような声だった。


 だからこそ、逃げ道がなかった。


 ミユは口を開きかけて、閉じた。


 言えない。


 自分がプリティミューだとは言えない。

 怪人と戦ったとも言えない。

 アイン科学研究所で、変身端末をつけられているとも言えない。


 でも、メグが危ない場所へ行こうとしているのを、ただ見送ることもできない。


 メグは、静かに続けた。


「わたし、先輩を困らせたいわけじゃありません」


「……うん」


「でも、誰かが眠れなくなってるんです。たぶん、普通の病気じゃない。だったら、記録しないと」


「記録って」


「誰かが見なかったことにしたら、なかったことにされるかもしれません」


 その言葉に、ミユは返せなかった。


 メグの手は、ノートを強く握っていた。

 指先が少し白くなっている。


 怖くないわけではないのだ。


 怖いのに、行こうとしている。


 その姿に、ミユは昨日の自分を少しだけ重ねた。


 逃げたかった。

 でも、戻った。


 見なかったことにしたら、たぶん眠れなくなると思ったから。


「……一人では行かないで」


 ミユはようやく言った。


 メグが瞬きをする。


「先輩も来ますか?」


「行かない」


「即答」


「行かないけど、行くなら誰かと一緒に行きなさい。大人とか、警察とか」


「警察に『白い車とオルゴールと黒い羽根の男が怪しいです』って言って、信じてもらえるでしょうか」


「……難しいかも」


「ですよね」


「でも一人はダメ」


 ミユは自分でも驚くくらい強い声を出していた。


 メグは少し目を丸くした。


「ミユ先輩」


「何」


「やっぱり、危ないって知ってますよね」


 ミユは何も言えなかった。


 沈黙が落ちる。


 遠くで、吹奏楽部のチューニングの音が聞こえた。

 運動部の掛け声。

 誰かが階段を駆け下りる音。

 日常の音が、いつも通り学校を満たしている。


 その中で、ミユの左手首だけが、じわりと熱を持った。


 μブレスレットの警告灯が、袖の下で小さく瞬いた。


 メグのスマホが震えた。


 新着通知。


 画面に、短いメッセージが表示される。


《今夜二十二時、旧北口商店街裏。ナイトケア・ワゴン確認予定》


 メグは画面を見つめた。


 ミユも、同じ画面を見た。


 白い車。

 オルゴール。

 黒い羽根の男。


 朝の眠気は、もう消えていた。


 代わりに、胸の奥で、嫌な予感だけがゆっくり目を覚ましていた。

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