第5話_私の返事は、私が決める
クラリスは訴状の末尾を何度も読み返した。父の署名に間違いない。二年前、借金の契約書に書かれた字と同じだった。彼は今度こそ、娘を守るのではなく、娘が自分で判断できないと公に申し立てたのだ。
「クラリス」
レナートが静かに呼んだ。
「ここで座ろう」
「いいえ。まだ立てます」
クラリスは訴状を畳んだ。公証役場の待合室には、古い木の長椅子が並んでいる。窓の外では荷車が通り、石畳に車輪の音が響いた。いつもと変わらない街の音が、かえって腹立たしかった。
「父は、私が何を言っても聞きませんでした。でも、判断能力がないとまで言うとは思いませんでした」
「父親に会うか」
「会います。ただし、先に公証人と話したいです」
レナートは頷いた。クラリスは受付へ戻り、担当公証人に面会を求めた。呼び出されたのは灰色の髪をした女性で、名をエステルといった。彼女は訴状を見て、眉をひそめた。
「グレイス伯爵家は、婚約の代理申請が有効だと主張しています。さらに、あなたの父親が代理権を求めている。争点が二つになりました」
「私が自分で話せることは、昨夜の披露会で確認されました」
「それでも、相手は判断能力の問題を持ち出している。発声できることと、契約の意味を理解できることは別だと言うつもりでしょう」
クラリスは息を吸った。
「では、私に質問してください。契約の内容も、借金の条件も、私が答えます」
「正式な審理の場で行います。明日の午前、ここへ来られますか」
「来ます」
エステルは頷き、手元の帳簿に予定を書いた。
「医師の診療簿は、写しを用意して明日お持ちください。原本は医師に持参してもらいます」
「分かりました」
クラリスは席を立とうとしたが、思い直して尋ねた。
「もう一つ。父の借金について、即時返済の通知が来ています。婚約の登録が保留されたことは、返済期限を早める理由になりますか」
「契約書の内容によります」
「債務者が債権者の信用を著しく損なった場合、と書かれています」
「あなたは債務者ですか」
「いいえ。父です」
エステルは少し考えた。
「なら、あなたの行動だけで期限が変わるとは限りません。契約書を持ってきてください。こちらでも確認します」
クラリスは礼を言った。レナートは待合室で待っていた。彼女が戻ると、立ち上がって尋ねる。
「どうだった」
「明日の午前に審理があります。私が話します」
「証人として同席する」
「あなたが?」
「披露会で、君が自分の意思を伝えたところを見た」
「でも、ドリアン様はあなたと私の関係を問題にするでしょう」
「そうだろうな」
「評判が悪くなってもいいんですか」
「君が心配することではない」
クラリスは足を止めた。
「それは違います」
レナートは彼女を見た。
「あなたが私のために何かを失うなら、私にも関係があります。黙って見ているだけなんて嫌です」
「……そうだな」
「また簡単に認める」
「今のは、君が正しい」
クラリスは小さく笑った。レナートは彼女の手を取ろうとして、途中で止めた。
「触れてもいいか」
「はい」
彼は手を包んだ。クラリスはその温かさを確かめながら、初めて自分から指を絡めた。
「明日は、私の隣にいてください。でも、私の代わりに答えないで」
「約束する」
レナートは彼女の手を握り返した。
役場を出ると、クラリスは診療所へ戻り、ヘルマン医師と一緒に診療簿の写しを作った。医師は一字ずつ確かめ、原本と同じ内容であることを証明した。クラリスはその場で封筒へ入れ、封蝋を押した。レナートは隣で見守っていたが、彼女が頼むまで何もしなかった。
医師が封筒を渡すとき、小さな声で言った。
「あなたが来てくれてよかった。私は、あの診断書を出したことを後悔しています」
「明日、真実を話してくだされば、それで十分です」
「必ず行きます」
クラリスは頷いた。医師が嘘をつかなければ、偽の診断書は崩せる。だが、父の署名がある訴状は別だ。父と向き合うことからは逃げられない。
メルヴィル家へ戻ると、父は書斎にいた。机の上には酒瓶が置かれ、窓のカーテンは閉められている。クラリスが入ると、父は顔を上げた。
「戻ったか。グレイス伯爵から連絡があった。明日の審理で、お前が謝れば訴えを取り下げるそうだ」
「私は謝りません」
「またそれか!」
父は杯を机へ叩きつけた。クラリスは扉を閉め、向かいの椅子へ座った。
「お父様。私の判断能力に疑いがあると申し立てたのは、なぜですか」
「お前が言うことを聞かないからだ」
「言うことを聞かない人間は、判断能力がないんですか」
「そういう意味ではない!」
「では、どういう意味ですか」
父は答えられなかった。クラリスは机の上に借金の契約書を置いた。
「お父様が借りた金貨七百枚は、私の婚約と引き換えではありません。契約書にも、私が妻になるとは書いていません」
「グレイス伯爵は、婚約を前提に貸してくれたんだ」
「前提と契約は違います」
「理屈ばかり並べるな!」
「お父様こそ、私の人生を理屈で片づけないでください」
クラリスは立ち上がった。父は彼女を見上げた。母が亡くなってから、彼は娘を家のための道具として扱うようになった。けれど、今ここで黙れば、彼女は一生その役目から抜けられない。
「私はドリアン様と結婚したくありません。あの人は私の声を嫌い、私の遺産を欲しがっています。私は、あの人の妻にはなりません」
「屋敷を失ってもか」
「失うのは怖いです。でも、私が黙って結婚したら、もっと大事なものを失います」
父は杯を握ったまま、俯いた。クラリスは机の端に並ぶ絵画の目録を見た。
「お父様。絵を売ってください」
「……あれは、私の誇りだ」
「私も、あなたの娘として誇りを持ちたいんです」
クラリスはそれだけ言い、書斎を出た。父が何を選ぶかは、もう彼自身が決めることだった。
審理の日の朝、クラリスは自分で髪を結んだ。白いドレスは着なかった。母が好きだった青い花を胸元に一つだけ飾り、書類を鞄へ入れる。鏡の中の自分は、昨夜より少しだけ落ち着いて見えた。
玄関へ下りると、レナートが待っていた。彼は黒い礼服を着ていたが、襟元の銀の留め具は外してある。クラリスが尋ねると、彼は短く答えた。
「君の証人として来た。侯爵として目立つ必要はない」
「でも、あなたは侯爵様でしょう」
「今日は、レナートでいい」
クラリスは笑った。
「では、レナート様。行きましょう」
二人は馬車へ乗った。公証役場へ着くと、入口にはグレイス伯爵とドリアンが待っていた。ドリアンはクラリスを見るなり、嘲るように笑った。
「まだそんな男と一緒にいるのか。今日で終わりだ。父親が代理権を認められれば、お前はもう勝手なことを言えない」
「それを決めるのは、あなたではありません」
「強がりはよせ。医師も、父親も、僕の味方だ」
クラリスは彼を見た。
「医師の先生には、昨日お会いしました」
ドリアンの笑みが消えた。クラリスはその変化を見逃さなかった。
「先生は、今日ここで証言してくださいます」
「……あの藪医者が」
ドリアンは小さく呟いた。彼はすぐに顔を上げ、伯爵へ何かを囁いた。グレイス伯爵は眉をひそめ、役場の中へ入っていった。
クラリスはレナートと一緒に審理室へ進んだ。部屋には長い机があり、中央に公証人エステルが座っている。左側にはグレイス伯爵とドリアン、右側には父がいた。ヘルマン医師は壁際の椅子で診療簿を抱えている。
エステルが開廷を告げた。
「まず、代理申請書の真正について確認します。グレイス伯爵家は、クラリス・メルヴィル嬢が発声不能であり、本人の意思に基づいて代理人を立てたと主張していますね」
「その通りです」
グレイス伯爵が答えた。ドリアンは余裕を取り戻したように椅子へもたれた。
エステルはクラリスへ向き直った。
「あなたの意思を聞かせてください」
クラリスは立ち上がった。レナートは隣で静かに座っている。彼女は一度だけ彼を見た。彼は何も言わず、頷いた。
「私は、代理申請をしていません。ドリアン様との婚約を登録する意思もありません」
「理由は?」
「彼が私の声を奪おうとしたからです」
クラリスは鞄から診療簿の写しを取り出した。
「医師の記録には、確定診断ができないと書かれています。ですが、伯爵家が提出した診断書には、発声不能とあります。内容が違います」
エステルは写しを受け取り、ヘルマン医師へ原本の提示を求めた。医師は診療簿を開き、該当するページを示した。
「私が診たのは、顔を覆った女性です。本人確認はしていません。診察も十分ではなく、発声不能と断定できる状態ではありませんでした」
「では、提出された診断書は?」
「私が出した診断書を、誰かが書き換えています」
部屋が静かになった。ドリアンは椅子から立ち上がった。
「そんなことは知らない! 医師が勝手に書いたんだろう!」
「では、誰が診断書を受け取ったのですか」
クラリスが尋ねた。ドリアンは口を閉じた。
「あなたの代書人が、私の家へ持ってきました。私の署名がある代理申請書と一緒に」
「それがどうした!」
「私が署名したというなら、いつ、どこで書いたのか答えてください」
ドリアンは父を見た。グレイス伯爵は顔を背けた。
「婚礼の準備のときだ」
「何日のことですか」
「そんな細かい日付を覚えているわけがない!」
「私は覚えています。あなたの屋敷で、婚礼の品目を確認した日です。署名を何枚も書かされました。でも、代理申請書には一度も署名していません」
クラリスは登録官が保管していた原本を指さした。
「その書類は、私が知らないところで作られました。私が話せないことにして、私の返事を奪うために」
ドリアンは机を叩いた。
「お前が大人しくしていれば、こんなことしなくてよかったんだ!」
クラリスは彼を見た。彼は自分の言葉が何を意味するか、気づいていないらしい。
「いまの言葉を、もう一度言ってください」
「何?」
「私が大人しくしていれば、何をしなくて済んだんですか」
ドリアンは口を開いたまま固まった。エステルが筆を取り、発言を記録している。グレイス伯爵が息子の袖を引いたが、遅かった。
「答えられないなら、私が答えます。あなたは私の返事を必要としていなかった。私の遺産だけが欲しかったんです」
クラリスは机の前へ進んだ。
「私はあなたと結婚しません。私の財産を管理させません。これから先、私の代わりに答えることも許しません」
エステルは静かに頷いた。
「本人の意思を確認しました。代理申請書は無効とし、婚約登録は行いません。クラリス嬢は成年であり、判断能力を失った事実も認められません。父親による代理権の申立ても却下します。書類の改変は、本日の記録をもって偽造と認めます。ドリアン・グレイス氏の婚約登録の申請資格を五年間停止し、経緯は治安局へ送致します」
ドリアンは顔を真っ赤にした。
「そんな……! 父上、何とか言ってください!」
グレイス伯爵は息子を睨んだ。
「お前が余計なことを言うからだ!」
クラリスは二人を見ていた。彼らが望んだ結婚は、もう成立しない。母の遺産も、彼らの手には渡らない。
だが、父の借金は残っている。クラリスは契約書を取り出した。
「もう一つ、確認してください。借金の即時返済についてです」
エステルは契約書を読み、眉を上げた。
「この条項では、債務者が債権者の信用を著しく損なった場合に限り、期限を早められます。債務者は父親ですね」
「はい。私は契約の当事者ではありません」
クラリスは父を見た。父は俯いたまま動かない。
「私が婚約を保留にしたことを理由に、父の借金をすぐ返せと言われました。でも、私は債務者ではありません。父がグレイス伯爵家の信用を損なう行動をしたという証拠もありません」
エステルは契約書を机へ置いた。
「この通知だけでは、即時返済を認める根拠が足りません。返済期限は契約書に記された冬至のままです」
グレイス伯爵が立ち上がった。
「そんな馬鹿な! 私が貸した金だぞ!」
「貸した金であっても、契約の条件は守らなければなりません」
エステルは冷静に答えた。クラリスはようやく息を吐いた。父の家は、少なくとも今すぐ失われることはない。
審理室を出ると、レナートが彼女の隣へ来た。
「君が決めたな」
「ええ」
「私が口を出すところはなかった」
「約束を守ってくださって、ありがとうございます」
レナートは微笑んだ。クラリスは彼の手を取った。今度は、彼が差し出すのを待たなかった。
「レナート様。私、あなたに伝えたいことがあります」
「聞く」
「でも、ここでは嫌です。二人きりで話したい」
「分かった」
彼は頷いた。クラリスはその返事が嬉しくて、少し笑った。
そのとき、背後から父が声をかけた。
「クラリス」
クラリスは振り向いた。父は目を伏せ、しばらく言葉を探していた。




