第6話_あなたの声で聞かせて
「……絵を売ることにした。冬至までに、借金を返す」
クラリスは驚いた。父は続けた。
「お前を嫁がせることで、借金を消そうとした。間違っていた。すまなかった」
クラリスはすぐには許すと言えなかった。二年間、彼女は何度も話そうとして、聞いてもらえなかった。今日の一言で、その時間が消えるわけではない。
「お父様。私は、すぐには前のように戻れません」
「……分かっている」
「でも、絵を売ると決めたことは、嬉しいです」
父は頷いた。クラリスはそれ以上何も言わず、レナートと一緒に役場を出た。
屋敷へ戻る途中、クラリスは父の馬車が画商の店の前に止まっているのを見つけた。父は降りたところで、両手に抱えた目録を見つめている。レナートに頼んで馬車を止めてもらうと、クラリスは店へ入った。
店主は古い絵を扱う商人で、母が生きていた頃からメルヴィル家へ出入りしていた。彼は父の目録を見て、慎重に頁をめくった。
「全部、お売りになるのですか」
「……ああ。これで借金を返したい」
父は椅子へ腰を下ろした。クラリスはその横に立った。壁には風景画が何枚も掛けられている。父が気に入っていたのは、こういう静かな絵だった。彼は絵を眺めているときだけ、商売の失敗を忘れられたのかもしれない。
「お父様。無理に全部売らなくても、必要な分だけでいいと思います」
「いいや。これまで、売るべきものを売らずに、お前を差し出そうとした。そのほうがよほど恥ずかしい」
父は目録を店主へ渡した。店主は鑑定人を呼び、二人で価格を確認した。クラリスはその間、父と向かい合って座った。父は何度か話しかけようとしたが、言葉を見つけられないようだった。
「お父様。これからは、私が何か言ったら最後まで聞いてください」
父はゆっくり頷いた。
「……努力する」
「それでは足りません」
クラリスが言うと、父は顔を上げた。
「聞く。必ず、最後まで聞く」
店主が戻ってきた。提示された買い取り額は金貨八百二十枚。父は少し驚いた顔をしたが、すぐに契約書を読んだ。店主は店の金庫から銀行発行の支払手形を取り出し、全額をその場で父へ渡した。父は受領書に署名し、目録の絵を引き渡す契約を結んだ。
「これで、銀行へ行けますね」
クラリスが言うと、父は手形を両手で持ち、深く息を吐いた。
「ああ。金を返すのは私の仕事だ。お前の結婚を、もう金の話にはしない」
クラリスはすぐには笑えなかった。けれど、父が自分で署名し、金の使い道を決めたことを見届けられた。彼女も、これからの暮らしを自分で決めよう。
クラリスは父と一緒に銀行へ歩いた。窓口で手形を現金化し、グレイス伯爵家の指定口座へ金貨七百枚を送金する。行員が受領印を押した控えを父へ渡すと、父はしばらくその紙を見つめた。クラリスも控えを確認した。債務の全額が、返済期限より前に支払われた。
銀行を出ると、レナートが馬車の前で待っていた。クラリスは彼へ近づき、送金控えを見せた。
「借金は返しました。父が、自分で決めてくれました」
「よかった」
「でも、まだ少し、父に腹が立っています」
「それも、君の気持ちだ」
クラリスは頷いた。レナートは彼女の手を取ろうとして、少し待った。クラリスが自分から差し出すと、彼は静かに握った。
通りの角から、ドリアンが駆け寄ってきた。父の絵を売る話を聞きつけたのか、彼はクラリスの手にある控えを見るなり足を止めた。
「まさか、返済したのか」
「金貨七百枚、全額です。銀行の受領印もあります」
「ふざけるな。そんな金があるなら、最初から払えたはずだろう!」
「お父様が、絵を売ると決めました。私が結婚するかどうかとは関係ありません」
ドリアンは父を睨んだ。
「伯爵家との縁を切るつもりですか。あの金がなければ、あなたの家は潰れていたんですよ!」
父はクラリスの手にある控えへ目をやり、ドリアンへ向き直った。
「借りた金は返した。もう、娘を使って返す借りはない」
「恩知らずが!」
ドリアンは声を荒らげたが、父は目を逸らさなかった。クラリスは二人の間へ進んだ。
「私の母の遺産にも、手を出せません。婚約登録は不成立、借金は完済。あなたが私に命令できる理由は、もう一つもありません」
ドリアンは言い返そうとしたが、何も言えなかった。彼が欲しがった財産も、黙って従う花嫁も、手に入らない。クラリスはそれを確かめてから、彼に背を向けた。追ってくる足音はなかった。
夕方、二人は王宮の庭園へ向かった。披露会の夜に通った道を、今度は急がずに歩く。噴水のそばには白い花が咲き、風に揺れていた。クラリスは立ち止まり、レナートへ向き直った。
「私、あなたが好きです」
レナートは驚いたように彼女を見た。クラリスは続けた。
「あなたは私の話を聞いてくれました。私が怒っても、嫌だと言っても、離れなかった。私が何を選ぶかを、私に決めさせてくれました」
「クラリス」
「でも、それだけじゃありません。あなたと話していると、もっと話したくなるんです。喧嘩をしても、また会いたくなる。そんな人は初めてです」
レナートはゆっくり息を吐いた。
「私も、君が好きだ」
彼は一歩近づいた。
「君が何を言うのか、いつも楽しみだった。黙っているほうが楽なときもあるのに、君といると、言葉を探したくなる。君にだけは、何も隠したくない」
クラリスは笑った。
「無口な侯爵様が、ずいぶんお喋りですね」
「君のせいだ」
「責任を取らなければ」
「取ってくれるか」
レナートは彼女の前で膝を折った。庭園には誰もいない。噴水の音だけが、二人の間に響いている。
「クラリス・メルヴィル。私と結婚してほしい。君の言葉を聞くことを、これからも私の喜びにしたい」
クラリスは彼の手を取った。
「はい。私も、あなたの言葉を聞きたいです。嫌なことがあったら喧嘩をしますし、間違っていたら謝ります。それでも、ずっと一緒にいたい」
レナートは立ち上がり、彼女を抱きしめた。クラリスは自分から彼の背へ腕を回した。彼の胸元に顔を寄せると、ようやく肩の力が抜けた。
「一つ、お願いがあります」
「何だ」
「私が嫌だと言ったら、必ず聞いてください」
「約束する」
「あなたも、嫌なことは言ってくださいね」
「努力する」
「努力、ですか」
「君ほど上手に喧嘩できないから」
クラリスは笑い、彼の胸を軽く叩いた。レナートも笑った。
庭園の門を出るとき、クラリスは一度だけ振り返った。披露会の夜、彼女は自分の返事を奪われそうになった。けれど、いまは違う。結婚する相手も、これからの暮らしも、自分で選んだ。
レナートが手を差し出した。
「帰ろうか」
「はい」
クラリスはその手を取った。二人は並んで歩き出した。どちらが先に喋るか、もう決める必要はなかった。
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