第4話_黙らせたい人の前で
代書人が帰ると、父は応接室の扉を閉め、クラリスへ詰め寄った。
「なぜ訴えまで起こさせる! 謝れば済むことだろう」
「謝っても、偽の診断書は消えません」
「偽物と決まったわけではない!」
父は代書人が置いていった写しを机へ投げた。クラリスは紙を拾い、医師の名前を読んだ。アンドレアス・ヘルマン。王都の南地区に診療所を構える医師で、母が生きていた頃、一度だけ家に来たことがある。
「私は、この先生に診てもらっていません」
「誰かが代理で診てもらったのかもしれん」
「私の声が出ないかどうかを、別の人が診てもらって分かるんですか」
父は答えなかった。レナートは部屋の入口で黙っている。クラリスは彼へ向き直った。
「医師のところへ行きます。私の話を聞いてくれるかどうかは分かりませんが、確かめたい」
「馬車を出す」
「……頼んでもいいんですか」
「君が頼むなら」
父が怒鳴った。
「ヴァイス侯爵! 娘をそそのかすおつもりか!」
レナートは初めて父を見た。
「私は、クラリスに会いに来た」
「娘には婚約者がおります!」
「登録は保留された。彼女は結婚するかどうかも決めていない」
「家のことに口を出すな!」
「出していない。君が娘に何を望むかと、娘が何を望むかは別だ」
父は唇を震わせた。クラリスはその顔を見て、悲しくなった。自分の望みを聞いてほしいと何度言っても、父は家のためという言葉しか返さない。
「お父様。私は帰ってきます。逃げるつもりはありません」
「帰ってきたところで、屋敷が残っているとは限らんぞ」
「分かっています」
クラリスは部屋を出た。レナートは彼女の横へ並んだが、廊下では何も言わなかった。玄関の前で、彼はようやく尋ねた。
「君は、父親のことが嫌いか」
「嫌いになれたら楽でしょうね」
「そうか」
「でも、だからといって、言うことを聞くつもりもありません」
レナートは頷いた。
「それでいい」
馬車に乗ると、クラリスは窓の外を見た。王都の朝は賑やかで、焼きたてのパンを売る店から湯気が上がっている。道を横切る子どもを避けるため、御者が手綱を引いた。レナートは向かいの席に座り、彼女の様子を見ている。
「何か言いたいことが?」
「ある」
「どうぞ」
「君は、昨夜ほとんど眠っていないだろう」
「見て分かるんですか」
「目の下が少し赤い」
クラリスは頬を押さえた。レナートは水筒を差し出した。
「飲んで。診療所へ着く前に、少し休め」
「侯爵様は、いつも人の世話を焼くんですか」
「君だけだ」
彼はためらわずに答えた。クラリスは水筒を受け取ったものの、すぐには飲めなかった。
「そういうことを、さらりと言わないでください」
「嫌だったか」
「嫌では……ありません」
「なら、よかった」
レナートは窓の外へ視線を戻した。クラリスは彼の横顔を見つめた。彼は無口なのではない。必要のない言葉を言わないだけだ。だからこそ、たまに向けられる言葉が胸に残る。
診療所は南地区の石畳の通りにあった。白い看板に医師の名前が書かれ、入口には患者が二人待っている。クラリスは順番を守って椅子に座った。レナートも隣に座ると、壁に掛けられた健康相談の掲示を読み始めた。
「侯爵様が診療所で待っているなんて、珍しい光景ですね」
「医師に用があるのは君だ」
「それでも、あなたは一緒に来てくれました」
「一人で来たかったなら、そう言ってほしかった」
「違います。……嬉しいんです」
レナートは掲示から顔を上げた。クラリスが笑うと、彼は少しだけ頷いた。
診察室へ呼ばれたとき、医師ヘルマンは机に向かって記録を書いていた。年配の男で、鼻の上に細い眼鏡を掛けている。クラリスの名前を聞くと、すぐに立ち上がった。
「メルヴィル嬢? 確か、先週診断書を出したはずですが」
「その件で参りました。私は先生の診察を受けていません」
医師は眼鏡を外した。
「どういうことですか」
クラリスは診断書の写しを机へ置いた。医師は紙を見て、戸棚から診療簿を取り出す。ページをめくる音だけが、しばらく続いた。
「確かに、あなたの名前で診断しています」
「どんな人でしたか」
「顔を覆う薄い布を着けていました。喉の痛みで話せないということで、付き添いの女性が説明しました。私は喉を見せてもらおうとしたのですが、本人が嫌がって……」
「診察していないんですか」
「十分には。ですが、伯爵家の紹介状がありましたから」
クラリスは机の縁を握った。診察していないのに、声が出ないと書いたのか。医師は気まずそうに視線を落とした。
「私は、患者が喉を痛めている可能性があると書いたつもりでした」
「でも、この書類には『発声不能』とあります」
医師は診療簿を確かめ、眉をひそめた。
「私の控えには、そうは書いていません」
彼はページをクラリスの前へ向けた。そこには「本人の申告による発声困難。診察不十分につき確定診断不可」と記されている。診断書の写しと、内容が違う。
「先生。この診療簿を、婚約登録官に見せていただけますか」
「それは……」
医師は躊躇した。
「グレイス伯爵家は、この診療所の後援者です。私が伯爵家に不利な証言をすれば、今後の診療が難しくなるかもしれません」
「先生は、患者を診るために医師になったんですよね」
「もちろんです」
「では、私を診てください」
クラリスは椅子から立ち上がった。
「いま、私の声が出るかどうか。喉に異常があるかどうか。先生自身の目で確かめてください」
医師はしばらく黙っていたが、やがて器具を取り出した。クラリスは口を開け、指示された通りに声を出した。低い音から高い音まで、何度も繰り返す。診察が終わると、医師は記録を付け直した。
「喉に異常はありません。少なくとも、現在は発声に問題がない」
「ありがとうございます。先週の診療簿と、今日の記録を、公証人の前で証明していただけますか」
医師は椅子の背にもたれた。クラリスは待った。レナートは口を挟まない。彼女が頼んだ通り、黙っている。
「……分かりました」
医師はようやく頷いた。
「私は患者の名前を確認せず、十分な診察もしなかった。そこは私の責任です。記録を隠すわけにはいきません」
クラリスは深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
診療所を出ると、レナートが息を吐いた。
「君は強いな」
「怖かったです。断られたら、どうしようかと思っていました」
「断られたら、別の証拠を探せばいい」
「簡単に言いますね」
「君が諦めないのを知っているから」
クラリスは彼を見た。レナートは何でもできると言っているのではない。失敗しても一緒に考えるつもりでいる。その違いが、彼女には嬉しかった。
公証役場へ向かおうとしたとき、通りの向こうからドリアンが現れた。彼は二人の姿を見るなり、わざと大きな声を上げた。
「クラリス! 僕との婚約を保留にしておきながら、もう別の男と出歩いているのか!」
買い物客が足を止めた。ドリアンは近づき、クラリスの肩へ手を伸ばす。
「恥知らずな女だ。昨夜も侯爵の外套を着て帰ったそうじゃないか。父上が聞いたら何と言うか」
クラリスは一歩下がった。
「触らないでください」
「婚約者に向かって何だ、その口は!」
「婚約の登録は保留されています。私の行動を決める権利はありません」
ドリアンは顔を赤くした。
「僕を捨てて、侯爵へ乗り換えるつもりか。あの男が君を本気で相手にすると思うのか!」
レナートが前へ出た。クラリスは彼の袖をつかもうとして、やめた。約束では、彼女が頼むまで口を出さないことになっている。
「クラリス」
レナートが彼女を見た。
「一つだけ、言ってもいいか」
クラリスは少し迷った。けれど、彼が自分に許可を求めたことが嬉しかった。
「どうぞ」
レナートはドリアンへ向き直った。
「私は、彼女に求婚したいと思っている」
通りが静かになった。ドリアンは口を開けたまま、何も言えない。
「ただし、彼女が望むならだ。私は彼女の返事を待つ」
レナートはクラリスを見た。
「君が今すぐ答える必要はない。君自身の問題を片づけてからでいい」
クラリスは驚いて彼を見つめた。求婚したいと言われた。しかも、大勢の前で。ドリアンは二年間、彼女を妻にすることが当然だと思っていた。レナートは、まだ何も決まっていないと知ったうえで、待つと言っている。
「……ありがとうございます。でも、今は答えられません」
「分かっている」
レナートは頷いた。ドリアンはようやく我に返り、怒鳴り始めた。
「ふざけるな! 僕の婚約者を横取りする気か!」
「彼女は物ではない」
レナートは短く言った。
「君が彼女をどう思っていようと、私には関係ない。だが、彼女を黙らせるために偽の書類を使ったことは、登録官に説明してもらう」
ドリアンの顔色が変わった。クラリスはその反応を見て、診断書の書き換えが彼の指示だったのだと確信した。
「そんなものは知らん!」
「なら、調べても困らないでしょう」
クラリスが言うと、ドリアンは唇を噛んだ。彼は周囲の人々を見回し、声を落とした。
「お前たち、後悔するぞ。父上は王宮に顔が利く。登録官も、公証人も、こちらの味方だ」
クラリスはレナートの隣へ立った。
「それなら、なおさら公証人の前で話します」
ドリアンは舌打ちして立ち去った。彼の背中を見送り、クラリスはようやく息を吐いた。
「レナート様」
「何だ」
「今のは、少し困りました」
「求婚のことか」
「ええ。あなたの気持ちを、あんな場所で聞くとは思いませんでした」
「悪かった。だが、嘘をつかれるのが嫌だった」
「それは分かります。でも、私にも心の準備が必要です」
「次は、君だけに言う」
クラリスは顔を伏せた。次があるのだ。彼は本気で、彼女の返事を待つつもりらしい。
公証役場へ着くと、受付の職員が一通の書面を差し出した。グレイス伯爵家から提出された正式な訴状だった。そこには、クラリスが婚約者としての義務を放棄し、虚偽の申告で伯爵家の名誉を傷つけたと書かれている。
さらに、訴状の末尾には、父の署名があった。
『娘クラリスの判断能力に疑義があるため、父親として代理権の確認を求める』
クラリスは紙を握った。父は、彼女が自分の声で答える権利そのものを奪おうとしていた。
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