第3話_嫌いなものを言ってください
クラリスは通知書を机へ戻した。父は暖炉の前を行き来しながら、グレイス伯爵がいかに怒っていたかを繰り返している。
「明日の朝、謝罪の手紙を書くんだ。ドリアン様には、式で取り乱しただけだと説明しろ」
「私は取り乱していません」
「それを取り乱していると言うんだ!」
父は暖炉の火掻き棒をつかみ、床へ叩きつけた。クラリスは一歩下がったが、視線は逸らさなかった。
「お父様。借金の契約書を見せてください」
「何だと?」
「いくら借りて、何を担保にしたのか。返済期限はいつだったのか。私にも関係する話です」
「お前には分からん」
「分からないから、見せてください」
父は怒鳴り返そうとしたが、クラリスは待った。暖炉の薪が崩れ、火の粉が上がる。やがて父は机の引き出しから古い書類を取り出し、乱暴に差し出した。
借入額は金貨七百枚。担保は屋敷と庭園、期限は今年の冬至だった。まだ一か月先だ。即時返済の条件には「債務者が債権者の信用を著しく損なった場合」とある。婚約披露会での騒動を理由に、グレイス伯爵はその条項を使ったのだろう。
「お父様は、この契約を読んだのですか」
「読んだとも。あのときは助けてもらうほかなかった」
「借りた金貨は、何に使ったんですか」
「商船の出資だ。失敗した。何度も話しただろう」
クラリスは書類の端に記された担保の一覧を見た。屋敷、庭園、厩舎、馬車。それ以外にも、父が蒐集した絵画と彫像が別紙に載っている。母が亡くなってから父が買い集めた品々だ。商売が失敗したあとも、彼はそれらを売ろうとしなかった。
「絵画を売れば、少なくとも一部は返せます」
「馬鹿なことを言うな。あれは我が家の格を示すものだ」
「屋敷がなくなったら、飾る壁もなくなります」
父は黙った。クラリスは契約書を畳み、机へ戻した。
「私はドリアン様に謝りません。けれど、借金のことは考えます」
「お前が嫁げば済む話だろう!」
「私の結婚を、借金の返済方法にしないでください」
クラリスは部屋を出た。背後で父が名前を呼んだが、戻らなかった。自室へ入ると、昨夜借りた外套を椅子へ掛けた。レナートの外套は、ドリアンが選んだドレスよりずっと重い。肩へ掛けたときの温かさを思い出し、クラリスは指先で襟を整えた。
窓の外が白み始めていた。眠れそうにはない。彼女は母の遺品をしまった小箱を開けた。中には青い花を刺繍した手巾と、母が書いた短い言葉がある。
『クラリスへ。嫌だと思ったら、嫌だと言いなさい。理由は後から考えてもいいのよ』
母は何度もそう言った。幼い頃、嫌いな食べ物を無理に食べさせられたときも、父の友人に頬をつねられたときも。嫌だと言えば叱られることがあったが、母はそのたびに「ちゃんと言えたね」と褒めてくれた。
いつから、言えなくなったのだろう。
クラリスは手巾を小箱へ戻した。朝になったら、まず公証役場へ行こう。代理申請書の写しを取り、どこで署名が作られたのか調べる。ドリアンに謝るかどうかを考えるのは、そのあとでも遅くない。
窓を閉めようとしたとき、門のほうで馬車が止まる音がした。こんな早い時間に客が来るはずはない。クラリスが外を覗くと、黒い馬車からレナートが降りてきた。彼は玄関の前で立ち止まり、扉を叩く代わりに門番へ何かを伝えた。
まもなく侍女が部屋へ来た。
「ヴァイス侯爵様から、お手紙です」
封筒には短い一文だけ書かれていた。
『外套を取りに来た。君が会いたくなければ、門で待たずに帰る』
クラリスは思わず笑った。あの人は本当に、返事を待つのが上手だ。
「お通しして。いえ、私が庭へ出ます」
侍女は驚いたが、クラリスはすぐに着替えた。薄い青の普段着に袖を通し、髪を結ぶ。外套を腕に掛けて庭へ出ると、レナートは門の脇に立っていた。朝露で濡れた砂利を踏み、彼女のほうへ歩いてくる。
「早すぎたか」
「ええ。まだ朝食も食べていません」
「悪かった」
「でも、会えて嬉しいです」
レナートは一瞬だけ黙った。クラリスは自分の言葉に驚いた。こんなに素直に嬉しいと言ったのは、いつ以来だろう。
「私もだ」
彼は短く答えた。クラリスは外套を差し出した。
「ありがとうございました。暖かかったです」
「君が着ていたほうが似合う」
「またそんなことを」
「嘘ではない」
レナートは外套を受け取ったが、すぐには帰ろうとしなかった。庭の奥にある小さな東屋を見て、クラリスへ尋ねた。
「少し歩いてもいいか」
「どうぞ。父はまだ寝ていますから」
二人は砂利道を歩いた。庭は母が生きていた頃に作ったもので、冬でも咲く白い花が植えられている。クラリスは花壇の前で立ち止まり、枯れた葉を一枚摘んだ。
「この庭も担保に入っているんです」
レナートは彼女を見た。
「借金のことか」
「ええ。三日後に返せなければ、屋敷ごと失います」
「君が払うのか」
「まだ決めていません」
「父親は?」
「絵を売るのは嫌だそうです」
レナートはしばらく黙っていた。クラリスは彼が金を貸すと言い出すのではないかと身構えた。侯爵なら七百枚の金貨を用意できるかもしれない。だが、それでは別の男に借りを作るだけだ。
「私は、金を貸さない」
彼が先に言った。
「頼んでいません」
「そうだな。だが、君が私に頼むことを考えているように見えた」
「考えていません!」
「それならいい」
クラリスは腹を立てた。人の気持ちを勝手に決めるのは、ドリアンと同じだ。
「侯爵様は、私が困っていると何でも分かったつもりになるんですね」
「分からないから聞いている」
「聞いていません。今、勝手に答えました」
レナートは眉を寄せた。少し考え、頷く。
「確かに。失礼だった」
「そうやってすぐ認めるのも、ずるいです」
「どうすればいい」
「少しは言い返してください」
レナートは困ったように息を吐いた。
「君は、私に喧嘩を売りたいのか」
「買っていただけます?」
「値段による」
クラリスは声を立てて笑った。彼もようやく笑った。二人は東屋へ入り、古い木の長椅子へ腰を下ろした。レナートは距離を置いて座ったが、クラリスが寒そうに手をこすると、外套を彼女の膝へ掛けた。
「嫌なら返してくれ」
「嫌ではありません」
クラリスは外套を押さえた。レナートは彼女の手を見てから、静かに言った。
「君に聞きたいことがある」
「何でしょう」
「嫌いなものを、三つ教えてほしい」
「嫌いなもの?」
「好きなものを聞く前に、君が嫌がることを知っておきたい」
クラリスは言葉を探した。ドリアンは彼女の好みを聞くことすらなかった。レナートは、嫌いなものから聞こうとしている。
「人の話を最後まで聞かない人」
「耳が痛いな」
「それから、勝手に予定を決められること」
「覚えた」
「最後は……」
クラリスは膝の外套を見た。彼が昨日、手を差し出す前に尋ねてくれたことを思い出す。
「触れられたくないときに、触れられることです」
レナートはゆっくり頷いた。
「分かった。私が忘れたら、怒ってくれ」
「怒りますよ。きっと」
「それがいい」
クラリスは彼の横顔を見た。無口だと噂される男は、必要なことだけを話す。その言葉は少ないのに、聞きたいことを聞いてくれる。彼女が返事をするまで待ってくれる。
「では、私からも聞きます。侯爵様の嫌いなものは?」
「嘘」
「一つ目ですね」
「人を道具として扱うこと」
「二つ目」
「君が、私を侯爵様と呼ぶこと」
クラリスは思わず彼を見た。
「それは嫌いなものに入るんですか」
「入る」
「では、何とお呼びすれば?」
「レナート」
彼は初めて、少し照れたように視線を逸らした。クラリスはその顔を見て、急に胸が苦しくなった。昨夜まで、彼はただの見知らぬ侯爵だった。今は名前を呼びたいと思っている。
「……レナート様」
「それでいい」
レナートは彼女のほうへ向き直った。
「君は?」
「クラリス、と」
「クラリス」
名前を呼ばれただけなのに、こんなにも嬉しい。クラリスは返事をする代わりに、彼の外套をもう少し引き寄せた。
庭の入口で足音がした。父の執事が立っている。彼は二人の姿を見るなり顔色を変えた。
「お嬢様。グレイス伯爵家から使者が参りました」
クラリスは立ち上がった。レナートも腰を上げたが、彼女は首を振った。
「私が話します」
「分かった。ここで待つ」
「いえ、一緒に来てください。ただし、私が頼むまで口を出さないで」
レナートは頷いた。
「約束する」
応接室には、ドリアンの家の代書人がいた。黒い鞄を抱えた男で、クラリスを見ると深く頭を下げた。
「グレイス伯爵家より、昨夜の代理申請について説明に参りました」
「説明なら、私が聞きます」
男は鞄から紙を取り出した。そこには、クラリスの署名だけでなく、代理申請の理由を記した診断書まで添えられていた。
「お嬢様は発声が困難な状態であると、医師が証明しております」
「私は話せます」
「ですが、書類には署名がございます」
クラリスは紙を受け取った。診断書の末尾には、王都の医師の名前と印がある。男は自信ありげに続けた。
「伯爵家は、書類の真正を主張する方針です。お嬢様が異議を申し立てるなら、医師本人を証人として呼ぶことになります」
クラリスは顔を上げた。
「呼んでください」
代書人の笑みが消えた。
「……よろしいのですか」
「ええ。私も、その医師に聞きたいことがあります」
レナートは約束どおり黙っていた。だが、クラリスが振り向くと、彼は一度だけ頷いた。
代書人は書類を鞄へ戻し、冷たい声で言った。
「それでは、伯爵家は婚約者の名誉を傷つけたとして、お嬢様に正式な訴えを起こします」
クラリスは椅子の背を握った。相手は本気で、彼女の声を奪いに来ている。
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