第2話_助け方が気に入りません
広間の中央へ進んだレナートは、登録官の前で立ち止まった。クラリスは父の指を振りほどいた。袖口の青い花が一つほつれたが、いまは直している場合ではない。
「侯爵閣下、これはグレイス家の披露会ですぞ」
ドリアンの父、グレイス伯爵が前へ出た。恰幅のよい男で、いつも人の話を遮るときだけ声がよく通る。
「花嫁の体調が悪いので、息子が代理を務める。何も問題はありません」
「代理を頼んだことになっている本人は、ここにいる」
レナートはクラリスへ視線を向けた。
「本人に聞けば済む」
客たちの間で囁き声が広がった。ドリアンは笑顔を保ったままクラリスに近づき、彼女の肩へ手を置いた。見た目には優しい婚約者の仕草だったが、指が食い込むほど力を込めている。
「クラリス、無理をしなくていい。今夜は大勢の方が来てくださっている。君のわがままで式を台無しにしたら、メルヴィル家の名に傷がつく」
「私は話せます」
「そういうことにしておこう。ほら、席へ戻って」
彼は肩を押した。クラリスは踏みとどまり、登録官へ向き直った。
「私が代理申請を出したというのは、事実ではありません。書類を見せてください」
登録官はためらった。伯爵が彼の腕を取ろうとしたが、クラリスは一歩近づき、書類を示すよう求めた。
「私の署名があるなら、私には確認する権利があります」
登録官は紙を差し出した。クラリスはその署名を見て、息を呑んだ。形は自分の字に似ている。だが、文字の間隔が不自然に広い。ドリアンの屋敷で婚礼の品目を確認した際、何枚も書かされた署名を誰かが写したのだろう。
「これは私が書いたものではありません」
「記憶違いだよ」
ドリアンはまだ笑っていた。
「婚礼の準備で疲れているんだ。僕が全部引き受けると言っただろう」
「私の意思まで引き受けるとは聞いていません」
客の何人かが顔を上げた。クラリスは震える指で紙を戻した。
「登録官様。私は代理人を立てません。喉も痛めていません。いま、この場で自分の意思を伝えます」
ドリアンの笑みが消えた。
「やめろ」
「婚約の登録については、保留にしてください」
その瞬間、広間のざわめきが大きくなった。父が何か叫んだが、クラリスには聞こえなかった。彼女は登録官の顔を見て、もう一度はっきりと言った。
「私は、今日ここで婚約を登録することに同意しません」
登録官は書類を閉じた。
「本人の意思を確認しました。代理申請書は受理できません。本日の登録は行いません」
クラリスはようやく息を吐いた。だが、ドリアンは彼女の腕をつかみ、客から離れた柱の陰へ引っ張った。
「何をしてくれた!」
さっきまでの柔らかい口調は消えていた。クラリスが腕を抜こうとしても、彼は離さない。
「僕の父上が何人招いたと思っている。ここで恥をかかせたら、君の父親の借金はどうなるか分かっているな」
「借金の話は、二人の結婚と別でしょう」
「別なものか。君が妻になれば、来月には母親の遺産が手に入る。僕がその管理を引き受ければ、借金など帳消しにできる」
クラリスは動きを止めた。初めて、彼は隠していた考えを口にした。
「私の遺産を使うつもりだったんですね」
「当然だろう。夫婦になるんだから」
「私は管理を任せると約束していません」
「約束させるつもりだったんだよ!」
ドリアンは声を荒らげた。近くの客が振り向き、彼は慌てて笑顔を作った。
「君は何も知らなくていい。僕がうまくやる」
クラリスはもう、その言葉を聞きたくなかった。彼の手を振りほどくと、広間の出口へ向かった。父が追ってきたが、レナートが二人の間へ立った。
「クラリス嬢は帰る」
「閣下、余計な口を挟まないでいただきたい」
父はレナートを睨んだ。侯爵は少しも動じない。
「彼女がそう言った」
「まだ何も言っておらん!」
「なら、本人に聞け」
レナートは脇へ退いた。クラリスは父と向き合った。父は今にも泣きそうな顔で、彼女のほうへ手を伸ばす。
「頼む。あの家との縁談が壊れたら、私たちは終わりだ。母さんだって家がなくなることは望まない」
母の名前を出された途端、クラリスは腹が立った。母は亡くなる直前まで、自分の財産を娘のために残そうとしていた。家の借金のために娘を差し出せとは、一度も言わなかった。
「お母様が何を望んだか、勝手に決めないでください」
父は言葉を失った。クラリスは自分で扉を開けた。レナートは少し離れて後を歩いたが、広間を出るまで一度も彼女に触れなかった。
廊下へ出ると、クラリスはようやく足を止めた。胸が苦しく、うまく息を吸えない。レナートは壁際に置かれた水差しから杯を満たし、彼女の前へ差し出した。
「飲めるか」
「……ありがとうございます」
クラリスは水を飲んだ。喉は痛くない。あれほど黙っていろと言われたあとで、こんなにも自分の声が出たことが不思議だった。
「よく言った」
レナートが言った。クラリスは杯を置き、彼を睨んだ。
「侯爵様も、勝手な方です」
「何が」
「私が答える前に、大広間へ出ていったでしょう。あれでは、あなたに助けてもらわないと何もできない女だと思われます」
「止めたかった」
「私も止めたかったんです。だからこそ、自分で言いたかった」
レナートは黙った。クラリスは自分でも意地を張っていると思った。彼がいなければ、父に腕をつかまれたまま、登録官へ近づけなかったかもしれない。それでも、助けられたことと、助け方に腹が立つことは両立する。
「君の言う通りだ」
「そんな簡単に認めないでください。喧嘩になりません」
「喧嘩をしたかったのか」
「今はしています」
レナートは少しだけ目を見開いた。やがて口元が緩んだ。
「なら、私にも言わせてほしい」
「どうぞ」
「君は、自分で話すと言いながら、父親に腕をつかまれたとき、何も言わなかった。私は見ていて腹が立った」
「父に逆らえば、家がなくなるかもしれないんです」
「知っている。さっき聞いた」
「では、分かるでしょう」
「分かるのと、納得するのは違う」
クラリスは返事を探した。レナートは彼女を見下ろしているが、勝ち誇った様子はない。
「君が言いたいことを言えるようになるまで、待つべきだった。だが、あの男が君の代わりに答えるところは見たくなかった」
「なぜですか」
「君の声が聞きたいからだ」
あまりにも真っすぐな返答だった。クラリスは急に何も言えなくなった。レナートはその沈黙を責めず、彼女が落ち着くまで待っていた。
「侯爵様は、誰にでもそんなことを?」
「言わない」
「では、私だけ?」
「今のところ」
「今のところ、ですか」
「嘘はつきたくない」
クラリスはとうとう笑った。レナートは笑わせようとしたのではないらしい。それが余計におかしかった。
遠くで鐘が鳴った。披露会の終わりを知らせる音だ。客たちはまだ広間にいるはずだが、クラリスは戻る気になれなかった。
「侯爵様。先ほどは助けていただいて、ありがとうございました。言い方がきつくなってしまって……」
「礼と文句は、両方受け取る」
「変わった方ですね」
「君も」
彼はそう言って、手を差し出した。
「帰りの馬車まで送っていいか。嫌なら、ここで別れる」
クラリスはその手を見た。今夜、ドリアンは何度も彼女の腕をつかんだ。父も彼女を引き留めた。レナートだけが、触れる前に尋ねた。
「お願いします」
クラリスが手を重ねると、彼は指先をそっと包んだ。歩く速さは彼女に合わせてくれる。階段ではドレスの裾を踏まないよう、少し先に立って足元を確かめた。
王宮の玄関へ着くと、メルヴィル家の馬車は見当たらなかった。御者がいない。門番に尋ねると、父が馬車を使って先に帰ったという。
「置いていかれたのね」
クラリスは呟いた。レナートは自分の馬車を呼ぼうとしたが、クラリスはすぐに首を振った。
「それでは、またあなたに頼ることになります」
「私の馬車が嫌なら、辻馬車を呼ぶ」
「それも、あなたに呼んでもらうんでしょう」
「では、君が呼べばいい。私は待つ」
クラリスは思わず笑い、門番に辻馬車の手配を頼んだ。待つ間、レナートは彼女の隣に立った。夜風が冷たく、薄いドレスの肩が寒い。彼は外套を脱ぎかけたが、途中で止まった。
「外套を貸してもいいか」
「……お願いします」
肩へ掛けられた外套は大きく、少しだけ革の匂いがした。クラリスが襟元を押さえると、レナートは視線を逸らした。
「似合う」
「外套が?」
「君に」
クラリスは顔を上げた。レナートはそれ以上言わなかったが、彼女の肩から外套を取り上げようともしなかった。
辻馬車が来たとき、彼は御者に行き先を告げず、クラリスへ尋ねた。
「どこへ帰る」
「メルヴィル家です。父と話さなければなりません」
「そうか」
「また喧嘩になると思います」
「君は喧嘩が上手だ」
「いいえ。今日まで、ずっと負けていました」
「今夜は違った」
レナートは彼女の手を離した。クラリスは馬車へ乗り込み、外套を返そうとしたが、彼は受け取らなかった。
「次に会うときでいい」
「次があるんですか」
「会いたい」
彼ははっきりと言った。
「君が嫌でなければ、明日、会いたい」
クラリスは胸の奥が温かくなるのを感じた。こんなふうに、会いたいと言われたことがあっただろうか。
「……私も、会いたいです」
レナートは初めて、声を立てずに笑った。馬車が動き出すと、彼は門のところで見送ってくれた。
だが、屋敷へ戻ったクラリスを待っていたのは、父の怒鳴り声だった。
「お前のせいで、グレイス伯爵が借金の即時返済を要求してきた!」
父は机に一通の通知書を叩きつけた。返済期限は三日後。支払えなければ、メルヴィル家の屋敷と土地が差し押さえられる。
「明日、ドリアン様に謝りに行け。でなければ、ここから出ていってもらう」
クラリスは通知書を拾った。父は本気だった。彼女が口を開いた代償を、すぐに払わせるつもりなのだ。




