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婚約者に「黙っていろ」と言われたので、無口な侯爵と本音で喧嘩します  作者: あずきまんま


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第1話_花嫁の声はいらない

「披露会では一言も喋るな。君が口を開くと、まとまる話も壊れる」


ドリアン・グレイス伯爵令息は、クラリスの唇を指で押さえた。王宮の控え室には鏡が三枚あり、そのどれにも、口を塞がれた婚約者と、満足そうに笑う男が映っていた。


クラリスは彼の指を払いのけた。


「今夜は私たちの婚約披露会です。挨拶もできない花嫁なんて、聞いたことがありません」


「だから困るんだよ。言い返すことしか知らない女は、貴族の妻に向かない」


ドリアンは卓上の薄い青の紙を取った。披露会の進行表だ。花嫁の返答の欄には、クラリスの名前ではなく「代理人、グレイス伯爵令息」と印刷されている。


「代理人?」


「君は最近、喉を痛めていることにした。大事な式で無理に話す必要はない。僕が全部答える」


「私は喉など痛めていません」


「だったら今から痛めればいい。少なくとも、そういう顔をしていろ」


ドリアンは進行表を彼女の手から奪い、扉の外へ出ていった。鍵は掛けられなかったが、廊下には彼の家の従者が二人立っている。クラリスが出ようとすると、背の高いほうが行く手を遮った。


「お支度の間は、こちらでお待ちください」


「もう終わっています」


「若様のご指示です」


クラリスは鏡の前へ戻った。白い絹のドレスは母が亡くなる前に選んだ布で仕立てたものだった。袖口に縫い込まれた小さな青い花は、母が好んだ模様だ。鏡の中の自分が知らない女に見えるのは、衣装のせいではない。今夜、彼女は名前だけを使われるらしい。


グレイス家との婚約は二年前、父が商売で損失を出したときに決まった。伯爵家は父の借金を肩代わりし、代わりにクラリスとの婚約を求めた。父は「これで家を守れる」と喜んだが、クラリスが何を望むかは尋ねなかった。


母が遺した財産は別だった。王国では十八歳で成人するが、母方の祖父が設けた信託だけは、クラリスが二十歳になるまで誰も処分できない。来月、彼女は二十歳になる。婚約者が最近になって婚礼を急ぎ始めた理由を、クラリスは考えないようにしてきた。


扉の外で、誰かが従者と言い争う声がした。


「お嬢様にお会いしたいのです」


年配の女性の声だった。クラリスはすぐに扉を開けた。廊下にいたのは母の友人、マルタ夫人だ。夫人はクラリスの顔を見ると、従者の腕を振りほどいて近づいた。


「まあ、顔色が悪い。座りなさい」


「大丈夫です。お会いできてよかった」


クラリスは夫人を室内へ招いた。従者が止めようとしたが、夫人は睨みつけるだけで黙らせた。


「あなた、式で話せないことになっているそうね」


「私が頼んだわけではありません」


「でしょうね。あなたのお母様は、言いたいことを我慢する娘に育てなかったもの」


夫人は小さな手帳を取り出した。王宮の婚約登録官が発行する案内で、披露会の後、本人同士が口頭で婚約の意思を述べれば登録が完了すると書いてある。病気で発声できない場合には、本人が署名した代理申請書と医師の証明書が必要だ。


「ドリアン様は、もう代理申請を出したのですか」


「そう聞いているわ。でも、あなたが署名したの?」


「いいえ」


夫人は眉を寄せた。


「なら、あなた自身が登録官に伝えなさい。大勢の前でなくてもいい。今夜、登録官は宮殿にいるはずよ」


クラリスは頷いた。だが、ドリアンが従者を置いたのは、その機会を奪うためではないか。彼は一度決めたことを覆されるのが嫌いだった。クラリスが食事の席で反論すると、三日間は彼女を無視した。謝らない限り手紙も返さない。父はそのたびに「お前が我慢しろ」と言った。


夫人が帰ったあと、クラリスは扉へ向かった。従者はやはり道を塞いだ。


「登録官に会いたいのです」


「若様にお伺いします」


「私自身の意思を伝えるのに、若様の許可が必要ですか」


「決まりですので」


クラリスは一度引き下がり、廊下の窓を見た。窓の向こうに王宮の中庭があり、庭を横切れば登録官の執務室へ行ける。だが、窓は人が通れるほど大きくない。ここで騒げば、ドリアンは「婚約者が取り乱した」と言いふらすだろう。


そのとき、廊下の奥から低い声がした。


「誰の決まりだ」


従者たちが振り向いた。黒い礼服の男が歩いてくる。飾りは襟元の銀の留め具だけで、王宮の華やかな廊下ではかえって目立った。男は従者の前で立ち止まり、もう一度尋ねた。


「この廊下を通るのに、誰の許可がいる」


「グレイス伯爵家のご命令で……」


「ここは王宮だ」


それだけ言うと、男はクラリスへ視線を向けた。


「通りたいのか」


「はい。婚約登録官のところへ」


「案内する」


男は従者たちに背を向けた。クラリスは思わず呼び止めた。


「お待ちください。お名前も存じません」


「レナート・ヴァイス」


ヴァイス侯爵。宮廷では「無口な侯爵」と呼ばれている男だった。大勢が集まる夜会でも挨拶以外はほとんど喋らず、貴族たちが取り入ろうとしても無表情で立ち去る。クラリスも顔は知っていたが、会話をしたのは初めてだ。


「侯爵様がなぜ、私を?」


「廊下を通りたがっている人間がいた。それだけだ」


彼は歩き始めた。クラリスは裾を持ち上げて後を追う。従者が慌てて呼び止めたが、レナートは振り返りもしなかった。


角を曲がったところで、クラリスは足を止めた。


「助けていただいて、ありがとうございます。でも、私は婚約者に逆らおうとしているんです。ご迷惑をおかけするかもしれません」


「迷惑なら断る」


「では、どうして」


「君が行きたいと言ったからだ」


それはあまりに簡単な理由で、クラリスは返事に困った。ドリアンは彼女が何かを望むたび、なぜそれが必要なのか説明させた。十分に説明しても、最後には「君には分からない」と言った。


「……侯爵様は、私の話を最後まで聞いてくださるんですか」


「長ければ途中で質問する」


「質問するんですか」


「分からないまま頷くよりいい」


クラリスは初めて少し笑った。レナートはその表情を見たようだったが、何も言わずに歩き続けた。


登録官の執務室へ着くと、扉はすでに閉まっていた。廊下の時計は披露会開始の十五分前を指している。扉に貼られた札には「本日の受付終了」とあった。


「遅かった……」


クラリスは札に触れた。ここまで来れば間に合うと思っていたのに、誰もいない。


「式場に登録官がいる」


レナートが言った。


「ご存じなんですか」


「今日の証人を頼まれた」


「誰に?」


「グレイス伯爵家だ。断った」


クラリスは顔を上げた。


「どうして断ったんですか」


「花嫁の返事を聞かずに、証人にはなれない」


レナートはクラリスのほうへ向き直った。


「君は、あの男と結婚したいのか」


クラリスは答えようとして、言葉を失った。婚約を受け入れたとき、父が安心した顔をしたことを覚えている。家の借金を返せると聞いて、ほっとしたのも事実だ。けれど、ドリアンに会いたいと思って眠れなかった夜があっただろうか。彼が自分の言葉を聞いてくれると信じたことが、一度でもあっただろうか。


「分かりません」


正直に言うと、レナートは頷いた。


「なら、分からないと言えばいい」


「それで済む話ではありません。父の借金があるんです。私が婚約を破棄すれば、家は……」


「君が背負うと決めたのか」


「父が決めました」


「聞いているのは君のことだ」


クラリスは反発した。借金を作ったのは父でも、家を失えば暮らす場所を失うのは自分も同じだ。侯爵には分からない事情がある。


「簡単に言わないでください。あなたは侯爵様だから、誰かに逆らっても帰る家があるでしょう」


レナートは黙った。クラリスは言いすぎたと思ったが、取り消したくなかった。初めて会った男に、分かったような顔で選択を迫られたくない。


「そうだな」


彼は少し考えてから答えた。


「君の家の事情は知らない。知らないまま、選べと言った。悪かった」


クラリスは驚いた。ドリアンならここで怒る。彼女の無礼を数え上げ、謝罪を要求する。レナートは怒りもせず、だからといって彼女の言い分をすべて肯定することもしなかった。


「だが、君の返事を他人が決めていいとは思わない」


式場から楽器の音が聞こえた。もう客が集まっている。


「私は行く。君はどうする」


クラリスは扉の向こうの明かりを見た。逃げてしまえば楽かもしれない。けれど、ドリアンは彼女が来なくても、代理人として返事をしてしまうだろう。


「行きます。私の声で答えます」


「分かった」


レナートは手を差し出さなかった。ただ、彼女が歩き出すのを待った。クラリスは自分で裾を持ち上げ、式場へ向かった。


大広間の入口には、父が立っていた。クラリスの姿を見るなり、父は駆け寄ってきた。


「どこにいた! ドリアン様が探しているぞ。余計なことを言うなよ」


クラリスは答えなかった。父の後ろでは、ドリアンが登録官と話している。彼は書類の一枚を示し、得意そうに笑っていた。


「こちらが、花嫁の代理申請書です。本人の署名もございます」


登録官が紙を受け取った。クラリスはその署名を見たことがなかった。


レナートが彼女の隣で足を止めた。


「どうする」


クラリスは大広間の中央へ歩き出した。だが、ドリアンが彼女に気づき、先に声を張り上げた。


「皆様、婚約者は喉を痛めております。今夜は私が彼女に代わって、すべてお答えいたします!」


拍手が起こった。クラリスが口を開く前に、父が背後から腕をつかんだ。


「黙っていろ。家を潰す気か」


その指の強さに、クラリスは初めて父を怖いと思った。


登録官は代理申請書を開き、声を上げた。


「では、花嫁クラリス・メルヴィル嬢の意思を確認します。代理人の方、前へ」


ドリアンが一歩進んだ。クラリスは父の手を振りほどこうとしたが、ドレスの袖をつかまれて動けない。


そのとき、客の間から低い声がした。


「待て」


レナートが、客の前へ歩み出た。


「私は、その花嫁の返事をまだ聞いていない」


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