陽織、リンクに戻る(就職編)
3月の日曜日、陽織は自分がかつて毎日立っていた、リンクにいた。
リンクサイドには、黎人が鷹人を抱いてベンチに座っている。
少し離れたベンチには皆月夫妻。お腹が大きくなって来た優佳に夫が一緒について来た。
リンクの中には小学校低学年のこどもたちが12人。
この歳に、陽織はすでにソロで優佳のコーチを受けていた。
今シーズンから始めた子ばかりで、今年に入って初級のバッジテストに受かった子のクラスだ。
はじめに、優佳の代わりに教えているコーチが、全員に準備運動をさせる。
陽織も一緒に体を動かして、リンクの中を3周した。
子どもたちのちょうど1周分の時間で。
今日は、いよいよジャンプとスピンの練習をする、と言うメニューだった。
ジャンプ‥。
陽織はまず自己紹介をした。
「神代陽織と言います。今日はよろしくお願いします。」
と、笑って自分の名前を言う。
子どもたちも、親たちも、
「だれ?」
と言った顔だ。それで良い。自分が誰なのか、なんて関係ない。
まず一人一人にジャンプを飛んでもらう。
恐々飛ぶ子。思い切り飛んで転ぶ子。
飛んだけど、回転が足りなくて一回転にならない子。
様々だ。
一通り全員が終わると、陽織がお手本を見せる。
一番優しいサルコウを飛んでみる。
後ろ向きから陽織が飛んで着地をすると、おーっ、と言う声が上がる。
「やっぱり、陽織のジャンプは綺麗だねー。」
離れて座る優佳の声が聞こえた。
子どもたちが真似して飛ぶ。
すぐに真似て飛べる子もいれば、やっぱりうまくいかない子もいる。
陽織は、そんな子を見て、そばで手を取って広げたり、足の角度を調整しながら、もう一度とんでみせて、その子どもにも、飛ぶことを促す。
3周する頃には、12人全員がサルコウジャンプを飛べるようになった。
そのあとは、アップライトスピン。
スピンの基本中の基本だ。
陽織が見本を見せる。
ジャンプの時と同じように、一人一人が真似て回る。
踏み出す足の位置。手の位置。一人一人注意しながら、スピンの練習をする。
そして、全員が上手にできるようになったところで、陽織はジャンプとスピンのコンビネーションをする。
ステップを入れない形、ステップを入れた形。
陽織は両方のパターンの見本を見せた。
ジャンプが先の形、後の形も。
リンクサイドでは、付き添いの若い親たちが、自分の子の練習を見ながら、黎人の方をチラチラ見ている。
「え、嘘、でも似てるわよね。」
「間違い無いわよ!わたし密かに彼のファンだもの。」
「何それ、旦那に怒られるわよー!」
あははと3人の母親たちが、世間話に花を咲かせている。ほとんどが優佳と同年代だろう。
他にも、向かい側にいる母親たちグループ、端に固まった夫婦。色々なところから、黎人は見られていた。
(うーん、だからメディアに出るのは嫌なんだよねー。)
3時間の練習の間、10分の休憩。
陽織は休憩になると、リンクの中央にでる。
「陽織、滑るの?」
優佳が不安そうな顔をして言う。
陽織は手を挙げて、ステップを踏む、そしてスピードをつけてラン、その後!
「え?」
誰もが目を疑った。
4回転ルッツ、トリプルトウループ、そしてトリプルアクセルの、コンビネーションを跳んだ!
「何?今の?」
「今日の臨時コーチって、何者?」
「あんなの、世界レベルじゃない!」
「神代陽織って。」
「どこかで聞いたような?」
そのまま滑って、最後に挨拶をして。
陽織は黎人たちの方へ滑って来た。
「どうだった?」
陽織がにっこり笑って黎人を見上げる。
「うん、カッコよかった!」
「ママ、きえー!」
「ありがと!」
陽織はそういうと、鷹人のほっぺにチュッとした。
そのまま、2人に手を振って、また休憩中の子どもたちの方へ行く。
「やっぱり、陽織ってこう言うところも、様になってるんだよねー。」
優佳が感心と呆れが混ざったような顔をして言う。
その様子を見ていた他のママ友グループが騒ぎ始める。
「やっぱりそうだよ!ほら、2年前くらいにワイドショーで、言ってた!」
「あ、知ってる!オリンピックの最有力候補だったのにいきなり引退して、財閥夫人になったって。」
「じゃあ、あのイケメンって、やっぱり!」
(だから、テレビは嫌いなんだってば!)
内心そう思いながら、黎人は聞かないフリをしてリンクの中の陽織に集中した。
残り、子どもたちに好きなコンビネーションで、覚えたジャンプとスピンを繋げてもらう。
「これを、どんどん繋げて行くと、わたしがさっき飛んだみたいな演技ができるんだよ!」
休憩中のコンビネーションジャンプを見てしまったら、子どもたちも、キラキラとした目をせずにいられない。やってみたい!自分も食べるようになりたい!
子どもに、そう思ってもらえるために、陽織は休憩中にあのコンビネーションジャンプをした。
それを聞いて、それぞれが距離をあけると、一人一人一生懸命、練習をし始めた。
中には、一回で上手く繋がる子もいた。
でもほとんどは、続けて、と言うのは難しいらしい?
「ちゃんと自分でリズム取って。1、2って数えて。」
陽織が手を叩きながら、指示を出す。
あっという間の3時間が終わると、黎人が優佳にお昼を一緒にどうか、と声をかけた。
「お礼がしたいので、こちらでご招待します。」
と。
「いえいえ、お礼をするのはわたしのほうです。」
と優佳が言うと、黎人は笑った。
「陽織のあんな顔を見られたのは、はじめてなので。」
と答えた。




