陽織、中間決算(子育て編)
9月に入り、陽織は毎日レイリーに通って毎日中間決算の準備をしている。
中間決算は9月末。
大学が途中から始まってしまうので、それまでにある程度の報告書類の準備をしなければいけない。
去年だったら大学を休むことができなかったので、絶対に無理なことだった。
というか、決算報告の会議の日はたぶん休まなければならないよね?
それとも、そちらはほかの人がやってくれるのだろうか?
それでも、どうしてわたしが一人でやらなければならないのだ、と納得がいかない。
会社なら普通経理の専門の人がやっているはずだ。
といろいろ疑問に思いながらも、レイリーに行き、事務担当の人に説明を受けながら確認をしていく。
天神は株主総会が6月に毎年行われているが、今年の株主総会はかなりもめたと聞いている。
近年オールドメディアに対する風当たりはきつくなっている。
そういったところも影響しているのかもしれない。
高嶺もそれに対して、いろいろと対策を考えているらしい。
実際にはそれ以上のことがあるようだが、高嶺も黎人も陽織には話してくれない。
先日、和嶺も来て対策会議に出ていたというのに、また仲間外れだ。
陽織は、とにかく頑張って中間決算の書類を作るが、それでも時間が足りない。
そこで、陽織は黎人に相談して、美織と佳織の2人をバイトで雇った。
9月末、レイリー内での決算報告は無事に終わり、一番の難関、グループ全体の決算報告会議の日がやってきた。
普段スーツを着ることがない陽織は、大学の入学式に着るはずだった黒スーツとパンプス、バッグの中に書類を入れる。
会計監査はグループ全体の公認会計士を通して、行ってもらった。
レイリーのIDには陽織の名前と顔写真。
筆記用具にスマホ、ハンカチ、タブレット、ほとんど何も入っていない財布。
忘れ物がないか、なん度も確認した。
会計報告会議の質疑応答の練習も、黎人と何度もした。それでも、緊張で泣きそうだ。
グループ全体ということは、当然悠人も来る。
当たり前だが、蓮也と黎人は上座に座る。
黎人の車に乗って、鷹人をレイリーで降ろし、陽織は本社ビルに向かった。
朝8時30分、車は地下3階の駐車場に入る。
降りるとき、陽織は今にも緊張で泣きそうだ。
黎人が車の中で陽織の手をぎゅっと握った。
「大丈夫だよ。」
と黎人が笑うが、陽織の顔は引き攣っている。
10階大会議室があるフロアには、たくさんのグループ全体の重鎮が揃っていた。
逃げたい!
無理!
気持ち悪い!
半分以上は、結婚式の披露宴や100周年パーティで、すでに挨拶をしている。
そこに、蓮也が現れると、みんな廊下の脇に動く。
そして、その後ろから黎人が歩く。
レイリーは新参なので末席になるから、陽織が入るのは最初の方だが、席は一番後ろ。
他にも、綾人や広報室長、総務部長といった本社役員もいる。
所在ない陽織に声をかけてくれたのは、グループの中でも数少ない、女性社長の1人だった。
時間10分前、末席の者から会議室に入る。
いつもは、必ず黎人が手を引いてくれる。
でも、今日は1人だ。
陽織は一番に部屋に入り、名札のある席に座った。
隣は先ほど声をかけてくれた、人材派遣会社の浦沢慶子。女性社長の中でも、最もやり手、と聞いたことがある。
彼女を隣にしてくれたのは、男性が苦手な陽織のための、黎人の采配だろう。
「陽織さん、よろしくね。」
母と同じくらいの慶子に声をかけられ、
「よ、よろしく、おな、が、いしま、す。」
と、かみかみで答えた。
泣きたい!
でも泣いちゃだめ!
先日、会社で待ち合わせしたとき、黎人に言われた言葉が頭をよぎる。
『本当に就職するの?』
ここで泣いたら、絶対に就活させてもらえない。
就職なんて、もってのほか。
きっと、ずっと家の中で子育てして、黎人の世話をして。嫌じゃないけど、でも、それだけで終わるのはやっぱり嫌だ。
陽織は涙が溢れそうになるのを、ギュッと目を閉じて我慢した。
蓮也が入って、扉が閉められると、会議が始まった。
会議は一日中続く。
午前中に一度休憩が入り、昼休みはお弁当が配られ、席に着いたまま食べる。
午後も一度休憩が入り、終わるのは4時すぎと聞いている。
会議室には全体で30名近い役員の任に就く人がいる。
この頂点にいるのが蓮也で、いずれは黎人がその座に就く。
嫌だ、帰りたい。
始まって10分も経たないうちに、陽織は胃が痛くなってきた。血の気も引いてくる。
でも、我慢しなくちゃ。
タブレットを立ち上げ、各子会社、グループ会社の中間報告がされていく。
中には意地悪な質問を浴びせる、他の会社の役員もいる。でも、陽織にはみんなが何を言ってるのか、全くわからない。
宇宙語を聞いてる気分だ。
気持ち悪い。
「次、認定子ども園、ガーデンレイリー、代表神代陽織さん。」
と呼ばれたとき、一瞬、答えられなかった。
隣の慶子に手を握られて、
「は、ハイ。」
と、立ち上がった。
あとは、黎人に練習してもらったことを話し、聞かれたことを答える。
さほど意地悪な質問もなかった。
おそらく、中身が中身だけに、年配の男性にはよくわからないのだろう。
福利厚生を目的とした施設のため、利益が上がらないのも、想定内だ。その中で、人件費の質問が出た。
レイリーには外国人保育士が2人いる。
専任の管理栄養士もいる。
贅沢といえば贅沢だ。
それに対して、
「私どもは、未来を担う子どもたちに、最高の保育環境の提供を目的としております。最高の環境で、世の中を支える子どもを育てること。それはこの会社の未来、さらに国の未来を支えることができる、人材確保に繋がると、考えます。そのための、最高の人材です。」
と、答えた。
陽織自身、子どもの頃から、それだけは充分に与えられた。カナダにドイツ、北欧への留学。ロシア人のコーチ。大学受験の時は、行かない医学部なのに、最高の予備校を用意してもらった。
今も、美咲からはたくさんのことを教えてもらっている。黎人の妻としてだけでなく、立ち居振る舞いに、礼儀作法、言葉遣い、物の選び方、一流と言われる物の選び方、見方。
だから、子どもにも、可能な限り良い環境を。
それが陽織の考えだった。
陽織は話し終わると、ニッコリと微笑んで、全体を見回し、お辞儀をする。
スケートの時のクセだ。しかし、この笑顔で陽織は味方を増やしてきた。
最後に黎人と目が合うと、黎人に睨まれた。
なんでー?
陽織が終わり着席すると、慶子が
「良かったわよ。」
と小声で言ってくれた。
お昼。第二の難関がやってきた。
松花堂弁当。
無理!
食べきれない!
食べられない!
蓋を開けた途端、閉じたくなった。
目眩がする。
昼休憩で、半分どころかおそらく2割も食べられない。
サッサと食事を済ませて、他の人はみんな休憩を取っている。その中で、陽織1人もそもそと、ご飯と格闘していた。
すると、それを見た黎人が、悠人を連れてやってきた。
2人は陽織の両隣に椅子を置くと、
「悠人、この辺陽織が手をつけてないところ、食べて。」
と黎人が言う。それ以外は、黎人が一緒に食べ始めた。
「陽織、食べるのが早いのも、社会人の基本だよ。」
と、黎人に言われ、泣きたくなる。
でも、泣いたら、たぶん就活させてもらえない。
「ほら、陽織、海老は食べられるよね。」
と口を開けさせられた。
う、恥ずかしい。
ご飯を5分の1くらいに、えびと、卵焼き、切り干し大根の煮ものを食べて、陽織はギブアップだった。
「陽織ちゃん、途中でお腹空いちゃうよ?」
悠人にも、心配された。
黎人はサッサと陽織の残りを食べて、蓋を閉じると、片付けを始めた。
「ほら、あと5分あるから、トイレ行って。ちゃんと水分とって。」
と言われる。子どもみたいだ。
陽織がトイレに立つ間に、黎人と悠人が、机の上を片付けてくれた。もう、本当に恥ずかしい。
午後の会議が始まる。
お腹いっぱいで眠い。
でも、みんな真剣に聞いてる。
なんとか午後休憩まで頑張れた。
休憩時間になると、自販機でコーヒーを買ったり、トイレに行ったり。
そんな時間も、黎人は蓮也や他の役員と話をしている。陽織は、トイレから戻ると、ポツンとその様子を眺めていた。
その後、2時間もすると、会議は滞りなく終わり、それぞれが退室を始める。
陽織は黎人を待たなければいけないけど、中にいるわけにもいかず、廊下に出て隅の方に立っている。
すると、時折声をかけてくれる人がいた。
「陽織さん、頑張ったね。よくできてたよ。」
「陽織さん、この前はお礼の品ありがとう。」
など。
お礼の品の話をする人は、9月に鷹人のお誕生日プレゼントを贈ってくれた人だ。
先日、陽織は一人一人に礼状と一緒に、簡単な品物を添えて贈った。
黎人との連名だけど、みんな陽織の字だとわかるらしい。さすがだ。
そう言う人には
「こちらこそ、大変良いお品物をありがとうございます。本人も大変気に入っております。」
「いつも、ご丁寧にありがとうございます。ありがたく、使わせていただきます。」
などと、礼を返す。こう言った言葉も、美咲に教えてもらった。
会議に出ている半数以上は、陽織の素性を知っているので、会議室の出口では、こう言ったやりとりが続く。
初めて会う人は他の人から聞いて、少し驚いた顔をする。それはそうだ。陽織はどうよく見ても、就活の学生だ。
男性は苦手だけど、こう言うやり取りはきちんとできないとダメ!と、美咲に注意されている。
本当は柱の影に隠れて、誰にも見つからないようにしたいのに。
(早く、帰りたい。)
そのうち悠人が出てきて、
「陽織ちゃん、黎人を待ってるの?」
と、声をかけてきた。
陽織は黙ってコクコクうなづく。
「今日は、よく頑張ったね。」
と言われたので、
「だって、頑張らないと、就活しちゃダメって、黎人さんが。」
と、本音が出た。
「え?本当に就活するの?」
と驚かれ、しっ、と指を口の前に立てる。
「祈梨、大変だって言ってるよ?まだ半年だけど、やっぱり辞めたいって。残業ばっかりだし、セクハラもあるし、って。」
うーっ、となる。
それくらい、陽織だって知ってる。
でも、そう言うことを込みで就職したいのだ。
「だって、普通にお仕事、したいし。」
と言ってから、ハタと思いついた。
「悠人さん、わたし、バイトしたいです。その、雇って、もらえませんか?」
と、聞いてみた。
はあ?と言う顔の悠人。
「イヤイヤ、無理無理!僕の会社で陽織ちゃんバイトに雇ったら、僕が黎人に抹殺される。」
と、焦る。
なんでー!
なんでみんなそう言うんだろう。
陽織は、しょんぼりした。
「じゃあ、就活の時、よろしく、お願いします。」
と、頭を下げた。
「いや、就活も、無理だからね!」
と、念押しされてしまった。




