陽織、解剖が怖い!(新婚編)
管理栄養士学科は、履修科目の中にある生物学実験で解剖がある。
実験室は理系キャンパス内に数箇所あるが、その日は急に水漏れによる改修工事が入り、医歯薬キャンパス内の解剖実習室を借りることになった。
朝、いつものように黎人の車から降りた陽織は、大学から届く一斉配信のメールに、目が点になる。
「かい、ぼう?」
陽織は前回ちゃんと実験に参加していた。
レポートも出していた。
半期の実験スケジュールも把握している。
しかし、今日解剖があることを、うっかり忘れていた。
しかも、場所が変わって、駅向こうの医歯薬キャンパス。
もう、黎人の車はキャンパスを出て、都内を新橋、田町のオフィスビル街に向かってしまった。
「う、うえっ、うえーん。」
陽織はその場に泣き崩れてしまった。
ぐずぐずと、大学の通路で泣く女子大生なんて、誰も振り向くものの、蔑視している。
「あれ?陽織?」
多くの大学生が過ぎる中、陽織の姿に気づいたのは、高校時代の仲間の1人、神岡宏樹だった。
宏輝は大学よりも南側に住んでいるので、陽織たちとは反対に、理系キャンパスを通って医歯薬キャンパスへ通学している。
「えー?今日の実験が医歯薬キャンパスだったの?」
宏輝は湊人たち程ではないものの、高校三年間、陽織と一緒に行動することが多かったグループの1人。それなりに陽織の対応は慣れている。
「とりあえず、未だ始業にはかなり早いから、俺と行こう。同じ5号館のはずだから。」
宏輝は困り顔をしながらも、陽織の手を引いて、駅を通り越して、医歯薬キャンパスに向かった。
医歯薬キャンパスは、大学の校舎の手前に、附属病院がある。
泣いている陽織の手を引きながら、附属病院の前を通るのは、宏輝にとって、どんな誤解を生むのか、と内心ヒヤヒヤしていた。
しかし、知り合いに見られることもなく、無事医歯薬キャンパスがある正門までたどり着いた。
「ほら、陽織。着いたから。この中なら受験で来てるからわかるだろ?」
「う、うん。ありが、と。」
陽織はそこで宏輝と別れた。
しかし、陽織が泣いていたのは、場所が違ったからではない。実験の中身だ。はじめから、解剖の日は、何が何でも欠席しよう、と、心に決めていたのに。
着いてしまった。
連れて来てもらってしまった。
さらに、ここには医学部生がウロウロしている。
どうしよう、どうしよう、どうしよう!
サボったら、
誰かに見つかったら、
父様に言われる!
サボったなんて知られたら
怒られる!
陽織は5号館、と書かれた校舎の前で、固まっていた。
「あ、陽織早いじゃん!」
悩んで動けなくなっていた陽織を見つけたのは、翔太と羽織だった。今朝は同じキャンパスだから、一緒に来たらしい。腕を組んでいる。
陽織は、ギギギと顔を動かして、目を逸らす。
休みたい!
(宏輝くんに場所が変わったこと、言わなければ良かった!)
「何やってんの?」
後ろには湊人もいた。
とにかく陽織は動けない。もう、歩けない。
どうしよう!
「陽織ったら、ほら行くよ!」
羽織が翔太の隣から、陽織の方に近づいてきた。
しかし、本当に動けない。
怖い、怖い、怖い!
「は、おりちゃん。」
「ん?」
「動、けな、い。」
陽織は一歩も歩けない。
陽織の言葉を聞いた途端、先に行こうとしていた湊人と翔太が振り向いた。
「ハオちゃん、動けな、い。」
陽織はもう、泣き出していた。
「うご、けな、い。」
はあ?
もうっ!
湊人と翔太が、あの合格発表の日のように、腕を引っ張り、後ろから押す。
「やだー!いや、休むー!わーん!ウエーん!」
「何でまた、なくんだよ!」
「お前、いくつだよー!」
ワンワン泣く陽織を、慣れた2人は動じることなく、とにかく実習室へと連れて行く。
「あ、ありがと、う。」
羽織は、部屋の入り口まで陽織を連れて来た湊人と翔太に、とりあえず、礼を言った。
ウエッ、うえん。
まだ陽織は泣いている。
「陽織、もう、恥ずかしいよ!いつまでも!」
ちょっと羽織も、怒だ。
陽織は声を出すのはやめたけど、まだ、目を両手でこすりながら泣いていた。
「あ、おはよう神澤さん、と、神代、さん?」
そこに来たのは、隣の班の佐藤美和と、高田聡太だった。
「あー、わがまま姫、だっけ?」
聡太がクスッと笑った。
その言葉に、陽織はビクッとして、泣くのだけはやめたが、震えている。
「わがまま姫って?」
美和が聞くと、聡太が名前の由来を話しながら実習室に入って行った。
泣いたこと、父様に、知られる?
「羽織、ちゃん。ごめんなさい。」
陽織はそう言うと、とにかく泣かずに2時間、実習をこなしていた。
ただ、目を逸らしながら、震えた手で麻酔をうったり、メスを握るのは、見ている周りがハラハラした。
陽織が解剖を怖がるのは、内容だけでない。それ以上に、実験で命を奪われた動物たちが、陽織の周りにまとわりつくのだ。
今も、この部屋で解剖されたマウスたちが、陽織の周りにウジャウジャ集まっている!
頑張って浄霊するが、医歯薬キャンパスの中は、その数が半端ない。
(なんで兄様や湊人は平気なの?)
終わったあと、陽織は真っ青な顔をして肩で息をしている。この後、昼食だが、食べることはできるだろうか?霊力も、かなり削られた。
羽織は、実習室を出るとすぐ、高田の方にカツカツと歩いて行く。
「ちょっと、さっきの言葉、どういう意味?」
高田は振り向くと
「はあ?ここの病院に親が勤めいる家族なら、有名だぜ!院長の娘は、神月陽織はわがままで泣き虫で、自分の思うようにならないと泣いてダダを捏ねるわがまま姫だ、って。だいたい、大学入って早々に、妊娠してます、なんて、まともじゃないだろ?」
羽織は思わず手を上げる。
「ダメ!羽織ちゃん!」
陽織が間に入り、羽織を止めた。しかし、その後ろから日緒理が思い切り、高田の頬をたたく。
「ただの噂で、他人のことを悪く言わないで!陽織は、神月さんは、我慢強くて、辛抱強くて、いつも、泣いてるかもしれないけど、でも絶対に他人の悪口なんて、言ったこと、ない、真面目な子なんだから!」
陽織と羽織は、そんな日緒理に呆然としている。
日緒理と佳織、結菜と共に、陽織と羽織は、理系キャンパスの学食にいた。
「ごめん、なさい。」
陽織は周りに迷惑をかけたことを、みんなに謝った。そしてもう一つ、
「きくりって、もしかしたら、わたしのこと、知ってる?」
と、日緒理の方に向いて言う。
「初めて会った時、私に覚えてる?って、聞いて来たよね?」
すると、日緒理は頭を下げた。
「ごめんなさい!わたし、七中です。」
それを聞いた途端、陽織は血の気が引くのがわかった。
「同じクラスに、なったことは、ないけど。神月さんの噂は、知ってた。ごめん。」
羽織たちは、黙って聞いている。
「神月さん、スケートやってたでしょう?すごく上手かったんだよね。オリンピック候補だって。あまり、学校に来てなかったから。でも、中学の人、みんなそんなこと考えないで。色々嫌なことや悪い噂流して。いじめとかして、わたし、知ってたのに、傍観してたの。」
「仕方ないよ、違うクラスだったんだから!それに、学校行かないで、スケートばかりだったのは、本当だし。」
陽織は、苦笑いする。
「それに、自分勝手なことしてたのは、もっと、本当だし。」
「でも、それでも、わたしが見てた学校の中では、わがままな態度なんてなかったよ。いつも、我慢して、くいしばって、下向いて、反論もしないなんて、なんか、惨めだな子、だなーって、わたし本当、他人事だった。」
「もしかしたら、陽織が中学まで友だちがいなかった、って言うあれ?」
羽織が初めて口を挟んだ。
佳織たちは、驚いて顔を見合わせる。
特に佳織は陽織が羨ましかった。高校で、いつも堂々として、優しい兄がいて、友だちにも彼氏にも恵まれて、可愛くて、誰からも憧れられて、成績も良くて、チカラもあった陽織が!
陽織はどうしたらいいのかわからない、と言った顔で、おでこをゴシゴシしている。
「あの、ね。その、泣き虫、なのは、その、ごめんなさい。本当です。親にも、いつも、怒られてました。黎人さんにも、迷惑、かけて、ます。
でも、なんか、きくりが言うほど、わたし、我慢強くないよ。だから、逃げてたし。
湊人にも、迷惑かけっぱなしだしね。
いつも下向いてたのは、ただ色々と見たくなかった、からかな。やっぱり、自分勝手なんだよ。きっと。
我慢してたのは、いじめられるより、父様に知られて怒られる方が、怖かったから、だから、学校のこと、言えなかった。
本当、わたし自分勝手だよ、ね。」
陽織は、そう言って、ごめんなさいと、再度頭を下げた。
すると羽織が
「自分勝手で、泣き虫なのは想定済みだよ!その上で、可愛い陽織が好きなんだから!」
と、陽織を抱きしめた。
佳織も
「何言ってるのよ!湊人くんの時、堂々と牽制してこちらを馬鹿にしてたくせに!みんなが憧れてた陽織が、わたしだって好きなんだから!」
と言う。
まだ浅い付き合いの結菜にはわからないが、それでもちょっとホッとした。
「でも、解剖、もう、嫌!」
陽織は結局泣いて、羽織に抱きついていた。
その夜
「ねえ、湊人はなんであんな、霊の温床みたいな5号館に平気でいられるの?」
と陽織が聞いた。
「?そんなにいるか?ちゃんと動物の供養塔もあるし。それに、視ないようにすればいんじゃね?」
湊人には話が通じなかった。
「そっかー、湊人にはわからないよね。陽織と湊人じゃ、霊の寄ってくる量が違うんだよ。」
黎人が答えた。
「量?」
湊人が聞き返す。
「うん、神鬼先生に教わったんだけど、巫女、特に陽織は霊がすごく好む霊力を持っているんだって。もちろん、美織ちゃんや千織ちゃんも。だけど、その中で、陽織は極上らしい。霊を吸い寄せるくらい。」
「極上って、そんな、ブランド牛みたいな。」
「それに、陽織は子どもの頃から、視ない訓練してないから、そう言うのとか、チカラのコントロールとか、苦手なんだよね。そのために、なるべく結界やら、お守りやら付けてるんだけど。やっぱり、効果ない場所もあるんだ。」
黎人が答えた。
「だから、今朝、陽織泣いてたのかー。」
湊人が、なるほどと言うが、陽織が泣いた、の一言で、黎人は細かい話を聞きたがり、陽織は少々面倒になった。




