第4話 今生の別れ
※挿絵はAIイラストを使用しています
その朝、リュミナは夜の底を歩いて、セラの家へ向かった。
空はまだ藍色で、東の端だけがわずかに薄い。
村で迎える最後の朝が、こんなにも静かに来るものだとは思っていなかった。
「来たね」
セラは灯りの前に座って、待っていた。
茶も出さず、前置きもなく、約束どおり稽古が始まる。
「じゃぁ、教えようか。最後の一節は、こうだよ」
セラの声が、低く流れた。
――井戸の水が なみなみと満ちるように
――葡萄の蔦が 高く登りゆくように
――小麦の穂が 天へと伸びるように
――この大地が 喜びの歌を奏でるように
――ここに、安らかに気高くあれ
初めて聞く節なのに、どこか知っている気がした。
歌のすべてが、この一節へ向かって流れていたのだと分かる、そんな一節だった。
「ほかの節はね、祈りなんだよ。雨をくれ、芽を出せ、ってね。けど、この節だけは違う。これは祝福だ。土地と、そこに生きる者へ贈る言葉さ。昔は、村を出ていく者を送るときにも歌われた」
「……なんで、今まで教えてくれなかったの」
「この節だけは、別れの朝にしか、本当の意味では歌えないからだよ」
リュミナは一度だけ、通して歌った。
井戸の水が、なみなみと満ちるように――あの涸れかけた貯水槽が浮かんで、声が揺れた。
それでも歌いきった。
最後の一行で、喉が細くなった。
「ここに、安らかに……気高く、あれ」
「あぁ。それでいい」
セラは目を細めた。
それから、自分の耳元に手をやって、留め具を外した。
小さな石のついた、片耳のイヤリングだった。
「ばあ様、それ……」
「代々の長が、片耳にだけつけてきたものだよ。村長の証ってやつさ」
「そんな大事なもの、もらえないよ! だって、それは村に――」
「長の証はね、村のあるところに置くものなんだ」
セラはリュミナの手を取って、その上にイヤリングを乗せ、指を閉じさせた。
「言ったろう。お前が持っていくんだよ、この村を」
手の中の石は小さくて、冷たくて、けれどすぐに、リュミナの体温と同じになった。
「便りを送るよ」
セラは端末を軽く叩いてみせた。
「水の量、土の乾き、人の名前。記録のついでに、お前への小言もね」
「もう、小言って……。絶対だよ」
「あぁ、絶対だ」
迷いのない、即答だった。
◇
輸送機が降りてきたのは、朝の半ばだった。
灰色の、貨物船を人向けに直したような無骨な機体が、村はずれの平地に砂埃を立てて着く。
周辺の集落を順に回ってきた便で、開いた昇降口の奥には、もう大勢の人が乗っていた。
知らない顔ばかりだった。
なのに、全員が同じ顔をしていた。
ついさっき、誰かと別れてきた顔。
リュミナの村の者たちが、箱ふたつずつを抱えて乗り込んでいく。
マレが赤ん坊を抱え直して、タラップに足をかけた。
順番を待つリュミナの横に、杖の音が止まった。
あの老人だった。
「歌、聞こえとったぞ」
老人は前を向いたまま言った。
「……向こうでも、ここまで聞こえるように歌え」
返事を待たず、杖を鳴らして見送りの列へ戻っていく。
リュミナは、その曲がった背中に頭を下げた。
最後に、セラの前に立った。
言いたいことは、十日ぶんも、十七年ぶんもあった。
けれどセラは何も言わせず、手を伸ばして、リュミナの額の白い髪をひと撫でした。
いつかの夕暮れと、同じ手つきだった。
「――行っといで」
それだけだった。
◇
機関の唸りが床から立ち上ってくる。
窓際の席で、リュミナは外を見ていた。
発着場の縁に、見送りの人垣がある。
その先頭で、セラが杖をついて、背筋を伸ばして立っていた。
ふいに、セラの口が動いた。
歌っている。
機関音の向こうから、最初の数音だけが届いた。
井戸の水が――
そこから先は、轟音に飲まれて聞こえない。
それでも口の動きで分かった。
祝福の節だ。
あの人は今、行く者みんなに向かって歌っている。
リュミナも口ずさんだ。
声にならない声で、唇だけで、地上の歌に合わせる。
機体が浮いた。
窓の中で大地が傾き、村が見えた。
セラの家。
集会所。
空っぽの貯水槽。
畑の区画。
そのどれもが、見る間に小さくなっていく。
採掘場の方角が見えた。
父さんが眠っている場所。
丘のふもとの小さな墓地が見えた。
物心つく前に逝った、母さんの場所。
遠ざかっていくのは村じゃない、とリュミナは思った。
父と母とばあ様と、自分の十七年が、まるごと窓の下に置き去りになっていく。
あの土地だけが、三人の生きた証の残る、世界でただひとつの場所だった。
――この大地が 喜びの歌を奏でるように
――ここに、安らかに、気高く……
最後まで、唇が動かなかった。
リュミナは握りしめたイヤリングを額に押し当てて、声を押しつぶした。
嗚咽が漏れないように、息を細く、細く吐いた。
それでも肩は震えた。
涙だけが、止める方法もなく落ちていった。
どれだけそうしていたのか、ふと、機内が妙に静かなことに気づいた。
顔を上げると、あちこちで、人が同じように泣いていた。
窓に額をつけた老人。
子どもを抱いたまま天井を仰ぐ父親。
声もなく、誰も慰め合わず、それぞれの窓の下に、それぞれの村を置いてきた人たち。
通路を挟んだ席で、マレも泣いていた。
その腕の中で、赤ん坊だけが目を開けて、じっと窓の外の光を見ていた。
◇
その夜は、中継地の仮設棟で過ごすことになった。
固い寝台に横になって、リュミナは手の中のイヤリングを見ていた。
眠れる気がしなかった。
端末が、短く鳴った。
『無事に発ったかい。着いたら、また便りをおくれ。歌を忘れるんじゃないよ』
セラからだった。
リュミナは画面を見つめて、それから、泣きながら少し笑った。
別れたのは今朝なのに、便りはもうここまで追いかけてくる。
その早さを、リュミナはただ、嬉しいと思った。
『着いたら送る。小言、ちゃんと書いてよね』
返事を打って、端末を胸に抱えた。
耳に、まだ大きいイヤリングを握ったまま、リュミナは目を閉じた。
明日は、無法地帯の上を飛ぶ。
お読みくださりありがとうございます!
ブックマーク、評価、コメントを頂けると大変嬉しいです!!
歌のアニメーション動画はこちらで公開中です
https://www.youtube.com/watch?v=VunuPOckZT4




