第3話 歌のかたち
※挿絵はAIイラストを使用しています
移住の日取りは、十日後と決まった。
『持ち出せる荷は、一人につき箱ふたつまで』
そう告げられてから、村の時間は急に速くなった。
どの家でも、選ぶ作業が続いていた。
鍋を取れば祖母の織った布が残り、布を取れば父の使った鍬が残る。
持っていけるものより、置いていくもののほうが、ずっと多かった。
リュミナはマレの家で、荷造りを手伝っていた。
「ゲートって、どんなところなんだろうね」
「さあ……。でも、配給網は生きてるって話だから。この子の薬も、向こうならきっと......」
マレは赤ん坊を寝かせたまま、おくるみの替えを箱に詰めた。
希望の話をするときほど、マレの声は小さくなる。
リュミナはそれに気づいていたが、聞こえないふりをした。
帰り際、戸口であの老人とすれ違った。
集会所でリュミナを黙らせた、杖の老人だった。
老人は何も言わず、マレの荷箱の紐がゆるんでいるのを見つけると、節くれだった指で固く結び直した。
それだけして、杖を鳴らして帰っていった。
残る者が、行く者の荷を結ぶ。
その背中に、リュミナはかける言葉を見つけられなかった。
◇
最初の夜、リュミナはセラの家の前にいた。
「歌を教わりに行く」とは誰にも言っていないし、頷いてもいない。
なのに足は、勝手にここへ来てしまった。
「……教わりに来たんじゃないから。様子を見に来ただけ」
「そうかい」
セラはそれだけ言って、灯りの横に座り、歌い始めた。
――立ち上がれ、おお、気高き野よ
――もう一度、立ち上がるのだ
――光をその身に浴び
――恵みの雨を呼び覚ませ
村の者がただ「野のうた」と呼ぶ、あの歌だった。
同じ節なら、リュミナも歌える。
けれどセラの声に乗ると、知っているはずの言葉が、別の深さで響いた。
古い訛りは喉の奥で鳴る。
砂の上を渡る風のような、低いうねりがある。
「ほら、座って。聞いてるだけなら、様子見のうちだろう」
(......その言い方、ずるい。断れないじゃない)
リュミナは結局、セラの向かいに座った。
稽古は、最初の一節から始まった。
例の難所だ。
喉の奥から響かせる出だしの音が、リュミナはずっと浅かった。
「胸じゃない、もっと下だよ。土に向かって歌うんじゃない。土の下に向かって歌うんだ」
何度もやり直した。
十回に一度だけ、セラがうなずく音の日があった。
◇
夜の稽古は、それから毎晩続いた。
三日目には冒頭の連が通り、五日目には次の節に進んだ。
セラの教え方には、淀みがなかった。
今夜はここまで、明日はこの節、と決まっている。
まるで十日で教えきるための順序を、とうの昔に組み終えていたかのようだった。
七日目の夜、リュミナはふと手を止めて訊いた。
「ねえ、ばあ様。この歌って、雨乞いの歌なんでしょ。でも、もう何十年も……ううん、何百年も、雨は足りてない。それって全然意味なかったってことじゃないの?」
責めるつもりはなかった。
ただ、歌えば歌うほど、歌詞の中の豊かな野と、窓の外の乾いた土との落差が、苦しくなっていたのだ。
セラは怒らなかった。
少し笑って、首を振った。
「これはね、野に言ってるんじゃないよ」
「……え?」
「野に向かって歌いながら、ほんとうは、歌ってる人間のほうに言ってるんだ。『立ち上がれ、もう一度』ってね。飢えた年も、土が死んだ年も、この歌だけは止まらなかった。野より先に、人が諦めちまわないようにさ」
リュミナは、自分の喉に手を当てた。
土の下に向かって歌え、とセラは言った。
あれは種に届かせるためじゃない。
歌う人間の、いちばん深いところから声を出させるためだったのか。
「それにね、歌は覚えてるんだよ。文字にされなかったことを、ぜんぶ」
セラは節を変えて、別の連を低く歌った。
――風はすべてを 覚えている
――この大地もまた 忘れてはいない
――古より眠る根が
――今も確かに、息づいていることを
「水の量も、土の乾きも、人の名前も。書き残せなかった時代は、こうやって声に残した。お前が歌うかぎり、この村は《《なかった》》ことにはならないんだ」
書き残されなかったものは、なかったことにされてしまう――貯水槽のふちで聞いた言葉が、歌と重なった。
歌はばあ様との思い出だと、ずっと思っていた。
(そっか。これは村そのものだったんだ)
リュミナはその夜、初めて自分から「もう一回」と言った。
◇
九日目の夜は、風がなかった。
開け放した窓から、稽古の歌声が村に流れた。
リュミナは知らなかったが、その声を、村の者たちが聞いていた。
戸口の前で、畑の縁で、荷箱の上に腰かけて。
行く者も、残る者も、同じ歌の届く範囲に立っていた。
あの杖の老人も、家の前の暗がりで、目を閉じて杖に両手を重ねていた。
集会所で割れた村が、歌の続くあいだだけ、ひとつの村に戻っていた。
マレの腕の中では、あの赤ん坊が目を開けていた。
泣きもせず、声も立てず、ただ、歌の聞こえてくるほうへ顔を向けていた。
マレはそれに気づいて、息を止めた。
生まれてから今日まで、この子がこんなふうに、何かを探すように音を追ったことはなかった。
◇
最後の稽古を終えた夜、セラが言った。
「よく覚えたね。これでお前は、どこででも歌える」
どこででも。
その言い方に、リュミナの胸の奥が小さく軋んだ。
けれど何が引っかかったのか、確かめる前にセラが続けた。
「ただ……最後の一節だけは、まだ教えていない」
「最後の?」
「あぁ。あれはね――出発の朝に、教えよう」
なぜ朝なのか。
訊けば、答えられてしまう気がした。
だからリュミナは、今夜も訊かなかった。
「おやすみ、リュミナ」
「……おやすみ、ばあ様」
扉が閉まる。
十日のうち、九つの夜が終わった。
残りはもう、ひとつしかなかった。
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歌のアニメーション動画はこちらで公開中です
https://www.youtube.com/watch?v=VunuPOckZT4




