第2話 明日の話
※挿絵はAIイラストを使用しています
夜が明けきる前に、リュミナはセラの家の前に立っていた。
昨夜と同じ扉を、昨夜より強く叩く。
返事を待つあいだ、東の空がゆっくり白んでいった。
「早いね」
扉を開けたセラは、もう身支度を終えていた。
中に入ると、湯の匂いがした。
セラは小さな鍋から茶を注ぎ、欠けた碗をリュミナの前に置く。
朝の水汲みの前に一杯だけ飲む、いつもの茶だった。
いつもと同じ所作、いつもと同じ湯気。
それがかえって、リュミナを落ち着かなくさせた。
「約束どおり、話そうか」
セラは自分の碗を両手で包んで、ゆっくり口を開いた。
「勧告というのはね、リュミナ。命令より軽い言葉に聞こえるだろう。けど、あれは『これが最後の迎えだ』という意味だよ」
「最後……?」
「次はもう、車も来ない。配給も来ない。行くなら今、ということさ」
『断れるんでしょ』と昨日言った自分の声を、リュミナは思い出していた。
断れる。
ただし、断った先のことは、誰も引き受けてくれない。
「ばあ様は、どうするつもりなの」
「それは、村のみんなで決めることだよ」
(そんなの......答えになっていない)
けれどセラの顔があまりにも穏やかだったから、それ以上は聞けなかった。
◇
昼前の集会所には、村のほとんど全員が集まった。
セラが勧告文をもう一度読み上げ、それから言った。
「行く者も、残る者も、村はどちらも責めない。各々で決めてもらって構わない」
最初に手を挙げたのはマレだった。
「私は行きます。この子に、ここで先はないから」
背中の赤ん坊は、今日も泣かなかった。
マレの声は震えていたが、迷いはなかった。
「我々も......」
「私たちも......」
若い家族が、ひとつ、またひとつと続く。
流れを断ち切ったのは、カンカン、という杖の音だった。
「わしは残る」
昨日、地面を打っていたあの老人だった。
「この歳で知らん土地に運ばれて、配給の列の後ろに並べと? 冗談じゃない。わしはここで生まれた。なら、ここで終わるだけのことだ」
残る、と続く声は老人たちに多かった。
畑がある、墓がある、連れ合いがここに眠っている。
理由はそれぞれ違うのに、声の色だけが同じだった。
リュミナは気づけば立ち上がっていた。
「村全員で行くべきだよ! 別れてしまったら、もう――」
「お前は若いから、そう言えるんだ」
老人の声は、怒鳴り声よりも重かった。
「行った先で、お前には何十年もある。わしらにあるのは、ここで積んだ年月だけだ。それを置いていけというのは、若い者の言う『正しさ』だよ」
言い返す言葉が、出てこなかった。
正しいことを言ったはずだった。
なのに、誰の心にも届いていないのが分かった。
広場の沈黙が、それを教えていた。
◇
夕方、リュミナは貯水槽のふちにいた。
昨日と同じ場所で、昨日より遠い水面を見ていた。
何かが減っていくのを眺めることしかできない自分が、今日はいっそう嫌いだった。
「ここにいると思ったよ」
杖の音とともに、セラが隣に立った。
しばらく、二人で底の小石を見ていた。
「昼間のこと、気にしてるんだろう」
「私は……間違ったこと、言ったと思ってない」
「あぁ、間違っちゃいない。ただ、正しさってのは、振りかざすと刃物になる。誰かの大切な年月を切りつけてしまうことがあるんだよ」
リュミナは黙った。
図星だったからではなく、セラの言い方に、責める色がひとつもなかったからだ。
「リュミナ。私は残るよ」
水面に落ちた言葉を、リュミナはすぐには拾えなかった。
「……な、んで」
「残ると決めた者を置いて、長が先に行くわけにはいかない。それにね、誰かが最後まで、ここの記録をつけなきゃならない。水の量、土の乾き、人の名前。書き残されなかったものは、なかったことにされてしまうからね」
セラの声には、迷いの欠片もなかった。
まるでずっと前から、何もかも決めていたみたいなその淀みのなさが、リュミナには一番恐ろしかった。
「だったら、私も残る!」
振り向いて、セラの両肩を掴むようにして言った。
「歌だって、まだ全部習ってない。古い訛りだって、ばあ様しか知らない節があるって言ってたじゃない。私が残って、それで――」
「リュミナ」
遮った声は、低く、やわらかかった。
セラはリュミナの手を肩から外し、両手で包んだ。
皺だらけの、乾いた、温かい手だった。
「お前が持っていくんだよ。この村を」
歌のことだ、と分かった。
分かったのに、頷けなかった。
それを頷いてしまったら、何かを認めてしまう気がした。
「明日から、毎晩教えるよ。出発の日まで、あの歌の全部を」
リュミナは答えなかった。
答えるかわりに、セラの手を振りほどいて歩き出した。
子どもみたいな振る舞いだと、自分でも分かっていた。
それでも、今は頷くよりましだった。
背中で、セラは何も言わなかった。
杖の音だけが、ゆっくりと、家のほうへ遠ざかっていった。
その夜、リュミナは寝床で天井を睨んでいた。
怒っているのか、悲しいのか、自分でも分からなかった。
ただ、セラの手の温かさだけが、いつまでも手の甲に残っていた。
『明日から、毎晩教えるよ』。
あの言葉に頷いていないのに、夜はもう、出発の日に向かって進み始めていた。
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歌のアニメーション動画はこちらで公開中です
https://www.youtube.com/watch?v=VunuPOckZT4




