第1話 配給の来ない日
※挿絵はAIイラストを使用しています
配給予定日から、三日が過ぎていた。
村の集会所の前に並べた空箱は、湿った風を受けながら、だんだん乾いていった。
誰かが並べ直したが、それだけだった。
中身を入れてくれる人間は、まだ来ていない。
リュミナは村の脇にある貯水槽のふちに手をついて、底を覗き込んだ。
(水面があんなに遠い……)
光をあてると小石が見える。
見えなかった頃のことが、もう思い出せなかった。
何もかもが、黙っているこのあいだにも 減っていく。
それをただ眺めて待つしかない自分の手を、リュミナはぎゅっと握りこんだ。
「……配給、全然来ないね」
隣に立っていたマレが小さくつぶやいた。
年かさの女で、背中には赤ん坊を布で結んでいる。
赤ん坊は声を立てなかった。
体力を使いたくないのか、それとも泣くのに飽きたのか、リュミナには判断がつかなかった。
「遅れてるだけだよ。道が荒れてるって、前にもあったから」
マレは何も言わず、返事のかわりに背中の赤ん坊をそっと揺らした。
◇
午後になっても配給隊は来なかった。
集会所の前には、いつのまにか人が増えていた。
病人の付き添い、杖をついた老人、子どもの手を引いた親。
誰も怒鳴らないのは、怒鳴る力が残っていないからか、それとも怒鳴っても何も変わらないと分かっているからか。どちらにしても広場は静かだった。
噂だけが、低い声で行き交っていた。
「北の集落、配給が止まったらしい」
「止まった? ただ遅れてるだけじゃないのか」
「いや、次回未定だってさ。端末にそう届いたって」
「……次回未定って、もう来ないって意味じゃないの」
リュミナは聞こえないふりをした。
それでも、不穏な言葉ばかりが耳に入ってくる。
西の小村では薬だけが届かなかった。
もっと外側の集落とは連絡が取れなくなっている。
配給隊が途中で引き返したという話まであった。
「道が荒れているせいだ」と言う人もいれば、「もう第七地区の外縁に回す資源が残っていないのだ」と言う人もいた。
だが、どの話も確かめる方法がない。
確かめられないから、誰にも否定できない。
否定できない不安だけが行き場を失って、広場に溜まり続けた。
村長のセラが現れたのは、日が傾き始めた頃だった。
ゆっくりと杖をつく老婆の姿を見て、人々が道を開ける。
長の口から、何か言ってほしかったのだ。
「ばあ様」
リュミナは人の間をすり抜けた。
セラの杖の先が砂に沈みかけていたので、腕を掴んでそっと支える。
セラはちらりとこちらを見て、小さくうなずいた。
「噂は噂だよ」
穏やかな声だったが、大きくはなかった。
「けれど、火のないところに煙は立たない」
「……」
「配給が止まった村があるなら、次に止まる村も出る。私たちは、もう順番を待っているだけなのかもしれないね」
「そんな言い方しないで!」
思ったより強い声が出た。
セラは驚かず、ただリュミナを見た。
「まだ、ここは大丈夫でしょ。配給が来れば、まだ――」
セラは答えるかわりに手を伸ばし、リュミナの額の白い髪をそっと撫でた。
物心ついた頃には、リュミナはこの手に導かれていた。
朝の水汲みも、夜の火の始末も、古い歌の節回しも。
セラは村の長であり、リュミナにとっては親より先に思い出す声だった。
その手はかすかに震えて、今は何も語らなかった。
◇
配給隊が到着したのは夕方だった。
車輪の音を聞いて、広場の人間が動いた。
だが、誰も走らない。
走れなかったのかもしれない。
それでもみんな、集会所の前へ集まってきた。
(えっ……?)
荷台を見て、リュミナは言葉をなくした。
積まれた量が、いつもの半分もない。
水が少なく、保存食も乏しい。
燃料の缶は一つきりで、薬品の箱にいたっては、来てさえいなかった。
「これだけ?」
誰かが言った。
「薬は?」
「……未定だそうです」
配給係の若い男は申し訳なさそうに顔を伏せた。
どうにもできない人間の顔だった。
だから誰も、責める気になれなかった。
リュミナは記録板を受け取って数字を確かめる。
前回の記録と見比べると、前回もすでに少なかった。
明らかに減り続けている。
それだけは確かだった。
◇
配給と同じ日。
村人たちの不安を裏づけるように、政府から村の端末に通信文が届いた。
セラがそれを淡々と読み上げる。
「第七地区外縁集落群における資源枯渇の進行により、当該区域の定期配給維持は困難と判断。住民の生命維持を優先し、第三地区への段階的移住を勧告する。第一移動対象、周辺集落を含む約五百名」
広場が、しんと静まり返った。
(第三地区……まだ配給網が生きてるって聞いたことがあるけど……)
しかし、そこが誰をどれだけ受け入れられるのか、リュミナは知らなかった。
「それは、村を捨てろってことか」
老人の杖が、コツコツと乱暴に地面を打った。
「捨てなきゃ死ぬ。そういうことだろ」
別の誰かが漏らした声には、もう怒りさえ残っていなかった。
「でも、勧告でしょ」
リュミナは端末の画面を見たまま呟く。
「命令じゃないなら、断れるんでしょ。ここに残る選択だって――」
セラは目を伏せた。
答えないことが、答えだった。
◇
夜。
リュミナはセラの家の前に立って、扉を叩いた。
叩いてから、なんと言うつもりだったのか、自分でも分からなくなった。
「どうぞ」
ギィ、と鈍い音を立てて扉を開けると、セラは起きていた。
灯りをつけたまま、小さな椅子で背中を丸めている。
「ばあ様、私は――」
「リュミナ。聞かせてくれないかね」
言葉が途中で止まった。
セラはまっすぐこちらを見ている。
「あの歌を、今夜聞かせておくれ」
「……歌ってる場合じゃないでしょ」
「いいから」
その声に、逃げ場がなかった。
リュミナは小さく息をついて目を伏せ、仕方なく口を開いた。
最初の一節は、うまく出なかった。
喉が固く、声が掠れる。
それでも続けた。
この歌は、村に古くから伝わるものだ。
資源が豊かだった頃の記憶を、明日を信じる暮らしを、ただ旋律に乗せた言葉たち。
同じ歌なら村の誰もが知っている。
けれど、セラの教えた古い訛りで歌える者は、もうほとんど残っていなかった。
セラは黙って耳を傾けていた。
歌い終わると、しばらく間があった。
「発音が良くなったね」
静かな声だった。
「……そう、かな?」
「あぁ、良くなってる。ここ半年で、ずいぶん変わった」
リュミナは何も言えなかった。
「ここの部分」
セラはそう言って、さっきリュミナが歌った一節の出だしを低く口ずさんだ。
「難しいんだよ、ここは。喉の奥から響かせなきゃいけないから」
「……知ってる。最初の頃、全然できなかった」
「でも、今はできてるじゃないか」
セラはそれだけ言った。
褒めているのか、確認しているのか分からない言い方だったが、表情はとても穏やかだった。
リュミナはその横顔を見つめた。
灯りの中で、深い皺が影になっている。
この顔を、どれだけ長く見てきただろう。
「ばあ様は」
言いかけて、止めた。
聞きたいことが、うまく言葉にならなかった。
明日どうするのか。
村をどうするのか。
自分をどうするつもりなのか。
全部聞きたかったのに、今夜だけは聞いてはいけない気がした。
「明日、話そう」
先に言ったのはセラだった。
「今夜は、歌を忘れないでおくれ」
「……歌ってる場合じゃないって言ってるのに」
「こういう時だから、歌うんだよ」
幼い子を宥めるような、やさしい言い方だった。
リュミナはとうとう、返す言葉を見つけられなかった。
「おやすみ、リュミナ」
錆びついた音とともに、扉がゆっくり閉まる。
その夜、リュミナは寝床の中で、歌の出だしを口の中だけで繰り返した。
声には出さない。
出してしまえば、何かに区切りをつけてしまう気がした。
(どうしてばあ様は、今夜にかぎって歌を聞きたがったのだろう)
考えかけて、やめた。
望んでいない答えに、手が届いてしまいそうだったから。
村に歌声は響かないまま、夜が更けていく。
空になった配給箱だけが、集会所の隅で乾いた音を立てていた。
移住勧告の文字は、消えない灯のように、端末の画面に残り続けていた。
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公開している「地球編4 届く形」の少し前の時系列で進んでいます。
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